私という存在が彼の中から消えたとき
「ああん、足が折れた……」
「そんなすぐに、足が折れるかいな」
そいう言いながらも祖父は、「じゃあ、ちょっとそこに上がり」といって、私を小さな石段に上がらせると、背中を向けて「はい、どうぞ」という。
私は嬉しそうに祖父の背中に飛び乗る。これが祖父におんぶしてもらう時の作戦だった。
祖父は私をよく散歩に連れて行ってくれた。よく思い出すシーンは電車に乗って桜を見に行ったときのことだ。当時5歳ぐらいだったと思う。桜の名所の公園まで駅から15分ぐらいかかっただろうか。子供の足では結構な距離である。歩き疲れると私は例によって「足が折れた」作戦を使った。「明子は疲れたらいつも足が折れるんやな」と言いながら、祖父は嫌がりもせずおぶってくれた。
いや、本当は歩けたのかもしれない。実はおんぶをしてもらいたかったのだ。祖父の大きな背中にしがみつくと、嗅いだことのない匂いがした。木の匂いと汗とが入り混じったような独特の匂いが私は大好きだった。そして、一歩一歩踏みしめながら歩く祖父の足どりを背中で感じながらうとうとするのが、なんともいえず心地よかったのだ。
祖父は父の実家である徳島県鳴門市に住んでいた。両親が共働きだったこともあり、夏休みはいつも父の実家に預けられていた私は、毎日のように祖父に遊んでもらっていた。
散歩ももちろんよく行ったけれど、一番よく覚えているのは海水浴だ。すぐ近くに小さな海水浴場があった。朝起きて朝食を済ませると、祖父はステテコと白シャツ姿で自転車の後ろに私を乗せて、海水浴場まで連れて行ってくれた。祖父は砂浜でいつも体育館座りをして、海で遊ぶ私をずっと見守ってくれていた。
毎日のように連れて行ってもらったけれど、祖父は決して海には入らなかった。泳げないわけではないのに、真夏の炎天下に砂浜で見ている方がよっぽど苦痛だっただろうに、「一緒に入ってよ」とお願いしても「おじいちゃんはええわ」といって結局一度も海には入ってくれなかった。その理由は今でも謎のままだ。
海水浴から帰ると、庭に植えてあるいちじくの木から実をとって食べるのが日課だった。適度に熟したいちじくの実が毎日いくつも成っていて、私はそれを夢中で食べた。初めて食べた時の衝撃は今でも忘れられない。世の中にこんなに美味しいものがあるのかと思った。いちじくの美味しさを教えてくれたのも祖父だった。
もうひとつの大きな楽しみは、家の庭にあった祖父専用の納戸だった。昔船大工をしていた祖父は、その時の工具や材料を捨てることができずに、ずっとそのまま納戸にしまってあったのだ。私はその納戸の中を初めて見たとき、見たこともないような道具や部品がそこらじゅうに乱雑に置かれてあるのを見て、かなり興奮した。「これなに? これなに?」祖父に聞きまくった。祖父は私にいろいろと説明してくれた。私はそこを「秘密基地」と勝手に名付けて、暇なときには一人で納戸の中を物色して、あれこれとわけのわからない作品を作っては想像を膨らませていた。
歴史に詳しかった祖父は、寝る前にいつも私に昔話をしてくれた。いろんな武将の話をしてくれたのだけれど、残念ながらほとんど記憶にない。唯一覚えているのは、義経と弁慶の話だった。誰にも負けたことのない弁慶が、京の五条の橋の上で義経に負けてしまうという有名なお話だ。唯一これだけ覚えているのは、なぜかこの話だけは祖父がまるで役者になったかのように感情移入して何度も話してくれたからだった。
一緒に住んでいなかったからだろうか、祖父は私をとても可愛がってくれた。
優しい祖父が私も大好きだった。
ところが小学校高学年になったころから、その関係が少しずつ変わってきた。私が子供から女の子になったからだ。体が大きくなっておんぶしてもらうこともなくなった。一緒に寝てもらわなくても一人で寝られるようになったし、義経だの弁慶だの、そんな話も興味が無くなってしまった。祖父の独特のあの匂いも、残念ながらあまり好きではなくなっていた。
毎年夏休みに田舎に行くのは変わらなかったけれど、祖父といるよりは叔母と料理をしたり、裁縫したりする方が楽しくなった。祖父のことを嫌いになったわけではなかったけれど、一緒にいる時間は間違いなく減っていた。
中学生になると、もう夏休みだからといって田舎に帰ることもなくなっていた。部活もあるし、友達と遊んだりする方が楽しかったからだ。それでも年に数回は、墓参りのために両親と田舎に帰ることがあった。思春期真っ只中だった私は、祖父に会っても特別話をすることもなかった。昔に比べて祖父が老いてきたことには気づいていたけれど、そんなことをまさか口にだすわけもなく、ただ黙って一緒の空間にいるだけだった。
そして高校一年の夏、私は祖父がちょっとボケてきているという話を母から聞いた。それを聞いたからといって、特に何の感情もわかなかった。一緒に住んでいるわけでもないし、まあ年寄りだしそりゃ仕方ない程度の、まるで他人事だった。
ところがその翌年だったか、墓参りで田舎に帰ったとき、私はこともあろうか、祖父を怒鳴りつけてしまったのだ。久しぶりに出会った祖父を。祖父は認知症のため記憶もあいまいである上に、自分の思い通りにいかないことが腹立たしかったようで、理屈の通らないことをしつこく叔母に言い続けていた。始めは黙って側で聞いていたけれど、だんだんと腹がたってきて私が切れてしまったのだ。
「もう、おじいちゃん! うるさいねん! 何わけのわからんこというてるんよ! 黙って言うとおりにしたらええねん!」
祖父は黙ってその場に立ち尽くしていた。私は怒鳴ってから「しまった」と思った。そのときは叔母がなんとか取り繕って事態は丸く収まったのだけれど、久しぶりに出会った祖父に久しぶりにかけた言葉がそんな言葉だったことに後悔した。思ったより事態は深刻なんだとその時初めて理解した。
穏やかで優しかった祖父が、こんなふうになるんだ……
自分をコントロールできない祖父の姿を見るのが嫌で、私はそれ以来、祖父に会うことを避けるようになった。
そして高校3年生の春のことだった。祖父の容態があまりよろしくないということは聞いていた。けれどもう祖父のことには何も興味がなかった。はっきり言ってどうでもよかった。女子高生の興味の対象は、ファッション、恋愛、グルメ、それしかなかった。そこにちょっとだけ顔を出し始めた受験生という役割、それでもう頭の中はいっぱいいっぱいだったのだ。だから祖父がそんな状態でも、お見舞いに行こうと一度も思わなかったし、両親もまああなたは受験生だしね、ということで大目に見てくれていた。たいして勉強もしていなかったのに。
そしてその年の5月、祖父はついに亡くなってしまった。お通夜、お葬式のため両親が翌日から田舎に帰ることになった。「明子はどうするの?」母に聞かれたけれど、私は行かないといった。「一人で留守番はさみしいから、友達呼んで勉強するわ」と言うと、勉強という言葉にはすぐ機嫌よく反応する母は、それなら家に居なさいといって許してくれた。
本当は勉強する気などさらさらなかった。実はもうすぐ祖父が亡くなるであろうということはなんとなく予測がついていた。そうなると、両親は揃って田舎に帰る。当然私も一緒に来るように言われるだろう。その時にうまく理由をつけて私は行かないことにして、友だちを呼んで遊ぼう。受験勉強が始まる前に、高校生活最後の思い出として、夜通し遊びまくって発散するんだ! そんなことをこっそり心の中で決めていて、友人にもそうなった時には連絡するから! と根回ししていたのだ。
案の定そのとおりになった。しめしめだ。私はすぐ数人の友達に電話をして、「泊まりで遊びに来て!」と声をかけた。急な誘いにも関わらず、5人の友人が「行く!」と即答で返事をくれた。
そして両親が祖父のお葬式に行ってしまったあと、泊まりに来た友人たちと飲んで食べてドンチャン騒ぎをして、恋愛やファッション話に花を咲かせ、朝まで遊びまくった。勉強なんて一ミリもしなかった。「お葬式の日にこんなことしていいの?」と友だちは心配そうに声をかけてくれたけれど、「ええねんええねん」と私は笑い飛ばした。悪いことをしたとかそういう思いは全くなくて、とにかく楽しい2日間だったという、それだけだった。
そこから10数年たち、結婚して、子供も生まれて、自分が親という立場になったとき、ふと祖父のことを思い出すことが時々あった。あんなに可愛がってもらったのに、お葬式にも行かず、ドンチャン騒ぎをして、私はなんと薄情な人間なんだろうと自分の浅はかな行動を後悔することもあった。そうは言いながらも、まああの時は私も若かったし、と自分を正当化して、それでいつも折り合いをつけていた。
そんなある日のことだった。
「ほら、おいで」
祖父が私に向かって背中を差し出しおいでと言っている。
おんぶしてくれるんだ、と思っていこうとするのだけれど、祖父は私からは届かない高いところにいてどうしてもたどり着かない。
祖父は目に涙をいっぱい溜めてこっちを見ている。
「なんで来てくれへんかったんや。お葬式。待ってたんやで」
その言葉を聞いたとたん、私は申し訳ないやら、恥ずかしいやら、今まで隠していた感情が溢れ出した。
「おじいちゃん、ごめん。ごめんやで。なんで行かんかったんやろ。あんなに可愛がってもらって、大事にしてもらって、いろんなとこ連れて行ってもらって、おんぶもいっぱいしてもらったのに。私はあの日、友だちと騒いでいました。おじいちゃんのことなんか思い出しもせず、友だちと遊び倒してました。ああ、行けばよかった。そんなことせんと行けばよかった。ほんまごめん。ごめんなさい」
祖父は高いところから、泣きじゃくる私をずっと見ていたけれど、「おじいちゃんのこと、忘れんとってな」そういって消えていった。
夢だった。固まって動けなくなるほどリアルな夢だった。私は寝ながら声を上げて泣いていた。
私が祖父に最後に出会ったのは、怒鳴り散らした時だった。その時私は気づいていた。祖父はすでに私が誰なのかわからなくなっていたことに。
私が怒鳴り散らした本当の理由、今ならわかる。それは祖父がしつこくてうるさかったからではない。私のことが誰だかわからなくなった寂しさをどこにどうぶつけていいのかわからずに、怒鳴り散らすという形で表現するしかなかったのだ。その後出会うことを避けていたのも、あれだけ可愛がってくれていた私のことが、彼の記憶の中にはすでになかったということが、17歳の娘にはどうしても受け入れられなかったのだと思う。
私という存在が消えてしまった祖父に出会う勇気が当時の私にはなかったのだ。
私はずっと後悔していた。お葬式に行かずにドンチャン騒ぎをしていたことを。最後に出会ったのが、怒鳴り散らしたときだったということも。心の奥の方ではずっと気にかかっていたのだ。だから祖父は現れてくれたのかもしれない。夢の中ではあったけれど、私は祖父に詫びることができた。祖父に届いたかどうかはわからない。許してくれたかどうかもわからない。けれど夢から覚めて意識が戻ったとき、なにかから解放されたような、すっきりした感覚になっていたのは気のせいだったのだろうか?
もしお見舞いに行っていたら、お葬式に出席していたら、私は後悔していなかったのだろうか? と考えたこともある。けれど実際のところはそれもわからない。変わり果てた姿の祖父を目の当たりにして、かえって辛い思い出になっていたかもしれない。
結局のところ、どっちが正解かなんて誰にもわからないのだ。間違いなく言えることは、「死んだら二度と会えない」ということだけだ。どんなに泣こうがわめこうが会うことは叶わない。そのことだけは肝に銘じよう。生きている間に伝えたいと思ったことは逃げずにちゃんと伝えよう。もう17歳ではなく酸いも甘いも経験した結構なお年頃になっているのだから。
記事:あおい
亡くなった彼からのメッセージ
「昨日、Nくんの家で火事があり、残念ですが彼は亡くなりました」
考えてみれば、朝から何だか変だった。通学途中に空き地で、今までに見たことのない数のカラスを見た。気持ちが悪い……。こんな数のカラスがいるのを見たことがない。不吉だ。そう思った。なんだか胸騒ぎがする。だけど、私の思い違いかもしれない。どうしてカラスが沢山いると不吉なのだろう? スズメが沢山いても不吉じゃないのはどうしてなのだろう? カラスは黒いから、そういう理由だけなのでは? 私はたまたま今日沢山のカラスを目撃しただけなのではないのか? 頭の中が少しパニックになって、整理ができなくなっていた。でも、とにかく、彼の机の上には花が置かれている。それは紛れもない現実だった。私は、ただぼんやりとその花を見つめていた。
「彼はどんな子でしたか?」
「彼とどんな話をしたことがあるのかな?」
ああ、これがドラマで見るあれなんだ。本当にそういうこと聞いてくるんだ。それはテレビの中にしか存在しないことだと思っていた。自分がその渦中の人になるなんて、考えたこともなかった。
マスコミはちょっとした事件であるこの火事を記事にするために取材をしていた。相手はまだ中学生だというのに。こんな時にあんな質問してくる? デリカシーがないよね? それは中学生でもみんなが思っていることだった。
下校途中にNくんの家はあった。なんだかんだ言っても現場を見たいという気持ちがあり、学校からの帰りに現場に寄った。住宅街の中に黒焦げの家が見えてくる。焦げた臭いがする。
この家で彼は火事に遭い、どんなことを思ったのだろうか? 熱かっただろうか? 苦しかっただろうか? 考えれば考えるほど辛くなった。
その後もどんどん噂は耳に入ってくる。「夜中なのに、親は家にいなかったらしいよ」「近所の家の人は、何度も「助けて」という声を聞いたらしいよ」「保険金が沢山払われるらしいよ」どれが本当なのか、嘘なのか知るすべもなかった。
あのとき、私は中学一年生だった。
Nくんとは同じクラスで、行っていた塾も同じだった。でも、特に仲が良かったわけでもなく、むしろ、あまり話をしたこともなかった。とはいえ、私にはやり残したことがあった。実は、少し前に彼からラブレターをもらっていたのだ。そして、返事はしていなかった。だから、私はとても複雑な気持ちだった。私は彼のことをどう思っていたのだろう? そうは言っても、あまり彼のことはよく知らないし……。でも、返事はしておけばよかった。もう彼に会うことはできない。
クラスでは、どうしてそういうことになったのかわからないが、全員で千羽鶴を折ることになった。どうしてこんなときに千羽鶴なのか、よくわからないけれど、無心に鶴を折って、やるせない気持ちをどうにかしたかったのかもしれない。
私は返事を折り紙に書くことにした。
「お手紙ありがとうございました。あなたのことは、いい人だなと思っていました」
何を書こうか悩んだ挙句、こんなことしか思い浮かばなかった。これを折り紙に書き、鶴を折った。とにかく彼に返事をしなければ。私は鶴に答えを託したのだった。それが彼に届いたのかどうか、わからないけれど。
それからしばらく経ち、その間にクラスの中から彼の机が撤去された。毎日の勉強やテスト、部活など、私たちは日々の生活の中で彼のことは少しずつ記憶から薄れていった。
実力テストが近づいていた。コツコツ型ができない私は、夜中まで起きて必死に暗記しようと、自分の部屋で机に向かっていた。暑い時期だったので、窓は全開。しかし、田舎なので夜になるとひんやりと涼しい風が入ってくる。山の中、というわけではないけれど、住宅密集地帯でもなく、夜中なので人通りもない。窓を開けていても、しーんと静まり返っているだけだ。そんな中、私は必死に机に向かって格闘していた。
ん? 何か聞こえる。耳をそばだてて聞いてみると、窓の外からとてもへたくそなリコーダーを演奏する音がする。とぎれとぎれで、通してきちんと弾けていない。へったくそだなぁ。
そこで私はハッとした。いやいや、ちょっと待って。今は夜中の2時。こんな田舎で、外でリコーダーを演奏する人なんて考えられない。それに、とぎれとぎれだけれど、あの曲……。それは、以前音楽の授業で、リコーダーの授業で習った「聖者の行進」という曲だった。
言っておくが、私にいわゆる霊感のようなものはない。見えたり、聞こえたりなんてことはない。だけど、あのとき確かに私はリコーダーの音を聞いた。とぎれとぎれだけれど、一生懸命に練習している音。そして曲は間違いなくあの曲だった。
私は怖かったけれど、まさか……と思って勢いよく窓の網戸を開けた。そして暗い窓の外を凝視した。しかし、私の視界に人の姿はなく、音も聞こえなくなってしまった。
そんなことは、あのとき一度限りだった。
けれどあれ以来、街中で「聖者の行進」が流れてくると、必ずNくんのことを思い出す。
なんだか怖いような、そうでもないような不思議な気持ちになるのだけれど、あの夏の日、彼は折り紙の中の手紙の返信を読んだよ、と言いに来てくれたのではないかなと思っている。
記事:渋沢まるこ
私が成田離婚しなかった理由
着いた!!
成田から約15時間、やっと到着したレオナルド・ダ・ビンチ空港。
これから始まるおそらく一生に一度しかないであろうこの旅行に、私はワクワクと期待で胸がいっぱいだった。
新婚旅行にイタリア、フランスに行きたいと言いだしたのは夫だった。私は特別興味もないヨーロッパに行くのはあまり気が進まなかった。けれど、学生時代に友だちとバックパッカーでヨーロッパを一周したことのある夫は、その時の感動を暑苦しいぐらいに語ってくれて、どうしても行きたいというのだ。そんなにまで言うのなら行きましょう、その代わり、一生の思い出に残る旅行を企画してね、と彼に全てを託したのだった。
だから私は、イタリアのローマ、ミラノ、ベニス、そしてフランスのパリ、この4箇所を1週間で回るということ以外、旅行に関する詳しい情報は何も知らなかった。それがまた私のワクワク感をさらに増幅させていた。いったいどんな素敵なところに連れて行ってくれるんだろう!
レオナルド・ダ・ビンチ空港についたのはもう夜だった。ホテルまではタクシー? 送迎バス? もしかしてリムジンが迎えに来てくれたりする? なんて妄想しながらついていくと、そこは駅だった。
「え? 電車乗るの?」
「うん、乗るよ、すぐやで」
いや、そりゃスグか知らんけど、新婚旅行やからさあ、もうちょっと気の利いたなんかないの? と思ったけれど、さすがにそれは言えず、仕方なく彼についていった。
電車に乗って約30分、ホテルに到着した。スペイン広場からほど近いところにあったそのホテルは、こじんまりとしたホテルだった。回転扉を開けると、小さなロビーがあり、その奥のフロントにはいかにもイタリア人という顔つきのイケメン男子と、済まし顔でちょっと怖そうなお姉さんがいて、「ボンジョルノ~」と笑顔で挨拶してくれた。もっとイマドキのホテルの泊まるのだと思っていた私は、ちょっと意外だったけれど、まあこれはこれで面白いなとそのときは納得した。
前々日の結婚式からバタバタとそのまま新婚旅行にやってきたこともあり、若いとはいえやはり疲れが出ていた。ほっと一息ついて水が飲みたいと思い冷蔵庫を開けると、炭酸水しか入っていない。ホテルの冷蔵庫には普通、水はもちろんのこと、ビールやジュースなどバリエーションに富んだ飲み物が入っていると思っていた私は、ちょっと驚いた。今でこそ日本でも炭酸水は当たり前だけれど、当時は飲む習慣がなかったから、どうしても飲めなかった。けれど水道水は飲まない方が良さそうだし、かといってもう夜も遅いし、明日の朝まで我慢するしかないなあと思っていたとき、夫が「買ってきてあげるわ」と言ってくれた。彼も疲れているだろうに、申し訳ないなあと思ったのだけれど、そこはお言葉に甘えてありがたくお願いすることにした。
一人になった部屋で特にすることもなく、しばらくベットにごろんと横たわっていた。すると外から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。ローマの夏は夜が長い。夜9時ごろになってやっと日が沈む。だからみんな昼寝をして、また夕方からごそごそと活動し始める。
時計を見ると、ちょうど夜9時を回ったところだった。あたりは暗くなってきたけれど、彼らの夜はまだこれからなんだなと思いながら、夫の帰りを待っていた。
10分。20分。
帰ってこない。
水、買いに行っただけだよね?
窓を開けて通りを見てみる。
相変わらず大きな話し声と笑い声が聞こえてくる。が、ホテルの構造が複雑なのか、軒のようなものが邪魔をして通りの様子は全く見えない。
どこまでいったんだろう??
ちょっと不安になってきた。
当時は携帯はもちろんWi-Fiもない。連絡のつけようがない。
待つしかないのだ。
30分。40分。
まさか、連れ去られたとか? 強盗とか?
いやいや、そんなバカな。
それにしても遅すぎる。だって水ぐらいどこでも売ってるはず。
どうしよ? ホテルの人に相談してみようか?
といってもイタリア語なんて全くわからないし。なんて説明すればいいの?
50分。
ああ、どうしよ!! もし連れ去られてたら私はどうなるの?
ああ、どうしたらいいの???
不安マックスで泣きそうになっていたとき彼が嬉しそうな顔をして帰ってきた。
「ただいま~」
「どこまで行ってたんよ!!」私は声を上げた。
「え? どこまで、って、水買いに行ってたんやけど……
いやあ、通りに出たらさ、みんな楽しそうで、なんか嬉しくなってきてさ~
ひとりでうろうろしててん!! ああ、楽しかった~」
はあ???
こっちがどんだけ心配して待ってたかわかってんのか?
新婚旅行やで? 普通嫁おいてひとりで行く???
楽しそうなんやったら、とりあえず帰ってきて、一緒に行ことか思わんのか!!
腸煮えくり返りそうになりながらも、とりあえず帰ってきてくれたことで安心したの
と、新婚旅行でいきなり本性を出すわけにも行かず、可愛い嫁のフリをしてその場は収めた。
翌日ローマ市内を観光。そして翌々日、次の目的地ミラノへ。私はてっきりツアーバスかなにかで次の目的地まで連れて行ってくれるものだと思っていた。ところが残念なことに、移動は自力だった。大きなスーツケースをゴロゴロいわせながら電車を乗り継ぎ、やっとのことでミラノにたどり着いた。
ミラノ滞在は一日だけで、次の日はベニスに移動だった。
今度こそお迎えが? と思ったけれどやはり迎えはなく、ゴロゴロとスーツケースをひきずってまた駅まで移動。電車を乗り継いて、やっとのことでベニスに到着。
移動って結構疲れる。当時の私はとにかく電車というものが嫌いだった。若いくせにどこに行くのも車、歩いて3分のコンビニでさえも車でいくほど怠慢な人間だった。そんな私がこんなに電車で移動することは考えられなかった。この先もこんな過酷な電車移動が続くのだろうか?
私は夫に恐る恐る聞いてみた。
「ねえ、移動って全部、こんな感じ?」
すると夫は、それが当たり前と言わんばかりの顔で答えた。
「そうやけど」
「ここから先のパリにも自力で行くの? お迎えとか、なし?」
「当たり前やん、そんなんないで。それが楽しいんやんか!」
そのとき私は始めて知った。彼は飛行機とホテルの予約以外、何も取っていなかったということを。
私の中の新婚旅行のイメージは、ちゃんと添乗員がいて、目的地まで送り届けてくれて、ホテルについたら花束とかワインとか置いてあったりして、おいしい食事とか、サービスとか、なんか普通の旅行とは違う、ちょっと特別な感じが味わえるものだと思っていた。ところが予約したのは飛行機とホテルのみ。
バックパッカーと一緒やんか! と内心思っていたとき、彼はこういった。
「今回は、新婚旅行やからホテルもちゃんととったよ。前行った時は飛行機しか取らんかったから。流石にそれはアカンやろと思って」
当たり前やろ! 心の中で突っ込んだ。
そうか、全部自力なんだ。
移動も食事も、全部自力。何も決まってなかったんだ。
私が思い描いていた新婚旅行のイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていった。
新婚旅行1週間の間にいろんなところに連れて行ってもらった。けれどそれよりも記憶に残っているのは、ホテルで置いてきぼりにされたこと、重いスーツケースをありえないと思いながらひきずって駅まで歩いたこと、私にとっては一年分に匹敵するぐらい電車に乗ったこと。そして付け加えると、毎晩夕食がピザだったこと。
私が思い描いていた新婚旅行と、彼が思っていた新婚旅行のイメージは、明らかに違っていたのだった。
成田離婚という言葉があるのをご存知だろうか?
結婚したての男女が、新婚旅行をきっかけに離婚してしまうことを指して使われた言葉である。私たちが結婚した1990年代に流行っていた言葉だ。
新婚旅行に行って初めてお互いの価値観の違いに気づき、こんな人だとは思っていなかった、このまま一緒には暮らせないと思う。するなら傷が浅いうちに、と帰りの成田空港で離婚に踏み切ってしまうというパターンだ。
25年たった今、私はこの新婚旅行を冷静に振り返ってみて思う。成田離婚する理由は十分にあったと。だって二人の価値観はあまりにかけ離れていたのだから。
だけど離婚はしなかった。それはなぜなんだろうと考えてみると、なんだかんだ文句を言いながらも、私は結構そんな状況を楽しんでいたのかもしれないと思う。もし私が旅行を手配していたとしたら、○○旅行社のハネムーンパックで決められたルートを行くという、安心安全である代わりに面白みのない旅行になっていたかもしれない。彼が決めてくれたからこそ、私は普段味わえないようなスリルを味わうことができたのだ。そういう意味では十分一生の思い出に残る旅行というミッションをクリアしてくれていたのかもしれない。
もちろん25年間の間には、そんな楽しめる状況ばかりではなく、ありえない、許せない、というような価値観の違いにも直面してきた。自分にはない価値観に直面したとき、やはり私は大きくうろたえる。が、うろたえながらもそれを一つ一つなんとかかんとか乗り越えてきたことで、気がついたら自分の価値観が大きく広がっていた。ありえないと思っていたことが、まあそれもありかもね、と思えるようになっていた。許せないと思っていたことが許せるようになっていた。昔に比べたら、随分と心の広い人間になったものだと思う。
私が成田離婚しなかったのは、もしかしたらこの自分とはかけ離れた価値観の人間と一緒にいることで、最終的には自分が得をするということを知っていたのかもしれない。おかげさまで今は、少々のことでは驚かなくなった。違う価値観にであっても「それ、新しい! 斬新!」と言えるようになった。
今ならホテルで置き去りにされたとしても、きっと私は喜んで一人で遊びに行くだろう。心も広くなった分、随分と図太くなったものだと思う。
記事:あおい
私は 「かわいそうな子」 でした
「かわいそうに」
私はこの言葉を何度聞いたことだろう。母はことあるごとにこの言葉を発していた。近所の子が転んで膝を擦りむいた話をしたときも、いじめられている子の話をしたときも、大人が落ち込んでいるときも。あの当時は、確かにかわいそうだよね、と私も思っていた。けれども、今考えると一体かわいそうってなんなのだろうかと思うときがある。
母はときに「かわいそう」と言って、やりすぎではないかと思う行動に出るときがあった。
私が高校生のとき、あるクラスがクラスごと全員謹慎になる、という出来事がおきた。そのクラスの中の一人の子の家が民宿を営んでおり、夏休みにその民宿でクラスの「宴会」が行われたらしい。どこからバレたのかはわからないが、宴会ゆえ酒やタバコが飲まれており、学校側も分かった以上処分をせざるを得なくなったのだ。
私はそのクラスではなかったのだけれど、仲良くしていた先生がそのクラスの担任だった。謹慎が決まってから、その先生は明らかに落ち込んでいた。クラス内の一人や二人が謹慎ならばまだしも、クラス全員だったのだから教員内でも風当たりが強かったであろうことは容易に想像できる。確かに「かわいそう」な状況だった。
この件を家に帰ってから何気なく話したところ、母は「まぁ、かわいそうに。高校生ならお酒を飲むとかちょっとやってみたい年頃よねぇ。先生は直接関係ないのにねぇ」と言った。ここまでならば、普通の親子の会話としてよくある話ではないかと思うのだけれど、うちの母がやりすぎだと思うのはここからだった。
「先生を励ましてあげたいから、電話番号を教えて」
先生が私の担任だったのであればまだわかる。しかし、担任でもなければ面識もない、ただ子どもが多少仲良くしているだけの先生なのだ。私は止めた。
「いや、そこまでしなくてもいいと思うけど……」
しかし、母の決意は固かった。早速先生の自宅に電話を掛けて「お力を落とされないように……」とかなんとか言っていた。
あの当時もそれは行き過ぎではないのか? と思っていたが、やはり今改めて考えてみても行き過ぎだと思う。もし私がこの先生だったとしたら、仲良くしている生徒の親とはいえ、担任でもないクラスの父兄から突然励ましの電話をもらっても、そんなにうれしいとは思えない。まして、気分的にも落ち込んでいるときに知らない人からの電話だなんて逆に気を遣わなくてはならず、面倒なだけだ。
親に対して辛辣なことを言うようだが、母は「かわいそう」だと思われる人の役に立つ(であろうと自分が思う)ことで、自分の存在を肯定していたのではないかと思われる節がある。子どもに対してもそうだった。
私はある部活を辞めようとしていた。運動部だったので朝練がもちろんあるし、夜も帰りが遅くなる。うちは学区ギリギリのところにあったため、通学に片道一時間以上かかっていた。しかも、通学は徒歩のみと決められていたため、自転車にも乗れなかった。そんなこともあって、元々体力があまりない私は続けることが厳しくなってしまったのだ。
顧問はその当時「鬼」と恐れられた厳しい先生。だから、辞めることを告げに行くのは、結構勇気が必要だった。それでも限界を感じていた私は恐る恐る退部することを告げた。「鬼」先生は私の限界をわかっていたのか、意外とすんなり認めてくれたのだった。
ここまでは、よくある学生の話だと思う。しかし、母は電話こそしなかったものの、絶対渡すようにとその「鬼」先生宛の手紙を私に託していた。中に何が書いてあったのかはわからないのだけれど、あのとき、手紙を渡さなければよかったと今でも後悔している。
母は娘が体力の限界で「かわいそう」なことを助けようと思って手紙を書いたのだろうと思う。母からすれば愛情だったこともよくわかる。だけど。これは「過保護」ではなかっただろうかと思う。自分が始めたことの後始末は、やはり自分でしなくてはいけないと思うから。自分で入部したのなら、退部も自分でするのが筋だと私は思うのだ。もし、このとき顧問の先生が本当に「鬼」で、絶対に辞めさせない! と言ったのならば、そのときが初めて母が登場するときだったのではないだろうか?
私は無意識に「かわいそう」な子どもをやってきてはいなかっただろうか?
と大人になってから思うようになった。子どもの頃はとても体の弱い子どもだった。昔から私がどんなに体が弱くて、看病が大変だったか……という話を、母から何度も何度も聞かされてきた。だから私は、かなり大人になるまでずっと「病弱」だった。私ってそういう人なんだと信じて疑わなかった。
けれども、色々なことを知るうちに、少しずつ疑問が湧いてきた。
「私は本当に病弱なのだろうか?」「私は本当にかわいそうなのだろうか?」
そう思って一つ一つ検証していくうちに、どうやらそれは思い込みの部分が大きいのかもしれないということが見えてきた。事実、私は若い頃より中年の今の方がどう考えても元気なのだ。
子どもは、特に小さいうちは家庭の「空気感」のようなものを敏感に察知するという話を聞いたことがある。であるならば、もしかしたら私は母の「かわいそう」探しを察知して、そのように振舞っていたということは考えられないだろうか。
そして私もその状況に慣れており、大人になっても無意識に「私ってかわいそうでしょ?」と人から同情されたい思いが消せないでいたのではないかと思うことがある。そういう風に同情してくれる人を、私は長らく「優しい人」だと思っていた。私はどこかで「私は弱いから、誰かに寄りかからないとだめなの」とも思っていた。やはり私は、かわいそうな人を無意識に演じていたのではないだろうか。これではいつまでたっても依存心の強い、自立できない子どものままだ。
そう気づいてから、私は「かわいそうな子ども」をやめた。親も老人であるし、子どものままの私でいた方が、もしかしたら親は嬉しかったかもしれない。事実、私は親に冷たくなった。けれど仕方がない。私の自立のためには、私が誰かの為でなく、自分のために生きるためには、少なくとも一旦こうしてみるしかなかったのだ。私は私のために生きる。親も子どものためではなく、自分のために生きる。お互いに卒業しなければいけないのだ。
親には感謝を! 親孝行しなくてはいけない!
こういう世の中で言われていることもわかる。私だってできればそうありたいと思う。だけど、その前にやることがあるのではないか? とも思うのだ。親も子どももお互いに自分のために生きてこそではないだろうか? それとも、依存したままの方がお互い幸せなのだろうか? 選択は人それぞれだ。
たとえ間違っていると言われても、私は自分のために生きる方を選ぶ。かわいそうな子から脱却するために。
水色のクレヨンが私に教えてくれたのは、素直になるということだった。
「はーい、みんな、今からお絵描きの時間ですよ。クレヨンを出してくださーい」
先生の声掛けに、園児たちはそれぞれのお道具箱からクレヨンを取りだした。
画用紙がくばられ、園児たちは思い思いの場所で絵を書き始める。
雲一つない晴れ渡った秋の空。気持ちの良い風が吹いている。
4月から幼稚園に通い始めた私には、お気に入りの場所があった。教室をでたところの下駄箱のあたり、すのこがひいてあるところだ。そこは上履きに履き替えるための場所だったのだけれど、私はそのすのこの上に座るのが大好きだった。そこに座ると園庭がよく見える。ぞうさんの形をした滑り台や、地球儀のようなジャングルジム、カラフルな色に塗られたブランコ、そして見上げると青い空が広がっている。私はそこで絵を書くのが好きだった。
その日もいつものように、すのこの上に座って絵を書いていた。
今日はぞうさんの滑り台と砂場を書こう。
最初は滑り台。輪郭を書く。ちょっと鼻の形が変になったけどまあいいや。
滑り台の色は黄色。丁寧に塗っていく。
次は砂場。砂場はねずみ色。砂場で使うスコップやバケツも書いておこう。
そして最後に空。今日の空は水色。そう思いながら、水色のクレヨンを手にとったとき
のことだった。
コロコロコロ……
あっ……
つかむ間もなく、水色のクレヨンはすのこの上をころがり、あっという間にすのこの隙間から下に落ちてしまった。
手を伸ばして取ろうとしてみたけれど、すのこの隙間には手が入りそうで入らない。
どうしよう……
ショックだった。まさか落としてしまうなんて。
先生に言おうか?
でも恥ずかしい。いや、怒られるかもしれない。
どうしよう……私は泣きそうになっていた。
そんなことを考えている間に、
「はーい、お絵かきの時間は終わりです。お片付けをしてお弁当の時間だよ」
先生の声が聞こえた。私は後ろ髪を引かれながら、クレヨンをお道具箱の中にしまった。
何日かして、またお絵描きの時間になった。
私は水色のクレヨンを無くしてしまったことをすっかり忘れていた。いつものようにクレヨンを開けたとき、水色がないことを思い出した。落とした時の悲しい気持ちが蘇ってきて、また泣きそうになっていた。
今日はすのこの上で書くのは辞めよう。また落とすと悲しいから。
その日は教室の中で、小さくなって絵を書いていた。
すると、隣にいた男の子が、私のクレヨンを見て言った。
「なんで水色だけないん?」
私は黙っていた。
「なくしたんやろー?」彼は私を嘲笑うかのように言った。
「なくしてない」私は反論した。「今日は忘れてきただけ」
私が必死になればなるほど、彼は私をからかった。
「水色がないと、空も海も書かれへんで」彼は笑いながら言った。
「今日は水色使わへんからいいねん!」私は半泣きになりながら訴えた。
次のお絵描きの時も、また彼が私の隣にやってきた。
「今日は絶対空書くで。だから水色がないと書かれへんで」
「ほっといて!」そういうのが精一杯だった。私は内心不安でいっぱいだった。
みんなでお空を書きましょう、って先生に言われたらどうしよう?
私は水色がないから書かれへん……
どうしよう、どうしよう……
大好きだったお絵描きの時間がだんだん辛くなっていた。
「今日は水色、絶対使うと思うわ」彼はしつこいぐらいに繰り返した。
私は水色のところだけぽっかりと空いたクレヨンの箱を目の前にして、とうとう泣いてしまった。
「どうしたの?」先生が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
私の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。もう黙ってはいられない。言うしかないと思った。
「あのね……、ヒーッ、みずいろの……ヒーッ、ヒーッ、クレヨン……ヒーッ、
落としたの……あの下に……えーーんうえーーん」
私は泣きながらすのこを指さした。
今から思えば、落とした時すぐに先生に言っていれば、すのこを持ち上げて探すことができたはずだ。けれども幼稚園児の私にはそんな発想はなかった。まさかあんな大きなすのこを持ち上げることができるなんて思っていなかったから。私の中では落としたら最後、二度と取り出すことはできないと思っていた。それくらい私にとっては重大な失敗だったのだ。だから言えばきっと先生に叱られると思った。「取り返しのつかないことをして!」と。
ところが、先生は何も怒らなかった。「よしよし、今までひとりで我慢してたんだね。困ったときはすぐ先生に言ってね。大丈夫、大丈夫」そう言って先生は、幼稚園にある予備のクレヨンの中から、水色のクレヨンを私に手渡してくれた。
それ以来、彼は私に近づいてこなくなった。どうやら先生にたんまりと叱られたようだ。
そしてなぜか、私の手元にはもう一つ、新品の12色入りクレヨンがあった。
私をからかった彼は、先生に叱られたあと、そのことを親に報告され、申し訳ないと思った彼の母親が、お詫びにと新品のクレヨンを持ってきてくれたのだった。
なんだか複雑な気持ちだった。私は何も悪いことはしていない。だけど……
結局私はその新品のクレヨンを使うことができなかった。
人に迷惑をかけたくないと思い、自分ひとりでなんとかしようとしたことが、結局自分の力ではどうすることもできなくなって、大きな迷惑をかけてしまうことがある。
「もっと早く言ってくれればよかったのに」と。
あのころの私は大人に気を使っていたんだと思う。大人に迷惑をかけないように、大人の手を煩わせないようにと、小さいながらも精一杯頑張っていたような気がする。5歳の私には、まだまだできないこと、わからないことのほうが多かったはずなのに。
いや、すっかり大人になった今も、できないこと、わからないことだらけだ。結局はいくつになっても、できないことをできないと素直に言えるか、わからないことをわからないと素直に聞けるか、本当はそれが人に迷惑をかけないことなのかも知れない。水色のクレヨンが私に教えてくれたのは、「素直になる」ということだったようだ。
S婦人の奇怪な行動から見えてきたものは、認めたくない真実だった
「あっ、しまった……」
ある日の朝、娘を駅まで送り届けたあと、駐車場に車を入れようとしたとき、家の前を通り過ぎようとしていたS婦人と目が合ってしまった。
車の中から軽く会釈しながら、このまま通り過ぎてくれることを祈ったけれど、彼女は私の家の前で足を止め、私が車から降りてくるのを待っていた。
嫌な予感がした。なぜなら彼女は近所でも噂のややこしいおばさまだったから。
私は今から20年前にこの町に引っ越してきたが、それより随分前からS婦人はこの町に住んでいた。S婦人の家は私の家からすぐの道路を隔ててちょうど真向いにある。若い頃インテリア関係の仕事をしていたというだけのことはあって、家の外観はおしゃれなアメリカ郊外のお家を思わせる造りになっており、庭には大きなパラソルと、その昔エマニエル婦人が座っていたような籐でできた大きな椅子が鎮座しているのが木々の間から垣間見える。この付近には似つかわしくない家に住む彼女は、そういう意味でも有名だった。
ちょうど私たちが引っ越してきた頃、まだ若かったS婦人はエネルギーが有り余っていたのだろう。最初の騒動は、隣に住む老夫婦のおうちに、S婦人宛の郵便物が間違って届けられたことがきっかけだった。親切心からS婦人のおうちにその郵便物を届けに行った老夫婦の奥さんは、そこでS婦人からあらぬ疑いをかけられることになる。
S婦人は、その郵便物は間違って届けられたのではなく、老夫婦の奥さんがS婦人のポストから盗んでいったのだと言い始めた。普通に考えてなぜそんなことをする必要があるのか全くわからないし、疑いをかけられた奥さんはたまったもんじゃない。最初は優しく否定していた老夫婦も、何を言っても聞き入れないS婦人の態度に堪忍袋の緒が切れて、ご近所バトルが勃発した。早朝からS婦人の「泥棒!」と叫ぶ声、それに対して反撃する老夫婦。言葉の攻撃ではとどまらず、S婦人は本来なら庭の樹木に水をやるためのものであるところのシャワー式ホースで、隣の老夫婦の家めがけて思い切り放水すると、老夫婦も負けじとホースで応戦する。それだけではなく、老夫婦が泥棒だと言わんばかりの悪口を近所に触れて回り、しまいには、「隣人は泥棒です」と書いた看板を、老夫婦の家との境界である壁にでかでかと張り出すという始末。
もちろん引っ越したばかりの私たちの家にもやってきて、「あの老夫婦は泥棒だから気をつけなさい」と玄関先であることないこと長々と話をする。人の良さそうな老夫婦は本当にお気の毒だと思うのだけれど、下手に手出しをすると今度はこっちが何を言われるかわからないから、黙って嵐が去るのを待つしかない。
そんな険悪な状態が1年ぐらい続いていたのだけれど、老夫婦のご主人が病気になって入院されたことをきっかけにトラブルはおさまり、やれやれと思っていた矢先、次にS婦人のターゲットとなったのは、我が家の長男だった。
長男が小学校低学年のころだったと思う。家の前で友人たちとボール遊びをしていたところ、運悪くそのボールがS婦人宅の庭に入ってしまった。長男は友人たちと一緒にS婦人宅に行き、ボールが入ってしまったことを詫び、ボールを取りに庭に入ってもいいかどうかを確認した。まあ少しぐらい嫌な顔をされても、ボールを返してもらえると思っていた彼らは、それがとても甘かったことに気づいた。どうして道路でボール遊びをしているのか? なぜ公園にいかないのか? 道路がどういう場所なのか知っているのか? 等々S婦人の説教は一時間以上に及んだ。それだけでは留まらず、今度は私の家までやってきて、子どもたちに道路でボール遊びさせるとは何事だ! と私に向かって説教を始めた。
確かにおっしゃるとおり、道路でボール遊びはいけない。それを放置していた私にも責任はある。それは間違いない。けど、だけどね、そんなに恐ろしい顔して、ものすごい剣幕でまくし立てて言うほどのこと? 相手は子供だよ、もう少し優しく言えないか? と思いながらも、やはりどう考えても悪いのはこちらの方、平謝りに謝るしかない。「申し訳ございません、今後このようなことがないよう十分に気をつけます。子供たちも反省しておりますので、どうぞお許し下さい」と丁重に丁重に誤り、子供たちにも再度あやまりに行くように伝えた。
その時の対応がよかったのか、その事件以降、S婦人は手のひらを返したように私たち家族に親切になった。ある春先の日曜日、お昼ごろのことだった。突然ピンポーンとやってきて、「うちの庭でバーベキューするから、子どもさんたちと一緒にいらっしゃいな」と声をかけてきた。一瞬おっ、と怯んだけれど、ここで断るとまたややこしいことになりそうだし、ちょうど昼ご飯も今から作るところだったし、まあいいか、行ってみようと思って子どもたちとお邪魔することにした。
はじめて入るS婦人のお家は、想像したとおりにおしゃれなおうちだった。家具や調度品は全てヨーロッパから取り寄せたらしく、立派なソファの横にはブランデーの並んだサイドボード、一枚板の大きなテーブル、モニュメントのようなライトたちはいつどんなときに使うのか庶民の私には全く謎だったけれど、とにかく高級そうな家具が並んでいた。庭にはエマニエル婦人が座っていた椅子の他にも、見るからに高そうな置物が置かれていた。S婦人がボールの事件であれだけ激しく説教した意味がその時初めてわかった。息子がボールを投げ入れたとき、この置物に当たらなかったことが本当に救いだと思った。
その置物のそばに、一生懸命肉を焼いているS婦人のご主人の姿があった。帽子をかぶり、めがねをかけ、短パンとよれよれのTシャツを着た細身で初老の男性は、S婦人とは違って落ち着いた紳士に見えた。笑顔で私たちを迎え入れてくれた。どんどん食べなさいといって高級な肉を次々と焼いてくれた。
私たちは、ここぞとばかりにたんまりお肉をご馳走になり、ワインをいただき、デザートまで頂戴し、いい気分で帰ろうとしたとき、「これも持って帰りなさい」といって差し出されたのは、四角い箱に入った板チョコ、1ダース分だった。
「私、なんでも気に入ったら箱買いするの。洋服なんかもね、気に入ったら同じものを全色買うのよ。ただ食べ物は賞味期限があるでしょ。だから食べきれないのよ。オタクは子供さん多いから持って帰ってちょうだい」
思いもよらないプレゼントに大喜びの子供たちは、あのおばさん怖いと思っていたけど本当はいい人だよね、と言い始めた。もしかしたら本当はいい人なのかもしれない。あの隣人トラブルも、私たちが勝手に誤解をしていただけなのかもしれない、そんなふうに思ったりしていた。
そのバーベキュー以降、S婦人はことあるたびに私の家にやってきて、箱買いして賞味期限が切れそうになったポテトチップスやらチョコレートやらを持ってくるようになった。それだけなら嬉しい話だ。ところがおいしい話にはやはり裏があった。彼女はそのプレゼントと引き換えに、ご近所の苦情聞き係を私に要求してきたのだ。彼女の話をずっと聞いていてわかったのは、彼女は誰かを悪者にしないと気がすまないということだった。次のターゲットは引越ししてきたばかりの隣人だった。ゴミの捨て方に問題ありだとS婦人は指摘した。私に意見を求めてくる。そんなこと知らんわ、直接本人に話してくれよ、と思うのだけれど、それは言えないから、そうですね、と合わせておくしかない。せっかく彼女に気に入られていい状態を保っているのに、ここでまた嫌われてターゲットになっても困る。なんたってうちには前科があるのだから。黙って聞いておくしかない。そんなことが1年ぐらい続いてもういい加減うんざりしていたのだけれど、あるときからぱったり来なくなった。病気になったのか? 引越ししたのか? そんなことはどうでもいい、来なくなったことで私は平和な生活が取り戻せたことが嬉しかった。できることならこのまま一生会いたくないと思っていた。
そんな矢先に出会ってしまったのだ。家の真ん前で。
嫌な予感がした。
私が駐車場に車を停めると、S婦人は私のほうに向かって歩いてきた。
「お久しぶり、お元気?」
「はい、元気です」
たわいのない挨拶から始まる。
「最近あまりみないけど、あなたどうされてるの?」
私は、ここ数年仕事が忙しいことや、子どもたちも大きくなったことなどを簡単に告げ、当たり障りのない会話をして家に入ろうと思った。ところがS婦人は私を離さなかった。
「ところでお母様はお元気?」
母のこと? 私の母のことなんて、家の前で数回であって立ち話したぐらいで詳しくは知らないはずなのに、今さら何を聞くねんと思ったけれど、「母は元気にしてますよ」と無難に返事をした。
するとS婦人は続けてこういった。「お兄様はお元気?」
はあ? 兄ですか? 確かに兄はいる。いるけれど、私の家に来たことなんて、それこそ20年のうちで10回あるかないか、しかも墓参りの途中で立ち寄ったぐらいのことで、長時間滞在したこともなければ、S婦人に出会ったこともないはず、なのに彼女は何を言っているんだろう? と思いながら、「はあ、元気にしてますよ」と答えると、彼女は唐突にこんなことを言い始めた。
「いやね、あなたのお母様とお兄様、もう随分と前のことだけれど、家の前で大声でけんかしてたじゃない。だからどうされてるのかなと思って。」
「けんか? 兄と母がけんかですか? そんなことしてませんよ。だいたい兄はこの家にほとんど来たことがないですし」
近所迷惑も顧みず、大声で喧嘩してたのはお前だろう、と言いたい気持ちをぐっとこらえて冷静に答えた。
「あら、あなた知らないのね、あなたのお母様とお兄様、あなたのおうちの前で大喧嘩していたの、近所でも噂だったのよ」
そんなことがあるはずがない。兄はこの家に住んだこともないし、めったに来ないといっているじゃないか。それに、お元気? ってその意味深な聞き方、まるで親子ゲンカがこうじてどうにかなっているのを期待しているかのような言い方じゃないか。何が言いたいんだ、こいつは? そんな気持ちを堪えながら、「それうちじゃなくて、お隣じゃないですか?」と私が答えると、「いえいえ、オタク、オタクのお母様とお兄様」「いや、そんなことはないと思うんですけど」「いえいえ、私この目でみましたもの」
私が違うといっても全く聞き入れる様子もない。
だんだんと腹がたってきた。そんな押し問答をしばらく繰り返しているうちに、とうとう私は堪忍袋の緒が切れた。
「おい、おばはん!! 黙って聞いてたら調子に乗り上がって、あることないことペラペラペラペラ言い上がって。喧嘩なんかしてないって言うてるやろ! だいたいな、喧嘩するようなタマじゃないねん、兄は。お前、人のことばっかり観察して指摘して、自分はどうやねん! 隣のばあさんとずっとバトルして、朝から大声で叫んでどんだけ近所迷惑やったか知ってるんか! このボケ、賞味期限が切れかかったお菓子持ってきて、ベラベラとしょうもない悪口聞かせあがって、気分悪いねん! だいたいな、自分のことばっかり喋って人の話を全然聞かへんやつが私は大嫌いやねん!!!」
ところが、実際に私の口から出た言葉はこれだけだった。
「そんなことはないと思うんですけどね……」
「あら、そうなの、あなた知らないのね。随分昔のことだからね。気になさらないで。お元気ならいいわ。ではまた」それだけ言って彼女は去っていった。
S婦人の後ろ姿を見送りながら、私は呆然と立ち尽くしていた。
な、な、なんなんだ、あいつは。何が言いたいんだ! ムカムカしていた。イライラしていた。突如として私の前に現れ、わけのわからないことを言い残し、去っていった彼女。私を苛立たせ、モヤモヤさせるだけさせておきながら、涼しい顔をして行ってしまった彼女。
彼女の目的は一体なんだったのか? 老夫婦とのトラブルの時にもわからなかったけれど、今回も彼女の目的がさっぱりわからない。もし仮に、私の母と兄が大喧嘩をしていたことが事実だったとしても、それを今私に告げたところでいったいどうなるというのか? ただ私を不快にさせたかっただけなのか? 相手を不快にさせてなにか楽しいことがあるのか?
いや、私のモヤモヤの原因はそれだけではなかった。苛立っている一番の理由は、そんなに腹立たしい思いをしながら、S婦人に対して何も言えなかった自分に対してだった。こんな理不尽な思いをしながらも、争いたくない自分、いい人でいたい自分。この期に及んでそんな思いに支配されている自分が、嫌で情けなくてたまらなかったのだ。
私はいつの間にか、物わかりのいい大人になりすぎていた。怒りの感情を抑え、いつも平静を装い、大人であり続けることが良いことだと思ってきた。ところがS婦人はそうではなかった。言いたいと思ったこと、聞きたいと思ったことを、良いも悪いもなくストレートに口に出す、まるで無邪気な子供のようだ。
これを認めるのはものすごく悔しいし腹立たしい。けれど認めざるを得ない。自分の正義を振りかざし、思ったことを口に出し、周りを振り回しても自分は幸せでいられる、そんなS婦人のことを、本当は羨ましく思っていたのだということを。私は心のどこかで、あんなふうになりたいと密かに思っていたのだということを。
そんなことを考えながら、S婦人の後ろ姿を見送っていたとき、
「もっと言いたいこと言いなさいよ、あなた」
彼女の後ろ姿がそう語っているように見えたのはきっと私だけだと思う。
>
真面目 + 余白 = 不真面目?
「もう! いっつも私ばっかり……」
私は長らくこう思ってばかりいた。学生時代の掃除もほとんどサボらず、周りがサボっている分まで掃除をすることもよくあった。会社員になってからも、やるべきことはもちろんのこと、どうしたら他の人達も使いやすくなるのか、なんてことを考えてファイリングを試行錯誤してみたこともある。とにかく、私の中の「真面目」がサボることを許さなかった。
以前働いていた会社で「あなたは黙々と仕事をしますよね」と言われたことがある。真面目ゆえ、ダラダラと仕事をすることができず、集中して仕事をしていたからではないかと思う。あの頃はほめ言葉だと思っていたけれど、近づき難い雰囲気を出していたからそう言われたのかもしれないな……と今は思う。
私の育った家には「ユーモア」や「笑い」が激しく欠けていた。冗談を言って笑った記憶がないし、下手な冗談を言うと「やめなさい」「くだらない」「嘘をつくのはよしなさい」などとたしなめられていた気がする。
高校生の時、同じクラスの子が「それは、うちの大蔵大臣に聞いてみないとわからないな」とその子のお母さんを大蔵大臣に例えて言った。今考えてみると、なんてことのない会話なのだけれど、当時この話を聞いたとき、私はなんて面白いことを言う人なんだろうと思って大爆笑したのだった。言った本人は、そんなに面白いかな? という顔をしてこちらを見ていた。その頃、私の中に「面白いことを言う」なんていうプログラムは組まれていなかった。
もちろん、面白いことなど言わなくても世の中は生きて行ける。むしろ、学生の時は面白いことの一つも言わず、黙々と勉強をする生徒の方が評価されたりする。だから私はこれでいいのだと思っていた。
大学生になり、私はお笑いの本場「関西」へやってきた。だけど、関西に行きさえすれば面白いことが言えるようになるわけではない。とにかくお笑い免疫がほとんどなかった私は、あの吉本新喜劇を見ても、何が面白いのかちっともわからなかった。テレビでお笑いの人を見て、何をふざけているのか! さっさと本題に入ればいいのに。時間の無駄だわ、と本気で思っていた。今思えば、お笑いの「ボケ」がわかっていなかったのだ。きっと頭がカチンコチンになっていたのだろう。
その後少しずつ関西に、お笑いには慣れたけれど、だからと言って面白いことが言える人になれた訳ではなかった。
関西の会社で働いていたとき、ある上司から「あなたは真面目だけれど、愛嬌がない」と言われたことがある。自分では精一杯愛嬌を振りまいているつもりだったから、その言葉はショックだった。それに、そう言われたからと言って、どうやって愛嬌を身につけたらよいのかわからない。結局そう言われたまま、私は何もできないままだった。
ところで「てへぺろ」という言葉をご存じだろうか? てへぺろとは照れ笑いやごまかし笑いの意味で用いられる若者言葉だそうだ。私もわりと最近知ったのだけれど、この言葉を知らない人も、テヘッと笑ってペロッと舌を出すしぐさと言えばわかるのではないだろうか。
このところ、私は精神的てへぺろを実践しているのではないか? と考えるようになった。この「てへぺろ」のしぐさそのものをする訳ではないのだけれど、精神的――つまり、心の中では気づけば「てへぺろ」を実践しているのだ。
何か失敗したら「いやぁすみません」と言って心の中では「てへぺろ」、「私、やっちゃいました!」と言いながら「てへぺろ」。
「真面目」一筋だった、あの頃の私にはありえなかった「てへぺろ」。失敗したら、完璧にできなかった自分の至らなさを責め、そんな私は結局使えない人なのだと思い込み、どんどん自分のことを否定していった、真面目な私。あの頃の私が見たら、てへぺろだなんて、そんな軽いノリで失敗をごまかそうだなんて、そうは問屋が卸さない! なんて責任感のない人なんだ! そう思って怒り心頭だったはずだ。確かにそうかもしれない。あの頃の私の方が真面目で仕事もきちんとやっていただろう。けれども、あの頃の私と決定的に違うことがある。私に愛嬌らしきものが出てきた! ということなのだ。そして、明らかにあの頃より今の方が生きやすい。周りの人達もとても優しく感じる。周りの人に恵まれているということもあるだろうけれど、これは「精神的てへぺろ」のおかげだ! と私は秘かに思っている。
どうして「てへぺろ」を実践できるようになったのかと言えば、私は完璧ではない、ということを受け入れられたからだろうと思う。もちろん、以前も自分が完璧だと思っていたわけではないけれど「完璧であらねばならない」と思っていた。でも、このねばならないから脱することができたのだ。そうすると何がいいって、まず自分がラクになるのだ。そして、他人にも完璧を要求しなくなる。だから自分にも他人にも優しくなり、結果、愛嬌らしきものも出てくるようになるというわけなのだ。
真面目一筋のあの頃、私は良くも悪くも孤高の人だった。自分にも他人にも厳しく、良かれと思ってしていたことも、ときには他人の領域を侵していた。学生時代の掃除もそうだった。人の分までやってしまい、疲れて、不満を持って、愚痴を言う。不満を持つくらいなら、愚痴を言うくらいなら、やらなければよかったのに。結局、孤高と言いながら、私は認めて欲しかったのだ。私って使える人間ですよね? ということを確認したかったのだ。
使える人間だったらどうだというのだろう? 使える人間というくらいだから、結局のところ「使われて」いるだけなのに。相手にとって、その会社にとって「使える」というだけで、本質的に素敵な人間なのかどうかなんてわからないのに。
私は以前に比べると「余白」を身につけられたのかもしれない。マス目にきっちり全部何かを埋めていたところを、あえて空けておく。何か他のものが急に入ってきても受け入れられる態勢。遊びを持たせておくのだ。
考えてみれば、お笑いには余白がいっぱいだ。例えば、漫才で言いたいことを箇条書きにして、まとめて言ってみてもきっと面白くない。ボケたり、同じことを何度も繰り返してみたり、無駄だと思うようなことが沢山あるから面白いのではないだろうか。そう、きっちり埋めておく、余白のない人はきっと面白くないのだ。ゆるく、身軽で余白を沢山持っている人の方がきっと面白い。
私はお笑い芸人にはなれないし、なる気もないけれど、少しばかり余白を持って、少しばかり面白い人になりたい。そのために、これからも私は「精神的てへぺろ」をやっていくだろう。だからと言って、私の真面目がなくなったという訳ではない。私は、真面目な「不真面目」をやっていくのだ。これが、真面目な私の余白の身につけ方だから。
記事:渋沢まるこ