まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

それは、ある日突然に

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携帯電話には、かなりの着信履歴が残っていた。それは、夫からのものだった。

 

平日の昼間、仕事をしているはずなのに、お昼休みの時間でもないのに、この履歴の量は尋常ではない。何かあったのだろうか? 私はすぐに折り返した。

「何かあったの?」

「死んだ。お母さんが……」

と夫は言った。私は

「ふざけたこと言わないで。本当は何なの?」

と言いかけたけれど、やめた。でも、ありえないから。にわかには信じられなかった。

 

自分も歳を重ねてくると、親の死がチラチラと頭の中をよぎることがある。

 

うちの両親は、というよりも、うちの家族は全員が弱い家だった。全員が何かしら病院にお世話になることが多かった。通院だけでなく、入院もたびたびあった。私も幼い頃からよく病院に連れて行かれものだ。今考えてみると、両親は、特に母は病院が好きだったのだろうと思う。好き、もしくは安心や落ち着きを覚えていたのではないかなと感じることがある。だからなのか、今も病院と施設を行ったり来たりしている。

それに対し、夫の家族は病院などほとんど行かない様子だった。むしろ、病院は嫌いといった感じがした。以前夫が入院することになり、彼が準備した荷物の中を覗いて驚いた。そこには、CDや本などがぎっしりと詰め込まれてあったからだ。彼の中では暇な入院生活をどうやり過ごすか? といったことしか頭になく、着替えが必要だなんていうことは考えられなかったようだった。私は入院するならこれと、あれと……といった感じで必要なものがすぐに思い浮かぶということがすでに体に染みついており、そんな自分に苦笑いしたものだ。

 

そんなわけで、親の死を考えるときはいつもウチが先だと思っていた。入退院を繰り返す親といつも元気な親。違いは明らかだったから。

なのに、夫の母が亡くなるなんて、夫がふざけているとしか思えなかった。しかし、電話口の声を聴いていると、これはおふざけではない、現実なのだとわかった。

どんな状態で、どんなふうに亡くなったのか? それで、私はどうしたらいいのか? 夫に聞いてみても釈然としない。夫も実家から電話があっただけで、全容を把握しているわけではなかったのだ。突然自宅で亡くなったので、これから警察も来るという。ざわざわとした心持ちのまま、私は携帯を握りしめてその場に佇むしかなかった。

 

お義母さんは文字通り、義理の母だ。夫の母、お姑さん。世間的には嫁姑問題といわれるくらい、仲が悪くて当たり前みたいに言われるが、私はお義母さんから何か嫌なことを言われたという記憶が全くない。もし同居でもしていたら、もっといろいろバトルなどがあったのかもしれないけれど、家も電車で2時間くらいかかるところにあったし、会うのはお盆とお正月くらいで、その他の接点はあまりなかった。だからお義母さんと腹を割って話したと感じたことはないけれど、私にとってはとてもいいお義母さんだった。

会えば「ウチのバカ息子は返品がききませんからね」とか「うちの子、ちゃんと家事してる?」とか私を気遣うようなことばかり言ってくれた。もしかしたら、いや、もしかしなくても、心の中では私のことで気に入らないことが沢山あったと思う。でも、そんなことは微塵も感じさせないお義母さんだった。それは、実の子どもである夫に対してもそうだったようだ。「あれはするな」「これはするな」と言われたことはあまりないらしい。息子のことが可愛かっただろうに、いや、可愛かったからなのか、私が知る限りでもほとんど干渉しないお義母さんだった。それでも、たまに息子の好物を送ってくれたり、近所の野良猫に息子の名前をつけたりしていて、本当は息子が大好きなのだろうなと感じていた。夫は親戚の人にも「あんたのお母さんは、息子がなかなか帰ってこないから、とうとう野良猫にあんたの名前をつけたのよ」と言われていた。

亡くなったあと、もっと実家に帰っていれば……、もっと話を聞いてあげればよかった……、などと夫は後悔していた。私は、だから何度も言ったじゃん! と思ったけれど、さすがに口に出しては言えなかった。きっとこれが、よく言われる親孝行したいときには親はなしということなのだろうと思ったから。

 

お義母さんは、その日の朝、洗濯を干していたそうだ。

そのあと、何だか調子が悪いから横になると言って布団に横になり、お昼にお義父さんが様子を見に行くと冷たくなっていたそうだ。

 

本当にあっけない亡くなり方だった。長らく病院に入院していた、というようなことがあれば、こちらも心の準備ができる。しかし、朝洗濯物を干していた人がお昼には亡くなっているなんて、ありうることだけれど、なかなか想像しがたい。

お義母さんの命日が近いからなのか、何だかこんな話を書いてしまった。

月並みな言葉だけれど、やっぱり会いたい人には会っておこう。照れとか恥ずかしさなんて取り払って、言いたいことも言っておこう。やりたいことは全部やっておこう。この話を書きながら、改めてしみじみとそう思った。

 

記事:渋沢まるこ

亀の死は、いつかどこかの私から今の私へのメッセージだった。

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亀が死んだ。

 

次男が可愛がっていた小さなミドリガメ

4~5年前、彼が小学校4年生の時、用水路で見つけて我が家に連れて帰って

きた。

「名前、どうしよかなー」と悩んでいる次男に、「亀やから亀吉でいいやん」

と安易なネーミングを提案したのは私だ。

 

最初は嫌がっていた次男も、いつの間にか「亀吉」と呼ぶようになった。

水槽の中で、気持ちよさそうに泳ぐ亀吉。近寄って水槽をトントン叩くと、寄っ

てきて水面から顔を出す。餌を投げ入れると、首を伸ばして上手に口でキャッチ

する。

 

声をあげるわけでもなく、愛想をふりまくわけでもないが、こちらが近づいて

いくと、ちゃんとそれなりの対応をしてくれる。

そんな亀吉を、私は特別かわいいと思ったわけではないけれど、生き物を飼うと

いうことは、最後まで面倒を見るということ、キミが責任を持ってお世話するん

やで、とそれだけは次男に念を押した。

 

というのも過去に長男がカエルを二匹捕まえてきたとき、ちゃんと世話をすると

いいながら餌もやらずに放置したあげく、最後には共食いをして死ぬという悲惨

な光景を目の当たりにしたことがあったから。次男の性格上、そんなことには決

してならないとは思うけれど、それでもしつこく言わずにはいられなかった。

 

そのいいつけを守って、次男はちゃんとお世話をした。

毎日餌をやるのはもちろんのこと、亀吉の住環境をよくするためにホームセンター

の亀用品売り場に行っては、水を濾過するためのフィルターやら、亀の遊び道具

やら、様々調達してきた。定期的に水を入れ替えたり、水槽の大きさを大きくし

てみたり小さくしてみたり、亀一匹にそこまでしなくてもいいんちゃうん? と

思うこともしばしばあったけれど、まあ本人が楽しくやっているならそれでいいか

と思い、あえて口出しはしなかった。

 

亀吉が甲羅の病気になったときも、ネットで治療方法を調べて、日光浴させたり、

薬をつけたりして献身的にお世話をしていた。そんな様子をそばで見ながら、

私は一切手出しをしなかった。

私にとっての亀吉の存在は、次男が大切にしている生きもの、そういう位置づけ

にしか過ぎなかったのだ。

 

 

「亀吉が死んだ……」

仕事から帰った私に、小さな声で次男が言った。

彼の手の中には、動かなくなった亀吉がいた。

 

 

 

えっつ……

 

信じられなかった。

だって、「鶴は千年、亀は万年」っていうやん……

私は心の中でつぶやいた。

 

 

もともと亀という生き物は、そんなに俊敏に動くわけではない。

もしかして眠ってるだけちゃうの? と次男に問いかけてみたけれど、

これから夏に向かおうとしているこんな時期に冬眠する訳もなく、

甲羅をちょんとつつけば、反応して首を出したり入れたりするはずなのに、

首はひっこんだまま動く気配もない。

 

どうやら、死んでいることは間違いなさそうだった。

 

 

 

ほんまに、死んでる……

その瞬間、涙が溢れてきた。

 

 

 

 

え? 何泣いてるん、私。

だって、あんた、別に可愛がってなかったやん。

 

週に一回、様子を覗きに行くかどうか、その程度の存在やったのに、

何泣いてるんやろ、私。

 

自分が泣いている理由が謎だった。

確かに年齢とともに、涙もろくなっているのは否めない。

だけど、亀が死んだぐらいで、こんなに泣く?

 

自分の不思議な行動を客観的に眺めているもうひとりの自分。

 

そんな私をよそに次男は、しばらく呆然と立ち尽くしていたものの、

「お墓作るわ」といって庭に穴を掘り始めた。

 

動かなくなった亀吉を、丁寧に木の葉で包み、土をかぶせ、目印の棒を立てた。

手を合わせる彼の横で、私も一緒に手を合わせた。

 

次男はそのあとも涙ひとつこぼさず、亀吉が今日まで住んでい水槽を洗い、不要

になった亀吉の遊び道具を処分し、最後のお世話を完了させた。

彼が冷静であればあるほど、私の涙は奇怪なものに見えてきた。

 

 

可愛がってもないくせに、なぜあんなに泣けてきたのか?

泣くことに理由なんてないのかもしれないけれど、私はその理由を知りたくなった。

 

そして、私は考えた末、こんな結論を導きだした。

私は息子の悲しみを先取りしていただけだったんだ、と。

息子があれほど可愛がっていた亀が亡くなって、さぞかし彼は悲しんでいるだろ

う、落ち込んでいるだろう。

「子供が悲しむのを見て悲しむ親の構図」だ。

 

ところが、思ったより子供は冷静だった。

だからこそ余計、違和感を感じてしまったのだ。

 

勝手に思い込んで、先取りして、

まるで一人ツッコミ、一人ボケ、しかも誰も見てない一人芝居だ。

 

いずれにしても、次男がそれほど落ち込んでいないのなら、

これ以上深追いする必要もないか……

 

そう思って、この亀の一件に関しては、それ以上追求するのをやめた。

 

 

 

それから1週間後のこと。

知り合いの占い師に、今後の運気を見てもらっているときのことだった。

彼女いわく、これまでも概ね、運気の流れに従って行動できている、

だからこれからも、何も心配することはない、ただ、カラダだけには気をつけて、

と。

 

 

そう、自分でもそう思う。

夫はマジメに働いてくれている。子供たちも大きくなって、特に問題もない。

食べるものもある、住むところもある、着る服もある、

好きなことやらせてもらっている、

なのに、ここ数年の焦り。この焦りはなんだ。

 

年齢のせいもあると思う。

今のように動ける時間はあまりないと思っている。

だからこそ、何か早く結果を出したい。まだまだ、今のままではあかん。だから

焦る。

 

 そんなことを話していたとき、

「じゃあ、最後にカード引いてみましょうか?」と彼女が言った。

 

そこにあったのは79枚の禅タロットカードだった。

彼女は慣れた手つきで、そのカードを私の目の前に広げてくれた。

 

「どれでもいいので、左手で一枚引いてください」

 

私はそっと一枚のカードを手に取り、表を向けた。

 79枚の中から直感で選んだカード、それは「亀」のカードだった。

そこには、遠くにある虹色の美しい光を求めて必死で進もうとしている亀の姿

があった。絵の下には、英語で「SROWING  DOWN」と書いてあった。

 

彼女がカードの解説をしてくれた。

「この亀は、遠くにある虹色の美しい光を求めて必死で進もうとしています。

でも、よく見てください、この亀の甲羅を」

 

 

私は、あっつ、と声を上げた。

 

 

その亀の甲羅は、はるか遠くにある虹色の美しい光と同じ色をしていたの

だった。

 

「この亀は、すでに持っているんです。虹色に輝く光と同じものを。

だけど、そのことに気づかずに、先を見て必死に進もうとしている。

もう持っているんですよ。それに気づきなさいってことじゃないでしょうか」

 

彼女にそう言われたとき、私の目の前に、

次男の手の中で動かなくなってしまった亀吉の甲羅が、フラッシュバックした。

カラダの中から、言葉では表現しがたい痺れるような感覚が湧き出てきた。

 

亀吉が死んだ時に泣けてしまった理由を、「子供が悲しむのを見て悲しむ親の

構図」だといいながら、何か違和感を感じていた。

そうではなかったんだ、とその時思った。

 

 

パラレルワールド、という言葉をご存知だろうか?

私自身、その解釈について詳しく語れるほどの知識を持ち合わせていないのだ

けれど、

 

もし、もしも、

今私が住んでいるこの世界は、無数にある世界のうちのひとつにすぎなくて、

 その無数の世界のあちこちにいる「私」という存在が、どこかでつながってている

としたら、その存在からのメッセージを様々な形で受け取っている、ということも

あり得るのではないかと。

 

 

もしかしたら亀吉は、私がすでに「虹色の甲羅を持っている」ということを、

死をもって伝えようとしてくれていたのではないだろうか?

そして、そのメッセージを亀吉に託したのは、どこかの次元にいるいつかの私。

 

 

 こんなSFのような話、他人からしたらバカバカしくて聞いていられないかもし

れない。 映画の見すぎもしれない。亀のカードを引いたのは、単なる偶然、そう

かもしれない。 

でも、それでもいいのだ。なぜなら、あの時の涙の理由が腑に落ちたから。

そう信じてそれで私が幸せなら、それでいいではないか。

 

 

たぶん、亀のカードを引いただけでは、私は納得していなかったと思う。

それだけでは、焦る気持ちを抑えられなかったと思う。いろんな言い訳をして、

無理をし続けていたかもしれない。

 

 

大丈夫、焦らなくてもいい。

あなたは既に持っている。

だから もっと大事にしなさい。

自分の命を大事にしなさい。

 

どこかの次元のいつかの私からのメッセ-ジ。

 

しっかりと受け取って、今すでにある自分の甲羅を磨いていこうと思う。

 

記事:あおい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人見知りは、かなりの傲慢だった

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人見知りは、実は傲慢なのではないかと思う。

 

今でこそ私の人見知りもだいぶ緩和されてきたけれど、昔は「超」がつくほど人見知りだった。幼い頃、公園で遊んでいる何人かの子どもを見て、仲間に入れて欲しいと思ったけれど、私にできることは遠くから羨ましい顔で眺めることだけだった。心の中では「早く気づいて! 私がここで見ているでしょう? 一緒に遊ぼうと誘って!!」と必死に訴えていた。

その目に見えないアピールが届くこともあるけれど、もちろん届かないことも多かった。「ひとことでいいから! 一緒にやる? と言ってくれるだけでいいから! そうしたら、すぐにそこに入るから!」頭の中ではこんなセリフが次から次へとあふれ出ていた。そんなに遊びたいなら自分から言えばいいのに、と今なら思う。けれども、あの頃はどんなに心の中で叫んでいても、行動に移すことはできなかった。

今でもたまに小さい子どもが、あの頃の私と同じように羨ましい顔で見ている姿を発見することがある。それはとても微笑ましく見える。

 

私は「人見知りというのは奥ゆかしさでもある」と考えていたところもある。出しゃばりたくても、出しゃばれない、出しゃばらない。周りの空気をしっかりと読み取って、みんなが気を悪くしない程度に少しずつ自分の要求も出してみる。そんな奥ゆかしさを持っている人が人見知りなのだ。そう考えていた。

 

私が行くことにした高校はとても田舎の高校だった。もちろん受験はあるのだけれど、ほとんどの生徒が幼稚園、小学生の時から一緒というような高校だった。その中に、誰も知り合いがいない私が入学したのだ。完全にアウェイな場所に入っていくことになる。私はまたここでも心のアピールをした。「誰か話しかけてよ! 私には誰も知り合いがいないのよ!」程なくして、そのアピールを感じ取ったのか、一人の子が話しかけて来てくれた。

「一緒にお昼食べない?」

それからようやく少しずつ高校生活に慣れて行ったのだった。

 

人見知り……と言っても、程度の差が結構あるのかもしれない。ということを知ったのはかなり大人になってからだ。どう見てもあなたは人見知りではないよね? と思う人が「私も人見知りだよ」と言うのだ。いやいやいや、そんなわけないから! と否定してみたけれど、それは私が思うことなのであって、その人自身は人見知りだと感じているのだ。誰が何と言おうと、本人がそう感じていれば、それはもうきっと人見知りなのだろう。

人見知り……と一口に言っても、軽度から重度まできっと様々な人見知りがいるのだと思う。だから、私だって他人から見れば到底人見知りだとは思えない! と言われることだってありうるのだ。

 

私は大人になるにつれ、沢山の人に会うにつれ、人見知りが少しずつ解消されていった。

知らない人にこちらから話しかけるなんてことは、昔は全く考えられなかったけれど、随分とできるようにもなった。そうなってくると、ある日私は冒頭のことを思ったのだった。

 

人見知りは、実は傲慢なのではないか?

 

奥ゆかしいなんて言って美化していたけれど、結局のところ完全な受け身だった。自分は声掛けなどしないまま待っているだけで、相手にどうにかして欲しいと思っていたのだ。

みんな最初はどんな形であれ、たいていは緊張するものだ。声掛けしてみて、素っ気なく返されたらどうしよう、断られたらいやだな、嫌われたらいやだしな……と思うのだ。けれども、第一声を掛けるということは、その壁を乗り越えるということなのだ。人によってその壁の高低はあるかもしれないけれど。私は、人見知りだから……という言い訳を使って、無言で相手に圧力をかけていたことになる。あなたが動きなさいよ! 私は人見知りなの、だから私はこのまま待ってるから。声掛けしてくれたら、ちゃんと答えるから。

無意識であったとはいえ、自分は全く動かず、相手に動いてほしいと思っているということは、やはり傲慢だったのではないだろうか? 私は、自分だけが人見知りで、相手はそうではないと「勝手に」思っていただけだ。壁を乗り越えてゆく勇気がなかった。壁を乗り越えて、万が一断れたら、私は傷ついてしまう。だから傷つきたくなかったのだ。傷つくリスクを自分は負わず、相手に負わそうとしていたのだ。これが私の人見知りの正体だった。

 

私は自分の人見知りの正体を知って、ようやく少し大人になれたのかもしれない。リスクを自分でとるということもようやくできるようになった。私は「人見知り」という自分に都合のよい言い訳をつかって、いままでどれだけの人に甘えてきたのだろうか。どれだけの人に無言の圧力をかけてきたのだろうか。それでも、リスクを冒して、壁を越えて来てくれた人たちには感謝しかない。本当にありがたい。いい歳してやっと気づいたなんて恥ずかしいけれど。その上で私はこう思うのだ。

 

待ってて! 今度は私がリスクを冒して、壁を越えてゆくから!

 

 

記事:渋沢まるこ

「スッピンでごめん」からの卒業。

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「すっぴんでゴメン……」

 

最近の私は、人に出会ったとき必ずこう言ってしまう。

すっぴんがまるで悪いことであるかのように。

 

私は今化粧ができない。

肌が荒れているからだ。

 

いや厳密に言うと、ずっと肌は調子よくなかった。

でも化粧してごまかしていたのだ。

 

社会人になってからというもの、私は出かけるときには必ず化粧をした。

 歩いて2分の近所のスーパーに行く時でさえも、すっぴんでは行けなかった。

スーパーに行くために化粧をした。

 

「化粧をせずに外出する」ということは、私の中では考えられないことだった。

それは服を着ないで外出するのと同じぐらい私にとっては恥ずかしいことだった。

 

といって、化粧が好きで好きでたまらないのかというとそうではない。

どちらかというと面倒だししたくないと思っていた。

スベスベお肌の人がほぼすっぴんで外出しているのが羨ましかった。

 

私も肌がきれいだったら、メイクしないのに……

いつもそう思っていた。

 

 

ところが今、私は肌が綺麗なわけでもないのに、すっぴんで出かけざるを得ない

状況に陥っている。といっても、自分で望んですっぴんで歩いているわけではない

から、隠せるものなら隠したいと思っている。

 

だからサングラスは欠かせない。

電車に乗っても、建物の中に入っても、サングラスは外さない。

本当はサングラスなんて大嫌いだ。だってカッコつけてるみたいだし、

顔の真ん中にずっと鎮座しているなんて、不自由極まりない。

でも外したら、荒れた肌が丸見えになる。だから少々不自由でも我慢する。

 

が、さすがに人に会うときに、サングラスをしたままというわけにはいかない。 

だから、謝ってしまうのだ。

あなたに出会う日に、こんな顔でごめんなさい。

まるで何か汚いものでも身につけてきたかのように謝ってしまうのだ。

 

出会った相手は、そう言われて、一瞬お気の毒に、といった表情を浮かべる。

でもその先はだいたい、何事もなかったかのように話が進んでいく。

 

 

そうなることはわかっているのに、つい謝らずにはいられない自分。

 

 

そんなある日のこと、出会った方にまたいつものように「すっぴんでごめんね」

と謝ったのだけれど、翌日彼女から届いたメールには

こんなことが書いてあった。

 

「すっぴんのあおいさん、ステキでしたよ。

お化粧できないってこと謝らんでいいのに、と思ってました!」

 

ス・ス・ステキ???

 

なにかの間違いじゃないの?

 

でも確かにそう書いてあった。

 

 

 

 

そうなんだよね。

相手は、たぶん全然気にしていない。

もしかしたら、私が「スッピンでごめん」といわなければ、

そんなものだと思って受け止めてくれるのだと思う。

 

なのに私がわざわざ、「ごめん」なんて申し訳なさそうにいうもんだから、

相手もそれに合わせて、気の毒そうな表情をしてくれているだけなのだ。

 

 

謝らんでいいと言われているのに、なぜ謝る?

 

 

それは、今の自分を大切に思ってないからだ。

 

こんな自分でもいい

こんな自分も大好き

こんな自分も愛しています

心の底から思えていないからなのだ。

 

 

 

 

「その肌荒れは、自分に対する怒りだ」とある人に言われた。

確かにそうかもしれないと思う。

「なんでもっと、自分を大事にできないの??」

って自分に怒っているのだ。

 

 

いや、私は大切にしてきたつもりだった。

人様にもそう伝えてきたし、自分にもそうしているつもりだった。

でもそうではなかったようだ。

 

自分を大切にしてね、ってお伝えしているうちに

自分のことが置き去りになっていたなんて……なんということだろう。

 

 

どうやったら自分を大切にできるのか?

自分を大切にする方法が、今わからなくなってしまった。

 

 

 

「そんな顔でも

あなたはあなたを愛しますか?」

 

神様から突きつけられた誓いの言葉。

 

 

今はまだ、イエスとは言えない。

 

 

そんな私に今、できることがあるとしたら、

「すっぴんでごめんね」と言わないこと。

 

彼女からもらったありがたい言葉をしっかりとココロに刻み、

すっぴんでも前を向いて歩いていくこと

だって、私という存在には何ら変わりはないのだから。

 

 記事:あおい

  

 

私の真似しないでよ!

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あれ、私が見つけてきたのに……真似された。

あの人、私が見つけてきたのに……。

 

こんなことがよくある。その度に私は、どうして真似するのよ! 自分で見つけなさいよ! なんて思っていた。だって、私はいつもアンテナを張り巡らせて、苦労して見つけてきているというのに、それをいとも簡単にコピーして、楽々と使っているからだ。許せない! あなたももっと苦労しなさいよ! そんなふうに思って、イライラしていた。こんなことは一度だけではない、何度もある。どうしてこんなこと……。

 

だが、結局のところ、私は認めて欲しかっただけなのだ。あなたってすごいわね。こんなことを見つけられるのね。そう言って欲しかったのだ。そして、あなたが見つけたこれ、使わせてもらってもいいかしら? なんて、お伺いを立てて欲しかったのだ。なんたるエゴ。我ながら、王様気取りのこのエゴに冷ややかな視線を送らずにはいられない。どれだけ持ち上げて欲しいのか。どれだけ承認欲求に底がないのか。底なし沼のエゴに吐き気がする。

 

大体、私が見つけてきた、なんて思っているものも、誰かの真似なのだ。自分だけのものだなんて思いこんで、抱え込んでいる自分のうつわの狭さを思い知った方がいい。自分だって真似やコピーだらけではないのか? 私は本当に一から、いや、ゼロから作り上げたと言えるものなんて持っているのだろうか?

考えてみれば、世界中コピーだらけだ。ブランド品のコピー。有名なものの、有名な人の、有名なフレーズのコピー。そんなコピーまみれの世界に住んで、コピーだらけの自分のくせに、コピーのコピーにイライラしているなんて、もはやこれはコントだ。そう思うと、何だかあまりに小さい自分に泣けてくる。どれだけ小さくて、心狭い人間なのか。小さすぎて泣ける。けれども、そんな小さい私のコピーをさらにコピーしたいと思う人がいた、ということなのだから、むしろありがたいことなのかもしれない。私には、沢山のコピーの中から、ある程度使えそうなものを見分ける目があったということかもしれないのだから。

 

そもそも、私は何のためにコピーしようと思ったのだろうか?

それは、より良くしたいと思うからだ。使いやすく、面白く、見やすく。改善したいと思うから。いいものがあれば取り入れたい。そして、その先を見たいから。そうなのだ、私は、コピーして、その先を見たいと思っているのだ。まだ見たことのない、新しい風景を。

 

圧倒的な大自然。そんな風景を見てみたい。そう思ってはいても、実際に見に行くということは少ない。プチ自然でお茶を濁すこともある。しかし、あまりにも圧倒的で見たことがない風景というのは、実際にその場に行っていなくても、写真だけでも衝撃を受けることがある。すごい! こんなところがあるのか! こんな景色があるのか! 同じ地球上に住んでいるというのに。

ある意味、私がその先を見たいと言っているのも、これに近いような気がする。できれば自分の足で行ってみたい。その風景を見てみたい。こういう気持ちはあるけれど、なかなか行けない。そんなときに、実際に行ってその映像なり、写真なりを見せてもらえると、少しだけ気分が味わえる。その風景を見せてもらえる。もちろん、実際に行って見るのとは大違いだろうけれど。

 

その風景を見たいということが一番の目的であるならば、大自然のように誰かに行ってもらうというのも一つの方法だ。誰かと一緒に行く、みんなで一緒に行くといった方法もある。行き方は、見方は、多種多様なのだ。それなのに、いつの間にか私は行き方は一つだけだと思い込んでいた。私が行かなくては見れない。一人で行くしかない。それしか方法はない、と勝手に思っていた。しかし、その先を見たいということが目的なのであれば、行き方はどんな方法でもいいのだ。これも結局のところ、私の真似しないでよ! と同じ思考だったのだ。

私の開いた道を通らないでよ! 私の後からついてこないでよ! 自分で道を切り開きなさいよ! 道はこの道しかないのよ。

しかし、実は私だって誰かが切り開いてくれた道を歩いている。しかも、あたかも自分が見つけたような顔をして。

 

そんなに真似をされることが嫌ならば、そんなに後からついて来られるのが嫌ならば、全部やめてしまえばいいのだ。確信犯で誰かの真似をし続け、誰かの後を追えばいい。と考えてみたけれど、実際は今自分がやっていることそのものだった。誰かの真似をし続け、誰かの後を追っている。違うのは、自分が第一発見者のような顔をしていることだけだ。そう考えてみると、どれだけ自分がずうずうしくて恥知らずなのかがよくわかる。

 

例えば、みんなが知っているバナナを、あたかも私が初めて見つけてきたような顔をして

「これ知ってる? 知らないよね。これはね、バナナって言うの。南国でできるんだけどね、これが驚くことに食べられるのよ! びっくりでしょ? 緑色のときはまだ早いから食べない方がいいわよ。黄色になってからが食べ頃よ。そのおいしさに、あなたもきっと驚くと思うわ! 私がこれを見つけたのよ! すごいでしょ?」

なんて自慢気に語るようなものだ。ああ、なんて恥ずかしいことをしているのだろうか。

 

私ができることは、再編集するということだけなのだ。沢山ある選択肢の中からよさそうなものを見つけ出し、組み合わせて編集することだけ。しかし、再編集が思わぬ価値を生むことだってあるかもしれない、ということだ。であるならば、再編集能力を上げればいいのではないだろうか? コピーは誰にだってできるが、再編集能力はコピーしにくいはずだから。

 

私はこれからもコピーし続ける。そしてまた、私もコピーされるのだろう。

コピーだらけの中、私はできる限り「私の」「私だけの」編集をして、まだ見たことのない新しい風景を見るために進むのだ。

 

 

記事:渋沢まるこ

すでに相当の自由を与えられていながら、それに気づいていなかった私

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「きゃーーっつ!!」

私は大きくバランスを崩し、たった1メートル程の斜面から転げ落ちてしまった。普通の大人なら転げ落ちる方が難しいのではないかと思うぐらい小さな斜面から。

 

私はその時、1歳6ヶ月になる次男と一緒だった。歩くことを覚えた次男は、とにかく歩きたくて仕方がない。毎日のように近くの公園に行っては、心もとない足取りで滑り台に上り、ジャングルジムに登り、私は片時も目を離さぬように後ろからついてまわる。40歳を過ぎて、友人たちはとっくに子育てを卒業しているのに、私はいったいいつまでこんなことをしているのか? 4人目の子供として授かった次男を追い掛け回しながら、そんなことを思っていた時だった。

 

次男はブランコの横にあった小さな斜面をトコトコと降りていった。そこは植え込みになっていて、降りた先は行き止まりだった。仕方なく彼は、またその斜面を上がろうとするのだけれど、1歳児の足ではなかなか上がれない。私は次男のおしりの部分に両手を添えて、後ろから押し上げながら、自分もその斜面から上がろうとしていた。

 

ところが私が右足を一歩踏み出したとき、地面がぬかるんでいたのか、ずるっと滑ってしまったのだ。そんな状況など知る由もない次男は、どんどんと先に進もうとする。彼をなんとか斜面の上まで持ち上げたまではよかったのだけれど、私は大きくバランスを崩し、斜面からころげ落ちてしまったのだった。

 

「痛いーーー!!」強烈な痛みで動けなくなった。

 

その場に倒れたまま、顔だけ起こして足を見ると、右膝がおかしなことになっている。膝の皿の位置がずれて足が動かせない。全く動けないのだ。運の悪いことに、その時公園には誰もいなかった。次男は私が動けないことに気づいておらず、一人でどんどん進んでいこうとしている。

 

「待って! 待って! 行ったらあかん、そこにじっとしてて!!」自分の足のことよりも、次男が一人でどこかに行ってしまうことの恐怖感が強烈に襲ってきて、必死で叫んだ。言葉の意味はわからなくても、私の真剣さが伝わったのだろう。彼は立ち止まってこちらを見ている。

 

「こっちに来て! ママのそばに来て!」私は一生懸命手招きをした。次男がそばにやってきた。すぐに抱き抱えた。けれど1歳児の彼に助けてもらうことはできない。倒れたのが植え込みの中だから、全く人目につかない。恥ずかしいとかカッコ悪いとか言っていられない。私は大声で叫んだ。

 

「誰か、助けてください。誰か、誰か、助けて。助けて」後から考えると、携帯電話があるのだから、近くの友達に電話してきてもらえばよかったのに、そんなことは全く思いつかなかった。とにかく必死で叫んだ。

 

するとたまたま近くを通りかかった郵便局の配達員さんが、私の声に気づいてくれた。

「どこですか? どこにいるんですか?」彼からは私が見えていない。「ブランコの下の植え込みの中です!!!」

私を発見した彼は、次男をだっこし、すぐさま救急車を呼んでくれた。

 

安堵のあまり、そのあとのことははっきり覚えていない。友達に電話をして、次男を預かって欲しいと頼み、救急車の中から夫に電話して、仕事中だった夫を呼びつけたような記憶がある。

 

救急車から処置台の上に降ろされたとき、まだ足はおかしな方向を向いていたのだけれど、ふとした拍子に皿が元の位置に戻り、足はなんとかまっすぐになった。やれやれ、これで歩けると思ったのも束の間、炎症を起こしているのと、元に戻ったとはいえ、しばらく固定しておいたほうがいいということで、私はそこから2週間のギブス生活を余儀なくされるのであった。

 

ギブス。見たことはあるけれど初めての体験。ほんのちょっとだけワクワクした。けれど私はその後すぐに後悔した。

 

ギブス生活は、思った以上に過酷だった。だって、当たり前だけれど本当に固まっているのだ。右膝から上下に約10センチずつ、計20センチが固まっている。一ミリも曲がらない。他の部分は人間なのに、そこだけはまるでロボットなのだ。

 

まず驚いたのは、パンツがまともに履けないこと。想像してみてほしい。右足を曲げずにパンツを履くのだ。まず立って履く場合。動く方の左足に左のパンツの穴を通し、膝下あたりまで持っていく。次に右のパンツの穴に右足を入れようとするのだけれど、足が曲がらないから距離が遠すぎて、パンツをぐわーーっと伸ばしてみるもののどうしても届かない。じゃあ曲がらない右足から入れてみる。すると今度は左足が通せない。試行錯誤の上、椅子に座って履くという方法をあみだした。右足をぴーんと地面と平行に伸ばしたまま、上半身を思い切りかがめて、右足にパンツの穴をかける。かかったらそれをギブスの中心ぐらいまで持ってくる。左足を曲げてもうひとつの穴に入れる。足の付け根まできたら、お尻を浮かせてぐっと持ち上げ、完了。やれやれ、パンツを履くだけでもこんな調子。

 

服を着る、歯を磨く、顔を洗う、トイレに行く、立つ、座る、寝る、普段何も考えずにやっているひとつひとつの動作が、膝が曲がらないだけでこんなにも不便なのだということにすぐに気づいた。病院が貸してくれた松葉杖も思った以上に難しく、脇に挟んでみるものの痛くて少しも進めない。かといってずっと片足ケンケンで歩くわけにも行かず、じっと椅子に座っているしかなかった。右足を地面と平行に伸ばしたまま。

 

そんな状況で、家事や子育てなどできるはずもなかった。掃除や洗濯は友人にお願いし、夕食は夫にスーパーで買ってきてもらい、次男の面倒もヘルパーさんに来てもらい、全てを人様にお願いすることになった。

 

右膝が曲がらないというだけ、たったそれだけのことがどれだけ日常生活に支障があるか、ギブスをはめる前は知る由もなかった。

 

私は、今ここに確かに存在はしているけれど、何の役にもたたない不甲斐なさを感じていた。これが2週間も続くのかと思うと、絶望の淵に叩き落とされたような気分だった。

 

 

 

どうして私ばっかり、こんな目に遭うんだろう……

カラダは不自由でも、頭はしっかりしている。暇に任せて私はずっと考えていた。去年から良くないことばっかりだ。

 

昨年の秋、腫瘍が見つかって手術することになり、始めて自分の体にメスを入れたこと。

 

夫が転職をして、仕事ばっかりで全然構ってくれないこと。

 

子供たちは片付けないし、手伝わないし、少しも言うことを聞かないこと。

 

母親は毎日ごちゃごちゃと口うるさいこと。

 

いいことなど一つもなかった。

 

私が何か悪いことをしたというのか? そりゃ若い頃、少しは悪さもしたけれど、結婚してからというもの、主婦をして子供を育てて、それはもう真面目に過ごしてきた。

 

私は呪われているのだろうか?

神は私を見放したのか?

家族のために、家事も子育ても一生懸命頑張ってきたのに……

考えても考えても、答えは出なかった。周りの人たちが、みんな幸せに見えた。世界中の不幸を全て一人でしょっている、そんな気分だった。

 

 

それでも一週間ぐらいたつと、だんだんと足が曲がらない生活に慣れてきた。パンツも割と早く履けるようになったし、左足だけで生活する方法が身についてきた。私が動けないことを知っているから、子供たちも、食器洗いや買い物など、できることは手伝ってくれるようになった。部屋の片付けもある程度はするようになったし、夫も随分と優しい。

 

私は家族のそんな様子を見ながら、ぼーっとテレビを見たり、本を読んだり、次男と昼寝をしたりしていた。

 

だって動けないから、何もできないんだもん。仕方ないじゃない。そう自分に言い聞かせながらも、少しばかりの後ろめたさを感じていた。

 

 

2週間が過ぎ、とうとうギブスを外す日がやってきた。

ガチガチに固まってしまったギブスは、電動ノコギリのような道具で切り落とすのだった。足まで切り落とされたらどうしようと、私が少しビビっていることに気づいたのか、先生が大丈夫だよ、と声をかけてくれた。

 

あっと言う間に切り落とされたギブスの中から、懐かしい右膝が現れた。2週間ぶりに見た自分の膝はとても白く、ギブスの後がシワになって残っていて、とても弱々しく見えた。

 

 

恐る恐る右足を地面につける。

久しぶりに両足で立ってみる。

ぐらっとした。

けれど、立てた。自分の足で、自分の足だけで立っている。

 

歩いてみた。

足を交互に曲げなければ歩けないということに、今さらながら気づく。いとも簡単に、何も考えずに行っていた「歩く」という行為は、人間だけが習得した奇跡の行為なんだということを改めて思い知らされた。

 

その日は何をするのも感動だった。

立てること、歩けること、曲げたり伸ばしたり、登ったり降りたり、動きたいように動けることがどんなにありがたいことなのか、洗濯をする、買い物に行く、料理をする、子供と遊ぶ、日常普通にしていることができないことがどんなに辛いことなのか、この2週間で痛いほど味わった。

 

 

もしかしたら私は、それを味わうために怪我をしたのかもしれない。

 

いいことなんて何もない、と思っていた。子供たちの世話と家事に明け暮れ、自分の時間なんてほとんどなく、夫には構ってもらえない、挙句の果てに病気になるし怪我はするし、もし神様がいるとしたら、私は見放されたんだと思っていた。

 

ところがそれは間違いだった。私はすでに自由だったのだ。

 

自由に動けるカラダをすでに授かり、どこにでも行けるし、何でもできる自由を手に入れておきながら、それを当たり前のことだと思い込み、ないものにばかり目を向けていた。

 

確かに怪我をすることによって、私がないと思っていたもの、言うことを聞く子供や構ってくれる夫を手に入れることができたかもしれない。

 

が、それらは自由に動く大切な自分のカラダを犠牲にしてまで、手に入れるものではなかった。もっと大事なことは、今すでにあるものに気づくということだったのだ。それらが決して当たり前ではないのだということに。

 

 

ギブス事件から12年。今でも時々思い出す。調子に乗って当たり前のありがたさを忘れそうになったとき、あのギブスが水戸黄門の印籠のように登場して、当たり前に動けることのありがたさを思い出させてくれる。一生忘れないようにしようと思う。なぜなら印籠は一つで十分、二度とギブス生活はごめんだから。

 

記事:あおい 

 

泣けばいいと思うなよ!

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私は「泣く女」が苦手だ。

 

どんなときでも泣くな! というつもりはない。私だって泣くことがある。私が苦手なのは、泣くことによってパワーバランスが急に変わってしまうことなのだ。

 

大学生のとき、夜中まで男女数人の仲間とバカ話をしていた。

Sってさ、なんか巨乳好きって感じ」とSくんに向かって誰かが言い、他の人も「ああ、わかるわかる」と言い出した。Sくんは「そんなことはない! 俺はそんなに好きじゃない!」と必死に抵抗していた。けれども、夜中のバカ話は盛り上がり、すっかりSくんは巨乳好きだと認定されてしまった。

話の流れで、他の仲間も〇〇は〇〇な感じという勝手なイメージをつけられてゆくこととなり、みんなが好き勝手を言い、勝手に認定されるという、これまたバカなゲームが進んでいた。その中で勝手なイメージをつけられたある女子が「私は違うもん。そんなんじゃないもん!」と言って泣き出したのだ。このことですっかり場の空気は変わり、誰が泣かせたのかという犯人捜しをするような、何だか嫌な空気が流れ始めた。そんな中、その女子は「もう帰る!」と言って帰ってしまった。残った人たちは、全員バツの悪い顔で無口になった。暗黙のうちに「こんな勝手なイメージづけをやってた私たちが悪い。私たちが泣かせたのだ」という残った人たちが悪い、犯人であるという空気が流れた。

しかし、私にはとても違和感があった。いやいや、みんなよく考えてみて! Sくんが巨乳好き認定をされているとき、その女子は大笑いしてお腹を抱えていたではないか。Sくん以外の人が〇〇認定されていたときだってそうだった。みんな何かしら勝手に〇〇認定されたのだ。それが面白いゲームだったのだ。Sくんだって、勝手にそう好きでもない巨乳を大好きだと認定されて、泣きたいような気持ちだったかもしれないではないか。でも、彼は泣かなかった。そして彼女は泣いた。それだけの違いなのだ。それなのに、この残された全員に芽生えた罪悪感は何なのだろうか?

私はムクムクと湧いてきたこの疑問を放っておけず、みんなに言ってみた。みんなも確かにそうかも、と言っておおむね賛同してくれた。だから、明日その女子に会っても普通に接し、謝ったりはしないでおこうということになった。

 

なのに!

ふたを開けてみれば翌日謝っている人がいたのだ。それは全員「男」だった。このとき、私はどれだけ女の涙に男が弱いのか、ということを思い知らされた気がした。どんなときでも、女が泣いたらすべてがストップする。そして、泣かせた(とされる)方が全面的に悪者になる。これは世の中の「公式」なのだ。まぁ、もちろん公式が100%使えるほど世の中甘くはないとは思うけれど、意識的であれ無意識であれ、これを使おうする人は意外といる。

 

以前、仕事で女性の部下がミスをした。私はミスを怒るというよりも、今後そういったミスが起こらないようにするために、彼女がどういう経緯でミスをしたのかが知りたくて聞き取りをしていた。しかし、聞いているうちに彼女は泣き出し「ちょっとすみません」と言ってトイレに駆け込んでいった。彼女は泣き顔を見せたくなくてトイレに駆け込んだのかもしれない。ちゃんと話ができなくなるから、時間を下さいという意味でトイレに駆け込んだのかもしれない。彼女には彼女なりの理由があったのかもしれない。けれども、一人残された私は、周りから見れば明らかに「悪者」だった。部下を泣かせたいじわるな上司、という図ができあがったのだ。彼女がトイレから戻ってくると、他の女子が「大丈夫? どうしたの?」と声をかける。ああ、もう確実に私は悪者認定だ。仮に、泣いた彼女にその気がなかったとしても、状況は私に不利に働いてしまう。かくしてパワーバランスは一転してしまった。私としても、もう泣く前と同じように話はできない。多少腫れ物に触るように話をすることになる。ああ、もう面倒くさい! 泣きたいのは私の方だ。

 

実を言えば、私も上司に問いただされたときに、ああ今泣けばパワーバランスが変わるな、と思った瞬間がある。もうお説教も面倒くさいから泣いちゃおうかな、と思ったこともある。だけど私は泣かなかった。というより、泣けなかったのだ。泣くことで状況を変えるという方法をとる自分というものが許せなかったのだ。私はどこまでクソ真面目なのだろうか。こういうとき、さっさと泣いて場を収め、自分を有利に持って行った方が楽なのに。その方が世の中上手に渡っていけることも多いのに。

 

そうだ、私は実のところ羨ましかったのかもしれない。余計なことを考えずに女優のように涙を流せてしまう女。泣くことであっさりパワーバランスを変えてしまう女。どこかでやってみたいという思いがあったのかもしれない。けれども、できないから羨んでいるだけなのかもしれない。考えてみれば、泣くのは表現方法の一つなのだ。それに対して、対応する側がどう受け止め、どう対処するのかだけなのだ。

泣いている人がいても、ああ泣いているな、とそれだけのことなのだ。怒ったり、笑ったりして表現しているのと変わらない。自分が周りの人にどう思われるのかを気にしているから、泣かれると困ると思っているだけなのだ。もしかしたら、泣ける女の方が神経は図太いのかもしれない。

私は泣かないことを選択しているだけだ。どちらがいいとか、どちらが悪いとかそういうことではないのかもしれない。泣いた方が丸く収まることだってあるだろう。

 

それでも、泣きたいような、でも泣いたら許せなくなりそうな、どっちつかずな自分がいる。

だったら、つべこべ言わずに思い切って一度泣いてみればいいのだ! やってみれば、どういうものなのかがわかるのだから。それなのに、もっともらしい理由をつけて実行できていないだけなのだ。

泣く女は面倒くさいと思っていたけれど、実は面倒くさいのは私の方だった。

ああ、私って本当に面倒くさい! 泣いて済むなら泣いちゃえよ! と、言いたくはないが、言いたくもなる。果たして私が「泣き」でパワーバランスを変える日はやってくるのだろうか。

 

 

記事:渋沢まるこ