まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

オンナに振られたオンナが、苦悩の末にたどり着いた結論

 

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「交換日記」というものを、今の若者たちは知っているだろうか?

一冊のノートにその日の出来事などを日記のように書き綴り、仲間うちで順番に回していくというもの。携帯電話がない時代に流行った超アナログなコミュニケーションツールのことである。

 

私は中学2年生から交換日記をしていた。ある一人の女の子と。

彼女とは中学一年生の時、クラスは違っていたけれど、クラブ活動で一緒になった。特に仲が良かったわけではない。当時女子たちがこぞってやり始めていた交換日記という流行りに乗り遅れたくないという、それだけの理由で、たまたまその時そばにいた彼女とやってみる? っていう話になったのだった。まあ嫌になったらやめればいいしという、お互い軽い気持ちだった。

 

まずは私から書くことになった。学校の帰り道でちょっと可愛い気なノートを調達した。家に帰り表紙に「きょうことあきこの交換日記 No.1」と記し、1ページ目をめくる。そして今日の出来事を綴る。

 

「おかんがさあ、勉強勉強ってうるさいねん。やろうとしてるのに、言われたらほんまやる気なくなる。めんどくさい。黙ってて欲しいわ」

 

「そうそう、電車の中でかっこいい子見つけた。たぶん○○高校やと思うわ。

めっちゃかっこええねん~でもすぐ電車降りるから一瞬しか見られへん」

 

翌朝、学校に着くとすぐ、隣のクラスのきょうこちゃんにノートを渡しにいく。彼女が家に持ち帰り、私のページを読んだら次は彼女の番。

「今日も授業だるかったー。特に数学。もういや。

おかん、わかるわー。うちもおかんウルサイで。うちの場合は勉強よりも食べろ食べろってうるさい。また太った。もういや」

 

そんなたわいもない会話が延々と続く。多い時には2ページ、3ページと。

先生がどうだ、友達がどうだ、彼氏がどうだ、どうでもいいようなことが気になったり、腹立たしかったりするそんな時期に、こうやって吐き出せるところがあるというだけで気持ちいい。

 

私はいつの間にか、この交換日記がものすごい楽しみになっていた。きょうこちゃんはきょうはどんな一日だったのだろう? 私の書いたことに対して、どんなふうに反応してくれるのだろう? それら全てが知りたくて仕方なかった。私は宿題を忘れても交換日記を忘れたことはなかった。ところがきょうこちゃんは、よく書くのを忘れてきた。その度にごめん、ごめん、と言って謝ってくれたし、忘れた分多めに書いてはくれるけれど、私のほうがこの交換日記にのめり込んでいるような気がして、温度差を感じることがあった。

 

そうはいいつつも、私たちは2年、3年と交換日記を続けていた。同時期に交換日記を始めた友人たちは、ほとんどの子が一年もしないうちに辞めてしまっていたにも関わらず。続ければ続けるほど、私はきょうこちゃんのことが好きになっていた。おっとりしていて優しくて天然で、私とは正反対の性格。誰にでも好かれる。そんなきょうこちゃんが羨ましくもあった。相変わらず同じクラスになることはなかったけれど、それがよかったのかもしれない。もっといろいろ話したいのにクラブでしか顔を合わせない。それが相手を知りたいという気持ちを増幅させていた。口では言えないことも、交換日記では遠慮なく言えた。ほかの人には言えない二人だけの秘密も。お互いに友達はたくさんいたけれど、交換日記をしている私たちは、普通の友達とは違う特別な関係、そう思っていた。

 

途中やめそうになりながらも交換日記は高校2年生まで続いた。お互い受験勉強に専念しようということになり、一旦中断ということになった。

 

私たちは大学生になった。別々の大学になって会う回数も減ったけれど、4年間の絆はどんな状況でもしっかりとつながっていると思っていた。ずっとその関係が続くと思っていた。

 

就職して一年も経たないうちに、彼女は結婚して関東に行くことになった。今までのようには会えなくなった。それでも関西に帰って来るときには、必ず連絡をくれた。本当は2人だけでいろいろ話したかったけれど、たまにしか帰ってこないのだからそうもいかない。大勢で出会うことが多くなった。でも私はこう思っていた。離れていても私は彼女にとって特別な存在であることに違いはない。4年間の毎日の交換日記が私にそう確信させていた。

 

きょうこちゃんより5年遅れて結婚した私は、すぐに子供が生まれて子育てに専念することになった。子供がいないきょうこちゃんには、なんとなく連絡しづらくなり、年に一度電話するかどうか、それくらいの頻度になっていた。それでも電話で話すと、まるで昨日も一緒だったかのように自然に話せるのは、やっぱりきょうこちゃんだからだった。やっぱり4年間の絆はずっと繋がっている、電話の度に私はそう確信した。

 

 

気がついたら10年経っていた。きょうこちゃんが久しぶりに帰省するという話を別の友達からきいた。私は驚いた。これまで帰省するときは、まず私に連絡をくれていたのに。友達の方に先に連絡していたというのが正直ショックだった。

その友達が日程も場所も段取りしてくれて、高校時代の仲間で久しぶりに食事をすることになった。

 

10年ぶりに出会ったきょうこちゃんは何も変わっていなかった。相変わらずおっとりしていてますます天然になっていた。久しぶりの仲間と夜中まで語り合った。帰り道できょうこちゃんと二人で並んで歩いているとき、「きょうこちゃん、いつ戻るの?」と聞いてみた。するとまだ1週間ぐらいこちらにいるという。「だったらさ、一度二人で会わへん? 久しぶりにゆっくり話したい」私はそう伝えた。

 

「それがさあ、一週間いるんだけど、母親やお姉ちゃんに会うのも久しぶりだし、姪っ子たちとも出かける約束してたりして、結構忙しくて……でもまあどっかで時間取れると思うから、帰るまでに連絡するね」彼女は言った。

「うん、待ってる」そう返事してその日は別れた。

 

そして私は彼女からの連絡を待っていた。ところが3日たち、4日たっても連絡がない。きっと忙しいんだろうな、でも必ず連絡するって言ってたしもう少し待ってみよう。私たちは特別な友達だし。そう思っていた。

 

明日で約束の一週間という日。まだ連絡がなかった。彼女の携帯に電話をしてみた。留守番電話だった。私は「折り返し連絡をください」とだけメッセージをいれて、彼女からの連絡を待った。ところが、その日の夜になっても電話はかかってこなかった。

 

いてもたってもいられなかった。電話するって言ってたのにどうなってるんだろう? 病気でもしたのかな? 心配になって私はショートメールを送った。

「何かあったの? 心配してます。電話待ってます」

結局その日、彼女からの連絡はなかった。

 

翌日になって、やっと彼女からメールがきた。

「連絡しようと思いながら、忙しくてできませんでした。ごめんね。今回は会えなかったけど、また次回帰省したときに遊んでください。じゃあまた」

 

私はその文面を何度も読み返した。

確かにきょうこちゃんからの返事だった。

でも、それは私が思っていたきょうこちゃんではなかった。

 

連絡すると言いながらしてこなかった。忙しかったのかもしれないけれど、電話の一本ぐらいできただろう。メールぐらいできただろう。私はずっと待っていた。久しぶりに二人で会えると思って楽しみにしていたのに。私からの電話とメールに対する返事も、結局丸一日たってからだった。しかもまた次回ってどういうことよ。もう帰ってるやん! 会えないのなら会えないって、なんであの時言ってくれなかったんよ。待つだけ待ってアホみたいやんか!

 

邪険に扱われたことに対する腹立たしい気持ちと、私はその程度の存在だったのかという寂しい気持ちが、絡み合うように同時に湧き上がってきた。

 

まるで大好きだった彼氏に振られたオンナみたいやな。

ただの女友達やのに。なんなんやろ、この裏切られた感。

 

私のことを特別な存在だと思ってくれている、ずっとそう思い込んでいた。あの4年間の交換日記、二人だけの秘密。遠く離れていても、会わなくても、二人の間には深い絆がずっとあって、それは一生変わらないと思いこんでいた。ところがそう思っていたのは私だけ。

彼女はとっくに変わっていた。

 

私はそんなきょうこちゃんのことをどう受け止めていいか分からなかった。

「わかりました。じゃあまた」とだけ返信をした。

 

それ以降、私は彼女に一切連絡しなかった。自分だけの片思いみたいで悔しかったからだ。彼女からの連絡も年に一度の年賀状だけになった。そこには毎年「今年こそ会おうね」と小さな字で書いてある。それを見るたびに思った。どんな顔して会えばいいわけ? 私は普通の顔をして彼女に会う自信がなかった。私は何のコメントも書かずに印刷した文字が踊るだけの年賀状を毎年送り返した。

 

 

最後に出会ってから5年が過ぎた。月日が経つにつれて、彼女とのことをだんだんと冷静に考えられるようになってきたとき、私はずっと、きょうこちゃんが変わってしまったと思っていたけれど、もしかしたらそれは違っていたのかもしれないと思うようになったのだ。

 

私たちはずっと特別な存在、私は彼女のことを誰よりも理解していると思っていた。ところが、私たちの間にはいつの間にか、交換日記をしていた4年間の何倍もの月日が流れていた。その間にお互い何があったのか、ほとんど知らない。私は、彼女のことを理解していると思い込んでいただけで、実はあの4年間以外、彼女のことは何も知らないのだ。彼女だけが変わったのではない。お互いの住む世界が変わっているにも関わらず、私は過去の思い出だけをずっと引きずって、あたかも今そうであるかのように思い込んでいただけだったのかもしれない。

 

もう今となっては、特別な関係であろうかなかろうが、正直どっちでもいい。それよりも、もしこのまま会わずに人生終わってしまったとしたら、それこそ後悔するよな、と思う。

 

今なら会えると思う。普通に、友達として。

「今年こそ必ず会いましょう」来年の年賀状にはそうコメント入れてみようかなと思う。

 

記事:あおい

 

 

もうヨリを戻すことはないけれど、あなたは素敵な恋人でした

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私はあなたが大好き。私にとってあなたはお守り。どんなときでもあなたがいてくれると思うと、本当に心が安らいだものだ。

 

保育園に通っていた頃、私は高熱を出した。元々体が弱い私は、小さいころからよく熱を出し、何かといえば病院に連れて行かれた。だから、病院に行くのは慣れっこだった。そして、病院に行くとみんなが優しくしてくれて、体も楽になる。だから病院は私にとっていいところだった。

しかし今回はちょっと重症だったようだ。だから、しばらく入院。それはちょうどクリスマスの日だった。入院したのは小児病棟だったから、子供たちのベッドにはサンタがやってくる。何をもらったのかは覚えていないけれど、そのとき撮った写真には、点滴をしながらだるい顔をした私とプレゼント、そしてサンタが写っている。私は高熱で朦朧としていたのだけど、今日がクリスマスでラッキー! プレゼントまでもらっちゃった! と思っていた。この辺はやっぱり子どもだったのだ。今同じことが起こったら、しんどい時に来ないで! ゆっくり寝かせて! ぐらいにしか思わないだろうから。そもそも大人の病棟にサンタは来てくれないだろうけれど。

 

小学校のとき、お腹が痛くてたまらなくなった。横になっていても痛みはおさまらない。食欲もないし、食べても吐いてしまう。なんだかわからない。そこで、また病院へ連れて来られた。ああ、もう安心。だって、ここは病院だもの。この痛みもきっとどうにかなるはず。

結局私は盲腸だった。あっという間に手術台に乗せられて手術室へ。ああ、この丸い照明ってテレビで見たことある……そんなことを思っていると、あっという間に麻酔にかかり深い眠りについてしまった。

起きてみると点滴につながれている腕が見える。ああそうだった、私は手術されたのだった。でも安心。ここは病院だし、あなたもついていてくれるから。

私の盲腸はとても長くて珍しかったらしく、手術後に両親は「ご覧になられますか?」と聞かれたらしい。いや、それは私の盲腸だったのだから、私に見せて欲しかった! と猛烈に思ったことを覚えている。

 

高校生になると、多少は以前より体は丈夫になった。それでも、毎日皆勤という訳にはいかなかった。風邪で高熱を出し、近くの町医者へ連れて来られた。風邪だと診断した医者は「これですぐよくなるから」と言って注射を打った。しかし、その後すぐに私は具合が悪くなり、待合室の椅子に横になったまま動けなくなった。そんな私は、またすぐに病室へ運ばれ、点滴を打たれた。なにこれ? 注射があの量で効くってことは、よほど濃度が濃いってこと? それで今点滴で回復しつつあるってことは、点滴は濃度が薄いから効き目もゆっくりってこと? だったら、点滴の方がいいわよ。これからは、点滴にしてくださいってお願いしよう! そんなことを考えながら、病室のベッドの上でぼんやりしていた。

 

社会人になり、熱を出すことはあまりなくなったが、体調不良で病院にお世話になることは度々あった。

「急性胃腸炎ですね、お薬出しておきますから」

「あの、私ここ2日ほど何も食べられなかったんです、だからフラフラで……」

「じゃあ、点滴して行かれますか?」

「はい!」

 

私にとって、病院はとても安心する場所だった。そして、そこでいつも私に寄り添ってくれる「点滴」は私のお守り。点滴さえあれば、何でも解決するはず! とこの頃、私の点滴への盲信はピークに達していた。「点滴大好き!」とあちこちで公言し、それを聞いた人たちからは「それ、ちょっとおかしいと思うよ」と言われていた。いいの、いいの。誰が何といっても、私にとって点滴は偉大。苦しいとき、つらいとき、いつだって私のそばには点滴がいた。そしてそこから私を解放してくれたのだもの。私には点滴があれば大丈夫。何も怖くないわ。

 

とはいえ、だんだん私の盲信のピークは過ぎ、少しずつほころびが見えてきていた。それでも、心のどこかに点滴をお守りにしたい自分がいたことも事実だ。しかしある日、知り合いの医師がこんなことを言った。

「この間診た患者が、どうしても点滴をしてくれと言うからしたんだよ。点滴が効くとは思えなかったのに、点滴をしたら「先生! ありがとうございます。とても良くなりました!」なんて言って顔色までよくなって。あれは俗にいうプラシーボ効果だよね。その点滴はただの生理的食塩水なのに」

これを聞いて、私は膝から崩れ落ちそうになった。だってそれは、まさに私のことだったから。点滴は万能だと思っていたし、確かに私は点滴後には元気になっていたから。そうなのだ、私はある意味、無意識にプラシーボ効果で点滴を見ていたのだ。だから、お守りになっていたのだ。

 

さすがにこのカラクリが分かったときは、何とも言えない気持ちになったのだけれど、でも今はそれでもよかったのではないかと思っている。なぜなら、そのお陰で今があるのだから。体が弱ったときは心も弱りがちだ。そんなとき、自分にとって安心できるものがあるというのは心強い。科学的に効果のあるなしとは別に、きっとこういう思い込みによって体がよくなることだってあるのではないかと思う。あのまま、今も点滴好きを突っ走っていたら、結構痛い人だったと思うけれど、人に強要などしなければ、それもアリだったかもしれない。

 

人にはどうしても苦しいとき、つらいときがある。

そんな時に何かにすがるのは悪いことなのだろうか? 依存を求めるのはよくないことなのだろうか? 私はそんな時は、思い切りすがって、依存すればいいのではないかと思う。問題は、その状況に慣れきってしまい、いつまでたっても抜け出せないということなのではないかなと思う。

 

ともあれ、私の点滴盲信、点滴依存はこうして幕を閉じた。今はあまり病院に行くこともなくなったし、点滴をすることもなくなった。けれども、何だかちょっといい思い出として私の中残っている。昔の素敵な恋人の思い出みたいに。

 

 

記事:渋沢 まるこ

 

おばさんになって初めて気づいた私が大学に行った意味

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「大学では何を専攻されてたの?」

これを聞かれるのが一番辛い。大学には一応通っていた。4年制の大学に。ところが何も専攻していない。いや、厳密にいうと専攻はあったのだ。ただ全く勉強していないというだけで。文系の大学生なんて概ねそんなものなのかも知れない。私も周りにいた友人たちもほぼそうだった。

 

母親には手に職をつけなさいとしつこいぐらい言われた。ところが彼女のいう手に職とは学校の先生か歯医者か薬剤師、この3つしかなかった。その職種がどうこうというよりも、私の将来を勝手に決めようとする母親の押し付けがいやだった。だいたい大学というものは遊ぶところだと思っていたから、大学に入ってまで勉強する気はさらさらなかった。

私は母親の押し付けを振り切って、思い通り4年制大学の文学部に入学した。

 

 

大学は自由だった。厳しい校則もなければ、授業に出ようがさぼろうが、誰にも何も言われない。授業もとりあえず初めは一通り出てみたけれど、面白いと思うものもなかった。それでも卒業だけはしないと親に顔向けできないから、できるかぎり授業に出ずに、勉強もせずに卒業する方法、それだけを考えて毎日を過ごしていた。授業に出る子に頼んで代返してもらった。試験の前には講義ノートなるものを購入し、それを丸暗記して試験に臨んだ。成績なんかどうでもいい。ぎりぎりでもなんでもいいからとにかく単位が取れて卒業できればそれでよかった。

 

そうやって無事進級し、2年生の後期に入った頃だった。相変わらず授業には極力出ずに、テニスサークルでテニスに明け暮れたり、バイトをしたり、彼氏とデートしたりして日々を過ごしていた。そんなとき友人からどこのゼミに入るのか? と尋ねられた。ゼミって何? ゼミが何をするところなのかもわかっていなかった。当時は各学部に掲示板というのがあって、休校の情報や、大事な連絡事項は全てそこに掲示されていた。ところが私があまりに授業をさぼりまくっていたばかりに、掲示板を見落としていたのだ。気づいたときにはゼミを決める期間がとっくに過ぎてしまっていた。

 

私はあわてて学生課に行って、掲示板を見落としていた旨を説明し、私が入りたいと思っていた日本史のゼミに申込みたいとお願いした。

実はその日本史というのも、入試のときにちょっと日本史を勉強したからというそれだけの理由でとりたてて日本史が好きだというわけではなかった。そもそも文学部という学部を入試の時に選択したのも、女子だから文学部というたいして意味もない理由だ。その文学部の中の数ある学科の中で、日本文学は興味ないし、哲学なんてとんでもないし、心理学もやりたくないし、消去法で残ったのが日本史だった、というそれだけの理由だった。

 

ところが学生課の人は、「もう期限が過ぎていますから無理です」の一点張りで、そこをなんとかといっても絶対に首を縦に振らなかった。そして彼女は最後にこう付け加えた。

「今から入れるゼミがひとつだけあります。」

なんのゼミですか? と尋ねると、「地理です」と彼女は答えた。

 

地理?? 地理だって? 

地理は中学でも高校でも最も苦手とする教科だった。地名とか気候とか産業とか、まったく興味がなかった。今でも関西地方以外は県の位置が把握できていないし、だいたい私は極度の方向音痴だ。

 

「地理なら今からでも入れます」

彼女は私に地理のゼミに入るように勧めてきた。私は気が進まなかった。だって本当に興味がないのだから。それでもどこかのゼミに所属しなければならないと思い込んでいた私は、それ以上彼女と押し問答するのは諦め、仕方なく地理のゼミに入ることにした。まあ大学だし、中学や高校みたいに、地名やら川の名前やら覚えさせられることはないだろうし、まったく興味がなかった世界に足を踏み入れてみるのもいいかもしれない、とそのときはプラス思考でそう考えていた。

 

ところが、初めてゼミに行って、私はすぐに後悔した。

ゼミは私を含めて5人しかいなかった。加えて私以外は全員男子。しかも全員勉強一筋なタイプ。私とはまったく違う世界を生きてきたんだなということが見ただけでわかった。

 

このゼミに、卒業まで毎週通う??

考えただけでも地獄だった。だけど卒業するためには仕方がない。先生はかなりお年を召しておられていて、その道ではとってもおエライ方だったようだけれど、正直何をおっしゃっているのかチンプンカンプンだった。

そんな環境の中、私は卒業までの2年間ゼミに通い続けた。これも全て卒業のためだった。

 

そして私は、無事卒業証書を手に入れ、とある会社に就職した。

 

 

社会に出て半年ぐらい経った頃、私はあることに気づいた。それは、大卒であるかどうかと、仕事ができるかどうかはあまり関係がないということだった。偏差値の高い大学を出ているということは、それなりに一生懸命勉強しているということ、だから仕事もできると思っていたけれど、それは私の勝手な思い込みだった。反対に大学を出ていないからといって、仕事ができないわけでもない。そんなことを就職するまで気付かなかったのも、今思えば情けない話であるが、それなりに受験勉強して大学に入り、嫌なゼミに2年間も通い続けてまで卒業した意味は果たしてあったのだろうか? 私はそんなことをと思いはじめていた。

 

7年間OLとして働いたあと、私は結婚して専業主婦になった。子供が生まれて、私は○○ちゃんのママになった。○○ちゃんのママだから、○○ちゃんについて聞かれることはあっても、母である私のことを聞かれることはない。もちろん大学を出ているかどうか? なんて聞かれるはずもなかった。

 

私はますます考えるようになった。私は何のために大学に行ったんだろう? ○○ちゃんのママになるんだったら、大学なんて行かなくても良かったのではないだろうか? 中途半端に受験勉強なんかしてしまったもんだから、たいしたこともできないくせにプライドだけ高くなって、主婦である自分に満足できず、もっと何かできるんじゃないか、なんて変な勘違いをしてしまう。こんなことなら初めから大学なんて行かずに、さっさとママになっていれば良かったんじゃないか? そんなふうに思うようになった。

 

高い授業料を払って4年間も通わせてもらいながら、ほとんど授業にも行かず、挙句の果てに何のために行ったんだろう? なんて親が聞いたら泣くだろうな。「だから手に職をあれほど言ったのに!」って言われてしまいそうだ。

 

親を泣かせないためにも、大学に行った意味を見つけたかった。ところがずっと見つからないまま20年余たち、とうとう自分の子供が大学生になって、今度は私たちが高い授業料を払う立場になった。

 

娘も息子も文系の4年制大学、私たちの頃よりは厳しくなっているらしいけれど、それでもたぶん勉強はほとんどしていないだろう。それも重々承知の上、4年間かけて、高い授業料を払って、大学卒という看板を買いに行く。相当高い買い物だ。その看板が子供の今後の人生の中で大きく役に立つことがあるのかどうか、私にはわからない。なぜなら私自身が役に立ったのかどうかわからなかったからだ。

 

 

そう思いながら授業料を払い続けてきて、最近になって気づいたことがある。

私は大学卒という看板を手に入れることしか考えていなかった。でも実は看板を手に入れるよりももっと大事なことがあったのだ。それは看板を手に入れるまでのプロセスだった。

 

勉強もしていない、何かに打ち込んだわけでもない、ただなんとなく流れに乗って、周りに合わせて過ぎ去った4年間。楽しくないわけではなかった。けれどあまりに中身がなさすぎた。私が大学に行った意味を見いだせなかったのは、プロセスをすっとばして卒業という結果だけを追い求めていたからだったのではないかと。

 

今、私が子供たちに伝えられることがあるとしたら、看板を手に入れることも大事だけれど、それ手に入れるまでの過程、看板に色を塗ったり絵を書いたりする、その一つ一つを味わい、経験すること、そのほうがもっと大事なんだということ、それだけだ。もしかしたら私が大学に行った意味は、それを子供に伝えるためだったのかもしれない。

 

記事:あおい

喜べない妊婦が後悔の後に手に入れた喜び

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妊婦が嫌いだった。

 

いや、他人が妊婦であってもそんなことは思わない。むしろ微笑ましく思う。

私は自分が妊婦である、という状態が嫌いだったのだ。

 

私には子供が4人いる。双子とかではないから、合計4回妊婦になったということになる。

一人につきたった10ヶ月のその妊婦の期間が、私は苦痛でたまらなかった。

つわりがひどかったのか? というとそうでもない。たぶん軽いほうだと思う。じゃあ妊娠期間に何か問題があったのか? というとそれも違う。至って健康体の妊婦であった。私が苦痛だったのはそんなことではなく、体型が恐ろしく崩れていくことだった。

 

そんなこと妊婦なんだから当たり前だ、と思われるかもしれない。神様から授かった命が宿っているのに、不謹慎だと思われるかもしれない。確かにそうだ。おっしゃるとおりだ。もちろん子供を授かってありがたいし嬉しいとは思っている。だけど、お腹がどんどん大きくなって、乳もどんどん大きくなって、もう最後の方は自分のへそが見えない、という状況まで体型が変化していくことが、私はものすごい苦痛だったのだ。

 

昔ある芸能人が妊娠したとき「卵で産みたい~」と軽そうに言ってたのを見て、この人おかしいんちゃうか? と思ったけれど、初めて妊娠したとき私も同じことを思った。卵だったら、夫も一緒に温められるのに。女ひとりで背負うなんて不公平だ、と。

 

体型が変わっていくと、当然のことながら普通の服は着られない。もちろんジーンズも履けない。今でこそ大型量販店でもおしゃれで低価格なマタニティウエアが売っているけれど、私が出産した20数年前は、デパートの隅っこのマタニティコーナーに、本当に申し訳程度にハンガーにかかっている数着の中から選ぶしかなかった。そのどれもがいかにも「私は妊婦です」と言わんばかりの、お腹を強調するようなふわっとしたワンピース、オシャレとは程遠いくせに値段も高くて、もう少しましなものはないのかと頭を抱えたくなるようなしろものばかりだった。

 

お腹の中で元気に育ってくれていること、それはもちろんありがたいことで、お腹をさすっては赤ちゃんと会話したり、動きを確かめたりして喜んでいるそんな自分と、お風呂に入った時の自分の姿をみて愕然とする自分、妊娠中はそんな相反する自分が常に共存していた。

 

妊婦が嫌いだといいながら、4回も妊娠するのもどうかと思うけれど、生まれてしまえばかわいいからそんなことは忘れてしまう。そしてまた妊娠してあーあ、と思う。

4回やっても嫌なものは嫌だ、自分の妊婦姿だけは好きになることはなかった。

 

 

そして今から10年ぐらい前、もう妊娠することもないだろうという年齢になったころのことだった。ふらっと立ち寄った雑貨屋で、かわいい傘を見つけたので買おうと思いレジに行ったとき、ふとあるチラシが目に入った。映画のチラシである。その映画は「玄牝」(げんぴん)というタイトルだった。タイトルの横に「生まれてくれてありがとう」と書いてある。

 

チラシをよく読んでみると、吉村医院という産婦人科でのお話のようだ。自然に子供を産みたいと願う妊婦たちが全国からやってくるという。チラシを読んでいるうちにものすごく気になってきた。どこで上映しているのだろう? どうやら自主上映らしい。チラシを持ち帰りすぐに問い合わせてみた。すると一ヶ月ぐらい先にはなるけれど、家から車で30分ぐらいの会場で上映することが決まっていた。一緒に雑貨屋に行った友人を誘うと、彼女も行きたいというので、私はすぐに2人分予約をした。映画なんてめったに見に行きたいと思わないのに、まして自主上映の映画なんてこれまで見たこともなかったのに、なぜかこれだけは強烈に見たいと思ったのだった。

 

 

そして映画の当日。劇場は50人程度の小さな映画館だった。予想通り観客のほとんどは女性だ。若い女性が多い。妊婦さんもいた。カップルできている人もいた。私たちのように、もう出産することはないだろうという年齢の人は少なかった。そりゃそうだよね、これから産む人には役に立つかもしれないけれど、もう終わってるもんねと言いながら、直感の思いつきで見に来てしまったことを少し後悔しつつ、映画が始まるのを待っていた。

 

吉村医院は愛知県岡崎市にある小さな産婦人科だった。そんな小さな産婦人科にどうして全国から妊婦さんが集まるのか? 私は不思議だった。その理由が知りたいと思った。

 

映画が始まると、鬱蒼とした森の中にある古びた日本家屋の中で、拭き掃除をしている妊婦さんの姿が映し出された。彼女たちは大きなお腹をかかえながら、板戸を雑巾で力強く拭いている。板戸というのはその名のとおり、板でできた引き戸のことである。となりの部屋との境、今で言うドアの代わりだ。その板戸を上から下まで、膝を曲げたり伸ばしたりしながら力強く拭いている。映像が庭に切り替わると、今度は別の妊婦さんが斧を振り上げ、薪を割っていた。私は信じられなかった。あんな大きなお腹で拭き掃除や薪割りなんて。自分の妊婦時代を振り返ってみて、歩くだけでもフーフーヒーヒー言っていたのを思い出し、絶対無理だと思った。

 

ところが、昔の女性は当たり前にやっていたことらしい。そう言われれば昔の女性は出産の間際まで畑仕事をしたり、洗濯機や掃除機のない中、全て手作業で家事をこなしていたというのを聞いたことがある。そしてお産もその自然の流れの中で営まれていたのだ。

 

吉村医院では、産む前に自然にお産ができる体づくりをしておくことが目的で、拭き掃除や薪割りを取り入れているようだ。その作業は強制ではなく自由参加であるけれど、お産の前後というのはメンタル面でも不安定になりやすいから、そういう意味あいでも、妊婦さん同士交流があるというのはとてもいいことだと思った。

 

そんなことを思いながら、映画を見ているうちに、私はあることに気づいた。妊婦さんが皆、キラキラしているのだ。顔がきれいとか、服がどうとか、そんなことじゃない。顔がつやつやしている。目が生き生きしている。この人たちは、自分が今、世界で一番美しい存在だと思っているのではないだろうかと思うぐらい、溢れてくる自信というか、その様子は私が妊婦だった時とは全く違っていた。それはなんなんだろう? 私と何が違うんだろう?

 

カットが切り替わりお産のシーンになった。彼女も4人目の出産だった。

4人目ということもあるのかもしれないけれど、落ち着いていた。産院の中であるにも関わらず、まるで自分の家にいるように、普通の和室に布団を引いて、周りには上の子供たちがいて、ご主人もいて、みんなで一緒に生まれてくる赤ちゃんを見守っていた。

 

陣痛の感覚が短くなり辛そうな時も、ずっと家族がそばで見守っていた。

そしていよいよ出産というときになって、先生がやってきた。

 

このまま和室で産むんだ。分娩台じゃないんだ。

聞いたことはあったけど、実際に見るのは初めてだった。

 

先生の声に合わせて、彼女はいきみはじめる。

ああーーっ

ふーーっ

 

その声は、叫ぶような声ではなく、優しくて穏やかだった。

 

 

そして生まれた瞬間、彼女はとても満足そうな顔でこういった。

 

「気持ちよかった」

 

え? なんだって? 私は耳を疑った。

お産が気持ちいいなんてあり得ない。痛い、辛い、しんどい。これも生まれてくる子供のため頑張るしかない、そう思って乗り越えてきた。それが気持ちいいって? どういうこと? でも彼女は確かに気持ちよさそうだった。お産はエクスタシーだということを聞いたことがある。その感覚なのか? 私には考えられなかった。

 

一時間半ほどの映画だっただろうか。私は初めから終わりまで食い入るように画面を見続けていた。

 

 

見終わって友人と一緒に車に戻り、エンジンをかけようとしたとき、「映画、よかったねー。どう思った?」と助手席でシートベルトを締めながら、友人が私に言った。

 

「うん、感動したわ。

あんなお母さんに産んでもらった子供は、幸せだろうな……」

そう言った瞬間に、涙が溢れてきて喋れなくなった。

 

 

私は激しく後悔していた。自分が恥ずかしかった。見た目ばかりを気にして、妊婦を嫌がっていた自分が。映画に出てきた妊婦さんたちは、みんな本当に美しかった。キラキラしていた。私と彼女たちの決定的な違いは、彼女たちが妊婦であることを誇りに思っていたことだった。そして妊婦であることを楽しんでいたことだった。

 

私は楽しむどころか、苦痛を感じていたのだ。子供たちに本当に申し訳ない、取り返しのつかないことをしてしまったと思った。できることなら一から妊婦をやり直したい、もう一度妊婦になって、妊婦である自分とちゃんと向き合いたい、そう思った。でも今更そんなことを思ったところでどうすることもできない。それがまた辛かった。

 

おなかの中にいるときに、赤ちゃんはすでに母親の思いを感じ取っているという。私のように妊婦であることを嫌がり、妊婦を楽しめていない母親のお腹にいた子供たちはいったいどんな気持ちだったんだろう、それを想像すると本当に自分が情けなかった。

 

もしかしたら、子供がネガティブなことを言ったりやる気がなかったりするのは、私の妊娠中の思いが影響してるんじゃないか? そんなことを思ったりし始めていた。

 

「子供たちに申し訳ない……私がもっと、妊娠中、ちゃんとしてたら……」

声にならない声で、私は友人に訴えた。

 

すると友人は、私の背中をさすりながら言った。

「大丈夫や、みんなちゃんと育ってるやんか。そんなこと関係ないわ」

 

そしてさらに彼女はこう続けた。

「そんなやわじゃないよ、子供は」

 

そうだ、確かにそうだった。

妊婦時代がどうであれ、子供たちはちゃんと育っていた。

考えてみれば、私のせいでこうなった、ああなった、なんて思うこと自体傲慢だ。私が子供をコントロールして、良くしたり悪くしたり、思いのままに動かすことができるとでも思っているのか。そんなわけはない。子供は子供の人生を、自分で切り開いていくんじゃないか。

頭では確かにそう思っているのだけれど、心のどこかでうん、と言えない自分がいた。

 

 

あの映画から10年ぐらい経っただろうか。子供たちは確かにしっかりと育ってくれた。妊娠中の私の思いなんて全く関係ないかのように。かといって今、妊娠中のことを全く後悔していないというと嘘になる。やっぱり完全に消すことはできない。消せないけれど、その代わりに、私は大事にするようになったことが一つある。それは「今」だ。子供と過ごす何気ない時間、一緒にご飯を食べたり、買い物に出かけたり、ともに笑い、ともに泣き、ともに眠る、そういう小さな日常の一つ一つを大事にするようになった。もちろん24時間四六時中というわけにはいかないけれど、以前に比べれば随分と。あの映画のおかげかも知れない。なぜなら、もう二度と後悔はしたくないから。

 

記事:あおい

 

私をあなたの妹にしてください

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私は長女だ。

だから、ちゃんとしなくてはいけない。おねえちゃんとして、しっかりしなくちゃいけない。

親にも度々言われてきたし、途中からは自分でも無意識に私はそうあるべきだと思って生きてきた。そのことで生きづらいと思ったこともなかったし、そういうものなのだと思っていた。

 

何かイベントがある、となったら私の出番だ。

企画、計画、準備。得意です! お任せください! いかに合理的にみんなにわかりやすく行うか、どこかに行くなら最短時間、最短距離で。トイレ休憩時間やトイレの位置確認もぬかりなく。こういう情報を調べることも大好きだ。まるでパズルのようだから。実行してみてピタッとハマり、思惑通り進んだときのあの爽快感はたまらない。別のパズルを用意しておくことも忘れない。パズルがひとつだけだと、上手くハマらなかったときにそこから先がグダグダになってしまう。だからパターンを何種類か用意しておく。途中でどんなことになっても、たいていのことは想定済みとして進めることができるのだ。私の計画は素晴らしい! 完璧だ! 自画自賛してニヤッとする。

 

他人の計画で行われるイベントなど、少しでも停滞しているところを見つけると、私だったらこんなふうにはしないのに、などと内心余計な批評をしていた。それどころか、主催が知り合いだった場合など、批評家気取りで「こういうときはこうした方がいいよ」なんて完全に上から目線でアドバイスをすることもあった。どれだけ高慢ちきな女だったのか、今考えるとぞっとする。とにかく私は、自分! 自分! 自分! だったのだ。だから、私よりデキる人が許せなかった。明らかに私より段取り良く物事を進められて、スマートにできる人は全員「敵」だった。そういう人がいると、必死にその人のアラを探した。「そうね、あの人はまぁできる方だと思うけどね、でも惜しいわね、あそこがこうだったら完璧だったのに」なんて、またもや上から目線で。向こうの方がデキる人なのは明白なのに。

 

長女としては負けられなかった。

そんなふうにしっかりと認識していたわけではないけれど、根本にはこの想いがあったと思う。「しっかりしているよね」「おねえさんだからね」こんな言葉が何度も何度も頭の中を巡った。そう、私はしっかりしているの。おねえさんなの。だから、コンプレックスになりそうな私よりデキる人とはなるべく距離を置いて生きてきた。私に頼ってくれる人、私が自分ばかりを主張できる人を無意識に選んで付き合っていたような気がする。高校生のとき、それを如実に表すことを言われたことがある。

 

「Nさんて、あなたの引き立て役だよね」

Nさんというのは、その当時、私が一番仲良くしていた友人だった。あの当時は「え? 何言ってるの? そんな訳ないじゃん」と思っていた。本当にそんな自覚もなかった。けれども、今考えるとそういう側面もあったのかもしれないな……と思う。もちろんそれは、お互いのギブアンドテイクがあってのことなのだけれど。私はいろんな情報を集め、提供し、計画、実行する。Nさんはある意味何もしなくていいのだ。私がお膳立てし、彼女はそれに乗ればいいだけだから。私は万能感を味わうことができ、彼女はラクすることができる、というギブアンドテイク。これは、見方によっては引き立て役……ということになったかもしれない。

 

しかし、メッキはどれだけ頑張ってもメッキだ。見る人が見ればすぐにバレる。逃げても逃げても、私よりデキる人は現れる。そのうち、逃げる自分、アラ探しばかりの自分がほとほと嫌になってきた。何だろう、この独りよがりな自分は。こんなことをしていても、ちっとも楽しくない。自分をよく見てみれば、どれだけ井の中の蛙なのかすぐにわかる。

自分の立ち位置をようやく少し自覚した頃、私はデキる人に聞いてみたことがある。

 

「どうしたら、そんなにデキるようになるのですか?」

 

するとその人は丁寧に教えてくれた。最初からデキる人だった訳ではないこと、くだらないプライドを捨てたこと。そして、自分もかなり努力したこと。

そうなのだ、デキる人だって最初からデキた訳ではないのだ。こんな当たり前のことが私には見えていなかった。求めていたものは「うわべ」だけだったのだ。チヤホヤされたい、みんなからすごいと言われたい。そんなうわべだけ。何のためにデキるようになりたいのか、デキるようになってどう活かしていくのか。そんな大事なことをちっとも考えていなかった。

つまり、長女だから……というのも都合の良い私の言い訳だったのだ。長女だろうが、次女だろうが、デキる人はできるし、努力する人は努力するのだ。

 

最近は人のお膳立てに素直に乗ることができるようになった。私だったら……なんて無粋なことはあまり思わないようにもなった。お膳立てに乗ってラクをさせてもらうことが楽しい。自分では考えつかないようなプランが用意されていることだってある。何より、私は自分がやってきたから、お膳立てをすることの大変さだってわかるのだ。だからこそ、それを思い遣ると感謝しかなくなる。

 

ありがたくお膳立てを頂く。そして私もお膳立てをする。

 

どちらがデキるとか、あそこがマズいなんて、そんなことはどうでもいいのだ。だって、私のためにお膳立てしてくれたのだ。もうそれで充分ではないか。私もお膳立てするときは全力でやる。それだけのことだ。

そうは言っても、長女だからしっかり……という思いが今もないわけではない。そう思ったら、私は敢えてこう思うことにしている。

 

「私をあなたの妹にしてください」

 

そうすれば、すんなりとありがたくお膳立てに乗ることができるから。

私はしっかり者であるべき「おねえちゃん」ではなくなるから。

 

 

 

記事:渋沢まるこ

 

 

 

私という存在が彼の中から消えたとき

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「ああん、足が折れた……」

「そんなすぐに、足が折れるかいな」

 

そいう言いながらも祖父は、「じゃあ、ちょっとそこに上がり」といって、私を小さな石段に上がらせると、背中を向けて「はい、どうぞ」という。

私は嬉しそうに祖父の背中に飛び乗る。これが祖父におんぶしてもらう時の作戦だった。

 

祖父は私をよく散歩に連れて行ってくれた。よく思い出すシーンは電車に乗って桜を見に行ったときのことだ。当時5歳ぐらいだったと思う。桜の名所の公園まで駅から15分ぐらいかかっただろうか。子供の足では結構な距離である。歩き疲れると私は例によって「足が折れた」作戦を使った。「明子は疲れたらいつも足が折れるんやな」と言いながら、祖父は嫌がりもせずおぶってくれた。

 

いや、本当は歩けたのかもしれない。実はおんぶをしてもらいたかったのだ。祖父の大きな背中にしがみつくと、嗅いだことのない匂いがした。木の匂いと汗とが入り混じったような独特の匂いが私は大好きだった。そして、一歩一歩踏みしめながら歩く祖父の足どりを背中で感じながらうとうとするのが、なんともいえず心地よかったのだ。

 

祖父は父の実家である徳島県鳴門市に住んでいた。両親が共働きだったこともあり、夏休みはいつも父の実家に預けられていた私は、毎日のように祖父に遊んでもらっていた。

 

散歩ももちろんよく行ったけれど、一番よく覚えているのは海水浴だ。すぐ近くに小さな海水浴場があった。朝起きて朝食を済ませると、祖父はステテコと白シャツ姿で自転車の後ろに私を乗せて、海水浴場まで連れて行ってくれた。祖父は砂浜でいつも体育館座りをして、海で遊ぶ私をずっと見守ってくれていた。

 

毎日のように連れて行ってもらったけれど、祖父は決して海には入らなかった。泳げないわけではないのに、真夏の炎天下に砂浜で見ている方がよっぽど苦痛だっただろうに、「一緒に入ってよ」とお願いしても「おじいちゃんはええわ」といって結局一度も海には入ってくれなかった。その理由は今でも謎のままだ。

 

海水浴から帰ると、庭に植えてあるいちじくの木から実をとって食べるのが日課だった。適度に熟したいちじくの実が毎日いくつも成っていて、私はそれを夢中で食べた。初めて食べた時の衝撃は今でも忘れられない。世の中にこんなに美味しいものがあるのかと思った。いちじくの美味しさを教えてくれたのも祖父だった。

 

もうひとつの大きな楽しみは、家の庭にあった祖父専用の納戸だった。昔船大工をしていた祖父は、その時の工具や材料を捨てることができずに、ずっとそのまま納戸にしまってあったのだ。私はその納戸の中を初めて見たとき、見たこともないような道具や部品がそこらじゅうに乱雑に置かれてあるのを見て、かなり興奮した。「これなに? これなに?」祖父に聞きまくった。祖父は私にいろいろと説明してくれた。私はそこを「秘密基地」と勝手に名付けて、暇なときには一人で納戸の中を物色して、あれこれとわけのわからない作品を作っては想像を膨らませていた。

 

歴史に詳しかった祖父は、寝る前にいつも私に昔話をしてくれた。いろんな武将の話をしてくれたのだけれど、残念ながらほとんど記憶にない。唯一覚えているのは、義経と弁慶の話だった。誰にも負けたことのない弁慶が、京の五条の橋の上で義経に負けてしまうという有名なお話だ。唯一これだけ覚えているのは、なぜかこの話だけは祖父がまるで役者になったかのように感情移入して何度も話してくれたからだった。

 

一緒に住んでいなかったからだろうか、祖父は私をとても可愛がってくれた。

優しい祖父が私も大好きだった。

 

 

ところが小学校高学年になったころから、その関係が少しずつ変わってきた。私が子供から女の子になったからだ。体が大きくなっておんぶしてもらうこともなくなった。一緒に寝てもらわなくても一人で寝られるようになったし、義経だの弁慶だの、そんな話も興味が無くなってしまった。祖父の独特のあの匂いも、残念ながらあまり好きではなくなっていた。

 

毎年夏休みに田舎に行くのは変わらなかったけれど、祖父といるよりは叔母と料理をしたり、裁縫したりする方が楽しくなった。祖父のことを嫌いになったわけではなかったけれど、一緒にいる時間は間違いなく減っていた。

 

 

中学生になると、もう夏休みだからといって田舎に帰ることもなくなっていた。部活もあるし、友達と遊んだりする方が楽しかったからだ。それでも年に数回は、墓参りのために両親と田舎に帰ることがあった。思春期真っ只中だった私は、祖父に会っても特別話をすることもなかった。昔に比べて祖父が老いてきたことには気づいていたけれど、そんなことをまさか口にだすわけもなく、ただ黙って一緒の空間にいるだけだった。

 

 

そして高校一年の夏、私は祖父がちょっとボケてきているという話を母から聞いた。それを聞いたからといって、特に何の感情もわかなかった。一緒に住んでいるわけでもないし、まあ年寄りだしそりゃ仕方ない程度の、まるで他人事だった。

 

ところがその翌年だったか、墓参りで田舎に帰ったとき、私はこともあろうか、祖父を怒鳴りつけてしまったのだ。久しぶりに出会った祖父を。祖父は認知症のため記憶もあいまいである上に、自分の思い通りにいかないことが腹立たしかったようで、理屈の通らないことをしつこく叔母に言い続けていた。始めは黙って側で聞いていたけれど、だんだんと腹がたってきて私が切れてしまったのだ。

「もう、おじいちゃん! うるさいねん! 何わけのわからんこというてるんよ! 黙って言うとおりにしたらええねん!」

 

祖父は黙ってその場に立ち尽くしていた。私は怒鳴ってから「しまった」と思った。そのときは叔母がなんとか取り繕って事態は丸く収まったのだけれど、久しぶりに出会った祖父に久しぶりにかけた言葉がそんな言葉だったことに後悔した。思ったより事態は深刻なんだとその時初めて理解した。

 

穏やかで優しかった祖父が、こんなふうになるんだ……

自分をコントロールできない祖父の姿を見るのが嫌で、私はそれ以来、祖父に会うことを避けるようになった。

 

 

そして高校3年生の春のことだった。祖父の容態があまりよろしくないということは聞いていた。けれどもう祖父のことには何も興味がなかった。はっきり言ってどうでもよかった。女子高生の興味の対象は、ファッション、恋愛、グルメ、それしかなかった。そこにちょっとだけ顔を出し始めた受験生という役割、それでもう頭の中はいっぱいいっぱいだったのだ。だから祖父がそんな状態でも、お見舞いに行こうと一度も思わなかったし、両親もまああなたは受験生だしね、ということで大目に見てくれていた。たいして勉強もしていなかったのに。

 

そしてその年の5月、祖父はついに亡くなってしまった。お通夜、お葬式のため両親が翌日から田舎に帰ることになった。「明子はどうするの?」母に聞かれたけれど、私は行かないといった。「一人で留守番はさみしいから、友達呼んで勉強するわ」と言うと、勉強という言葉にはすぐ機嫌よく反応する母は、それなら家に居なさいといって許してくれた。

 

本当は勉強する気などさらさらなかった。実はもうすぐ祖父が亡くなるであろうということはなんとなく予測がついていた。そうなると、両親は揃って田舎に帰る。当然私も一緒に来るように言われるだろう。その時にうまく理由をつけて私は行かないことにして、友だちを呼んで遊ぼう。受験勉強が始まる前に、高校生活最後の思い出として、夜通し遊びまくって発散するんだ! そんなことをこっそり心の中で決めていて、友人にもそうなった時には連絡するから! と根回ししていたのだ。

 

案の定そのとおりになった。しめしめだ。私はすぐ数人の友達に電話をして、「泊まりで遊びに来て!」と声をかけた。急な誘いにも関わらず、5人の友人が「行く!」と即答で返事をくれた。

 

そして両親が祖父のお葬式に行ってしまったあと、泊まりに来た友人たちと飲んで食べてドンチャン騒ぎをして、恋愛やファッション話に花を咲かせ、朝まで遊びまくった。勉強なんて一ミリもしなかった。「お葬式の日にこんなことしていいの?」と友だちは心配そうに声をかけてくれたけれど、「ええねんええねん」と私は笑い飛ばした。悪いことをしたとかそういう思いは全くなくて、とにかく楽しい2日間だったという、それだけだった。

 

そこから10数年たち、結婚して、子供も生まれて、自分が親という立場になったとき、ふと祖父のことを思い出すことが時々あった。あんなに可愛がってもらったのに、お葬式にも行かず、ドンチャン騒ぎをして、私はなんと薄情な人間なんだろうと自分の浅はかな行動を後悔することもあった。そうは言いながらも、まああの時は私も若かったし、と自分を正当化して、それでいつも折り合いをつけていた。

 

 

そんなある日のことだった。

 

 

「ほら、おいで」

祖父が私に向かって背中を差し出しおいでと言っている。

おんぶしてくれるんだ、と思っていこうとするのだけれど、祖父は私からは届かない高いところにいてどうしてもたどり着かない。

祖父は目に涙をいっぱい溜めてこっちを見ている。

「なんで来てくれへんかったんや。お葬式。待ってたんやで」

 

その言葉を聞いたとたん、私は申し訳ないやら、恥ずかしいやら、今まで隠していた感情が溢れ出した。

「おじいちゃん、ごめん。ごめんやで。なんで行かんかったんやろ。あんなに可愛がってもらって、大事にしてもらって、いろんなとこ連れて行ってもらって、おんぶもいっぱいしてもらったのに。私はあの日、友だちと騒いでいました。おじいちゃんのことなんか思い出しもせず、友だちと遊び倒してました。ああ、行けばよかった。そんなことせんと行けばよかった。ほんまごめん。ごめんなさい」

 

祖父は高いところから、泣きじゃくる私をずっと見ていたけれど、「おじいちゃんのこと、忘れんとってな」そういって消えていった。

 

夢だった。固まって動けなくなるほどリアルな夢だった。私は寝ながら声を上げて泣いていた。

 

 

私が祖父に最後に出会ったのは、怒鳴り散らした時だった。その時私は気づいていた。祖父はすでに私が誰なのかわからなくなっていたことに。

 

私が怒鳴り散らした本当の理由、今ならわかる。それは祖父がしつこくてうるさかったからではない。私のことが誰だかわからなくなった寂しさをどこにどうぶつけていいのかわからずに、怒鳴り散らすという形で表現するしかなかったのだ。その後出会うことを避けていたのも、あれだけ可愛がってくれていた私のことが、彼の記憶の中にはすでになかったということが、17歳の娘にはどうしても受け入れられなかったのだと思う。

私という存在が消えてしまった祖父に出会う勇気が当時の私にはなかったのだ。

 

私はずっと後悔していた。お葬式に行かずにドンチャン騒ぎをしていたことを。最後に出会ったのが、怒鳴り散らしたときだったということも。心の奥の方ではずっと気にかかっていたのだ。だから祖父は現れてくれたのかもしれない。夢の中ではあったけれど、私は祖父に詫びることができた。祖父に届いたかどうかはわからない。許してくれたかどうかもわからない。けれど夢から覚めて意識が戻ったとき、なにかから解放されたような、すっきりした感覚になっていたのは気のせいだったのだろうか?

 

もしお見舞いに行っていたら、お葬式に出席していたら、私は後悔していなかったのだろうか? と考えたこともある。けれど実際のところはそれもわからない。変わり果てた姿の祖父を目の当たりにして、かえって辛い思い出になっていたかもしれない。

 

結局のところ、どっちが正解かなんて誰にもわからないのだ。間違いなく言えることは、「死んだら二度と会えない」ということだけだ。どんなに泣こうがわめこうが会うことは叶わない。そのことだけは肝に銘じよう。生きている間に伝えたいと思ったことは逃げずにちゃんと伝えよう。もう17歳ではなく酸いも甘いも経験した結構なお年頃になっているのだから。

 

記事:あおい

亡くなった彼からのメッセージ

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「昨日、Nくんの家で火事があり、残念ですが彼は亡くなりました」

 

考えてみれば、朝から何だか変だった。通学途中に空き地で、今までに見たことのない数のカラスを見た。気持ちが悪い……。こんな数のカラスがいるのを見たことがない。不吉だ。そう思った。なんだか胸騒ぎがする。だけど、私の思い違いかもしれない。どうしてカラスが沢山いると不吉なのだろう? スズメが沢山いても不吉じゃないのはどうしてなのだろう? カラスは黒いから、そういう理由だけなのでは? 私はたまたま今日沢山のカラスを目撃しただけなのではないのか? 頭の中が少しパニックになって、整理ができなくなっていた。でも、とにかく、彼の机の上には花が置かれている。それは紛れもない現実だった。私は、ただぼんやりとその花を見つめていた。

 

「彼はどんな子でしたか?」

「彼とどんな話をしたことがあるのかな?」

 

ああ、これがドラマで見るあれなんだ。本当にそういうこと聞いてくるんだ。それはテレビの中にしか存在しないことだと思っていた。自分がその渦中の人になるなんて、考えたこともなかった。

マスコミはちょっとした事件であるこの火事を記事にするために取材をしていた。相手はまだ中学生だというのに。こんな時にあんな質問してくる? デリカシーがないよね? それは中学生でもみんなが思っていることだった。

 

下校途中にNくんの家はあった。なんだかんだ言っても現場を見たいという気持ちがあり、学校からの帰りに現場に寄った。住宅街の中に黒焦げの家が見えてくる。焦げた臭いがする。

この家で彼は火事に遭い、どんなことを思ったのだろうか? 熱かっただろうか? 苦しかっただろうか? 考えれば考えるほど辛くなった。

その後もどんどん噂は耳に入ってくる。「夜中なのに、親は家にいなかったらしいよ」「近所の家の人は、何度も「助けて」という声を聞いたらしいよ」「保険金が沢山払われるらしいよ」どれが本当なのか、嘘なのか知るすべもなかった。

 

あのとき、私は中学一年生だった。

Nくんとは同じクラスで、行っていた塾も同じだった。でも、特に仲が良かったわけでもなく、むしろ、あまり話をしたこともなかった。とはいえ、私にはやり残したことがあった。実は、少し前に彼からラブレターをもらっていたのだ。そして、返事はしていなかった。だから、私はとても複雑な気持ちだった。私は彼のことをどう思っていたのだろう? そうは言っても、あまり彼のことはよく知らないし……。でも、返事はしておけばよかった。もう彼に会うことはできない。

クラスでは、どうしてそういうことになったのかわからないが、全員で千羽鶴を折ることになった。どうしてこんなときに千羽鶴なのか、よくわからないけれど、無心に鶴を折って、やるせない気持ちをどうにかしたかったのかもしれない。

私は返事を折り紙に書くことにした。

 

「お手紙ありがとうございました。あなたのことは、いい人だなと思っていました」

 

何を書こうか悩んだ挙句、こんなことしか思い浮かばなかった。これを折り紙に書き、鶴を折った。とにかく彼に返事をしなければ。私は鶴に答えを託したのだった。それが彼に届いたのかどうか、わからないけれど。

 

それからしばらく経ち、その間にクラスの中から彼の机が撤去された。毎日の勉強やテスト、部活など、私たちは日々の生活の中で彼のことは少しずつ記憶から薄れていった。

 

実力テストが近づいていた。コツコツ型ができない私は、夜中まで起きて必死に暗記しようと、自分の部屋で机に向かっていた。暑い時期だったので、窓は全開。しかし、田舎なので夜になるとひんやりと涼しい風が入ってくる。山の中、というわけではないけれど、住宅密集地帯でもなく、夜中なので人通りもない。窓を開けていても、しーんと静まり返っているだけだ。そんな中、私は必死に机に向かって格闘していた。

 

ん? 何か聞こえる。耳をそばだてて聞いてみると、窓の外からとてもへたくそなリコーダーを演奏する音がする。とぎれとぎれで、通してきちんと弾けていない。へったくそだなぁ。

そこで私はハッとした。いやいや、ちょっと待って。今は夜中の2時。こんな田舎で、外でリコーダーを演奏する人なんて考えられない。それに、とぎれとぎれだけれど、あの曲……。それは、以前音楽の授業で、リコーダーの授業で習った「聖者の行進」という曲だった。

 

言っておくが、私にいわゆる霊感のようなものはない。見えたり、聞こえたりなんてことはない。だけど、あのとき確かに私はリコーダーの音を聞いた。とぎれとぎれだけれど、一生懸命に練習している音。そして曲は間違いなくあの曲だった。

私は怖かったけれど、まさか……と思って勢いよく窓の網戸を開けた。そして暗い窓の外を凝視した。しかし、私の視界に人の姿はなく、音も聞こえなくなってしまった。

 

そんなことは、あのとき一度限りだった。

けれどあれ以来、街中で「聖者の行進」が流れてくると、必ずNくんのことを思い出す。

なんだか怖いような、そうでもないような不思議な気持ちになるのだけれど、あの夏の日、彼は折り紙の中の手紙の返信を読んだよ、と言いに来てくれたのではないかなと思っている。

 

 

記事:渋沢まるこ