まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

喜べない妊婦が後悔の後に手に入れた喜び

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妊婦が嫌いだった。

 

いや、他人が妊婦であってもそんなことは思わない。むしろ微笑ましく思う。

私は自分が妊婦である、という状態が嫌いだったのだ。

 

私には子供が4人いる。双子とかではないから、合計4回妊婦になったということになる。

一人につきたった10ヶ月のその妊婦の期間が、私は苦痛でたまらなかった。

つわりがひどかったのか? というとそうでもない。たぶん軽いほうだと思う。じゃあ妊娠期間に何か問題があったのか? というとそれも違う。至って健康体の妊婦であった。私が苦痛だったのはそんなことではなく、体型が恐ろしく崩れていくことだった。

 

そんなこと妊婦なんだから当たり前だ、と思われるかもしれない。神様から授かった命が宿っているのに、不謹慎だと思われるかもしれない。確かにそうだ。おっしゃるとおりだ。もちろん子供を授かってありがたいし嬉しいとは思っている。だけど、お腹がどんどん大きくなって、乳もどんどん大きくなって、もう最後の方は自分のへそが見えない、という状況まで体型が変化していくことが、私はものすごい苦痛だったのだ。

 

昔ある芸能人が妊娠したとき「卵で産みたい~」と軽そうに言ってたのを見て、この人おかしいんちゃうか? と思ったけれど、初めて妊娠したとき私も同じことを思った。卵だったら、夫も一緒に温められるのに。女ひとりで背負うなんて不公平だ、と。

 

体型が変わっていくと、当然のことながら普通の服は着られない。もちろんジーンズも履けない。今でこそ大型量販店でもおしゃれで低価格なマタニティウエアが売っているけれど、私が出産した20数年前は、デパートの隅っこのマタニティコーナーに、本当に申し訳程度にハンガーにかかっている数着の中から選ぶしかなかった。そのどれもがいかにも「私は妊婦です」と言わんばかりの、お腹を強調するようなふわっとしたワンピース、オシャレとは程遠いくせに値段も高くて、もう少しましなものはないのかと頭を抱えたくなるようなしろものばかりだった。

 

お腹の中で元気に育ってくれていること、それはもちろんありがたいことで、お腹をさすっては赤ちゃんと会話したり、動きを確かめたりして喜んでいるそんな自分と、お風呂に入った時の自分の姿をみて愕然とする自分、妊娠中はそんな相反する自分が常に共存していた。

 

妊婦が嫌いだといいながら、4回も妊娠するのもどうかと思うけれど、生まれてしまえばかわいいからそんなことは忘れてしまう。そしてまた妊娠してあーあ、と思う。

4回やっても嫌なものは嫌だ、自分の妊婦姿だけは好きになることはなかった。

 

 

そして今から10年ぐらい前、もう妊娠することもないだろうという年齢になったころのことだった。ふらっと立ち寄った雑貨屋で、かわいい傘を見つけたので買おうと思いレジに行ったとき、ふとあるチラシが目に入った。映画のチラシである。その映画は「玄牝」(げんぴん)というタイトルだった。タイトルの横に「生まれてくれてありがとう」と書いてある。

 

チラシをよく読んでみると、吉村医院という産婦人科でのお話のようだ。自然に子供を産みたいと願う妊婦たちが全国からやってくるという。チラシを読んでいるうちにものすごく気になってきた。どこで上映しているのだろう? どうやら自主上映らしい。チラシを持ち帰りすぐに問い合わせてみた。すると一ヶ月ぐらい先にはなるけれど、家から車で30分ぐらいの会場で上映することが決まっていた。一緒に雑貨屋に行った友人を誘うと、彼女も行きたいというので、私はすぐに2人分予約をした。映画なんてめったに見に行きたいと思わないのに、まして自主上映の映画なんてこれまで見たこともなかったのに、なぜかこれだけは強烈に見たいと思ったのだった。

 

 

そして映画の当日。劇場は50人程度の小さな映画館だった。予想通り観客のほとんどは女性だ。若い女性が多い。妊婦さんもいた。カップルできている人もいた。私たちのように、もう出産することはないだろうという年齢の人は少なかった。そりゃそうだよね、これから産む人には役に立つかもしれないけれど、もう終わってるもんねと言いながら、直感の思いつきで見に来てしまったことを少し後悔しつつ、映画が始まるのを待っていた。

 

吉村医院は愛知県岡崎市にある小さな産婦人科だった。そんな小さな産婦人科にどうして全国から妊婦さんが集まるのか? 私は不思議だった。その理由が知りたいと思った。

 

映画が始まると、鬱蒼とした森の中にある古びた日本家屋の中で、拭き掃除をしている妊婦さんの姿が映し出された。彼女たちは大きなお腹をかかえながら、板戸を雑巾で力強く拭いている。板戸というのはその名のとおり、板でできた引き戸のことである。となりの部屋との境、今で言うドアの代わりだ。その板戸を上から下まで、膝を曲げたり伸ばしたりしながら力強く拭いている。映像が庭に切り替わると、今度は別の妊婦さんが斧を振り上げ、薪を割っていた。私は信じられなかった。あんな大きなお腹で拭き掃除や薪割りなんて。自分の妊婦時代を振り返ってみて、歩くだけでもフーフーヒーヒー言っていたのを思い出し、絶対無理だと思った。

 

ところが、昔の女性は当たり前にやっていたことらしい。そう言われれば昔の女性は出産の間際まで畑仕事をしたり、洗濯機や掃除機のない中、全て手作業で家事をこなしていたというのを聞いたことがある。そしてお産もその自然の流れの中で営まれていたのだ。

 

吉村医院では、産む前に自然にお産ができる体づくりをしておくことが目的で、拭き掃除や薪割りを取り入れているようだ。その作業は強制ではなく自由参加であるけれど、お産の前後というのはメンタル面でも不安定になりやすいから、そういう意味あいでも、妊婦さん同士交流があるというのはとてもいいことだと思った。

 

そんなことを思いながら、映画を見ているうちに、私はあることに気づいた。妊婦さんが皆、キラキラしているのだ。顔がきれいとか、服がどうとか、そんなことじゃない。顔がつやつやしている。目が生き生きしている。この人たちは、自分が今、世界で一番美しい存在だと思っているのではないだろうかと思うぐらい、溢れてくる自信というか、その様子は私が妊婦だった時とは全く違っていた。それはなんなんだろう? 私と何が違うんだろう?

 

カットが切り替わりお産のシーンになった。彼女も4人目の出産だった。

4人目ということもあるのかもしれないけれど、落ち着いていた。産院の中であるにも関わらず、まるで自分の家にいるように、普通の和室に布団を引いて、周りには上の子供たちがいて、ご主人もいて、みんなで一緒に生まれてくる赤ちゃんを見守っていた。

 

陣痛の感覚が短くなり辛そうな時も、ずっと家族がそばで見守っていた。

そしていよいよ出産というときになって、先生がやってきた。

 

このまま和室で産むんだ。分娩台じゃないんだ。

聞いたことはあったけど、実際に見るのは初めてだった。

 

先生の声に合わせて、彼女はいきみはじめる。

ああーーっ

ふーーっ

 

その声は、叫ぶような声ではなく、優しくて穏やかだった。

 

 

そして生まれた瞬間、彼女はとても満足そうな顔でこういった。

 

「気持ちよかった」

 

え? なんだって? 私は耳を疑った。

お産が気持ちいいなんてあり得ない。痛い、辛い、しんどい。これも生まれてくる子供のため頑張るしかない、そう思って乗り越えてきた。それが気持ちいいって? どういうこと? でも彼女は確かに気持ちよさそうだった。お産はエクスタシーだということを聞いたことがある。その感覚なのか? 私には考えられなかった。

 

一時間半ほどの映画だっただろうか。私は初めから終わりまで食い入るように画面を見続けていた。

 

 

見終わって友人と一緒に車に戻り、エンジンをかけようとしたとき、「映画、よかったねー。どう思った?」と助手席でシートベルトを締めながら、友人が私に言った。

 

「うん、感動したわ。

あんなお母さんに産んでもらった子供は、幸せだろうな……」

そう言った瞬間に、涙が溢れてきて喋れなくなった。

 

 

私は激しく後悔していた。自分が恥ずかしかった。見た目ばかりを気にして、妊婦を嫌がっていた自分が。映画に出てきた妊婦さんたちは、みんな本当に美しかった。キラキラしていた。私と彼女たちの決定的な違いは、彼女たちが妊婦であることを誇りに思っていたことだった。そして妊婦であることを楽しんでいたことだった。

 

私は楽しむどころか、苦痛を感じていたのだ。子供たちに本当に申し訳ない、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。できることなら一から妊婦をやり直したい、もう一度妊婦になって、妊婦である自分とちゃんと向き合いたい、そう思った。でも今更そんなことを思ったところでどうすることもできない。それがまた辛かった。

 

おなかの中にいるときに、赤ちゃんはすでに母親の思いを感じ取っているという。私のように妊婦であることを嫌がり、妊婦を楽しめていない母親のお腹にいた子供たちはいったいどんな気持ちだったんだろう、それを想像すると本当に自分が情けなかった。

 

もしかしたら、子供がネガティブなことを言ったりやる気がなかったりするのは、私の妊娠中の思いが影響してるんじゃないか? そんなことを思ったりし始めていた。

 

「子供たちに申し訳ない……私がもっと、妊娠中、ちゃんとしてたら……」

声にならない声で、私は友人に訴えた。

 

すると友人は、私の背中をさすりながら言った。

「大丈夫や、みんなちゃんと育ってるやんか。そんなこと関係ないわ」

 

そしてさらに彼女はこう続けた。

「そんなやわじゃないよ、子供は」

 

そうだ、確かにそうだった。

妊婦時代がどうであれ、子供たちはちゃんと育っていた。

考えてみれば、私のせいでこうなった、ああなった、なんて思うこと自体傲慢だ。私が子供をコントロールして、良くしたり悪くしたり、思いのままに動かすことができるとでも思っているのか。そんなわけはない。子供は子供の人生を、自分で切り開いていくんじゃないか。

頭では確かにそう思っているのだけれど、心のどこかでうん、と言えない自分がいた。

 

 

あの映画から10年ぐらい経っただろうか。子供たちは確かにしっかりと育ってくれた。妊娠中の私の思いなんて全く関係ないかのように。かといって今、妊娠中のことを全く後悔していないというと嘘になる。やっぱり完全に消すことはできない。消せないけれど、その代わりに、私は大事にするようになったことが一つある。それは「今」だ。子供と過ごす何気ない時間、一緒にご飯を食べたり、買い物に出かけたり、ともに笑い、ともに泣き、ともに眠る、そういう小さな日常の一つ一つを大事にするようになった。もちろん24時間四六時中というわけにはいかないけれど、以前に比べれば随分と。あの映画のおかげかも知れない。なぜなら、もう二度と後悔はしたくないから。

 

記事:あおい

 

私をあなたの妹にしてください

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私は長女だ。

だから、ちゃんとしなくてはいけない。おねえちゃんとして、しっかりしなくちゃいけない。

親にも度々言われてきたし、途中からは自分でも無意識に私はそうあるべきだと思って生きてきた。そのことで生きづらいと思ったこともなかったし、そういうものなのだと思っていた。

 

何かイベントがある、となったら私の出番だ。

企画、計画、準備。得意です! お任せください! いかに合理的にみんなにわかりやすく行うか、どこかに行くなら最短時間、最短距離で。トイレ休憩時間やトイレの位置確認もぬかりなく。こういう情報を調べることも大好きだ。まるでパズルのようだから。実行してみてピタッとハマり、思惑通り進んだときのあの爽快感はたまらない。別のパズルを用意しておくことも忘れない。パズルがひとつだけだと、上手くハマらなかったときにそこから先がグダグダになってしまう。だからパターンを何種類か用意しておく。途中でどんなことになっても、たいていのことは想定済みとして進めることができるのだ。私の計画は素晴らしい! 完璧だ! 自画自賛してニヤッとする。

 

他人の計画で行われるイベントなど、少しでも停滞しているところを見つけると、私だったらこんなふうにはしないのに、などと内心余計な批評をしていた。それどころか、主催が知り合いだった場合など、批評家気取りで「こういうときはこうした方がいいよ」なんて完全に上から目線でアドバイスをすることもあった。どれだけ高慢ちきな女だったのか、今考えるとぞっとする。とにかく私は、自分! 自分! 自分! だったのだ。だから、私よりデキる人が許せなかった。明らかに私より段取り良く物事を進められて、スマートにできる人は全員「敵」だった。そういう人がいると、必死にその人のアラを探した。「そうね、あの人はまぁできる方だと思うけどね、でも惜しいわね、あそこがこうだったら完璧だったのに」なんて、またもや上から目線で。向こうの方がデキる人なのは明白なのに。

 

長女としては負けられなかった。

そんなふうにしっかりと認識していたわけではないけれど、根本にはこの想いがあったと思う。「しっかりしているよね」「おねえさんだからね」こんな言葉が何度も何度も頭の中を巡った。そう、私はしっかりしているの。おねえさんなの。だから、コンプレックスになりそうな私よりデキる人とはなるべく距離を置いて生きてきた。私に頼ってくれる人、私が自分ばかりを主張できる人を無意識に選んで付き合っていたような気がする。高校生のとき、それを如実に表すことを言われたことがある。

 

「Nさんて、あなたの引き立て役だよね」

Nさんというのは、その当時、私が一番仲良くしていた友人だった。あの当時は「え? 何言ってるの? そんな訳ないじゃん」と思っていた。本当にそんな自覚もなかった。けれども、今考えるとそういう側面もあったのかもしれないな……と思う。もちろんそれは、お互いのギブアンドテイクがあってのことなのだけれど。私はいろんな情報を集め、提供し、計画、実行する。Nさんはある意味何もしなくていいのだ。私がお膳立てし、彼女はそれに乗ればいいだけだから。私は万能感を味わうことができ、彼女はラクすることができる、というギブアンドテイク。これは、見方によっては引き立て役……ということになったかもしれない。

 

しかし、メッキはどれだけ頑張ってもメッキだ。見る人が見ればすぐにバレる。逃げても逃げても、私よりデキる人は現れる。そのうち、逃げる自分、アラ探しばかりの自分がほとほと嫌になってきた。何だろう、この独りよがりな自分は。こんなことをしていても、ちっとも楽しくない。自分をよく見てみれば、どれだけ井の中の蛙なのかすぐにわかる。

自分の立ち位置をようやく少し自覚した頃、私はデキる人に聞いてみたことがある。

 

「どうしたら、そんなにデキるようになるのですか?」

 

するとその人は丁寧に教えてくれた。最初からデキる人だった訳ではないこと、くだらないプライドを捨てたこと。そして、自分もかなり努力したこと。

そうなのだ、デキる人だって最初からデキた訳ではないのだ。こんな当たり前のことが私には見えていなかった。求めていたものは「うわべ」だけだったのだ。チヤホヤされたい、みんなからすごいと言われたい。そんなうわべだけ。何のためにデキるようになりたいのか、デキるようになってどう活かしていくのか。そんな大事なことをちっとも考えていなかった。

つまり、長女だから……というのも都合の良い私の言い訳だったのだ。長女だろうが、次女だろうが、デキる人はできるし、努力する人は努力するのだ。

 

最近は人のお膳立てに素直に乗ることができるようになった。私だったら……なんて無粋なことはあまり思わないようにもなった。お膳立てに乗ってラクをさせてもらうことが楽しい。自分では考えつかないようなプランが用意されていることだってある。何より、私は自分がやってきたから、お膳立てをすることの大変さだってわかるのだ。だからこそ、それを思い遣ると感謝しかなくなる。

 

ありがたくお膳立てを頂く。そして私もお膳立てをする。

 

どちらがデキるとか、あそこがマズいなんて、そんなことはどうでもいいのだ。だって、私のためにお膳立てしてくれたのだ。もうそれで充分ではないか。私もお膳立てするときは全力でやる。それだけのことだ。

そうは言っても、長女だからしっかり……という思いが今もないわけではない。そう思ったら、私は敢えてこう思うことにしている。

 

「私をあなたの妹にしてください」

 

そうすれば、すんなりとありがたくお膳立てに乗ることができるから。

私はしっかり者であるべき「おねえちゃん」ではなくなるから。

 

 

 

記事:渋沢まるこ

 

 

 

私という存在が彼の中から消えたとき

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「ああん、足が折れた……」

「そんなすぐに、足が折れるかいな」

 

そいう言いながらも祖父は、「じゃあ、ちょっとそこに上がり」といって、私を小さな石段に上がらせると、背中を向けて「はい、どうぞ」という。

私は嬉しそうに祖父の背中に飛び乗る。これが祖父におんぶしてもらう時の作戦だった。

 

祖父は私をよく散歩に連れて行ってくれた。よく思い出すシーンは電車に乗って桜を見に行ったときのことだ。当時5歳ぐらいだったと思う。桜の名所の公園まで駅から15分ぐらいかかっただろうか。子供の足では結構な距離である。歩き疲れると私は例によって「足が折れた」作戦を使った。「明子は疲れたらいつも足が折れるんやな」と言いながら、祖父は嫌がりもせずおぶってくれた。

 

いや、本当は歩けたのかもしれない。実はおんぶをしてもらいたかったのだ。祖父の大きな背中にしがみつくと、嗅いだことのない匂いがした。木の匂いと汗とが入り混じったような独特の匂いが私は大好きだった。そして、一歩一歩踏みしめながら歩く祖父の足どりを背中で感じながらうとうとするのが、なんともいえず心地よかったのだ。

 

祖父は父の実家である徳島県鳴門市に住んでいた。両親が共働きだったこともあり、夏休みはいつも父の実家に預けられていた私は、毎日のように祖父に遊んでもらっていた。

 

散歩ももちろんよく行ったけれど、一番よく覚えているのは海水浴だ。すぐ近くに小さな海水浴場があった。朝起きて朝食を済ませると、祖父はステテコと白シャツ姿で自転車の後ろに私を乗せて、海水浴場まで連れて行ってくれた。祖父は砂浜でいつも体育館座りをして、海で遊ぶ私をずっと見守ってくれていた。

 

毎日のように連れて行ってもらったけれど、祖父は決して海には入らなかった。泳げないわけではないのに、真夏の炎天下に砂浜で見ている方がよっぽど苦痛だっただろうに、「一緒に入ってよ」とお願いしても「おじいちゃんはええわ」といって結局一度も海には入ってくれなかった。その理由は今でも謎のままだ。

 

海水浴から帰ると、庭に植えてあるいちじくの木から実をとって食べるのが日課だった。適度に熟したいちじくの実が毎日いくつも成っていて、私はそれを夢中で食べた。初めて食べた時の衝撃は今でも忘れられない。世の中にこんなに美味しいものがあるのかと思った。いちじくの美味しさを教えてくれたのも祖父だった。

 

もうひとつの大きな楽しみは、家の庭にあった祖父専用の納戸だった。昔船大工をしていた祖父は、その時の工具や材料を捨てることができずに、ずっとそのまま納戸にしまってあったのだ。私はその納戸の中を初めて見たとき、見たこともないような道具や部品がそこらじゅうに乱雑に置かれてあるのを見て、かなり興奮した。「これなに? これなに?」祖父に聞きまくった。祖父は私にいろいろと説明してくれた。私はそこを「秘密基地」と勝手に名付けて、暇なときには一人で納戸の中を物色して、あれこれとわけのわからない作品を作っては想像を膨らませていた。

 

歴史に詳しかった祖父は、寝る前にいつも私に昔話をしてくれた。いろんな武将の話をしてくれたのだけれど、残念ながらほとんど記憶にない。唯一覚えているのは、義経と弁慶の話だった。誰にも負けたことのない弁慶が、京の五条の橋の上で義経に負けてしまうという有名なお話だ。唯一これだけ覚えているのは、なぜかこの話だけは祖父がまるで役者になったかのように感情移入して何度も話してくれたからだった。

 

一緒に住んでいなかったからだろうか、祖父は私をとても可愛がってくれた。

優しい祖父が私も大好きだった。

 

 

ところが小学校高学年になったころから、その関係が少しずつ変わってきた。私が子供から女の子になったからだ。体が大きくなっておんぶしてもらうこともなくなった。一緒に寝てもらわなくても一人で寝られるようになったし、義経だの弁慶だの、そんな話も興味が無くなってしまった。祖父の独特のあの匂いも、残念ながらあまり好きではなくなっていた。

 

毎年夏休みに田舎に行くのは変わらなかったけれど、祖父といるよりは叔母と料理をしたり、裁縫したりする方が楽しくなった。祖父のことを嫌いになったわけではなかったけれど、一緒にいる時間は間違いなく減っていた。

 

 

中学生になると、もう夏休みだからといって田舎に帰ることもなくなっていた。部活もあるし、友達と遊んだりする方が楽しかったからだ。それでも年に数回は、墓参りのために両親と田舎に帰ることがあった。思春期真っ只中だった私は、祖父に会っても特別話をすることもなかった。昔に比べて祖父が老いてきたことには気づいていたけれど、そんなことをまさか口にだすわけもなく、ただ黙って一緒の空間にいるだけだった。

 

 

そして高校一年の夏、私は祖父がちょっとボケてきているという話を母から聞いた。それを聞いたからといって、特に何の感情もわかなかった。一緒に住んでいるわけでもないし、まあ年寄りだしそりゃ仕方ない程度の、まるで他人事だった。

 

ところがその翌年だったか、墓参りで田舎に帰ったとき、私はこともあろうか、祖父を怒鳴りつけてしまったのだ。久しぶりに出会った祖父を。祖父は認知症のため記憶もあいまいである上に、自分の思い通りにいかないことが腹立たしかったようで、理屈の通らないことをしつこく叔母に言い続けていた。始めは黙って側で聞いていたけれど、だんだんと腹がたってきて私が切れてしまったのだ。

「もう、おじいちゃん! うるさいねん! 何わけのわからんこというてるんよ! 黙って言うとおりにしたらええねん!」

 

祖父は黙ってその場に立ち尽くしていた。私は怒鳴ってから「しまった」と思った。そのときは叔母がなんとか取り繕って事態は丸く収まったのだけれど、久しぶりに出会った祖父に久しぶりにかけた言葉がそんな言葉だったことに後悔した。思ったより事態は深刻なんだとその時初めて理解した。

 

穏やかで優しかった祖父が、こんなふうになるんだ……

自分をコントロールできない祖父の姿を見るのが嫌で、私はそれ以来、祖父に会うことを避けるようになった。

 

 

そして高校3年生の春のことだった。祖父の容態があまりよろしくないということは聞いていた。けれどもう祖父のことには何も興味がなかった。はっきり言ってどうでもよかった。女子高生の興味の対象は、ファッション、恋愛、グルメ、それしかなかった。そこにちょっとだけ顔を出し始めた受験生という役割、それでもう頭の中はいっぱいいっぱいだったのだ。だから祖父がそんな状態でも、お見舞いに行こうと一度も思わなかったし、両親もまああなたは受験生だしね、ということで大目に見てくれていた。たいして勉強もしていなかったのに。

 

そしてその年の5月、祖父はついに亡くなってしまった。お通夜、お葬式のため両親が翌日から田舎に帰ることになった。「明子はどうするの?」母に聞かれたけれど、私は行かないといった。「一人で留守番はさみしいから、友達呼んで勉強するわ」と言うと、勉強という言葉にはすぐ機嫌よく反応する母は、それなら家に居なさいといって許してくれた。

 

本当は勉強する気などさらさらなかった。実はもうすぐ祖父が亡くなるであろうということはなんとなく予測がついていた。そうなると、両親は揃って田舎に帰る。当然私も一緒に来るように言われるだろう。その時にうまく理由をつけて私は行かないことにして、友だちを呼んで遊ぼう。受験勉強が始まる前に、高校生活最後の思い出として、夜通し遊びまくって発散するんだ! そんなことをこっそり心の中で決めていて、友人にもそうなった時には連絡するから! と根回ししていたのだ。

 

案の定そのとおりになった。しめしめだ。私はすぐ数人の友達に電話をして、「泊まりで遊びに来て!」と声をかけた。急な誘いにも関わらず、5人の友人が「行く!」と即答で返事をくれた。

 

そして両親が祖父のお葬式に行ってしまったあと、泊まりに来た友人たちと飲んで食べてドンチャン騒ぎをして、恋愛やファッション話に花を咲かせ、朝まで遊びまくった。勉強なんて一ミリもしなかった。「お葬式の日にこんなことしていいの?」と友だちは心配そうに声をかけてくれたけれど、「ええねんええねん」と私は笑い飛ばした。悪いことをしたとかそういう思いは全くなくて、とにかく楽しい2日間だったという、それだけだった。

 

そこから10数年たち、結婚して、子供も生まれて、自分が親という立場になったとき、ふと祖父のことを思い出すことが時々あった。あんなに可愛がってもらったのに、お葬式にも行かず、ドンチャン騒ぎをして、私はなんと薄情な人間なんだろうと自分の浅はかな行動を後悔することもあった。そうは言いながらも、まああの時は私も若かったし、と自分を正当化して、それでいつも折り合いをつけていた。

 

 

そんなある日のことだった。

 

 

「ほら、おいで」

祖父が私に向かって背中を差し出しおいでと言っている。

おんぶしてくれるんだ、と思っていこうとするのだけれど、祖父は私からは届かない高いところにいてどうしてもたどり着かない。

祖父は目に涙をいっぱい溜めてこっちを見ている。

「なんで来てくれへんかったんや。お葬式。待ってたんやで」

 

その言葉を聞いたとたん、私は申し訳ないやら、恥ずかしいやら、今まで隠していた感情が溢れ出した。

「おじいちゃん、ごめん。ごめんやで。なんで行かんかったんやろ。あんなに可愛がってもらって、大事にしてもらって、いろんなとこ連れて行ってもらって、おんぶもいっぱいしてもらったのに。私はあの日、友だちと騒いでいました。おじいちゃんのことなんか思い出しもせず、友だちと遊び倒してました。ああ、行けばよかった。そんなことせんと行けばよかった。ほんまごめん。ごめんなさい」

 

祖父は高いところから、泣きじゃくる私をずっと見ていたけれど、「おじいちゃんのこと、忘れんとってな」そういって消えていった。

 

夢だった。固まって動けなくなるほどリアルな夢だった。私は寝ながら声を上げて泣いていた。

 

 

私が祖父に最後に出会ったのは、怒鳴り散らした時だった。その時私は気づいていた。祖父はすでに私が誰なのかわからなくなっていたことに。

 

私が怒鳴り散らした本当の理由、今ならわかる。それは祖父がしつこくてうるさかったからではない。私のことが誰だかわからなくなった寂しさをどこにどうぶつけていいのかわからずに、怒鳴り散らすという形で表現するしかなかったのだ。その後出会うことを避けていたのも、あれだけ可愛がってくれていた私のことが、彼の記憶の中にはすでになかったということが、17歳の娘にはどうしても受け入れられなかったのだと思う。

私という存在が消えてしまった祖父に出会う勇気が当時の私にはなかったのだ。

 

私はずっと後悔していた。お葬式に行かずにドンチャン騒ぎをしていたことを。最後に出会ったのが、怒鳴り散らしたときだったということも。心の奥の方ではずっと気にかかっていたのだ。だから祖父は現れてくれたのかもしれない。夢の中ではあったけれど、私は祖父に詫びることができた。祖父に届いたかどうかはわからない。許してくれたかどうかもわからない。けれど夢から覚めて意識が戻ったとき、なにかから解放されたような、すっきりした感覚になっていたのは気のせいだったのだろうか?

 

もしお見舞いに行っていたら、お葬式に出席していたら、私は後悔していなかったのだろうか? と考えたこともある。けれど実際のところはそれもわからない。変わり果てた姿の祖父を目の当たりにして、かえって辛い思い出になっていたかもしれない。

 

結局のところ、どっちが正解かなんて誰にもわからないのだ。間違いなく言えることは、「死んだら二度と会えない」ということだけだ。どんなに泣こうがわめこうが会うことは叶わない。そのことだけは肝に銘じよう。生きている間に伝えたいと思ったことは逃げずにちゃんと伝えよう。もう17歳ではなく酸いも甘いも経験した結構なお年頃になっているのだから。

 

記事:あおい

亡くなった彼からのメッセージ

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「昨日、Nくんの家で火事があり、残念ですが彼は亡くなりました」

 

考えてみれば、朝から何だか変だった。通学途中に空き地で、今までに見たことのない数のカラスを見た。気持ちが悪い……。こんな数のカラスがいるのを見たことがない。不吉だ。そう思った。なんだか胸騒ぎがする。だけど、私の思い違いかもしれない。どうしてカラスが沢山いると不吉なのだろう? スズメが沢山いても不吉じゃないのはどうしてなのだろう? カラスは黒いから、そういう理由だけなのでは? 私はたまたま今日沢山のカラスを目撃しただけなのではないのか? 頭の中が少しパニックになって、整理ができなくなっていた。でも、とにかく、彼の机の上には花が置かれている。それは紛れもない現実だった。私は、ただぼんやりとその花を見つめていた。

 

「彼はどんな子でしたか?」

「彼とどんな話をしたことがあるのかな?」

 

ああ、これがドラマで見るあれなんだ。本当にそういうこと聞いてくるんだ。それはテレビの中にしか存在しないことだと思っていた。自分がその渦中の人になるなんて、考えたこともなかった。

マスコミはちょっとした事件であるこの火事を記事にするために取材をしていた。相手はまだ中学生だというのに。こんな時にあんな質問してくる? デリカシーがないよね? それは中学生でもみんなが思っていることだった。

 

下校途中にNくんの家はあった。なんだかんだ言っても現場を見たいという気持ちがあり、学校からの帰りに現場に寄った。住宅街の中に黒焦げの家が見えてくる。焦げた臭いがする。

この家で彼は火事に遭い、どんなことを思ったのだろうか? 熱かっただろうか? 苦しかっただろうか? 考えれば考えるほど辛くなった。

その後もどんどん噂は耳に入ってくる。「夜中なのに、親は家にいなかったらしいよ」「近所の家の人は、何度も「助けて」という声を聞いたらしいよ」「保険金が沢山払われるらしいよ」どれが本当なのか、嘘なのか知るすべもなかった。

 

あのとき、私は中学一年生だった。

Nくんとは同じクラスで、行っていた塾も同じだった。でも、特に仲が良かったわけでもなく、むしろ、あまり話をしたこともなかった。とはいえ、私にはやり残したことがあった。実は、少し前に彼からラブレターをもらっていたのだ。そして、返事はしていなかった。だから、私はとても複雑な気持ちだった。私は彼のことをどう思っていたのだろう? そうは言っても、あまり彼のことはよく知らないし……。でも、返事はしておけばよかった。もう彼に会うことはできない。

クラスでは、どうしてそういうことになったのかわからないが、全員で千羽鶴を折ることになった。どうしてこんなときに千羽鶴なのか、よくわからないけれど、無心に鶴を折って、やるせない気持ちをどうにかしたかったのかもしれない。

私は返事を折り紙に書くことにした。

 

「お手紙ありがとうございました。あなたのことは、いい人だなと思っていました」

 

何を書こうか悩んだ挙句、こんなことしか思い浮かばなかった。これを折り紙に書き、鶴を折った。とにかく彼に返事をしなければ。私は鶴に答えを託したのだった。それが彼に届いたのかどうか、わからないけれど。

 

それからしばらく経ち、その間にクラスの中から彼の机が撤去された。毎日の勉強やテスト、部活など、私たちは日々の生活の中で彼のことは少しずつ記憶から薄れていった。

 

実力テストが近づいていた。コツコツ型ができない私は、夜中まで起きて必死に暗記しようと、自分の部屋で机に向かっていた。暑い時期だったので、窓は全開。しかし、田舎なので夜になるとひんやりと涼しい風が入ってくる。山の中、というわけではないけれど、住宅密集地帯でもなく、夜中なので人通りもない。窓を開けていても、しーんと静まり返っているだけだ。そんな中、私は必死に机に向かって格闘していた。

 

ん? 何か聞こえる。耳をそばだてて聞いてみると、窓の外からとてもへたくそなリコーダーを演奏する音がする。とぎれとぎれで、通してきちんと弾けていない。へったくそだなぁ。

そこで私はハッとした。いやいや、ちょっと待って。今は夜中の2時。こんな田舎で、外でリコーダーを演奏する人なんて考えられない。それに、とぎれとぎれだけれど、あの曲……。それは、以前音楽の授業で、リコーダーの授業で習った「聖者の行進」という曲だった。

 

言っておくが、私にいわゆる霊感のようなものはない。見えたり、聞こえたりなんてことはない。だけど、あのとき確かに私はリコーダーの音を聞いた。とぎれとぎれだけれど、一生懸命に練習している音。そして曲は間違いなくあの曲だった。

私は怖かったけれど、まさか……と思って勢いよく窓の網戸を開けた。そして暗い窓の外を凝視した。しかし、私の視界に人の姿はなく、音も聞こえなくなってしまった。

 

そんなことは、あのとき一度限りだった。

けれどあれ以来、街中で「聖者の行進」が流れてくると、必ずNくんのことを思い出す。

なんだか怖いような、そうでもないような不思議な気持ちになるのだけれど、あの夏の日、彼は折り紙の中の手紙の返信を読んだよ、と言いに来てくれたのではないかなと思っている。

 

 

記事:渋沢まるこ

私が成田離婚しなかった理由

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着いた!!

成田から約15時間、やっと到着したレオナルド・ダ・ビンチ空港。

これから始まるおそらく一生に一度しかないであろうこの旅行に、私はワクワクと期待で胸がいっぱいだった。

 

新婚旅行にイタリア、フランスに行きたいと言いだしたのは夫だった。私は特別興味もないヨーロッパに行くのはあまり気が進まなかった。けれど、学生時代に友だちとバックパッカーでヨーロッパを一周したことのある夫は、その時の感動を暑苦しいぐらいに語ってくれて、どうしても行きたいというのだ。そんなにまで言うのなら行きましょう、その代わり、一生の思い出に残る旅行を企画してね、と彼に全てを託したのだった。

 

だから私は、イタリアのローマ、ミラノ、ベニス、そしてフランスのパリ、この4箇所を1週間で回るということ以外、旅行に関する詳しい情報は何も知らなかった。それがまた私のワクワク感をさらに増幅させていた。いったいどんな素敵なところに連れて行ってくれるんだろう! 

 

レオナルド・ダ・ビンチ空港についたのはもう夜だった。ホテルまではタクシー? 送迎バス? もしかしてリムジンが迎えに来てくれたりする? なんて妄想しながらついていくと、そこは駅だった。

 

「え? 電車乗るの?」

「うん、乗るよ、すぐやで」

 

いや、そりゃスグか知らんけど、新婚旅行やからさあ、もうちょっと気の利いたなんかないの? と思ったけれど、さすがにそれは言えず、仕方なく彼についていった。

 

電車に乗って約30分、ホテルに到着した。スペイン広場からほど近いところにあったそのホテルは、こじんまりとしたホテルだった。回転扉を開けると、小さなロビーがあり、その奥のフロントにはいかにもイタリア人という顔つきのイケメン男子と、済まし顔でちょっと怖そうなお姉さんがいて、「ボンジョルノ~」と笑顔で挨拶してくれた。もっとイマドキのホテルの泊まるのだと思っていた私は、ちょっと意外だったけれど、まあこれはこれで面白いなとそのときは納得した。

 

前々日の結婚式からバタバタとそのまま新婚旅行にやってきたこともあり、若いとはいえやはり疲れが出ていた。ほっと一息ついて水が飲みたいと思い冷蔵庫を開けると、炭酸水しか入っていない。ホテルの冷蔵庫には普通、水はもちろんのこと、ビールやジュースなどバリエーションに富んだ飲み物が入っていると思っていた私は、ちょっと驚いた。今でこそ日本でも炭酸水は当たり前だけれど、当時は飲む習慣がなかったから、どうしても飲めなかった。けれど水道水は飲まない方が良さそうだし、かといってもう夜も遅いし、明日の朝まで我慢するしかないなあと思っていたとき、夫が「買ってきてあげるわ」と言ってくれた。彼も疲れているだろうに、申し訳ないなあと思ったのだけれど、そこはお言葉に甘えてありがたくお願いすることにした。

 

一人になった部屋で特にすることもなく、しばらくベットにごろんと横たわっていた。すると外から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。ローマの夏は夜が長い。夜9時ごろになってやっと日が沈む。だからみんな昼寝をして、また夕方からごそごそと活動し始める。

時計を見ると、ちょうど夜9時を回ったところだった。あたりは暗くなってきたけれど、彼らの夜はまだこれからなんだなと思いながら、夫の帰りを待っていた。

 

10分。20分。

 

帰ってこない。

水、買いに行っただけだよね? 

 

窓を開けて通りを見てみる。

相変わらず大きな話し声と笑い声が聞こえてくる。が、ホテルの構造が複雑なのか、軒のようなものが邪魔をして通りの様子は全く見えない。

 

どこまでいったんだろう??

ちょっと不安になってきた。

当時は携帯はもちろんWi-Fiもない。連絡のつけようがない。

待つしかないのだ。

 

30分。40分。

まさか、連れ去られたとか? 強盗とか?

いやいや、そんなバカな。

それにしても遅すぎる。だって水ぐらいどこでも売ってるはず。

 

どうしよ? ホテルの人に相談してみようか?

といってもイタリア語なんて全くわからないし。なんて説明すればいいの?

 

50分。

ああ、どうしよ!! もし連れ去られてたら私はどうなるの?

ああ、どうしたらいいの???

 

不安マックスで泣きそうになっていたとき彼が嬉しそうな顔をして帰ってきた。

 

「ただいま~」

「どこまで行ってたんよ!!」私は声を上げた。

 

「え? どこまで、って、水買いに行ってたんやけど……

いやあ、通りに出たらさ、みんな楽しそうで、なんか嬉しくなってきてさ~

ひとりでうろうろしててん!! ああ、楽しかった~」

 

 

はあ???

こっちがどんだけ心配して待ってたかわかってんのか?

 新婚旅行やで? 普通嫁おいてひとりで行く???

楽しそうなんやったら、とりあえず帰ってきて、一緒に行ことか思わんのか!!

 

腸煮えくり返りそうになりながらも、とりあえず帰ってきてくれたことで安心したの

と、新婚旅行でいきなり本性を出すわけにも行かず、可愛い嫁のフリをしてその場は収めた。

 

 

翌日ローマ市内を観光。そして翌々日、次の目的地ミラノへ。私はてっきりツアーバスかなにかで次の目的地まで連れて行ってくれるものだと思っていた。ところが残念なことに、移動は自力だった。大きなスーツケースをゴロゴロいわせながら電車を乗り継ぎ、やっとのことでミラノにたどり着いた。

 

ミラノ滞在は一日だけで、次の日はベニスに移動だった。

今度こそお迎えが? と思ったけれどやはり迎えはなく、ゴロゴロとスーツケースをひきずってまた駅まで移動。電車を乗り継いて、やっとのことでベニスに到着。

 

移動って結構疲れる。当時の私はとにかく電車というものが嫌いだった。若いくせにどこに行くのも車、歩いて3分のコンビニでさえも車でいくほど怠慢な人間だった。そんな私がこんなに電車で移動することは考えられなかった。この先もこんな過酷な電車移動が続くのだろうか?

 

私は夫に恐る恐る聞いてみた。

「ねえ、移動って全部、こんな感じ?」

すると夫は、それが当たり前と言わんばかりの顔で答えた。

「そうやけど」

 

「ここから先のパリにも自力で行くの? お迎えとか、なし?」

「当たり前やん、そんなんないで。それが楽しいんやんか!」

 

そのとき私は始めて知った。彼は飛行機とホテルの予約以外、何も取っていなかったということを。

 

私の中の新婚旅行のイメージは、ちゃんと添乗員がいて、目的地まで送り届けてくれて、ホテルについたら花束とかワインとか置いてあったりして、おいしい食事とか、サービスとか、なんか普通の旅行とは違う、ちょっと特別な感じが味わえるものだと思っていた。ところが予約したのは飛行機とホテルのみ。

バックパッカーと一緒やんか! と内心思っていたとき、彼はこういった。

「今回は、新婚旅行やからホテルもちゃんととったよ。前行った時は飛行機しか取らんかったから。流石にそれはアカンやろと思って」

当たり前やろ! 心の中で突っ込んだ。

 

そうか、全部自力なんだ。

移動も食事も、全部自力。何も決まってなかったんだ。

私が思い描いていた新婚旅行のイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていった。

 

新婚旅行1週間の間にいろんなところに連れて行ってもらった。けれどそれよりも記憶に残っているのは、ホテルで置いてきぼりにされたこと、重いスーツケースをありえないと思いながらひきずって駅まで歩いたこと、私にとっては一年分に匹敵するぐらい電車に乗ったこと。そして付け加えると、毎晩夕食がピザだったこと。

私が思い描いていた新婚旅行と、彼が思っていた新婚旅行のイメージは、明らかに違っていたのだった。

 

成田離婚という言葉があるのをご存知だろうか?

結婚したての男女が、新婚旅行をきっかけに離婚してしまうことを指して使われた言葉である。私たちが結婚した1990年代に流行っていた言葉だ。

新婚旅行に行って初めてお互いの価値観の違いに気づき、こんな人だとは思っていなかった、このまま一緒には暮らせないと思う。するなら傷が浅いうちに、と帰りの成田空港で離婚に踏み切ってしまうというパターンだ。

 

25年たった今、私はこの新婚旅行を冷静に振り返ってみて思う。成田離婚する理由は十分にあったと。だって二人の価値観はあまりにかけ離れていたのだから。

 

だけど離婚はしなかった。それはなぜなんだろうと考えてみると、なんだかんだ文句を言いながらも、私は結構そんな状況を楽しんでいたのかもしれないと思う。もし私が旅行を手配していたとしたら、○○旅行社のハネムーンパックで決められたルートを行くという、安心安全である代わりに面白みのない旅行になっていたかもしれない。彼が決めてくれたからこそ、私は普段味わえないようなスリルを味わうことができたのだ。そういう意味では十分一生の思い出に残る旅行というミッションをクリアしてくれていたのかもしれない。

 

もちろん25年間の間には、そんな楽しめる状況ばかりではなく、ありえない、許せない、というような価値観の違いにも直面してきた。自分にはない価値観に直面したとき、やはり私は大きくうろたえる。が、うろたえながらもそれを一つ一つなんとかかんとか乗り越えてきたことで、気がついたら自分の価値観が大きく広がっていた。ありえないと思っていたことが、まあそれもありかもね、と思えるようになっていた。許せないと思っていたことが許せるようになっていた。昔に比べたら、随分と心の広い人間になったものだと思う。

 

私が成田離婚しなかったのは、もしかしたらこの自分とはかけ離れた価値観の人間と一緒にいることで、最終的には自分が得をするということを知っていたのかもしれない。おかげさまで今は、少々のことでは驚かなくなった。違う価値観にであっても「それ、新しい! 斬新!」と言えるようになった。

今ならホテルで置き去りにされたとしても、きっと私は喜んで一人で遊びに行くだろう。心も広くなった分、随分と図太くなったものだと思う。

 

記事:あおい

私は 「かわいそうな子」 でした

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「かわいそうに」

 

私はこの言葉を何度聞いたことだろう。母はことあるごとにこの言葉を発していた。近所の子が転んで膝を擦りむいた話をしたときも、いじめられている子の話をしたときも、大人が落ち込んでいるときも。あの当時は、確かにかわいそうだよね、と私も思っていた。けれども、今考えると一体かわいそうってなんなのだろうかと思うときがある。

母はときに「かわいそう」と言って、やりすぎではないかと思う行動に出るときがあった。

 

私が高校生のとき、あるクラスがクラスごと全員謹慎になる、という出来事がおきた。そのクラスの中の一人の子の家が民宿を営んでおり、夏休みにその民宿でクラスの「宴会」が行われたらしい。どこからバレたのかはわからないが、宴会ゆえ酒やタバコが飲まれており、学校側も分かった以上処分をせざるを得なくなったのだ。

私はそのクラスではなかったのだけれど、仲良くしていた先生がそのクラスの担任だった。謹慎が決まってから、その先生は明らかに落ち込んでいた。クラス内の一人や二人が謹慎ならばまだしも、クラス全員だったのだから教員内でも風当たりが強かったであろうことは容易に想像できる。確かに「かわいそう」な状況だった。

 

この件を家に帰ってから何気なく話したところ、母は「まぁ、かわいそうに。高校生ならお酒を飲むとかちょっとやってみたい年頃よねぇ。先生は直接関係ないのにねぇ」と言った。ここまでならば、普通の親子の会話としてよくある話ではないかと思うのだけれど、うちの母がやりすぎだと思うのはここからだった。

 

「先生を励ましてあげたいから、電話番号を教えて」

 

先生が私の担任だったのであればまだわかる。しかし、担任でもなければ面識もない、ただ子どもが多少仲良くしているだけの先生なのだ。私は止めた。

 

「いや、そこまでしなくてもいいと思うけど……」

 

しかし、母の決意は固かった。早速先生の自宅に電話を掛けて「お力を落とされないように……」とかなんとか言っていた。

 

あの当時もそれは行き過ぎではないのか? と思っていたが、やはり今改めて考えてみても行き過ぎだと思う。もし私がこの先生だったとしたら、仲良くしている生徒の親とはいえ、担任でもないクラスの父兄から突然励ましの電話をもらっても、そんなにうれしいとは思えない。まして、気分的にも落ち込んでいるときに知らない人からの電話だなんて逆に気を遣わなくてはならず、面倒なだけだ。

 

親に対して辛辣なことを言うようだが、母は「かわいそう」だと思われる人の役に立つ(であろうと自分が思う)ことで、自分の存在を肯定していたのではないかと思われる節がある。子どもに対してもそうだった。

 

私はある部活を辞めようとしていた。運動部だったので朝練がもちろんあるし、夜も帰りが遅くなる。うちは学区ギリギリのところにあったため、通学に片道一時間以上かかっていた。しかも、通学は徒歩のみと決められていたため、自転車にも乗れなかった。そんなこともあって、元々体力があまりない私は続けることが厳しくなってしまったのだ。

顧問はその当時「鬼」と恐れられた厳しい先生。だから、辞めることを告げに行くのは、結構勇気が必要だった。それでも限界を感じていた私は恐る恐る退部することを告げた。「鬼」先生は私の限界をわかっていたのか、意外とすんなり認めてくれたのだった。

ここまでは、よくある学生の話だと思う。しかし、母は電話こそしなかったものの、絶対渡すようにとその「鬼」先生宛の手紙を私に託していた。中に何が書いてあったのかはわからないのだけれど、あのとき、手紙を渡さなければよかったと今でも後悔している。

 

母は娘が体力の限界で「かわいそう」なことを助けようと思って手紙を書いたのだろうと思う。母からすれば愛情だったこともよくわかる。だけど。これは「過保護」ではなかっただろうかと思う。自分が始めたことの後始末は、やはり自分でしなくてはいけないと思うから。自分で入部したのなら、退部も自分でするのが筋だと私は思うのだ。もし、このとき顧問の先生が本当に「鬼」で、絶対に辞めさせない! と言ったのならば、そのときが初めて母が登場するときだったのではないだろうか?

 

私は無意識に「かわいそう」な子どもをやってきてはいなかっただろうか? 

 

と大人になってから思うようになった。子どもの頃はとても体の弱い子どもだった。昔から私がどんなに体が弱くて、看病が大変だったか……という話を、母から何度も何度も聞かされてきた。だから私は、かなり大人になるまでずっと「病弱」だった。私ってそういう人なんだと信じて疑わなかった。

けれども、色々なことを知るうちに、少しずつ疑問が湧いてきた。

「私は本当に病弱なのだろうか?」「私は本当にかわいそうなのだろうか?」

そう思って一つ一つ検証していくうちに、どうやらそれは思い込みの部分が大きいのかもしれないということが見えてきた。事実、私は若い頃より中年の今の方がどう考えても元気なのだ。

 

子どもは、特に小さいうちは家庭の「空気感」のようなものを敏感に察知するという話を聞いたことがある。であるならば、もしかしたら私は母の「かわいそう」探しを察知して、そのように振舞っていたということは考えられないだろうか。

そして私もその状況に慣れており、大人になっても無意識に「私ってかわいそうでしょ?」と人から同情されたい思いが消せないでいたのではないかと思うことがある。そういう風に同情してくれる人を、私は長らく「優しい人」だと思っていた。私はどこかで「私は弱いから、誰かに寄りかからないとだめなの」とも思っていた。やはり私は、かわいそうな人を無意識に演じていたのではないだろうか。これではいつまでたっても依存心の強い、自立できない子どものままだ。

 

そう気づいてから、私は「かわいそうな子ども」をやめた。親も老人であるし、子どものままの私でいた方が、もしかしたら親は嬉しかったかもしれない。事実、私は親に冷たくなった。けれど仕方がない。私の自立のためには、私が誰かの為でなく、自分のために生きるためには、少なくとも一旦こうしてみるしかなかったのだ。私は私のために生きる。親も子どものためではなく、自分のために生きる。お互いに卒業しなければいけないのだ。

 

親には感謝を! 親孝行しなくてはいけない!

こういう世の中で言われていることもわかる。私だってできればそうありたいと思う。だけど、その前にやることがあるのではないか? とも思うのだ。親も子どももお互いに自分のために生きてこそではないだろうか? それとも、依存したままの方がお互い幸せなのだろうか? 選択は人それぞれだ。

 

たとえ間違っていると言われても、私は自分のために生きる方を選ぶ。かわいそうな子から脱却するために。

水色のクレヨンが私に教えてくれたのは、素直になるということだった。

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「はーい、みんな、今からお絵描きの時間ですよ。クレヨンを出してくださーい」

 

先生の声掛けに、園児たちはそれぞれのお道具箱からクレヨンを取りだした。

画用紙がくばられ、園児たちは思い思いの場所で絵を書き始める。

雲一つない晴れ渡った秋の空。気持ちの良い風が吹いている。

 

4月から幼稚園に通い始めた私には、お気に入りの場所があった。教室をでたところの下駄箱のあたり、すのこがひいてあるところだ。そこは上履きに履き替えるための場所だったのだけれど、私はそのすのこの上に座るのが大好きだった。そこに座ると園庭がよく見える。ぞうさんの形をした滑り台や、地球儀のようなジャングルジム、カラフルな色に塗られたブランコ、そして見上げると青い空が広がっている。私はそこで絵を書くのが好きだった。

 

その日もいつものように、すのこの上に座って絵を書いていた。

今日はぞうさんの滑り台と砂場を書こう。

最初は滑り台。輪郭を書く。ちょっと鼻の形が変になったけどまあいいや。

滑り台の色は黄色。丁寧に塗っていく。

次は砂場。砂場はねずみ色。砂場で使うスコップやバケツも書いておこう。

そして最後に空。今日の空は水色。そう思いながら、水色のクレヨンを手にとったとき

のことだった。

 

コロコロコロ……

あっ……

 

つかむ間もなく、水色のクレヨンはすのこの上をころがり、あっという間にすのこの隙間から下に落ちてしまった。

手を伸ばして取ろうとしてみたけれど、すのこの隙間には手が入りそうで入らない。

 

どうしよう……

ショックだった。まさか落としてしまうなんて。

 

先生に言おうか?

でも恥ずかしい。いや、怒られるかもしれない。

どうしよう……私は泣きそうになっていた。

 

そんなことを考えている間に、

「はーい、お絵かきの時間は終わりです。お片付けをしてお弁当の時間だよ」

先生の声が聞こえた。私は後ろ髪を引かれながら、クレヨンをお道具箱の中にしまった。

 

 

何日かして、またお絵描きの時間になった。

私は水色のクレヨンを無くしてしまったことをすっかり忘れていた。いつものようにクレヨンを開けたとき、水色がないことを思い出した。落とした時の悲しい気持ちが蘇ってきて、また泣きそうになっていた。

今日はすのこの上で書くのは辞めよう。また落とすと悲しいから。

その日は教室の中で、小さくなって絵を書いていた。

 

すると、隣にいた男の子が、私のクレヨンを見て言った。

「なんで水色だけないん?」

私は黙っていた。

「なくしたんやろー?」彼は私を嘲笑うかのように言った。

「なくしてない」私は反論した。「今日は忘れてきただけ」

私が必死になればなるほど、彼は私をからかった。

「水色がないと、空も海も書かれへんで」彼は笑いながら言った。

「今日は水色使わへんからいいねん!」私は半泣きになりながら訴えた。

 

 

次のお絵描きの時も、また彼が私の隣にやってきた。

「今日は絶対空書くで。だから水色がないと書かれへんで」

「ほっといて!」そういうのが精一杯だった。私は内心不安でいっぱいだった。

 

みんなでお空を書きましょう、って先生に言われたらどうしよう?

私は水色がないから書かれへん……

どうしよう、どうしよう……

大好きだったお絵描きの時間がだんだん辛くなっていた。

 

「今日は水色、絶対使うと思うわ」彼はしつこいぐらいに繰り返した。

私は水色のところだけぽっかりと空いたクレヨンの箱を目の前にして、とうとう泣いてしまった。

 

 

「どうしたの?」先生が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。

私の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。もう黙ってはいられない。言うしかないと思った。

「あのね……、ヒーッ、みずいろの……ヒーッ、ヒーッ、クレヨン……ヒーッ、

落としたの……あの下に……えーーんうえーーん」

私は泣きながらすのこを指さした。

 

 

今から思えば、落とした時すぐに先生に言っていれば、すのこを持ち上げて探すことができたはずだ。けれども幼稚園児の私にはそんな発想はなかった。まさかあんな大きなすのこを持ち上げることができるなんて思っていなかったから。私の中では落としたら最後、二度と取り出すことはできないと思っていた。それくらい私にとっては重大な失敗だったのだ。だから言えばきっと先生に叱られると思った。「取り返しのつかないことをして!」と。

 

ところが、先生は何も怒らなかった。「よしよし、今までひとりで我慢してたんだね。困ったときはすぐ先生に言ってね。大丈夫、大丈夫」そう言って先生は、幼稚園にある予備のクレヨンの中から、水色のクレヨンを私に手渡してくれた。

 

 

それ以来、彼は私に近づいてこなくなった。どうやら先生にたんまりと叱られたようだ。

そしてなぜか、私の手元にはもう一つ、新品の12色入りクレヨンがあった。

私をからかった彼は、先生に叱られたあと、そのことを親に報告され、申し訳ないと思った彼の母親が、お詫びにと新品のクレヨンを持ってきてくれたのだった。

 

なんだか複雑な気持ちだった。私は何も悪いことはしていない。だけど……

結局私はその新品のクレヨンを使うことができなかった。

 

 

人に迷惑をかけたくないと思い、自分ひとりでなんとかしようとしたことが、結局自分の力ではどうすることもできなくなって、大きな迷惑をかけてしまうことがある。

「もっと早く言ってくれればよかったのに」と。

 

あのころの私は大人に気を使っていたんだと思う。大人に迷惑をかけないように、大人の手を煩わせないようにと、小さいながらも精一杯頑張っていたような気がする。5歳の私には、まだまだできないこと、わからないことのほうが多かったはずなのに。

 

いや、すっかり大人になった今も、できないこと、わからないことだらけだ。結局はいくつになっても、できないことをできないと素直に言えるか、わからないことをわからないと素直に聞けるか、本当はそれが人に迷惑をかけないことなのかも知れない。水色のクレヨンが私に教えてくれたのは、「素直になる」ということだったようだ。