まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

私は夫を無視することにした

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私はしばしば夫を無視する。

これは夫、いや私たち夫婦のためなのだ。

 

自分で言うのもなんだけれど、私は「察する能力」がある方だと思う。あの人は次にこういう行動をするだろう、あの人は次にコレを欲しがるに違いない、と察する能力。この能力は仕事ではとても重宝されるし、評価だってもらえる。こんな能力をもった私ってすごいでしょ? と、どこかで優越感を持っていた。だから、この能力を色々な場面で使ってきたし、喜ばれると素直にうれしかった。

 

けれども、この能力をあまり使ってはいけない場所がある。それは家庭だ。

 

調子に乗りやすい私は、夫に対しても「察し力」を存分に使っていた。水が飲みたそうだな、と感じたら「はい、お水」と先回りして夫に差し出した。と言っても、私には透視能力がある訳ではないから、水を差し出しても「今いらない」と言われることも多々あった。その度に私は、読み間違えた! もっと的中率を上げなければ! と自分に鞭をうち、次のリベンジに向けて燃えていた。

 

ある日、夫が不機嫌な様子で帰ってきた。さっそく様子を察知した私は頭の中で分析を始め、せっかくこれから楽しくご飯を食べるのだから、明るい雰囲気にしなければいけない、という結論を出した。ちょうどテレビではおどけたCMが流れていた。これだ! と思った私は、同じようにそのCMのまねをして夫を笑わせようとした。すると彼は、私がつかんでいた夫の腕を大きく振り払い「さわるな!」と大声で怒鳴った。

 

ああ、やってしまった……また察し方を間違えてしまった。

冷静に考えてみれば、イライラしている人に向かっておどけて見せるのは、ある意味火に油を注ぐようなものなのかもしれない。しかし、察し方を間違えて打ちひしがれる私は、この後どうするべきなのか、また必死に「察しよう」としていた。

 

そのとき、ふと浮かんだのは

 

「そもそも私は察する必要があるのだろうか?」

 

という問いだった。必要があるという回答に持って行きたい自分と、本当にそうなのか? と訊ねてくる自分に挟まれてしまう。必要はない! と言ってしまうと、今までの察し力で優越感を得ていた自分が崩壊してしまう。私のやってきたことはとても良いことだったはず。私は間違ってなんていないはず……だと思いたい。けれども、何だか感じるこの違和感はなんなのだろうか。この関係がそんなにいいものだとも思えない。

 

私はなるべく冷静に、今起こっていることを考えてみようとした。

 

今起こっていることは、負のスパイラルだ。

私が「察し」て先回りすることで、夫は自分のことを自分の言葉で表現する機会を失ってしまっていたのだ。私がその機会を奪っていたとも言える。この状態に慣れてゆくと、夫は何も言わなくても察してもらえることが当然となり、どんどんモノを言わなくなる。私の的中率も多少は上がってゆくから、ますます夫は「察し」てもらえることが当たり前になっていってしまう。

そんな環境が当たり前になってゆくと、私の察しが外れて夫の思う通りにならなくなると、イライラし始めるのは当然だろう。そうじゃない! もっと察しろ! と思うのも無理はない。私は私で、察しが外れると自分の能力もまだまだなのだと自分を責め、もっと的中率をあげることに全力を注ぐ。

しかし、私はそのことにほとほと疲れ果ててしまったのだ。

 

こうなってくると「私、察し力はいいのよね」などと得意気になっていた自分が恥ずかしい。それだけではなく「あなたが自分を表現する機会を奪ってしまってごめんなさい」と夫に対して申し訳なく思うようになった。

結局のところ、私たちはお互いに依存しあっていたのだ。「察する方」と「察される方」として。

 

察する……なんて言っているが、要は「人の顔色をうかがう」ということだ。そこには自分の意思がない。あなたが思うように私は動きます。いち早くあなたの望みを叶えます。ということなのだ。大げさに言えば、私は自ら夫の使用人に立候補していたことになる。

けれども、私はそんなことがしたかったわけじゃない。夫だってそうしたかったわけではないだろう。私たちは関係性を見直さなければならないのだと思った。私たちはお互いにもっと自立しなければならないのだ。そこで、私は夫を無視することにした。

 

「私はあなたのことを察するのをやめます」

 

と、夫に告げたとき、夫は戸惑った様子だったけれど、そのうち状況を理解したようだった。

無視といっても一切会話をしないなどという訳ではなく、文字通り夫の「察して欲しい」を無視することにしたのだ。本当は私が気づかなくなれれば一番いいのだけれど、察し能力はそうは簡単になくならない。だから無視。無視という言葉が悪ければ「待つ」でもいいかもしれない。そうなのだ、実のところ私はせっかちだから待つことが苦手なのだ。

たとえ夫が水を飲みたそうにしていても、本人がきちんと言葉に出さない限り、私は気づかないふりをする。夫は自分の事を自分で語る必要があるのだから。

 

そういうわけで、現在我が家では、私は「待つ」という練習を、夫は「自分の言葉で語る」という練習を、目下のところ継続中なのである。

 

記事:渋沢 まるこ

人生に彩りが少ないのなら、クローゼットの中を見て欲しい

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電車の中で私の目の前に座るステキな女子。ものすごく美人というわけでもないのに、なぜかキラキラして見える。私は吊革につかまる手に力を入れ、彼女を観察してみた。

うん、やっぱり顔って訳じゃない。彼女は確かにかわいい、けれどそこじゃない。髪型? お化粧? ヘアースタイル? 洋服? あっ! わかった。色だ、色。着ている洋服の色が明るくて、彼女にとても似合っているからだ。そうか! こういうことなんだな。

私は最近コスプレを始めた。
と言っても、アニメの……とかそういうものではなく、見た目は普通だから誰にもわからないだろう。

パーソナルカラー診断というものをご存じだろうか? 人それぞれに似合う色は違うので、何色が似合うのか、沢山の色を胸元に次々に置いて診断してゆくのだ。髪の色や瞳の色、肌の色も人によって違うので、似合う色も変わってくるのだ。その結果、私はピンクや赤、薄い紫、紺色などが似合うということだった。
紺色や薄い紫はまだしも、ピンク? そんな選択肢は私の中になかった。ええっ? ピンクですか? 無理っ! 私のピンクのイメージは「ザ・女子」なのだ。私も一応戸籍上「女」ではあるが、中身は限りなく「男」だし。
昔から女子の群れが苦手だった。みんなでトイレに一緒に行く意味もわからなかったし、みんなで何か……というあの感じ。どうにもなじめなかった。そんな私がピンク?! いまや死語かもしれないが、ピンクと言えば「ぶりっ子」だ。そう、ぶりっ子のイメージ。いつからピンクにこんなイメージを持ったのかわからないが、とにかく私は全力でピンクを遠ざけていたのだ。けれども、そのピンクが似合うという。にわかには信じられないが、そう言うならば、一度やってみようではないか! ピンクよ、かかってこんかい!

そう言うわけで、私は似合うと言われたピンクの服を増やした。増やしたからには着なくてはいけない。袖を通してみると、ムズムズしてくる。体が若干の拒否反応を示しているようだ。借り物の衣装を着ている気分。落ち着かないし、まるで他人になったみたいだ。そう、だからコスプレ。自分ではない誰か、そして、その衣装。ピンクは誰にも気づかれることのないコスプレ衣装だった。

「その洋服似合うね」
「え? あ、ありがとう」

「その色似合うよねぇ」
「本当に?」

陰謀だ、陰謀。私にピンクが似合うはずなんてないのに。誰? 誰が私を陥れようとしているの?
私は受け入れることができずに、そんな風に抵抗していた。しかし、本当に会う人がみんな、服が、その色が、似合うと言ってくれるのだ。途中までは必死に抗っていたが、徐々に洗脳されてゆく私。どうやら、本当に私にはピンクが似合うらしい。と言うことは、私は「ぶりっ子」なのか? いや、違う! そもそも、その前提が間違っているのだ。そろそろ、私の中のピンクのイメージを書き換える時が来たようだ。

改めて自分のクローゼットを見てみた。白、紺、黒。ほぼモノトーンの世界だ。ほとんど色のない世界。
ああ、私は長らくこんな世界に住んでいたのだ。そりゃあ、人生に彩りも少なかろう。妙に納得してしまう。守りの人生。自分のテリトリーから出るのが怖かったのだ。必死で自分の狭い世界を守ってきたのだ。何から? 誰が、何が、攻めてくると言うのだろう。私は何をそんなに守りたかったのだろうか?
思えば、物心ついたときからピンクを着た記憶なんてない。制服はモノトーンの世界の服だし、私服にもピンクなんてなかった。もしかしたらあったのかもしれないが、記憶にない。けれど、気づけばモノトーンの世界の住人だった。

それは、きっと自分を隠しておきたかったのだ。自分を出して、少しでも否定されようものなら、もう立ち直れない。傷つきたくないから、事前に予防線を張っておく。目立たずに、ひっそりと。それが、私のモノトーンの服の正体だったのではないかと思う。

そこにやってきた、ピンク! 初めこそ慣れなかったが、慣れてくると何だか気持ちも明るくなるような、体温まであがるような、そんな気になる。
私はここにいる! と少し言えるような、そんな気持ち。ああ、もう自分を隠しておく必要なんてないのだ。誰も、何も、攻めてなど来ない。
ピンクを着るようになって、私は少し自分に自信がついたようだ。

目の前の素敵な女子がキラキラしているのは、明るい色の洋服のせいだった。いや、彼女が醸し出す雰囲気のせいかもしれない。どちらが先なのかわからないが、ともかく、彼女はモノトーン時代の私のように自分を隠そうとはしていない。だから美しいのだ。

人生に彩りが少ないと思うなら、クローゼットを見て欲しい。
もし、クローゼットがモノトーンの世界だったら、自分に似合う明るい色を足してみることをおすすめしたい。

 

記事:渋沢 まるこ

輪廻転生の案内人

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「ここが死のゾーン」

「それで、あっちが生のゾーン、そして向こうが老いてゆくゾーンね」

 

今、私は輪廻転生の現場に来ている。こんなに間近で現場をみることができるなんて知らなかった。

まず私が案内されたのは、死のゾーン。ええ?! そんなゾーン案内しなくてもいいのに。「死」なんてできれば避けたい。だって、なんかおどろおどろしいイメージがあるし。おばけが出ちゃったら嫌だし。なんて思ってついて行ったのだが、その現場はイメージとは違いなんだかいい雰囲気だった。明るく、土のいい香りがしてくる。土ってこんなに香ばしくていい匂いだったっけ?

 

「この土、何だかいい香りがするね。心なしか温かいような気もするし」

「そうなんだよ!! いい香りだろ? こっちは土の中の微生物が活発に活動しているんだ! ちょうど今、土の中で分解中だから。だから温かい。こんなの無理だろって思うようなやつもきれいになくなるんだよ!」

 

え?! この人、ニコニコしながら語っているが……分解ということは……おそらく亡骸を分解ってことだ。

そう思ったらやっぱり土から手を離してしまう。よく土に還ると言うけど、いま私はその現場に居合わせているということ。頭では理解できても、目の前で起こっていると思うとなんだか複雑な気持ちだ。

 

「じゃあ、今度は生のゾーンね、こっち」

 

よかった。死のゾーンはもう終わり。生のゾーンからはその名の通り、瑞々しいエネルギーが溢れてくるのがわかる。お肌もプリプリ。ハリもあってぴーんと伸びてシワもない。つい、「若いってこういうことよね。羨ましい!」と口から出てしまう。辛いことがあっても、負けないように一生懸命頑張るその姿には感動を覚える。

だけど、何だかそういう若い勢いが感じられない一画があった。

 

「あそこは何?」

「ああ、あそこは途中までは元気だったんだけど……。急に元気がなくなって亡くなってしまったんだ。成長を楽しみにしていたのに。何がいけなかったんだろう」

 

と言った顔が曇っている。そして、急に元気もなくしている。そ、そんなにショックを受けていたのか? どんなところにもこういうことはあるのだな。けれども、その横で今日もまた命は生まれる。なるほど、これが輪廻転生というものなのか。

 

「じゃあ、あっちは?」

「ああ、あっちは老いてゆくゾーンね」

 

ん? 老いてゆくゾーン? ああ、干からびてゆくってことね。どんどんシワシワに。でも、凝縮されてゆくこのゾーン。

 

それで、私は今どこにいるかと言うと、うちのベランダにいる。そして、案内人は夫。

 

もっと若かりし頃、ベランダで土いじりをしていたのは私だった。チューリップの球根を植えてみたり、観葉植物を育ててみたり。そうそう、トマトを育てて、あと一日おいてから収穫だ! と思っていたら、鳥にやられて落ち込んでみたりしていたなぁ。でもあの頃、夫は全く興味を持っていなかった。またなんかやってる。ふ~ん、と遠くからベランダを眺めていただけだ。それなのに、いつからだろうか、この関係はいまや完全にひっくり返ってしまっている。今、私は育った植物を「ふ~ん」と眺めているだけだ。

 

まず、夫は土づくりから始める。

これが始まってから、ウチから生ごみが消えた。すべて土に埋めてしまうから。いまやウチでは生ごみではなく「宝」と呼ばれている。

外食に行くと、私たち夫婦は帰り際にそわそわし始める。店員や周りの人たちに気づかれないように、そっと「宝」をビニール袋に入れて持ち帰るためだ。

 

「あ、ちょっと待って! 今はだめ」

「あ、いまいま、はやく!!」

 

と言いながら、二人のチームワークで「お宝」をゲットするのだ。だが、きっとお店では怪しい夫婦だと見られているに違いない。だって、食べ終えたお皿は毎回どれも綺麗すぎるから。どんな皮も骨も残さず美しく。

 

お宝をゲットしたら、夫の言う「死のゾーン」に埋められてゆく。言葉通り、土に還してゆくのだ。すると、本当にしばらくするといい香りの土ができあがるのである。その後、その土に種をまき、新しい命が生まれてくることになる。これが「生のゾーン」

けれど、どうしても相性の悪い植物もあるようで、途中まで勢いよく育っていたと思ったら、急に元気がなくなって枯れてゆくものもある。そんなとき、信じられないくらい夫は落ち込んでいたりする。私は仕方ないじゃん、と思うのだが、夫は愛情をかけている分、悲しい気分になるのだろう。こんなとき、夫の愛情の深さを垣間見た気がして、いつも玄関で靴を並べないことは愛に免じて許そうという気になったりもする。

 

では、老いのゾーンとは何かと言うと、野菜を乾燥させているのだ。

 

それまで、私は買いすぎたり、使わなかったりして、ちょくちょく野菜を冷蔵庫で腐らせていた。

すると、そういうものを発見した時の夫は烈火のごとく怒り出すのだ。

 

「これはいのちなんだよ! わかってるのか!」

 

それはもう凄い剣幕で、ド正論で迫ってくるものだから、私はぐうの音も出ない。お、おっしゃる通りです。ええ、ええ、それはもう、何も言えませんから。その後しばらくは、夫が恐ろしすぎて買い物するのに躊躇したほどだ。

けれども、私にしてみれば、じゃあ、もうあなたが買い物をして、あなたがご飯を作って下さいよ。そしたら、「いのち」は全く無駄にならないのでしょうから、とも思っていた。

 

そうしたら、夫はそれを察したかのように一夜干しネットを買ってきた。私の「野菜腐らせ癖」は言っても治らないと思ったようだった。それからは、危なそうな野菜を発見すると「あれ、干すから」と言って、その野菜は干し網行きとなるのである。干された野菜は、夫がランチのスープとして持ってゆく。何でも味が凝縮されていて美味しいのだそうだ。スープは、トムヤムクン味、しょうゆ味、鶏ガラスープ味などバリエーションがあるらしく、その日の気分によって味を変えているもよう。そう、野菜を干すようになってから、夫は自分で自分のスープをつくるようになったのだ。

 

夫はコツコツ型の農耕民族、それに対して私は短時間集中型の狩猟民族。ようやくこの頃、お互いの違いを認め、お互いの得意部分を伸ばす方向で互いに合意ができてきたようだ。私にコツコツ型は向かない。できない。これを認めようではないか。目下の目標は夫に「糠漬け」をやってもらうことだ。こんなコツコツ、私には到底無理だから。

 

そんな我が家の毎日。

今日も、朝から愛する植物たちに水やりをする夫の背中を見ながら「ふ~ん」とそれを眺める私なのであった。

 

記事:渋沢 まるこ

自由研究でわかったことは「大人は信用ならない」だった

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「こんなの、雑草ばかりじゃないか」

おじさんはがっかりした様子でそう言った。

 

私は夏休みの自由研究をやりたくなかった。けれど、宿題はやらないと怒られる。仕方がないので自由研究は「植物採集」にすることにした。

といっても、そもそもやりたくないのだから、採集するものはその辺に生えている雑草だけ。山に分け入って珍しい植物を採ったり……なんてことは、もちろんしない。そういえば、去年学校で表彰されていた人は、春夏秋冬それぞれで山に分け入り、その時々に生えている植物を採集したと言っていた。そんなこと、やりたくない。興味もないし。雑草だって立派な植物。もしかしたら、この辺にだって実は珍しい植物があるかもしれないし。などと、自分に都合のいいように考えながら植物採集を終えた。

 

採集したのはいいけれど、今度は名前がわからない。図鑑を眺めてみても、わからないものもある。

そんなとき、県立の自然なんとか館というようなところで植物採集した植物の名前を教えてくれるという会があった。夏休みなので、同じように採集したけれど、名前がわからないという子どものために開催されていたのだろう。

 

私は採集し、台紙に張り付けた植物たちをおじさんの前に出した。なんとか館の職員なのかどうかわからないが、そのおじさんは尊大な態度で次々に名前を書いていった。そして冒頭の言葉だ。

 

「こんなの、雑草ばかりじゃないか。もっと他になかったのか」

 

こんな雑草ばかり採集して! やる気ないんだろ? 俺が見るまでもないものばかりじゃないか、というおじさんの心の声が、小学生の私にも聞こえる。

だって、やる気ないんだもん。いいじゃん、なんだって。おじさんは名前を教えてくれればそれでいいんだよ。そんなにバカにしなくてもいいじゃん。植物採集なんだから、植物を採集してきたの! これでも、珍しそうなものをチョイスしてきたんだからね。ああ、早く帰りたい……。と思っていた時だった。

 

「おお! これは珍しい!」

 

と、おじさんはご満悦の表情でじっくりと植物を眺め、名前を記入してゆく。

おお! 私の自分に都合のいい予測通り、うちの近所にも実は珍しい植物が生えていたか! だとしたら、ほら、雑草だって捨てたものじゃないでしょう? 私は少し勝ち誇ったような気持ちになり、どの植物なのかを見た。

 

なんとそれは、うちの庭の家庭菜園にあった「アスパラの茎」だった。

繊細で美しいグリーンの茎。私はこの造形が好きだった。だから植物採集の一つに加えたのだ。なのに、そんなに珍しいの? え? おじさん、それ、アスパラだよ。私ちょっと前にアスパラガス食べたもん。別にそんなに珍しくないはずだけどな。思った通り、おじさんの書いた名前は、やはりアスパラではないものだった。

 

大人も間違えるんだ! しかも、こんな偉い人でも!

 

私は、もはや植物採集のことはどうでもよくなり、そのことに衝撃を受けたのだった。その頃私はまだ小学生。大人の言うことは正しい、ということがインプットされていた。しかも、尊大な態度で来られると、それだけでこちらは委縮してしまい、ああ、この大人の人は偉いのだと素直に思ってしまう、そんな純粋な子どもだったのだ。

 

だが、この事実! 「偉い大人も間違う」この発見は私にとって衝撃的だった。

偉そうなことを言っていても、大人だって間違うんじゃないか。こちらにばかり上からモノを言わないで欲しい。さも自分は正しいという態度で来ないで欲しい。大人って信用ならないんだな。

 

「大人は信用ならない」というのは、このとき強烈に私にインプットされたような気がする。今考えてみれば、もちろん大人だって間違えることがあるし、植物も似たようなものが沢山あるから、そういうことだってあるはずだ。間違って毒きのこを採って、死んでしまうようなことだってあるのだから。けれども、子どもの私にはそれが信じられなかったし、許せなかった。子どもだったから……といえばそれまでなのだが、あんなに衝撃を受けて、今も鮮明に覚えているというのは、きっとおじさんの態度がとても高圧的だったから、ということも関係していると思う。

 

もし、仲良しのおじさんが間違ったことを言っていたとしても、それ間違っているよ、とすぐに言ってしまうだろう。だから、大人は間違うということにもそんなに衝撃を受けなかったと思う。あのなんとか館のおじさんは、明らかに私を下に見て、上からモノを言っていた。だから子どもとはいえ、私は衝撃を受けたのだろう。衝撃というよりも「勝った感」のようなものだと言ってもいいかもしれない。おじさんは高圧的な態度で優位性を保っていたが、間違えたことによって優位性を失ったのだ。それがアスパラだと言うことは、私の方が知っている。正しいことは私の方が知っている。という優位性を、私はあの時ふいに獲得したような気持ちになっていたのかもしれない。

 

しかし、おじさんも、まさか目の前の雑草を採集してきた小学生に、こんな風に思われているだなんて思ってもいなかっただろう。おじさんは、ただ植物の名前を教えただけなのだ。しかも、やりがいのなかったであろう雑草の。そして、少し間違っただけなのだ。そう思うと、おじさんが少し気の毒にも思えてくる。

 

とはいえ、私の、その夏の自由研究での発見は「偉い大人も間違う」であったことは間違いない。

 

記事:渋沢 まるこ

私を監視していたのは彼女だった

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私は常に見張られている。

それを考えると憂鬱になり、気が滅入る。逃げても逃げても追いかけられ、決して逃れることはできないのだ。

 

ある休日、私は朝からだらだらと何もせず、ゴロゴロして過ごしていた。

 

「それでいいの? いいわけないよね? 大切な1日をそんな無為に過ごして! もったいない」

 

それは監視員からの警告だった。見られている! けれど、言っていることは確かに正しい。大切な1日、大切な時間。こうやってだらだら過ごしているだけで、どんどん過ぎていってしまう。勉強……とまではいかなくても、洗濯くらいはしておかないと。重い体を動かし、私は洗濯を始めた。

 

「そう、それでいい。それで? 洗濯機を回している間は? その時間も無駄にしたらもったいない」

 

そうですよね。おっしゃる通りです。その時間は台所の掃除をしよう。こうして私は、有意義であろう1日を送る。

また別な日。今日は仕事がうまくいった。相手も満足してくれていたようだったし。何だか嬉しい。自分にご褒美でも買おうかしら。

 

「あれくらいで満足とか目標低すぎでしょう? これくらいはできて当たり前。今までが酷すぎただけ。もっともっと上には上がいる。そこを目指さなくてどうするの?」

 

ああ、また……。そうです、おっしゃる通りです。あなたがいつも言うことは本当に「正しい」です。そうですよね、こんな出来損ないの私ごときが満足しているといっても、それはとてもレベルの低い話ですよね。失礼致しました。

監視員は仕事を怠らない。本当に真面目で厳しい。いつ寝ているのか? というくらい私を見張っている。

 

だが、私は次第に疲れていった。監視員の要求はどんどんエスカレートしてゆくし、私もそれに応えようと必死だったから。

 

ある時友人に「あなたは自分にとても厳しい人だ」と言われた。それは、私にとっては意外な一言だった。なぜなら、いつも監視員にダメ出しをされ続け、私も自分のことを怠惰でダメな人だと思っていたから。私って厳しいの? こんなに怠惰なのに? ほっておくとすぐ休んだり、さぼったりするのよ。知らないからじゃない? けれど、その後も別な人から「自分に厳しい」ということを言われた。そうなの? 厳しいの? それについて考えていくと、やはり監視員に行きつく。監視員に言われてきたから、私もずっとそうなのだと思っていた。けれど、どうやら私はそんなに怠惰と言う訳でもないらしい、ということがおぼろげながら見えてきたのだ。

 

監視員はいつ頃から私を見張るようになったのだろうか? 監視員の言うことをよく聞いてみると、なんだか母が言っているように思えるときがある。ああ、もしかしたら監視員は私が脳内で作りだした「母のような人」なのではないか? 私が作りだしたのならば、変更することだって可能なのではないのか? 私は監視員を「監視」することにした。すると監視員の言うことにも「穴」が見えるようになり、次第にただ言いなりになるのではなく、自分の意見も返すようになっていった。

 

今までならば、達成できるかどうかわからないような「高い目標」を掲げ、それに向かってただひたすら走っていたところを、達成できるような「低めの目標」にし、それが達成できたら喜ぶ、自分を褒める。そしてまだやりたいのであれば、新たな「目標」を立てるというように変わっていった。

とにかく、今まではハードルがとてつもなく高かった。そこに行きつくまでに息切れしてしまっていた。頑張っても頑張っても、なかなかゴールにはたどり着けない。たどり着けないのは自分の努力が足りないから、そして能力が低いから。そう思っていたし、監視員にもそう言われて……いや、つまりは自分でそう思い込んで、そう自分に言っていただけだったのだ。

監視員は「過去」にしか生きていない。つまり「今まで」の経験上こうなる、それだと失敗するといったことを、私に言ってきているだけだったのだ。

 

「あなたの言うことには「未来」がない」

 

と監視員に言ってみた。監視員は一瞬ぎょっとした顔をしたが「未来は今の積み重ねだから過去に学んで……」というような苦しい言い訳をしていた。そうなのだ。未来は誰にもわからない。もちろん、過去も、現在も大切だ。怠惰に過ごしていいということではない。けれども、自分は今どうしたいのか? と言うことが一番大切なのではないか。と思うようになってきた。だらだらしたいのなら、してもいい。だって未来の責任は自分で負うのだから。

 

私が監視員を作りだしたのは、自分の軸がなくてもよく、何でも監視員のせいにして「私」が言い訳をしたかったからなのだ。監視員からは逃げられないと思っていたが、逃げていたのは私の方だった。自分の責任を自分で負いたくなく、誰か変わってくれる人を作りだしていたのだ。

 

このことに気がついてから、私は疲れなくなった。ゴールのない目標に向かって走らなくてもよく、ダメだしばかりされなくてもよくなったから。

監視員は未だに私の中にいるが、主導権は私にあるのだ。だから監視員の言葉は参考にはしても、必ず従うということはない。自分の目標の高さはいつでも上げ下げ自由なのだ。

 

こうして、監視員の言うことを聞いていなければ、私はどこまでも堕落してダメ人間になってしまう……という思い込みは、本当に思い込みであることが証明された。自分で自分に責任を負うことはとても怖いことのように思っていたが、これも違う。自分で自分に責任を負った方が、実は楽だし楽しいのだ。

 

「でも、私がいないとやっぱりあなたはダメ人間なんじゃないの?」

 

と監視員は言ってくる。だが、私は冷静にこう返答する。

 

「ダメ人間もあなたも、全部ひっくるめて「私」なのよ」

 

記事:渋沢まるこ

その話何回も聞いたと思った時の大人の対応

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「その話、何回も聞いたわ」

90歳母に対して、最近この言葉を発することが多くなった。

 

これはお年寄りに言ってはいけない言葉だそうである。

前にも聞いた、昨日も聞いた、と言われることが大きくプライドを傷つけるらしい。

 

とはいえ、こっちにだって言い分はある。

一回目、ふんふんと普通に聞く。

2回目、昨日も聞いたよな、と思いながらはいはい、と聞く。

3回目、それさっきも聞いたよな、と思いながら黙って聞く。

4回目、いやもういい加減にしてくれよ。

その結果、「その話、何回も聞いたわ」となっているわけで、

こっちだって1回2回はスルーした上での一言、

これ以上聞かされるのはたまらん、どうかこれで終わりにしてくれ、

という懇願に近い一言なのである。

 

ところが、当の本人はそんなことは全く知らない。

毎回始めて話す調子で話しているから、思いもよらぬ私の言葉に

ものすごい機嫌が悪くなる。

挙句の果てには「黙って聞いてくれたらいいのに」と逆ギレされる。

そして、「あんたもこの年になったら私の気持ちがわかるわ!」

ととどめの一言。

確かに、そりゃそうかも知れない。でも今言われてもどうしようもない。

 

残念ながら、同じ話を4回もだまってはいはい、と聞けるほど

私は寛容にはなれない。

 

いや、百歩譲ってその話が嬉しい楽しい幸せになるような話なら、

黙って聞こうじゃないか。

 

ところがだいだいは、テレビや週刊誌から仕入れた芸能人の

ホントかウソかわからないような情報だったり、

近所の○○さんのうわさばなしだったり、

 そんなことどうでもいいねん、興味ないねん、 っていう話、

それを4回もきいた日には、心が狭いと言われようが、大人げないと

言われようが、年寄りのプライドが傷つくと言われようが、

 「その話、何回も聞きました」といって止めなければ

こっちがやられてしまいそうになるのだ。

 

 

 

ところが先日

ものすごいショックなことが起こった。

  

久しぶりに帰ってきた長男と何か会話していたとき、

彼にこう言われてしまったのである。

 

「その話、何回も聞いた」

 

ぎょぎょ。

 衝撃だった。何回も聞いたって? うそ? 私には話した記憶がない。

 

「ええ、マジで? 話したっけ?」

 「もう5回ぐらい聞いた」

 

げげげ。

 

おいおい、長男よ、

いくらなんでも5回は言いすぎやろ。

  

さすがに5回はおおげさやったと長男も認めたけれど、 

でも3回は聞いたで、という。

本当に記憶がなかった。

 

そう言われてみれば、一回ぐらいは話したかもしれない。

でも全く覚えていない。始めて話したつもりだった。

 

そこでものすごい不愉快になっている自分がいた。

「黙って聞いてくれたらいいのに」

長男に対して、そう思っている自分がいる。

 

ああ!! なんということだろう!

母と全く同じ反応をしているではないか!! 

   

ああ、いやだいやだ。

同じ話をしてしまったことも嫌だし、

それを覚えていないことも嫌だし、

それを指摘されたことも嫌だ!!

 

自分が母に言っているそのまま、息子に言われた時の情けなさ。

そしてやり場のない怒り。もう穴があったら隠れていたかった。

 

 

 

そんな一連の話をある2人の友人に話したら、

なんと彼女たちはこんなことを言うではないか。 

 

「私、同じ話、何回でも聞けるで」

「私も」

 

ぎょぎょ。マジですか?

 

「なんで? イラっとせーへんの? なんでなん?」

と私が尋ねると、一人はこういった。

 

「うちのおばあちゃんなんて、聞くたびに話の内容がどんどん脚色されてくるから

おもしろいよ。次はどんなふうに変わるんかなあ、って思いながら聞いてる」

 

ほほっー。なるほど。目からウロコ。そんな聞き方があったのか。

そうやって聞くと、確かに面白いかもしれない。

 

さらにもうひとりの友人はこう言った。

「同じこと何度も聞くってことはさ、それ、私へのメッセージやと思うねん」

 

え? どういうこと?

 

「だからさ、同じこと何回も聞かされるってことはさ、その言葉が

私に必要ってことやん。その言葉から何かに気づけよ、ってことやと思うねん」

 

ほほっーー。ますます目からウロコ。

 その言葉が自分の耳に入ってくるということは、自分に必要だから、

だという視点。

なるほど、それが自分に必要だと思えば、苦痛ではないかもしれない。

 

同じ話を聞くことが、ただただ、しつこい、うるさい、めんどくさい、

と思っていた私。

それは自分が聞きたくないのに聞かされている、迷惑被っている、

と思って聞いていたからだった。

 

ところが、彼女たちの視点はそうではなかった。

2人に共通しているのは、この状況を楽しんでいることだ!

普通なら苦痛でしかないと思われるこの状況を、視点を変えることで、楽しむこと

に変えている。

 

なんということだ。視点を変えるだけで、苦痛でしかなかった母親のぼやきが、

映画のストーリーに、神様のお告げに、変わっていくのだ。

 

 もうこれは楽しむしかない。

 

よくよく考えてみれば、 「その話何回も聞いた」と言う立場でもあり、言われる

立場でもあるというのは、今の私しかない。

母は言われても言うことはないだろうし

息子は言っても言われることはないだろう。

両方の気持ちがわかるなんて、すごい! 私だけの特権じゃないか。

これを楽しまずしてどうする?

 

そう考えると、なんだか同じ話を聞くのが、ちょっとだけ楽しみになってきた。

だって、 今度母が同じ話をしてきたら、神様のお告げきたーー、と思えばいい。

 あるいは、映画監督にでもなったつもりで、脚色の度合いを確認するのも

おもしろいかもしれない。

 

そして、息子に「その話聞いた」と言われたら

 「ふふふ。それはな、神のお告げ。君へのメッセージや」といってやろうかな。

ほんとうに頭やられたと思われるかもしれないけれど。

 

 記事:あおい

スマホがなかったあのころ、たった一時間の体験で私が味わい尽くしたもの

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「もしもし、山田さんのお宅でしょうか? わたし中村と申しますが、洋一さん

いらっしゃいますでしょうか?」

 

「はい、ちょっとお待ちください」

 

受話器を置く音。「ああ、またお母さんだ……」

 

夜9時に電話するって言っているのに、いつもお母さんが出る。毎日のように

電話かけてきて、この子は息子に何の用事? と思われていないだろうか? 

そんな思いが頭をよぎる。

たった1,2分のこの間が長い。しばらくすると、階段を駆け下りる音。

 

「もしもし」聴き慣れた洋一の声。

 

「もう! 電話するっていうてるのに、なんで出てくれへんのよ!」

私はそう言いながら、廊下にある黒電話のコードを、伸びきってちぎれてしまう

かと思うぐらい隣の部屋まで引っ張り込み、電話機のコードの隙間だけを残して、

すりガラスの引き戸を閉める。

 

暖房もない物置部屋で、ヒソヒソ声で話し始める。

寒さで足が冷たいけど、そんなことは気にしていられない。

 

そのままかれこれ一時間。

急にガラっと引き戸が開く。「いつまで喋ってるの?」といいたげな母親の目がそ

こにある。

 

電話の向こう側の洋一に「ちょっと待ってね」と言いながら、受話器を押さえ、

こちら側にいる母親に「もうすぐ切るから」とつげる。

 

そう言いながらまた10分、20分と過ぎていく。

 

「いい加減にしなさい」と母親のかみなりが落ちて、

「じゃあ明日、いつものところで11時に」それだけ言って私は仕方なく電話

を切った。

 

1985年の冬。洋一と私は大学2年生だった。バイトで知り合って付き合うよう

になってから3ヶ月。普段はバイトで顔を合わせるから、改めてデートするのは

週に1回程度。明日はそのデートの日だ。

 

私は待ち合わせに遅れたことがない。それはデートに限らず誰と出会う時もそう

だった。私の辞書には、人を待たせる、という言葉はなかった。だからどんな時

でも待ち合わせの時間よりも早めに到着して相手を待つ。それが当たり前のこと

だった。

 

その日も、11時の待ち合わせより10分早くいつもの場所に到着した。洋一は

まだ来ていない。毎度のことだ。あいつは時間にルーズである。5分、10分の

遅刻は日常茶飯事。それでも、待たせるより待つほうが気が楽だった。今から

だと20分は待つことになるだろうな、と思いながら、読みかけの文庫本を取り

出し、腹をくくって待つことにした。

 

11時。文庫本から目を上げて、辺りを見回してみるが、洋一は来ていない。

うん、まあそうよね、時間通りには来ないよね。また本に目をやる。

 

11時10分。まだ来ない。また本に目をやる。目は文字を追っているが、

内容が頭に入ってこない。

 

11時20分。改めてじっくりと周りを見渡してみた。洋一は見つからない。

 

そこでふと思う。

もしかして寝坊した? いや、それともなにかトラブルに巻き込まれた?

いったん考え始めると、不安の妄想は止まらなくなる。

 

家に電話してみようかな? とりあえず家を出たかどうかだけでも確認したい。

家を出ていればそのうち来るだろう。もし来る途中で何かあったのなら、家の

人に伝言してくれているかもしれない。

でも公衆電話を探している間に来てしまったら、入れ違いになるし……

もしかして、違うところで待ってたりする? いつもの場所ってほんまにわか

ってるかな? ちょっと探しに行ってみようか? いや、やっぱり変に動かない

ほうがいいよな。ああ、どうしたらいい…‥

そんな葛藤を繰り返しているうちに、不安マックスに。

 

時計の針は12時を指している。待ち合わせの時間から一時間経過。

もう帰ろうか……そう思ったとき、見慣れた顔がこちらに向かって走ってくる。

 

申し訳なさそうな顔をした洋一の口から出てきた言葉は、想像だにしていなかった

言葉だった。

 

「ごめん、パチンコが大当たりして終わらなくて……」

 

はあ? パ・チ・ン・コ? デートの前にパチンコ???

私はのけぞって倒れそうになった。

 

「待ち合わせまでちょっと時間があったから、ちょっとだけ、と思って……」

と洋一。

 

はあ? なにその、気合の入ってなさ。信じられへん!!

ありえない、ありえない、ありえない。

私はココロの中でつぶやきながら、無言で立ち尽くしていた。

 

洋一は遅刻の常習犯だ。これまで私より先に来たことはまずない。寝坊したとか、

急におばあちゃんを駅まで送って行くことになったとか、本当だかなんだかわか

らないような言い訳がこれまで何度もあった。その度にムッとしながら、それでも

まあ許してきたけれど、今回ばかりは腹の虫がおさまらない。

 

「デートよりパチンコの方が大事なわけ?」私はくいつくように言った。

 

「いやそういうわけじゃなくて……大当たりしたらやめられへんねん……」

 

知らんがな!!

 

私はパチンコをしたことがないから、そのおもしろさがわからない。そもそも

ギャンブルというものは、元締めが勝つようになっていると思っている。だから

一般人がいくら頑張ったところで、結果的には負けると思っているから絶対に

やらない。

 

ただ他人がやることに関しては、本人の自由だと思っている。洋一がパチンコ

好きで、これまでも勝った負けたと一喜一憂しているのも知っている。負けて

そんなに落ち込むんならやめればいいのにと思うけれど、それを取り戻そうと

してまた行く。せっかくバイトで稼いだお金をつぎ込んでしまう。でもまたある

とき勝ったりするからやめられない。トータルすると間違いなく損してるよな、

と思うけれど、まあ本人がそれでいいのなら別にいいや、自分には関係ないし、

とこれまでは思っていた。

 

が、関係大アリじゃないか!!

 

私の怒りは収まらない。

 

「デートの前に行く? しかも大当たりしたらやめられへん、ってわかってて

行く?」 

 

「いや、ちょっとだけのつもりで……」

 

おい、待てよ、ちょっとだけのつもり、なおかつ大当たりしたらやめられないと

わかっている、ということはだよ、大当たりしないという前提で行ってるってこと?

だとすると、負けるつもりで行ってるってこと? アホちゃうか。

 

呆れて開いた口がふさがらない。

 

今まで何度も何度も待たされて、それでも許してきたけれど、今回ばかりは許さ

ない。

「ごめん、帰るわ」

そう言って、私はくるっと後ろを向きその場から立ち去った。

 

取り返しのつかないことをしてしまったということに、やっと気づいた洋一の顔が

一瞬視界に入ったけれど、それを振り切って走った。

 

走りながら、泣いていた。

何が悲しいのかわからない。

待たされたこと? 

自分よりパチンコを優先したということ?

そんなやつを好きになった自分が腹立たしい?

 

その日の夜、洋一から電話があったけれど、私は居留守を使って電話に出なかった。

その翌日、バイトで顔を合わせたけれど、目を合わせることもなく、ひとことも

会話をしなかった。

 

洋一がものすごく落ち込んでいるとバイトの仲間から聞いたのは、それから2日

後だった。

あんたの怒りもわかるけど、一度ちゃんと話を聞いてあげたら? という友人の

勧めで、私は洋一とバイトの帰りに一緒に帰ることになった。

 

洋一は猛烈に反省していた。

もう待ち合わせには絶対遅れないこと、

夜9時の電話にも出るし、

そしてパチンコは二度とやらない

だからもう一度やり直したい、と言ってきた。

 

そう、私も嫌いになったわけではないんだよね……

悩んだけど、今回だけ、と言って洋一を許すことにした。

 

とはいえ、一度亀裂が入ったふたりの関係は、そう簡単に修復するものではなか

った。

私とやり直すために3つのノルマを自分に課した洋一は、それを守る代わりに、

私にも条件をつけてくるようになった。

 

こんな服を着て欲しいとか、こんな髪型にして欲しいとか、初めは私のことを

大事にしてくれているからだと思って、洋一の言うとおりにしていたけれど、

そのうち他のオトコとしゃべるなとか、ひとりで出歩くなとか、洋一の要求が

エスカレートしてくるのに気づいていた。

 

だんだんと窮屈さを感じるようになってきて、さりげなくそのことを洋一に訴え

たけれど、自分も我慢しているんだからお互いさまだと言い出す。

 

気づいたら、けんかが絶えなくなっていた。

 

黒電話のコードを引っ張って、物置小屋に引きこもりながら電話をすることも

少なくなっていた。だんだんとふたりの間に溝ができていく。

 

そのうちバイトで顔を合わすのも辛くなって、私はバイトも辞めてしまった。

 

結局、修復は不可能だった。

元のふたりの関係に戻ることはもうなかった。

 

 

 

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「明日いつものところで11時に」

 

「りょうかい」

洋一からのLINEの返事はいつもこれだ。

 

もう少し気の利いた返事はないものかと思うけれど、それでも既読がついたら

すぐに返事をくれるからまだマシかもしれない、と思う。

 

翌日、いつもの待ち合わせの場所に11時10分前に到着。

すると、洋一からすぐLINE。

「ごめん、実は今、パチンコしてるんだけど、大当たりしちゃって。よかったら

こっちにきて一緒にやらない?」

「ごめんなさい」のスタンプ付き。

 

「マジで?」「ありえない」と私はスタンプで返す。

 

「ごめんごめん、後で奢るから!! 美味しいもの!!」

 

デートの前にパチンコかよ、と思いながら、ちょっとムッとしたけれど、

ちょうど見たいと思っていたドラマの続きがあったことを思い出し、「いいわ、

駅前のスタバで待ってるから」とLINEした。

 

スマホでドラマの続きをみながら待つこと1時間。

洋一が嬉しそうな顔してやってきた。

 

「もう、ありえへんぐらい当たりやで! なんでも好きなもん奢るわ! 」

 

「じゃあ、遠慮なく、神戸牛ステーキで!」と私。

仲良くスタバを出る二人。

 

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今だったらこんな感じなのかな、と私は娘と彼氏のやり取りを横で見ながら、

あの時のことを思い出していた。

 

娘に「彼氏とどこで待ち合わせ?」と聞くと、「テキトー」という返事が返って

くる。

そうか、スマホがあれば適当でも会えるんだな、と改めて思った。

 

あのときスマホがあったら、もしかしたら洋一と別れることはなかったのかも

しれない、と思う。いやどちらにしても、遅かれ早かれ別れていたのかもしれ

ないとも思う。つい先日、風の噂で、洋一は大企業の取締役になり、何万人もの

部下の先頭に立ってバリバリやっているという話を聞いた。遅刻常習犯でパチンコ

すらやめられなかった洋一が、偉そうに部下に指示している姿はどう考えても

想像がつかない。人って変わるのね、と思いながら、今となっては手が届かない

ほど遠い存在になってしまった洋一のことを思い出したとき、デートはいっぱい

したはずなのに、それらはほとんど記憶になくて、思い出すのはやはりあの時の

待ち合わせの場面だったのだ。

 

私はあの時、何が悲しかったのだろう? 

 

スマホがなかったあの時代。家族に気を遣いながら家の電話でコソコソと電話

をしていたあの時代。洋一と気兼ねなく話せるのは、実際に会うしかなかった。

今みたいに、「バイバイ」といって別れた瞬間に、LINEしたり、ビデオ通話し

たり、いつでもどこでも繋がって話すなんてことはできなかったから。会うしか

なかったのだ。

 

待ち合わせ場所で洋一を待ちながら、やっと会えるという気持ちがどんどんと

募っていく。それは会いたくても会えない時があるという切ない気持ちがある

からこそだった。待つ時間が長くなればなるほど上がっていくボルテージ。

それを抑えるかのように、何事もなかった様子で立っている自分を少し滑稽に

思いながら、相手もきっと同じ思いに違いないと思いながら待っていたあの時。

 

ところがそのころ、洋一はパチンコのことで頭がいっぱいだったのだ。

二人は同じ思いだと思っていた。同じ山の頂に一緒に立っていると思っていた

のに、洋一はずっと下の麓にいた。私はそれが悲しかったのだ。自分だけが舞い

上がっている。それに気づいたとき、私は山から転げ落ちるように興ざめして

しまった。

 

あんな別れ方が良かったのか悪かったのかはわからない。

でも今私はこう思っている。

あの時のような体験は、もう二度とできないだろうと。

 

なぜなら、今ではもう味わうことのできないさまざまな感情を、たった一つの体験

で一度に味わうことができたからだ。

 

待ち合わせの場所に向かう時のドキドキ、ワクワクした高揚感、なかなか来ない

相手を待っている時のあせりや、心配、不安な気持ち、そして自分の思いを裏切

られたと感じた時のやるせなさ、悲しさ、寂しさ、まるでおもちゃの缶詰のように

様々な感情が入り混じった思い、それらをたった一時間ほどの体験で味わい尽くす

ことができたのは、パチンコ好きで遅刻常習犯だった洋一のおかげ。

 

そして何よりも、スマホという文明の利器がなかったからこそなのだ。不便だった

からこそ手に入れることができた貴重な体験だったと今は思う。

 

 

朝起きればまずスマホ、どこに行くのもスマホを離さない、完全にスマホ中毒に

なっている今の私。知らない間に大事な感情をどこかに置き忘れているのかもしれ

ないと思う。

 

あの時と同じ体験はできないかもしれないけれど、これからの人生の中で、できる

だけさまざまな感情を味わい尽くしてみたいと思っている。

なぜならそれが人生を豊かにしてくれる、お金では買えない、自分だけの宝物だと

いうことを知っているから。

記事:あおい