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まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

「老眼」とはもしかしたらとてもありがたいことかもしれない

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老眼。なんというネーミングセンスのなさ。「老いた眼」って、

いったい誰が名づけたのか? もっとましな名前はなかったのだろうか? 

この2文字を見るたびに怒りさえこみ上げてくる。聴覚が衰えても老耳とは

いわないし、腰が曲がってきても老腰とは言わないのに、なぜあえて眼だけ

「老」という文字をつけたのか? そしてこのことについて誰も何も文句を

言わずに受けいれていることが、私は不思議でならない。

 

老眼のことをときどきOLD  EYESとか英語でいう人がいるけれど、それも

かっこいいのだかなんだか、かえって無理しているようで切ない。じゃあ自分で

考えなさいと言われたらよいネーミングが浮かばないことは事実なのだけれど。

 

私自身、目がちょっとみえにくいなと感じ始めたのは、ちょうど50歳になった

ころだった。今まではっきり見えていたはずのものが、気がつくと見えにくく

なっている。「え? これがいわゆる老眼ってやつ?」視力だけは自慢で、

常に1.5をキープしていた私にしてみれば、見えないという体験はこれまで

なかったのだ。ちょっと距離を離したり近づけたりしてみるものの、なかなか

焦点が合わない。

 

ああ、ついに来たか……

それはまるで歓迎しない来客を迎える時のような心境だった。

 

はっきりと自覚したのはドラッグストアに行った時だった。化粧品の裏に書いて

ある使用方法が見えない。一回の使用量をコインの大きさに見立てて書いてある

のだけれど、それが500円玉大なのか、50円玉大なのか、はたまた5円玉大

なのか? 50円と5円は変わらないけれど、500円と50円はだいぶ違う。

まあこれくらいのことなら少しぐらい多めでもそんなに支障はない。一番困るのは

薬の使用量。一回に1錠なのか2錠なのか、何時間ごとに飲むのか、これは間違え

ると大変なことになる。にも関わらず、驚くほど小さい字で書いてあることがある。

商品名はバカでかく書いてあるくせに、一番大事なところが見えないじゃないか、

とひとりボヤいてしまう今日このごろである。

 

そういえば子供の頃、母親が裁縫をしているとき、針に糸を通してくれとよく

頼まれた。私にはくっきりはっきりと見えているこの大きな穴が、母親に見えない

のが不思議で仕方なかったが、今はよくわかる。針の穴は立方体に見える。

 

そんなに不便なら老眼鏡を買えばいいじゃないか、という話なのだけれど、

これがまたハードルが高い。生まれてこの方メガネをかけたことがない私にして

みれば、顔の真ん中に何かが乗っかっているということがまずありえない。それ

でもひとつぐらいは持っておいたほうがいいと思い、何度かメガネ店に足を運んで

みるものの、今までかけたことがないから、どんなメガネが似合うのかもわから

ないし、そもそも老眼鏡って全然オシャレじゃないのだ。ぜひともかけてみたいと

思うような素敵なものがひとつもない。もちろん高いお金を払ってオーダーすれ

ば、きっとオシャレな老眼鏡も作れると思うけれど、始めてのメガネにそこまで

の勇気もない。

 

そういえば子供の頃、おじさんやおばさんが、頭の上にヘアバンドのように

メガネを乗っけているのを見て、メガネなのにどうして目にかけないのか不思議に

思っていた。そして時々メガネがないないと騒いでいる。いや、頭の上にあります

けど、と思いながら、忘れるんだったらかければいいのに、と思っていたけれど、

そういうことだったのかと今はわかる。老眼鏡は近くを見るためだけのもの

だから、それで遠くを見るとものすごい気分が悪くなる。だから使わないときは

ヘアバンドのように頭にかけているのだということを、つい最近私も知ったばかりだ。

 

そう、老眼鏡は普通のメガネのようにずっとかけるものじゃないのだ。目の前の

小さい文字を見るときだけ。だから小さい文字さえ見なければ必要ない。最悪は

そばにいる息子や娘に聞けば良い。半分バカにされながら、それでもちゃんと

教えてくれる。

だから少々不便ではあるけれど、生活できないことはないのだ。というわけで

メガネを買わずにもはや2年以上たっている。

 

 

もうこのまま、買わずにいけるところまで行こうかと考えている。

というのも、これはもしかしたら、ものすごく理にかなったありがたいことでは

ないかと思いはじめたからである。

 

よく見えるということは、結局なんでも見てしまう、見えてしまう、ということ

だ。ただでさえ人生経験を積んで、いろいろなことが見えてくる中年世代、見えて

しまえば若いモンに何か小言の一つも言いたくなるし、いらぬお節介をやいて

しまうということもあるかもしれない。

 

だんだんと目が見えにくくなってくるということは、今まで長い間いろいろ見て

きたから、もうこれ以上見なくてもいいということではないかと思うのである。

年を重ねるにつれ、多少のことには目をつぶって、とよく言うけれど、目をつぶら

なくてもいいように、見えなくしてくれているのだとしたら、とてもありがたい

ことではないだろうか。目に余る行動とか、目を覆いたくなるような光景とか、

そんなものももう見なくてもいいよ、という神様の計らいだとしたら、なんと

粋な計らいではないかと思うのである。細かいことにぐちゃぐちゃ言わずに、

若いモンに任せておいたほうがいい、老眼はそのためのサインなのではないだろうか。

 

とはいえ同年代の友人たちは、乏しい老眼鏡アイテムの中から、少しはオシャレだ

というものを見つけて購入し始めている。考えてみれば、お年寄りで老眼になって

いない方もごく稀におられるけれど、大半の男女が間違いなく老眼になるはずだ。

高齢化社会で高齢者は増える一方だし、最近はスマホの普及で、老眼年齢が早く

なるのではないか、とも言われている。老眼鏡市場はもっと広がってもいいはずだ。

なのにこの乏しいアイテムはどうしたものか。 

小さい字の文庫本を読むのが事実ちょっと辛くなってきている。そんな時にオシャレ

でお手頃価格の老眼鏡があれば、絶対欲しくなると思う。どこかで開発してもらえ

ないものだろうか?

できることならその際には、ぜひ老眼鏡という名前も、もっとセンスの良いもの

に変えて頂きたいと切に願っているのは、きっと私だけではないと思う。

記事:あおい

私が今、髪を切れない本当の理由

 

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私は今悩んでいる。

髪を切ろうかどうか悩んでいる。

 

そんな悩むほどのことかと思われるかもしれないが、髪は女の命と言われるよう

に、いくつになっても髪を切る時というのは悩むものである。

たとえばそれが「え? どこ切ったの?」とまわりから言われるぐらい切ったか

どうかわからない程度であったとしても、本人にとってはとても勇気のいること

なのである。

 

で今回は、いっそのこと家族もびっくりするぐらいばっさりと切ってやろうかと

思っている。それならそれでさっさと行けばいいじゃないか、という話なのだけ

れど、行けない理由が実はもっと根本的なことにある。それは、私が今「美容院

ジプシー」だということ。つまり美容院が定まらなくて困っているということ

なのだ。

 

 

実は、おととしまで10年間、通い続けていた美容院があった。

始めてその美容院に行ったのは、友人の紹介だった。そこの店長がカットが上手

だと聞いて、その時も新しい美容院を探していた私は、電話予約の際に店長を指名

して早速行ってみることにした。

 

オープンしてからまだ1年ぐらいしか経っていなかったそのお店は、内装もオシャ

レで、店内も清潔で高級感もあって、なかなかの好印象だった。

一番良かったのは、ほとんどの従業員が若いお兄ちゃんだということ。イケメンも

結構いて、行くだけで目の保養になるというなんとも素敵なおまけつきじゃないか。

 

ウハウハしながら待合の椅子に座って待っていると、店長がやってきた。イケメン

というほどではないけれど、感じのいい青年だ。彼はまず最初に、私を美容院で

一番大きな鏡の前に案内してくれた。鏡に向かうと、自分の姿が大写しになる。

おお、直視するのはなかなか辛い。どこを見ていいかわからない。

 

すると私の後ろから、その店長が鏡越しに優しく声をかけてくれた。

「初めまして。○○です。指名していただきありがとうございます。今日はどのよう

になさいますか?」

そこで私は、自分の希望する髪型を鏡に映った店長に向かって答えると、「あおい

様の髪質はこうだから、こうしてこんな感じでどうでしょう?」とヘアカタログを

見ながらあれこれ提案してくれた。ちゃんとお客様のニーズを聞きながら、その中

で実現可能な髪型をセレクトしてくれる。

 

なかなかいい感じ。お客様のハートをつかむのがうまいな、というのが第一印象だ

った。

 

そしてシャンプーをしてから、いざカットへ。

たわいのない会話をしながらも、手はテキパキと動いている

その動きの早いこと! そして思い切りの良いこと!

あっという間だった。その間約15分。めっちゃ早い。早すぎる。

でもブローしてみると、ちゃんと希望通りにできている。

 

 

噂の通り、なかなかのやり手……

 

私は美容師の腕は、「再現性」と「持続性」で決まると思っている。

いくらオシャレにカットして、クルクル巻いたりワックスつけたりしてくれても、

翌日自分でセットしたらなんじゃこりゃ、みたいになってしまっては意味がない。

その髪型が家に帰った時に再現できるか? まずは「再現性」が大事なポイント

である。

そして、長持ちするかどうか。美容院に毎月行くのはお金もかかるし面倒だし、

美容院ごときでわざわざ電車に乗って遠いところに行きたくない、というのも

ある。

髪は女の命と言いながら、面倒くさいというのも矛盾しているが、それはまあ

おいといて、3ヶ月に一回、長い時は半年に一回ぐらいしか行かない私としては、

伸びても鬱陶しくならずまとまりがあるという「持続性」も大事なポイントなの

である。

 

店長は私の重視する2点を見事にクリアしていた。

 

私はそこから店長一筋で、その美容院に通うことになった。その後、長女から

はじまり、次女、長男、次男と4人の子供も全てその店長にお世話になること

となった。私は数ヶ月に一回でも、家族5人、毎月誰かが店長にカットしてもら

っていた。そのくらい私は店長の腕を信頼していた。

 

店長はとても気さくだった。もちろん客商売だから人当たりのよさは必須条件で

あるが、会話に無理がなかった。店長のカットが終わったあと、時折新人さんが

ブローをしてくれることがあったのだけれど、がんばって私に話しかけている感

が伝わってきて、こっちが気使うわ、みたいな時がよくあった。店長はその点、

私が喋りたくない時には空気を読んで黙っていてくれた。さりげない気遣いが

できる人だった。

 

 

3年ぐらいは何の問題もなく通っていた。家族で通っているから、もちろん顔も

覚えてくれていたし、私の髪質を理解した上で、希望に添うような提案をして

くれていたし、とても満足していた。

 

ところが、あるとき気づいたのである。だんだんとその関係性が変化してきたことに。

 

あれは通い始めて4年めのことだったと思う。私は「パーマをあてたい」と店長に

言った。雑誌のモデルさんのショートでふわふわっとした感じの写真をみて、

こんな風にしたいと申し出たのだ。

 

すると店長はこういった。

「これはね、雑誌の撮影用にスタイリストさんがしっかりセットしてあるからこう

なってるんです。毎朝ブローが必要です。普通の人には無理ですよ」

 

 

ああ……

 

あまりにバッサリ言い切られて絶句した。ちょっと上から目線だったのも気に

なった。

わかってますよ、モデルさんと私と顔が違うということも、しっかりセットして

あるってことも。

それでも、できるかぎりお客様のニーズに答えるというのがプロというものじゃ

ないのか! とココロの中で思ったけれど、それは口に出せなかった。

 

「ですよね……」というのが精一杯だった。

 

結局その日も、いつもとたいして変わらないカットをして帰った。案の定、

家族には気づいてもらえなかった。

 

その後も、こんなふうにしたい、あんなふうにしたい、と何度かチャレンジして

みるものの、

「これはこうだから無理」「これはこうだからこうしたほうがいい」と私の要望を

聞き入れるよりも、自分の意見を通そうとするようになった。もちろん私の2大

欲求である「再現性」と「持続性」を最優先に考えての回答だとは重々承知して

いるけれど、それでも最初のころは私の要望をできるかぎり実現できるように

提案してくれていたんじゃなかったっけ?

 

少しずつ私の中に不満が芽生えてきていた。

 

それでも美容院を変える勇気はなかった。

若い頃と違って年齢を重ねてくると、スーパーに行くならここ、洋服を買うなら

ここ、みたいにだんだんとお店が絞られてくる。なぜなら、新しくお店を探すと

いうのは思った以上にエネルギーが必要で、その作業が次第に面倒になってくる

のである。同じように決まった美容院があるというのはとても楽である。

私の髪質や今までの経緯も全てわかっているから、いちいち説明しなくていい。

なにより店長はカットの腕がいい。そして家から近い。その上値段もリーズナ

ブル。そう、条件的にはなんの文句もないのだ。

 

変わりばえしない代わりに失敗もない。年に数回のこと、私がちょっと我慢

すれば、安定した髪型で過ごすことができるのだ。

 

そうやって自分をごまかしつつ、さらに数年通った。

ここまでくるともう完全なる固定客である。黙っていても時期が来たら勝手に来る

固定客。店長にしてみれば、私はそんな存在になっていたのだろうか。最初の

うちは店長が空気を読んで私の喋りたい時に合わせて喋ってくれていたのに、

いつの間にか立場逆転して、店長は自分が喋りたい時に話しかけてくる。

店長が黙っていたら私が気を使って話しかけるという始末。

いったい何してるねん私。

 

そこまでして通う価値ある?

そこから美容院を変えたい、と思うようになった。ネットでいろいろ検索したり、

友人に聞いてみたりするものの、ピンとくる美容院がない。

ああ、新しく探すのはやはり面倒だ。でも今のままもいや。そう思いながらも

通い続けて一年が過ぎた頃、決定的な事件が起こった。

 

いつものように、店長を指名して予約し、待合のイスで待っていると、彼が

やってきた。

最初の頃のように、大きな鏡の前に案内して私の要望を聞くということは、

とっくの昔になくなっていた。が、それでもカット席の方に案内してから、

その日の希望を聞くというのが定例だったはずだった。

 

ところがその日店長は、待合にすわっている私を手招きで自分の方に呼びよせ、

「こんにちは。今日はどうされます?」と聞いてきた。しかも立ったまま。

私はここで聞く? と思ったけれど、「あ、縮毛矯正とカットで」と答えると、

「どうぞ」といって私をカット席に案内しただけで、あとは助手の男の子に

任せて、私にはなにも告げずに他の客のところに行ってしまった。

そしてカットの時だけやってきて、いつものようにぱぱっとカットすると、

またブローは別の助手に任せてどこかに行ってしまった。

 

そして、最後の確認にやってきたとき、はい、全て僕がやりました的な顔を

して「終わりました」といった。

 

これまでももちろん、助手がカット以外の部分を担当することはあった。

けれど必ず今日はこういう段取りでいきますから、という説明があった。

ところがその日は、最初からなんの説明もなかった。

気がつくと私は、流れ作業の商品のように、次から次へと回されていた。

 

あのさ、私はあんたを指名してるんだよ!

なのに、この2時間の間、私を担当したのはたったの15分!

 

私はその時決心した。

もう二度とここには来ないと。

 

 

そこから私の美容院ジプシーが始まった。別の美容院にもいくつか行ってみた。

かれこれ1年半たつが、いまだに決められずにいる。

 

でも私は、10年通ったおかげで気づいたことがある。

美容院選びは、カットの腕、価格、立地、など様々な条件がある。10年通った

美容院は、それらの条件を全て兼ね備えていた。にも関わらず私が行かなくなった

のは、それらの条件よりもっと大事なことがあると気づいたからだ。

 

その大事なものとは、目に見えるものではなかった。笑顔だったり、さりげない

気遣いだったり、ちょっとした言葉がけだったり、要は私を客として大切に

扱ってくれているかどうか、ココロがこもっているかどうかだったのだ。

 

人工知能の研究が驚く程進んでいる現在、10年~20年後には今ある仕事の

40%以上をロボットがこなすようになる、という話もある。もし将来、

私が通っていた美容院の店長と同じぐらいのスキルを持つロボットが現れて、

価格や立地など申し分のない条件で髪を切ってあげると言われても、私は丁重に

お断り申し上げたい。「キョウハ ドウナサイマスカ」などと変なロボット

なまりの言葉で会話をするのはごめんだ。私はやっぱり生身の人間、できれば

イケメンと、目の保養をしながら、ちょっとした心遣いに感動しながら、

髪を切ってもらいたいものだと思う。それくらい髪を切るということを私は

大事にしたいと思っている。なんたって髪は女の命だから。

 

というわけで、私の美容院ジプシーはまだまだ続くのであった。私好みの

美容院を見つけるまで。

記事:あおい

私以外誰も知らないわがまま娘とその家族の物語

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「こんな古臭くて、和風な家は嫌やわ! 庭なんかいらんのに無駄に広いし、

収納は少ないし、和室ばっかりやし! もっと今風のおしゃれな家に住みたい!」

今から20年前、わがまま娘のK子は私を見てそう言い放った。

 

私は神戸の山の上に建つ、築35年の日本家屋である。

神戸の山の上というと、高級住宅地のイメージがあるかもしれないが、あれは

「山の上」ではなく「山の手」である。

 

神戸は、北には六甲山地、南には瀬戸内海、山と海に囲まれた小さな町である。

そのせいか神戸人は北側のことを山側、南側のことを海側と呼ぶ。

山の手とは、神戸の中心地三宮から東へ少し行ったところの山側にある

六甲や御影、岡本と呼ばれるあたりをいう。その辺にはいかにも高級そうな

住宅やおしゃれなマンションが建ち並んでいる。

 

ところが私が建っている山の上はちょっとわけが違う。バブル時代になる少し前、

神戸市は海を埋め立てて人工島を作るのが好きだった。その埋め立てのために

いくつもの山を削った。私が建っているのは、削った山を造成してできた住宅地

なのだ。もともと山だったところに建っているから山の上なのである。

とはいえ、この近辺だけでも、3000戸程度の私と同じような家が建っている

から、結構大きな住宅地なのである。

 

その一角に建つ私は、敷地面積約80坪の庭付き一戸建てである。

築35年とは随分と歳を重ねたものだ。私が出来たばかりの頃は、これでも

最新の日本家屋だった。10年後に定年を迎えるK子の父親と母親が、

二人でここに住もうと計画して、この静かな山の上に建てられた私を選んでくれた。

K子が中学3年生の時だ。床の間のある和室と縁側、大きなシャンデリアを

備えたリビング、L字型のキッチンとダイニング、そして2階には3部屋あり、

子供たちが家族を連れて帰ってきても部屋は十分にあるし、広い庭で母親が

大好きな土いじりもできる。両親はとても気に入って私を購入してくれた。

 

ところが予定は未定、K子の父親は、定年を迎えてすぐ亡くなってしまった。

車の運転ができない母親は、交通の便の悪い山の上に建つ私に、一人で住むには

広すぎるし無理だということで、それまでずっと住んでいた神戸の下町の便利な

ところに住み続けることになった。だから私は、誰にも住んでもらうことなく

ずっと空家のまま、時々母親が、運転手として無理やり連れてこられた

わがまま娘と、庭の草むしりにやってくる以外は誰も来ないという、そんな状態の

まま10数年の歳月を過ごしたのである。

 

そして平成4年のこと、K子が結婚することになった。住む家を探すことになった

とき、どうせ空いているんだから住めばいいという話になって、私が突然候補

挙がったのだ。まさか自分が住むとは思っていなかったK子は、改めて私を

じっくりみた結果、冒頭のような言葉を吐いたのである。

 

たしかに若い二人からすると、今風のこじゃれたマンションの方がいいに決まって

いる。でもどうせ空いているし、家賃もいらないし、あんたたちお金ないんで

しょ、という母親の言葉で、確かにそうだと納得して、私を見に来たのであった。

 

ところが、都会育ちのわがまま娘K子は、私を見るやいなや、「こんな広い庭なん

ていらん! コンクリートで全部埋める!」と言い出すし、床の間のある和室を壊

してウォークインクローゼットにする、という。

 

なんということだ。床の間といえば私の一番誇るべき場所、一番手間暇かけて大工

さんが作ってくれた私の大事な一部、それをぶっ壊してクローゼット? 

ありえない、と思った。

なんとしてもそれは阻止したかった。ありがたいことに、母親と大工さんが二人

がかりで、ここは絶対壊してはいけない、この家の要だから、とK子を説得して

くれたおかげで、なんとか事なきを得たのである。

 

K子はしぶしぶそれを受け入れ、じゃあせめて2階だけでもと、6畳の和室と洋室

があった二つの部屋の壁をぶち抜いて広い洋室に造り変え、そこだけでも今風に

しようと目論んだ。

私は床の間の和室を守れたことでホッとして、2階の一部のリフォームでわがまま

娘が納得するならまあよしと、胸をなでおろしたのであった。

最初からそんなひと悶着がありながらも、その日からK子とその夫が私のあるじと

なった。

 

ところが、新婚夫婦が私に住み始めて半年も経たないうちに、夫の転勤で夫婦は

広島に行ってしまった。再び私は空家になった。せっかくリフォームした広い

部屋もほとんど使われることなく、私はまた一人ぼっちになった。

 

その3年後に阪神大震災が起きた。

私は山の上にあったのが幸いだった。屋根が壊れたりして一部は損壊したけれど、

なんとか持ちこたえた。あの時ばかりは、あるじが住んでいなくて良かったと

思った。屋根を修理してもらって私は元通りになった。

 

そしてそこから1年後、あるじ夫婦が私のところに帰ってきた。子供を二人連れて。

一気ににぎやかになった。私はとても嬉しかった。

そこからまた2年後、あるじ夫婦にもうひとり子供が増えた。わがまま娘のK子も

さすがにわがままは言っていられず、一生懸命子育てしているようだった。

小さい子供を3人育てるのは本当に大変そうだった。私にしてやれることは

なにもない。ただ寄り添って見守るだけだった。

 

K子は、相変わらず私のことは好きではなさそうだった。

子供が増えるたびに、模様替えをしたりいろいろ工夫してみるものの、もともと

収納が少なく、無駄が多い造りのため、どうも私は使い勝手が悪いようだった。

 

それに加えて、山の上に建つ私は、夏はとても涼しいのだけれど、冬はとても寒い。

神戸の中心地とは5度ぐらい気温が違うのだ。一戸建てはさらに寒さが身にしみる

ようだった。

冬になると暖房費がかさむと、K子はしきりに文句を言っていた。

寒さや暑さ、雨風から一生懸命家族を守っているつもりだったけれど、守り

きれない自分の不甲斐なさを、私はひしひしと感じていた。

 

「こんな家早く出たいわ、もっと便利なところのマンションに住みたい!」

K子の口癖だった。なんとかK子に満足してもらえるようにと思っていたのだけれど、

それはなかなか難しいようだった。

 

 

ところがそんな私にも、嬉しい瞬間があった。子供たちが入学式や卒業式を迎えた

とき、必ず親子揃って私の前で写真を撮るのだ。特に嬉しかったのは、あるじの

長女と次女の成人式の日だった。綺麗な着物を来た彼女たちと私を一緒に写真に

収めてくれたことは、私の一生の宝だ。

こんな家早く出たいわ、と言いながら、そういう大事な記念日には必ず私をバック

にして写真を撮るのはどうしてなのか、不思議でたまらなかった。

 

 

そんな私に初めての危機が襲ってきたのは、今から15年前のことだった。

使い勝手の悪いキッチンをなんとかしたいとK子が言い出したのだ。

今主流のカウンターキッチンにしたい、と。そしてゆくゆくは子ども部屋も必要に

なってくると。ご存知のとおり、新婚の際に2階をリフォームして大きな部屋に

してしまったため、一人にひとつの子供部屋を確保することがことできなくなって

いたのだ。それまでは子供たちが小さかったから、家族全員でわいわい言いながら

大きな部屋で寝ていればよかったのだけれど、大きくなってくるとそうはいかない。

 

どうする? と家族会議になったとき、K子は「この家ぶっ壊して建て替えよう!」と言い出した。

とうとう来たか、と思った。築20年たっていた。K子も夫も35歳。年齢的な

ことを考えると、建て替えのタイミングとしては今しかないと思われた。

 

ところがK子の母親はものすごく保守的な人で、建て替えの提案に大反対だった。

「まだ住めるのにもったいない! それに子供にこれからお金がかかるんやから。

無駄なお金使ったらあかん!」

 

K子は、母親の持ち物である私を勝手に壊すわけにはいかず、泣く泣く諦めた。

そのかわり私は、びっくりするぐらいリフォームされることになった。

 

まずはキッチン、浴室などの水回りを総取り替え、ほぼ全ての部屋のクロスと床

を張替え、屋根を総替え、壁も塗り替えた。

そこから数年後、今度はぶち抜いた2階の部屋を3つに区切り直して子供たちの

部屋を作り、庭には大きなテラスをつけて、1台しかなかった駐車場も、

庭を掘って2台分になった。

 

私は見違えるほどきれいになった。

K子は、きれいになった私を見て満足そうだった。

私が生まれ変わってから、友達を家に呼ぶことが多くなった。一緒に夕食を

食べたり、テラスでお茶したり、楽しそうなK子をみていると、私も幸せだった。

かれこれ築25年、やっと私のことを気に入ってもらえたと思っていた。

 

 

ところが、それは長く続かなかった。大掛かりにリフォームをしてもらった私も、

そこからさらに10年たち、築35年ともなると、あちこちにほころびが出てきた。

この間にさらにひとり増えて、4人になった子供たちが日々暴れまわっていたこと

も、私を劣化させる原因のひとつだったかもしれない。

 

床が抜けそうな場所や、ドアが歪んで開きにくいところや、天井やクロスのシミや

傷、それはもう言いだしたらきりがない。35年もがんばってきたのだから仕方ない。

 

でも度重なるリフォームで思った以上にお金をつぎ込んで、「こんなにお金使うん

やったら、建て替えできたわ!」とぼやいているわがまま娘のK子は、私にこれ以上

お金を注ぎ込むことを完全に拒否している。だから屋根が雨漏りしていることも、

床が抜けそうなところがあるのも重々わかっているようだけれど、一向に修理

しようとはしないのだ。

 

 

どうやら、私にとって二度目の危機が、目の前まできているようだ。

4人の子供たちは、大学生になったり、留学したりと、次々と家を出てしまって、

今は末っ子の次男坊だけが家に残っている。その次男坊もあと2年すれば中学を

卒業する。

これまでは転校しなければいけないという理由で、引越しを断念していたあるじ

たちも、次男が高校生になれば、どこの高校にでも行けるから、わざわざこんな

山の上の私に住み続ける必要はないのだ。

K子は、2年後には私を捨てて、もっと便利なところのマンションに住もうと

密かに目論んでいるようだ。

 

そうなると私は、売り飛ばされることになるのだろうか?

こんなツギハギだらけの私のところに今更住んでくれる人はいないとしたら、

私はぶっ壊されることになるのだろうか?

 

 

そのときがきたら、私はそれを受け入れるしかない。

でも今回はもう、それでもいいと思っている。

 

 

なぜなら、私は誰よりも知っているから。この20年間の家族の営みを。

 

そう、

まだ小さかった子供たちが、リビングの大きなシャンデリアの下でテレビを見な

がら、お腹を空かせて母親であるK子の帰りを待っていたことや、

 

家族の誕生日には、どんなことがあっても必ずケーキを買って、ダイニングで

ハッピーバースディを歌ってお祝いしたことや、

 

子育てに行き詰まって、どうしようもなくて、ひとりキッチンの隅で泣いていた

K子の姿や、

 

長女が東京に出てしまったあと、夜中にテラスでひとり酒を飲みながら、

寂しそうにつぶやいていた夫の姿や、

 

それぞれの家族が、それぞれの部屋で、何をし、何を考え、何を思っていたのか、

あるじも知りえないことを私は全て知っている。

 

こんな家、住みにくいとか、寒いとか言われながらも、この20年間、

わがまま娘のK子とその夫、そして4人の子供たちを、私はずっと守ってきた。

 

そう、私は誰よりも、この家族のことを知っているのだ。

それだけでもう十分だ。

 

結局K子は、私のことを本当に好きになってはくれなかった。それは寂しいこと

ではあるけれど、賑やかでちょっとマヌケで、憎めないこの夫婦と子供達と、

ともに過ごせた20年間を私は誇りに思う。

 

 

予定は未定、人生は予定した通りにはならないと思っている人が多いかも知れない。

もし、当初の予定通り、K子の両親が私のところに住んでいたとしたら、

こんなに文句を言われることもなかったかもしれないし、こんなにあちこち

リフォームして日本家屋なのか洋風なのかわからないような、つぎはぎだらけの

家になることもなかったかもしれない。

 

でも反対に、住んでみたものの、やっぱり寒いし不便だしということで、

もしかしたらさっさと売り飛ばされていたかもしれない。

 

結局今となっては、それらは全て仮説でしかない。

だから、これでよかったのだ。

予定は未定でも、結果的には全てうまくいっているのだ、ということを、

私はこの家族から学んだような気がする。

 

だから思い残すことはない、言いたいところだが、

本当は、子供たちがそれぞれに、新しい家族を作って私のところに帰ってきて

くれたら、こんな嬉しいことはないけれど、

 

もしそれがかなわないとしたら、せめて私と暮らした20年間を、忘れないで

いて欲しいと思う。

そして、もし私が跡形もなく存在しなくなったとしても、時々私のことを思い出

して、懐かしがってくれたらそれでいい。

記念日のたびに私をバックにして撮った写真を眺めながら。

 

記事:あおい

学習が得意だった私が唯一学習できなかったこと

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もうやめたい……

 

本気でそう思った。

絶対に、やめられないことはわかっている。

でももうこれ以上無理。

 

かれこれ3時間以上は経っているだろう。体中が痛い。明らかに疲弊している。

それでもこの3時間の行動に自分自身が大きな進歩を感じていたとしたら、

まだ頑張れる。が、なにゆえ初めての体験、進歩しているのかどうかさえも

わからない。それがまた自分をより不安にさせるのだ。

いったいいつまでこの状態が続くのか?

たぶん、緊張のあまり余計なところに力が入っているのだろう。

普段使わないような筋肉が痙攣したようにピクピクしている。

 

大声で叫びたいような衝動にかられた。

「ああ!! もうやめたい! 頼むから降ろしてくれ! この分娩台から!」

 

わかってます。わかってますとも。それが無理だということぐらい。

出産が途中でやめられないということぐらい百も承知。

 

これまで29年間の人生で、やめたいと思ってやめられなかったことが

あっただろうか? お腹がいっぱいになれば食べるのをやめる、

眠くなれば起きているのをやめる、実際にはやめなかったけど、

学校だってやめようと思えばやめられたし、会社にしても、習い事にしても、

それをスタートさせた瞬間に、やめるという選択肢が必ずセットでついてきた。

ところが、出産だけは、途中でやめるという選択肢はない。何があっても必ず

最後までやり遂げるしかないのだ。

 

 

考えてみれば、私は子供が好きではなかった。どちらかというと苦手だった。

というのも、私は末っ子だったし、兄とも年が離れていたから、親戚の中で

私より年下のいとこは一人もいなかった。生まれた時から周りは大人ばかり。

要は自分より小さい人間と接したことがなかったのである。

 

それは大人になってからもずっとそうだった。

電車の中で小さい子供が騒いでいるのを見ると、どうして親は黙らせることが

できないのだろう? と本気でイラついていた。会社の先輩のおうちに遊びに

行って、小さい子供がいたりすると、どう接していいかわからなかった。

「お姉ちゃんに遊んでもらえるよ」なんて先輩に言われた日にはもう

冷や汗もので、とりあえずはニコっと微笑んで「こんにちは」と言ってみるが、

すぐ言葉につまる。「お名前は?」とか「いくつ?」とかありきたりの質問を

してみるものの、続かない。沈黙がやって来る。

 

そうなると子供は、その状況を敏感に察知し、「こいつは使えないやつ」

という判定が私に下るのだ。そしてさっさと親の元に逃げていく。ああ、

やっぱり子供って難しい。

そういえば、やたら子供にウケがいい同僚がいて、そいつを観察していると、

一緒になって、というより子供にいじられながら、それを喜んで受け入れ、

すっかり仲間の一員になって遊んでいる。

 

どう考えても私には無理。子供と遊ぶなんて。だから自分が子供を生んで育てる

ということは、全く想像できなかったのである。

 

そこから数年後、私は27歳で結婚をした。そうすると自然の流れとして、

子供は? という話になる。女に生まれたからには一度は経験してみたい、

とも思う。陣痛の痛みは鼻からスイカを出すぐらい痛いとよく言うけれど、

鼻からスイカを出したことがないからなんとも想像はつきにくい。

とはいえこれまでの人類史上、子供を産んだ人はみな乗り越えてきたことだから、

多分乗り越えられるのだろう。子供を授かるかどうかは神のみぞ知ることだから、

自然の流れに任せて、妊娠したらしたで喜ばしいこととして受け取ればいい、

とそのときは思っていた。

 

ところが、その日は思ったより早くやってきた。出産予定日は結婚してからちょうど

1年と1ヶ月後。初めての出産に備え情報収集すべく、すでに経験のある友人や

先輩たちに出産についての感想や対策などを聞いてみるものの、「ふふっ」と

意味深な笑顔を浮かべながら、「そりゃ痛いよ」というだけで、皆一様にあまり

多くを語ろうとはしないのだ。

 

そして最後には「まあ、なんとかなるから大丈夫」という言葉で締めくくられ、

結局その全貌はおろか、当日どんなことが起こるのかほぼ何もつかめぬまま、

病院からもらった出産に関する冊子と、育児書などの情報から妄想を膨らませる

しかなかったのであった。

 

 

そして臨んだ最初の出産。

「もうやめたい……」と真剣に思った。

 

でもやめられない。やるしかないのだ。

こんなことなら、無理にでも友人にもっと詳しく聞きだしておくべきだった。

そうすればもう少しココロの準備というものができていたかもしれない。

なんとかなる、という友人の言葉と、なんとかなってきたこれまでの自分の

人生経験から、なんとかなるだろうとタカをくくっていたことは事実。

でもこの痛み、なんともならん。なんともならんじゃないか。

 

だいたいこんなカエルが上を向いたような格好で、何時間もいるなんて

尋常じゃない! そして私にとっては大いに非常事態であるにも関わらず、

周りにいる医師や看護師さんにとってみれば、全く日常の風景である、

というこのギャップにも耐えられない。

 

それに加えて、自分では赤ちゃんの様子を全く見ることができない。

お腹の赤ちゃんの心拍音だけが、しっかり生きているという証。私に

がんばる力を与えてくれているのは、唯一その一点のみ。

 

ああ、もう限界。これ以上無理。だんだんと意識が遠のきそうになる。

先生の声が聞こえる。「いきんで。いきんで」

いきんでって何? どういう行動? きばる? え? 何?

 

その瞬間、するっと何かが私の体を通過したような感覚になった。 

「無事産まれましたよ、女の子ですよ」

全身の力が抜けた。遠のきそうになる意識の中で、私は声を出して泣いていた。

 

私の中から出てきた小さな命。

なんだか信じられなかった。

手も足も、何もかもが小さくて、触ると壊れてしまいそうなぐらい小さくて、

とても危なっかしい。でも何もかもすべてがちゃんと動いている。

不思議な気持ちだった。

 

子供が嫌いとか、苦手とか、もう言ってられないな。

私が育てるしかないのだから。

そう心に誓ったけれど、出産だけは二度とごめんだった。

生まれた子供の可愛さのあまり、陣痛の辛さを忘れるというけれど、

それはないわ、と思った。子供は確かに宝だけれど、あんな痛みと苦しさは、

どんなにお金を積まれても無理だと思った。

 

 

ところがあろうことか、私はその後3回、合計4人の子供を出産したのである。

人間には学習するという能力がある。たとえば一度痛い目にあうと、次からは

注意して再び同じことを繰り返さないようにするものだ。私はそれまで結構学習

するタイプだった。たとえば高校生の時、一度だけ財布をなくしたことがあった。

その時は尋常じゃないぐらいショックを受けたけれど、大いに学習してそれっきり

財布をなくしたことはない。お酒を飲みすぎて次の日動けなかった時も、学習して

二度とそのようなことがないように調整してきた。同じ過ちを繰り返すということは

これまでの人生でほぼない、と自負してきた。

 

ところが、出産に関しては、学習できなかった。

あの痛みはもう二度とごめんだと思いながら4回の出産。私は学習不能な人間に

なってしまったのだろうか? 

 

いや、そうではないと思う、いや思いたい。

 

私は特に信仰心が強いわけではないけれど、こればっかりは本当に「天の計らい」

だと思っている。私が人としてまっとうな人生を歩んでいくために、

神様が用意してくれた4つの命。私にはそれが必要だった、ということだろう。

 

子育ては親育てというけれど、4人の子供のおかげで私は、我慢するということを

覚え、自分の思い通りにならないことがある、ということを知った。

それだけではない。

「自分の命と同等、いやそれ以上に大切なものがある」ということも。

 

私は子供たちのおかげで、少しはまともな大人になれたような気がする。

もしあちらの世界に行って、神様にお会いすることがあったら、4人の子供を

授けてくださったことに感謝申し上げたいと思う。

そして、もしまた私が女性に生まれ変わるとしたら、厚かましいけれどひとつだけ、

神様にお願いしたいことがある。

「陣痛の痛み、なんとかなりませんか?」

神様は「まだまだ学習が足らん」とあきれるだろうか。

 

記事:あおい

 

私は高校生のとき、男性教諭の恋愛相談に乗っていました

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私は高校生の時、男の先生の恋愛相談に乗っていた。

今考えると、異様なことのようにも思えるのだが、その当時はそんなにおかしなことだとも思わず、むしろ、私のような小娘でいいんですか? 恐縮です。くらいにしか考えていなかった。

 

その年の夏休み、先生はペルーを旅行していた。詳しい旅程はわからないが、あの天空遺跡、マチュピチュを見に行ったようだった。

 

その頃先生は30代半ば、独身貴族の公務員で夏休みも沢山ある。実家に住んでいたから、自由になるお金も結構あったのではないかと思う。よく海外旅行に行き、私達はその話を聞かせてもらっていた。

私達というのは部活の仲間たちのことで、先生は部活の顧問だったのだ。先生が顧問になったとき、私たちはとても嬉しかった。なぜなら、それまでは七三分けが似合うカタブツの教師が顧問だったから。

先生は30代半ばで、高校生から見れば立派なオジサンだったが、ノリもよく、話ができる先生の一人だったのだ。

 

部活というのは放送部。地味な文化部ではあるが、コンテストで全国大会へ行ったりするなど、活躍もしていた。

放送室の隣には視聴覚室があったのだが、その視聴覚室には視聴覚準備室という部屋があり、その準備室が先生の部屋だった。実はこの準備室と放送室はドア一枚でつながっており、自由に行き来することが可能だった。そして、先生は顧問。そんなことから私達は先生と仲良くなっていったのだった。

 

「こんな手紙がきたのだけど、どう思う?」

 

それは、旅行先のペルーで知り合ったという、同じように旅行に来ていた日本人女性から来た手紙だということだった。そこには、あなたとガイコツになるまで一緒にいたい……というようなことが書いてあった。相手の女性もきっと妙齢だったのだろう、先生とその夏どんな関係になり、どんな会話をしたのかはわからないが、お互いに旅行後何度か手紙のやり取りをし、二人とも結婚を意識していたのではないかと思われる内容だった。だが、明らかにこの女性の方が焦っている……。先生はこの女性のあまりの押しの強さに、少し引いてしまっている様子だった。

 

「先生がノリ気じゃないのなら、ちゃんと断った方がいいんじゃないの?」

 

と、私はまっとうな答えを返した。しかし、恋愛経験もほとんどない女子高生が、よくこんな相談に乗ったものだと思う。

それからしばらく、先生は手紙のやり取りをしたり、女性と会ったりしていたが、結局は別れたようだった。

 

先生は女生徒にも比較的人気があり、バレンタインになると、女生徒手作りのケーキなどが準備室に運ばれて来ていた。しかし、それらは実は私達のお腹に入ってゆくのだった。

 

「このケーキ、6組の○○さんが作ったんだって! まさか、彼女も私達が食べてるとは思わないよね? 先生、あいまいな態度はよくないよ! このケーキも、彼女は先生が食べてくれると思ってるんだからね!」

 

しかし、先生もよくこんな「箸が転んでもおかしい17歳」の私達に恋愛相談をしたり、ケーキをくれたりしたものだと思う。女子高生と言えば、こんなことがあれば格好のネタとなり、あっという間に校内に広まってもおかしくないと言うのに。

けれども、先生の読みは正しかった。私達は部活内でそういう話をすることはあっても、決して外には漏らさなかったのだから。いや、あまりにも生々しすぎて漏らせなかったと言うべきか。私達は職員室内の人間関係や個人情報をあまりにも知りすぎていたから。

 

先生はあの頃、どんな気持ちで私達と話をしていたのだろうか?

少なくとも私達は、少し年上の友達のような感覚だったと思う。それぞれが進学のことを相談してみたりしたこともあったし、好きなミュージシャンのカセットテープを借りたこともあった。

 

私の高校に来る前に赴任していた学校の生徒に、先生のことを聞いたことがある。

それは、私の知っている先生ではなかった。いつも竹刀を持ち歩き、怒鳴り、恐怖で生徒を押さえつける……そんな先生だったようだ。あまりの違いに、その当時は先生にそのことについて聞くことは憚られてしまい、結局聞けずじまいだった。

 

先生も自分の教師像にいろいろと悩み、試行錯誤していたのだろう。他の職員との人間関係上の問題もあったかもしれない。そんな中、先生と私達は年齢も性別も違うのだが「仲間」だった。放送部の一員。仲間だからこそ、大人の生々しい話も、自分の恋愛の話もできたのではないだろうか。言葉にこそしなかったが、私達もそんな暗黙の了解があったからこそ、格好のネタも校内でバラすようなことはしなかったのではないかと思う。

 

普通に考えてみれば、気持ちが悪いことこの上ない。30半ばの男が女子高生に恋愛相談をするなんて。私も人の話として聞いていたら、確実に「気持ち悪い」と言ってしまうだろう。しかし、そこにはそんな気持ち悪さはみじんもなかった。感性鋭い女子高生だったのだから、恋愛経験があまりないとはいえ、何かしらの下心があればきっとわかったはずだ。しかし、私達の中にはさわやかな青春の1ページとして残っているだけだ。

 

今や私もあの時の先生の年齢を超えてしまった。先生はもう還暦を過ぎていることだろう。

中年女性と還暦過ぎの男性。世間的には不倫カップルだと思われてしまいそうな組み合わせだ。しかし、今再会したとしても「仲間」として話ができるのではないかという気がしている。

 

記事:渋沢 まるこ

一生ご縁がないと思っていた「オペラ」の効用は予測をはるかに上回った

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たぶん一生ご縁がないと思っていたオペラ。

 

私にとってオペラといえば、映画ゴッドファーザーの最後のシーンで、

アル・パチーノ演じるマイケル・コルレオーネが、オペラを見に行った帰りに

暗殺されそうになったあの場面。

オペラとは、ヨーロッパの貴婦人か、もしくはマフィアのボスが見に行く

ものだと思っていた。

そんな私が、オペラを歌うことになろうとは……

 

 

ご覧になったことがある方はご存知だとは思うが、オペラとは約400年前に

イタリアで生まれた舞台芸術である。普通の演劇と何が違うのかというと、

オペラは歌いながら劇をする。じゃあミュージカルと同じじゃないかと

思われるかもしれないが実は違う。オペラはセリフをすべて歌ってしまう劇である。

初めから終わりまで、セリフはすべて歌詞になっていて、役者、つまりオペラ歌手は、

歌い続けながら演技をするのである。

しかもマイクなし! ナマ声でホール全体に響かせる声を出している。

 

マイクなしでどうしてあんな声がでるのか? というと、カラダ中の筋肉、

特にインナーマッスルを使い、骨に響かせて、カラダを楽器のように使うことで

声を出している。オペラの舞台は休憩を含めると2~3時間ぐらいあって、

主役のオペラ歌手は、休憩以外ほぼ歌いっぱなしである。

オペラ歌手は皆涼しい顔して歌っているけれど、実はものすごい重労働なのだ。

 

そんな敷居の高いオペラの曲を、私が歌うことになるきっかけは、

今から10年前、ある女性カウンセラーのすすめだった。

 

当時の私は、4人の子どもの子育てに悩み、夫との関係に悩み、

自分を見失っていた。

とにかく何をやっても自信がなかった。人の目が気になって仕方なかった。

人がどう思うのか、そればっかり気にして生きていた。

そんな私だから、自分の思いや考えをうまく人に伝えることができない、

要は自己開示ができなかったのである。

 

そんな私を見て、その女性は、「歌を歌うといいよ。オペラの曲。

しかもコーラスじゃだめ。一人で歌うの。自己開示の練習になる」

 

オ、オ、オペラですか? 

確かに音楽は大好きだ。家でも車の中でも、音楽は欠かしたことがない。

といっても私が聴くのは洋楽。特に80年代洋楽はマイケル、マドンナを

始め大好きで、流行りの洋楽は片っ端から聴いていた。が、クラッシックなんて

ジャジャジャジャーンのベートーベンの運命ぐらいしか知らんよ。

学生時代、音楽の時間はだいたい寝てたし。しかもオペラの歌なんて、

太った女性がとんでもなく高い声で叫んでいるだけで、どれも同じように

聞こえるし。

そんな私がオペラですか???

 

「まあとにかく、体験レッスンに行っておいで。先生がすてきだから」

 

そんなわけで体験レッスンを受けることになった私。

M先生は男性だった。今はとてもスリムになられたが、当時30代半ばだったM先生

は、江原啓之さんにちょっと似ていてぽっちゃり体型。いかにもオペラ歌えそう、

っていう感じでとても優しそうな先生だった。

 

「ではさっそく発声から。あで歌ってくださいね」

 

発声なんて何年ぶりだろう。そういえば高校生の時、コーラス部の幽霊部員

だったことがある。高校最後の発表会だけは頭数の一人として参加したけれど、

そのときは確かアルト。しかもほぼ口パク。だからあまり高い声はでない。

地声も低いし。そんなことを思いながらとりあえず声を出してみる。

 

 

あああああーー

 

あああああーー

 

どんどん音が上がっていく。

 

あああああーーー

 

あああああーーーーー

 

おいおい、私アルトだよ。これ以上無理! と思った瞬間、それを見透かしたように

先生が、「大丈夫! まだ出ますから!」

 

ええっ、これ以上高い声、今まで出したことないよ。

でも、先生が出るって言うなら……

 

あああああーーー

 

え、うそ、出た! 

それは今まで聞いたことがない自分の声だった。

へえ、こんな声出るんだ、私。

 

「これ以上出ない、と思った瞬間出なくなるんです。まずは出していい、

と思うことです」

そうか、出していいんだ。これが私の「歌で自己開示」の始まりだった。

 

そこから月に1回~2回のレッスンがスタートした。

M先生のレッスンは、とにかくユニークなレッスンだった。例えば

発声練習をしながら、突然こんな事をおっしゃる。

「今、アゴが岩崎宏美。しかもモノマネのコロッケがやってる岩崎宏美!」

こっちはいたって真面目にやっているのに、「手の動きが中森明菜!」とか、

「今の声は美川憲一!」とか「突然おっさん出てきました!」とか言いながら、

即座に私の真似をされるから、思わず吹き出してしまう。

 

それだけでなく、おまたの間に電話帳挟んだり、四つん這いになったり、

何も知らない第三者が部屋に入ってきたら何のレッスン? と思うかもしれないが、

これも声を出すための準備運動。

 

声楽って、冗談なんて言わずにひたすら真面目に声を出すと思っていた私は、

毎回驚きの連続だった。

こうやってカラダを使い、例えを使い、素人にもわかりやすく教えてくれる。

小学生の時のピアノから始まって、今までいろいろ習い事をしてきたけれど、

こんなに習い事が楽しいと思ったことはなかった。

 

 

習い始めて1年後、初めての発表会に出ることになった。

その当時の私は、発表会に出たいくせに、出たいと自分でなかなか言えなかった。

一緒に習っている友達が「出ます」って言ったのに便乗して、「私も出たいです」と

やっと言えたのだった。

 

そこから発表会に向けての練習が始まった。

まずは曲を決める。これは先生が声にあった曲を決めてくださる。

それからメロディを覚え、歌詞を暗譜し、最後は挨拶の仕方や手の動きなどを

練習して、いよいよ本番を迎える。

 

当日は、普段は絶対しないつけまつげをつけて、宝塚ばりのメイクをして、

髪の毛も美容院でアップにしてもらい、普段着ないロングのドレスを着て、

普段履かないようなハイヒールをはき、何もかもが非日常な装い。

ウキウキとドキドキが混ざったような気持ちで、舞台袖で出番を待つ。

といっても私の歌う歌は、たった2分ほどの短い曲なんだけれど。

 

いよいよ、出番。舞台に出る。

挨拶をして、ピアノ伴奏してくださるM先生に向かって、目でスタートの合図。

 

伴奏が始まる。スポットライトが眩しい。足が震える。

先生に教えてもらったことも、歌詞もメロディも全部ぶっ飛んで頭が真っ白に

なりそうだ。

おっ、声が上ずっている。あかんあかん。

そうこうしているうちにあっという間にクライマックス。

高い声ちゃんと出るかな? 不安がよぎる。

 

ああーー!

なんとか出た! 

終わった。

挨拶をして舞台を去る。

 

やった! 思わず笑みがこぼれた。

 

自己開示が苦手な私が、舞台で、しかもたった一人で、最後まで歌えた!

言葉にできない自分の思いを、少しだけど歌で表現することができたのだ。

 

考えてみれば、ドレスをきておしゃれをして、スポットライトを浴びて、

みんなが私だけを見てくれるなんて、こんなこと、結婚式の披露宴ぶり?!

一生のうちでそうあることじゃない。

 

北島康介くんじゃないけれど

 

超気持ちいいーーー

 

ここから私は、病みつきになってしまったのであった。年に一度の発表会が。

 

 

発表会は毎年、新しい自分との出会いだった。

一年目は無我夢中、何もわからないうちに終わってしまったけれど、2年目は

1回目の経験で、あそこでこうなる、ここでこうなる、っていうのがわかるから、

一回目よりも緊張してしまった。

 

3年目になると今度は、上手く歌いたいという余計な思いが出てくる。

はじめての人には負けたくない、上手くなったと思われたい、ここでもまた

人の目を気にする自分。

そういうエゴがでてくると、だいたいうまくいかない。3年目は散々だった。

 

こうやって毎年、自分の気持ちと向き合いながらレッスンを重ねていたけれど、

ある時私はなんのために声楽を習っているんだろう? と改めて思ったことがあった。

それは、練習しても思うようにうまくならない自分に対するジレンマからであった。

 

そんな私の様子を、先生はちゃんとキャッチしてくださっていた。

「まずは自分が楽しむこと。お金をもらって舞台に立つわけじゃないんだから、

自分が楽しんで歌えば、聞いている人も楽しんでくれます」

そうだ、私はプロではない、お金をもらって聞きに来てもらうプロではないんだ、

私はお金を払ってレッスンしているんだ、だったら自分が楽しんで歌えば

いいじゃないか。そう思えた時、気持ちが楽になって、開き直れたような気がした。

 

その年の発表会は自分でも驚くほど気持ちよく歌えた。仲間からも良かったよ、

感動したと声をかけてもらった。歌には自分の思いがそのまま伝わるんだな。

上手く歌おうと思えば思うほど歌えない。自分が楽しもうと決めたとたん、

自分も満足できて、人かも良かったと言ってくれる。先生がおっしゃったことを、

身を持って体験することができた。

 

そしてそのとき私は、自分が自己開示できなかった理由に気づいてしまった。

それは間違ってはいけないと思っていだからだった。

上手くやらなきゃいけない、間違って恥ずかしい思いをしたくない、

そんな思いで頭がいっぱいだったから、自分のことを自分の言葉で話すことが

できなかったんだ。

 

間違ってもいい、下手でもいい、とにかく自分が楽しんで一生懸命であれば、

その姿を見て人は感動してくれるんだ。

 

そもそも、正しいとか間違いとか、そんなものはないのかもしれない。

自分の思いをただひたむきに伝える、それが自己開示なんだ。

 

カウンセラーの女性が言ったとおりだった。

まさか歌うことで、こんな大事なことに気づくとは思っていなかった。

習い始めて5年目の出来事だった。

 

 

そこから5年、気づけば今年は10年目の発表会を迎え、すっかり古株になって

しまった私。おかげさまで今では人目を気にすることもあまりなくなった。

自己開示が趣味か? というぐらい自己開示しまくっている。

歌うことが自己開示のきっかけをえてくれたと思っている。

 

最近はそれだけではなく、オペラを歌うことの他の効用にも気づいてしまった。

オペラの発声はインナーマッスルを使うから、体幹がしっかりして、姿勢が良くなる。

 

目を見開いたり、口角や頬骨を上げたり、顔の表情筋をめちゃくちゃ使うから、

シワたるみの予防になる。

なんと、歌うことがアンチエイジングになるのだ! 

 

最近お腹周りの肉が気になるとか、顔のたるみが気になるという方が

いらっしゃったら、ぜひ一度体験していただきたい。

ジムやエステに行くよりも手っ取り早くて安上がりな方法だと

 私は思っているのだけれど。

 

記事:あおい

私の首を絞めていたのは、自分で決めたマイルールだった

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「だってお兄ちゃんだから」

この一言の威力、私にはとてつもなく大きな壁だった。

 

小さいころ、ごはんやお味噌汁の出てくる順番はいつも兄が先だった。

お肉やお魚の大きさは、いつも兄の方が大きかった。

「なんで私はいつも後なん?」

「なんでお兄ちゃんのお肉の方が私より大きいん?」

私が訴えると、母はこう言った。

「お兄ちゃんは男やし、あんたより大きいやろ。だからお腹がすくの」

兄とは9つ離れている。当時は私が小学校1年生、兄は高校1年生、

間違いなく食べ盛り。そりゃお腹もすくだろう。

でもその頃の私はこう思っていた。

「私だってお腹すいてるわ。早く食べたいわ。お兄ちゃんばっかりひいきしてる」

 

母にこんな手紙を書いたことがある。

「私とお兄ちゃんと、どっちが好きですか? 本当のことを教えてください」

母からの返事はこうだった。「どっちも大事な子供だからどっちも好き。

平等です。」

何度聞いても、母の答えは変わらなかった。

嘘でもいいから「あなたの方が好きよ」と言ってほしかったけど、

母はかたくなに平等ですと言い続けた。

 

「本当はお兄ちゃんの方が好きなのに、そうは言えないからあえて平等って言って

ごまかしてる」

大人に囲まれて育ったせいか、子供らしい子供でなかった私は、

そんな風にひねくれた受け取り方をしていた。

 

中学生の頃だったか、休みの日に友達と繁華街に遊びに行くことになって、

ちょっと帰りが遅くなることを母に告げたとき、

母はものすごい嫌な顔をしてダメだといった。

「お兄ちゃんにはそんなこと言うてなかったやんか!」と私が反論すると、

「あんたは女の子やから」と一言。

 

「女の子やったら何があかんの?」

「女の子は危ないからあかん」

 

男だから、女だから、お兄ちゃんだから。うんざりだった。

だってどうしようもないじゃないか。男になりたいったってなれるわけないし、

兄よりも年上になることだってできない。

それ言われたら、もう終わり。私にとってはくつがえしようのない魔の一言だった。

 

母は嘘つきだ。平等って言いながら、全然平等じゃない。

私は自分の子供が生まれたら、「男だから……」とか「お姉ちゃんだから……」

とか絶対に言わない。

そのときそう心に誓った。

 

 

29歳の時、長女が生まれて、1年8ヶ月後に次女が生まれた。

私は長女のことをお姉ちゃんと呼ぶことはしなかった。

どんな時でも名前よび、妹にも名前で呼ばせるようにした。

 

その2年後に長男、6年後に次男が生まれ、4人兄弟になっても、

私はそれぞれ名前で呼ぶことを徹底した。その影響で子供たちも

お姉ちゃん、お兄ちゃん、と呼ぶことはなく、

自然に名前を呼び合うようになった。

 

それは男女の違いや兄弟の上下が原因で、

傷ついたり諦めたりしてほしくない、という私の過去の経験からくる思いだった。

 

 

ところが、子育てをするうちに、自分で決めたそのルールは、

結構面倒だということに気づいた。

 

たとえば兄弟でお菓子の取り合いになった時、

「お姉ちゃんだからがまんしなさい」という言葉は、

手っ取り早くその場を収束させるにはとても便利な言葉である。

ところが、お姉ちゃんと呼ばないと決めたからには

「お姉ちゃんだからがまんしなさい」という言葉は口が裂けても

言えないわけである。だから私は、どんな些細なことであっても、

この喧嘩の原因はなんなのか、ひとりひとりの話を聞いて平等に判断する、

ということをいちいちやっていた。

 

日々勃発する兄弟間でのもめごとに、こうやって毎回対応するのは

結構大変なことだった。でも、自分で決めたマイルールこそ正しいのだ、

と思い込んでいた私は、子供を平等に育てていると自負していたのだった。

 

 

そうやって大変な思いをしながらもマイルールを守り続けて20年、

長女が大学2年生になったばかりの春の出来事だった。

長女が腸の病気になり入院することになった。

下痢が続いて何も食べられず、点滴生活で体重はみるみるうちに

10キロ近く痩せてしまった。

 

それはもう心配で心配で辛い毎日だったが、

できるだけ娘の前では暗い顔を見せないように、明るく振舞っていた。

 

思えば4人の子供の子育てで必死だったここ10年あまり、

長女と二人っきりでゆっくりと時間を過ごしたことはなかったかもしれない。

病気になったことは辛いことだけれど、今しかないこの時間を大事にしようと思い、

長女じっくり話をすることにした。

 

長女が覚えていないような赤ちゃんの頃の話や、小学生の頃のこと、

兄弟が生まれた時のことなど、お見舞いに行くたびに本当にいろいろ話をした。

 

「なあなあ、小学校一年生の時やったかなあ、セーラームーンのコンパクトが

欲しいって、おもちゃ売り場でものすごい大泣きしてさ、

どうせすぐ飽きるし大事にしないからダメっていうても、大事にするから!

って泣き叫んで、ごねてごねて、仕方なく買うことになったの覚えてる?」

 

「ああ、覚えてる。なんであんなもん欲しかったんやろな」と長女。

「あの時は激しかったな、手に入れるまで諦めんかったもんな」と私。

 

そのときふと思った。

手に入れるまで諦めない、小さい頃の長女はそうだった。

小学校3,4年生まではクラスの中心になるぐらい活発だったし、

自己主張も激しく元気いっぱいの子供だった。ところがある時から、

あまり自分を出さなくなり、いつのまにかおとなしい子供になっていた。

思春期のせいかなと当時は思っていたのだけれど、大学生になった今は、

兄弟の中でも一番おとなしい存在で、自分から積極的に発言したり、

動くタイプではなくなったようだ。次女や長男は、

子供のころとそう変わっていないように思うけれど、

長女は180度性格が変わってしまったようで、実はそのことが気がかりではあった。

 

 気にはなっていたけれど、そんなことを改めて話したこともなかったな。

せっかくの機会だし、娘に聞いてみようと思った。

 

「ねえ、さっきのコンパクトの話じゃないけど、小さい時ってさ、

手に入れるまで諦めないぐらい意思が強かったし、すごい活発やったよね。

でもいつの頃からかあんまり自己主張しなくなったよなあ。

なにかきっかけがあったんかな?」

 

唐突な母からの質問に、娘は少し戸惑っていたようだったが、

しばらく考えたあと、中学、高校と先生が厳しくて、

抑えつけられているように感じていたことや、

友達と接する中で、そういう立ち位置になってしまったことなどを

素直に話してくれた。

 

「へえ、そうだったんだ。初めて聞いたわ」と私が言うと、

「実は他にもある……」と娘。

 

「何なん?」と私は興味津々で娘の話に耳を傾けた。

 

 

彼女は言いにくそうにこういった。

 「私らが小さい時、喧嘩ばっかりしてたから、ママの機嫌が悪くなることが

よくあったよね」

 

そう、確かにあった。

4人の子育ては想像以上に大変だった。おまけに、男女、兄弟の

分け隔てなく育てようと思ったことが、余計に私の首を絞めていた。

 

 

そのあと続けて彼女はこういった。

「そんなママを見ててさ、

私さえ我慢すればこの場は丸く収まる、っていつも思ってた。

妹や弟は言いだしたら聞かないし、お姉ちゃんの私さえ

我慢すればいいんだって思った。

そうすればママは機嫌悪くならないだろうって。

それがきっかけで、どこに行っても自分さえ我慢すればっていうくせが

ついてしまったのかもしれない」

 

 

 

ああ……

 

言葉が出てこなかった。

 

 

 

なんということだろう。

お姉ちゃんだから、と一度も口にしたことはなかったはずなのに。

彼女はお姉ちゃんだから我慢していたのだ……

 

 

思い起こせば子供がまだ小さい頃、繰り返される兄弟間の揉め事にうんざりして

感情的になった私は、夕食を作っている最中に急に家から出て行ったり、

小さかった次男だけを連れて、夜に車で出かけてしまったりしたことが何度かあった。

 

もちろん本気で家出したわけではなく、ちょっとだけ、

気持ちを切り替える時間が欲しかっただけだった。

だから気持ちが切り替わったら帰るつもりだったし、実際に1,2時間後には

家に帰り、いつもどおりの日常に戻っていたつもりだった。

 

でも正直、あんたたちがしょうもないことで揉めるから、

私はこんなに大変なんだということを子供にわからせたいという

気持ちもあったと思う。それぐらい私はいっぱいいっぱいだった。

 

 

そんな私の態度を見て、感受性の強い長女だけは気づいていた。

ママは私たちのせいで苦しいのだと。

 

当時まだ小学生だった長女にしてみれば、1,2時間とはいえ、

自分より小さい妹、弟と3人で置いてきぼりにされて、

そうなってしまった原因を、自分の責任のように感じていたのかもしれない。

 

お姉ちゃんと一度も言ったことはなくても、

「お姉ちゃんの私が我慢すれば、ママが機嫌悪くなることもない」

心の中でずっとそう思い、いつの間にかお姉ちゃんの立ち位置で振舞っていたのだ。

 

 

ショックだった。

母の育て方を否定し、男女の差、兄弟の差をなくそうとするあまり、

私が思う平等で正しい子育てをしようと必死になる、そして

対応しきれなくなった挙句、感情的になり爆発する。

それを見た長女が我慢をすることを覚え、結果的に私が一番避けたかった

「お姉ちゃんだから」という兄弟間の格差を生み出していたなんて。

本末転倒じゃないか。

 

あんなに頑張ってマイルールを守り通してきたことが何の意味もなかった上に、

結局は長女に私と同じ思いをさせてしまったことが本当にショックだった。

私は、声にならない声で「ごめんな」と謝りながら、下を向いて泣いていた。

 

そんな私を見て、娘も泣いているようだった。

 

 

しばらくして娘がぽつりとこういった。

「いろいろ話聞いてくれてありがとう」

その一言で、私はなんとか救われたような気がした。

 

 

そう、よくよく考えてみれば、

お姉ちゃんだから我慢しなさい、と言ったところで、我慢する子はするだろうし、

しない子はしないだろう。

男の子だから、女の子だから、って言われても、私のように気にする子もいれば、

気にしない子もいる。

言わなくても感じ取る長女のような子もいれば、言ってもわからない子もいる。

同じことをしても受け取り方が違うのだから、平等な子育てなんて、

そもそも無理な話……

 

 

そのとき私は気づいた。

私が苦しかったのは、本当は子供たちのせいではなく、

自分で決めたマイルールのせいだったのだと。自分の決めたルールで、

自分を縛りつけていただけなのだと。

 

結局のところ、「正しい子育て」なんてそんなものはなかった。

私は自分の正しさを、ただ子供に押し付けようとしていただけだった。

本当に大事なことは、今みたいに一生懸命に子供と関わること、

それだけで良かったんだと、この時私は長女教えてもらったような気がした。

 

長女が病気になってくれたおかげで、長女が本当のことを話してくれたおかげで、

私は子育てで一番大切なことに気づいた。それは裸の王様だった私が、

服を着ていないことに気づいた瞬間だった。

 

 

あれから4年。今は長女も次女も長男もそれぞれに家を出て一人暮らしをしている。

ありがたいことに、こんな母親でも子供は立派に育ってくれた。

今年の正月は、久しぶりに兄弟4人が揃い、家族全員でむかえるお正月。

みんな元気でいてくれることが何よりもありがたいと思う。

 

すっかり大人になった子供たち、もうお菓子の取り合いをすることもないだろう。

テレビの争奪戦もないかもしれない。今となってはそれもちょっと寂しいような、

つまらないような気もする。

なんならこれまでのお返しに、今度は私が夫と夫婦喧嘩でも繰り広げてみようかしら。

「大人なんだから我慢しなさい」って言うだろうか、子供たちは。