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まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

自慢の父からスケベ親父への転落、からの復活

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「さあ、ウイットのきいた会話、しようぜ」
「あほちゃう? このおっさん。ウイットってなんやねん? そんな昭和な言葉知らんわ」娘はすかざず夫に突っ込む。

 

アホと言われようが、おっさんと言われようが、にこにこして娘と会話している夫。どんだけ娘好きやねんと思いながら、そんなアホな会話を楽しめる父と娘の関係を私はとても羨ましく思っている。というのも私自身、父親とそんなふうに会話を楽しんだという記憶がないからだ。

 

私は父が大好きだった。大正15年生まれの父は、私が生まれる前は航海士だった。大きな船で世界中を飛び回っていたそうだ。長身ですらっとしていて、英語も堪能だった。私が子どもだった昭和40年代の頃、当時まだ珍しかったパイナップルやマンゴを自らカットして、こうやって食べるんだよと教えてくれたり、8ミリビデオで私や兄を写しては映写機で上映会をしてくれたりと、時代の先端をいく自慢の父親だった。

 

父は基本優しかった。怒られたことは、私の記憶では2回だけしかない。
一度は小学生の時だった。ある日曜日のこと、雑誌の付録を作るのに夢中になりすぎて、お昼ご飯だと呼ばれたことに気づかなかった。普段はそんなことでは怒らないのに、その日に限って父は声を荒らげて「もう二度と食べるな!」といった。私は自分がしたことがそれほど悪いことだとは思わなかったから、父の怒りが理解できなかった。泣きながら付録を作り続けていたことを今でも覚えている。

 

もう一度は、大人になってから、OL時代に門限を破ったときのことだった。玄関で仁王立ちして立っていた。「何時やと思っとるねん!」父は大声で叫んだ。小学生の時、付録を作って怒られた時と同じ顔だった。でもその時、私は全く動じなかった。怖いとも思わなかった。仁王立ちしている父に「ごめん」とだけ言って自分の部屋に入っていった。

 

なぜなら彼はもう私の中では、小さかった頃の自慢の父親ではなかった。かっこいい父親の姿はすっかりなくなっていた。それはあるひとつの私の思い込みがきっかけだった。

 


話はふたたび小学生の時に遡る。航海士からサラリーマンになっていた父は、仕事から帰るとパジャマに着替えて食事をすませ、リビングでテレビを見ながらビールを飲むのが日課だった。あるとき父は、いつものようにビールを飲みながらテレビを見ていた。それは昔の映画だった。カラーじゃなかったと思う。外人が出ていたからたぶんアメリカ映画だったのだろう。私も同じ部屋でなんとなく一緒にテレビを見ていた。

 

すると突然、画面に裸の女性が登場したのだ! しかもひとりではなく次々と。その裸の女性たちは王様のような男性の周りで踊っていた。私は見てはいけないものを見てしまったと思った。しかも父親と一緒に! 気まずすぎる。小学生だった私は、黙ってその場を離れた。

 

離れたものの、気になって隣の部屋から観察していると、父は何のためらいもなく、その場面を見続けていた。私はそんな場面を見続けている父に対して、ある種の違和感を覚えた。が、そのときは違和感の正体がなんなのかわからなかった。今のようにチェックがきびしくなかったのだろうか、昭和40年代のテレビでは、女性の裸やきわどいラブシーンなどが唐突に登場することが時々あった。そんな時父は、その場面を嫌がることなく、むしろ好んで見ているように私には思えた。

 

何度か父のそんな場面に遭遇しているうちに、私は違和感の正体がなんなのかに気づいてしまった。

 

父はスケベだ! 女の人の裸をあんなに嬉しそうに見ているなんて、スケベ親父だ!!
小学校高学年のころには、完全にそう思うようになっていた。

 

そのことに気づいたものの、父親に向かってあなたはスケベ親父ですね、と言えるはずもなく、なぜあんなエッチな場面を躊躇なく見ているのかと問うこともできなかった。そのころから父に触られることが嫌になった。頭をなでたり、肩を組んだりされることも嫌になった。

 

極めつけの出来事は、高校生の時、母と3人で食事に行った時のことだった。食事を終えて駐車場まで歩いているとき、突然父が「胸大きくなったな」といって、私の胸をわしずかみにした。

 

私は驚いて声も出なかった。母が「もう、やめなさい」と父に怒って言った。父はその時なぜか嬉しそうな顔をしていた。恥ずかしさと怒りとやるせなさと、ありとあらゆる感情が渦巻いていた。私は大きく傷ついた。言葉では表せないほど傷ついていた。

 

大好きだった父。いつも優しかった父。年を取ってから生まれて一人娘だった私を、本当に可愛がってくれていた父。だからこそ余計ショックは大きかった。許せない、と思った。父がどんな気持ちで私の胸をつかんだのかはわからないけれど、許せなかった。

 

その一件以来、私は父と話すことはほとんどなくなった。父と二人きりになることを極力避けた。大好きだった父親が、ただのスケベ親父になった。それ以降父親との記憶はほとんどない。

 

唯一覚えているのが、私が会社員になってから、車で父を会社まで送っていくハメになったことだった。というのも、私の会社の途中に父の会社があったからだ。その提案を父はものすごく嬉しそうに言い始めた。娘との接点ができると思ったのだろう。私は自分が車で行きたかったし、そもそも車は父のものだったから、嫌とは言えなかった。毎日月曜から金曜まで、父を会社まで送り届けてから自分も出勤するという生活が始まった。たった10分ほどの距離だったけど、苦痛で仕方がなかった。同じ空間にいることもいやだった。

 

そんな生活が3年ほど続いたけれど、父が病気になって送っていくこともなくなりほっとしていた。

 

父は大腸がんだった。入退院を繰り返す日々が始まった。母親に見舞いに行きなさい、と何度も言われた。けれど自分から進んで見舞いに行くのも嫌だった。行ったところで何もしゃべることないわ。気まずいだけやし。とりあえず母に言われた時に顔だけ出して、頼まれた買い物をし、洗濯物を持ち帰り、自分の任務を全うした。

 

ある日、いつものように嫌々ながら見舞いに行くと、父がこんなことをいった。
「昭和史の本、買ってきて欲しい」
大正15年生まれだった父は、自分が生きてきた昭和の時代に何が起こったのか、今一度確認してみたい、といった。

 

父はすでに手術のできない状態だった。当時はまだ告知が一般的ではなかったから、父には隠し通していた。私は自分の体のことなのに教えてもらえないなんて、命を他人にコントロールされているようでいやだったけれど、母親が絶対に言わないと決めていた。

 

もしかして父は、自分の死期に気づいているのかもしれない。
その時そう思った。

 

次の日、私は昭和史の文庫本をいくつかかって持っていった。父はとても喜んで、ベットの中から「ありがとう」と言った。「これを読んで自分の人生を振り返ってみる」その声にはもうあまり力がなかった。目の前にいる父親は、昔の父親とは違っていた。ただの小さな老人になっていた。

 

今ここで話をしなければ、もう二度とできないかもしれない。頭ではわかっているのだけれど、どうしても話ができなかった。スケベ親父だと思い込んでから15年、あまりに月日が経ちすぎていた。

その日も無言のまま、病院から帰った。

 

それから一度だけ退院を許されて家に帰ってきた。父は自分の病気がよくなったのだと思い嬉しそうだった。ところが一ヶ月もしないうちに、容態が急変して病院に戻ることになった。家を離れるとき、父はぼそっとこういった。「もう帰ってこられへんかもしれんな」その言葉に対して、何も答えられない自分がいた。

 

父はみるみるうちに弱っていった。痛みを抑えるためにモルヒネを使っていたので、だんだん意識も朦朧としてきていた。話すときは本当にもう今しかない、頭ではわかっているのに、何一つ口から言葉が出てこなかった。

 


それから2週間後、父は65歳の生涯を閉じた。

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「今から遊園地に行くぞ!」土曜日のお昼、学校から帰った私にあなたは言いましたね。思ってもみなかったサプライズに、私はとても驚きました。
「なんで? なんで? 今日はなにか特別な日なん?」と私が聞くと、「いや、何もないで。行きたいって言うてたやろ、だから行こう!」とあなたは言いました。

 

他にも、突然「今から田舎に帰るぞ」と言って、神戸から徳島県の鳴門まで車で日帰りしたこともありました。今でこそ橋があるから時間もあれば鳴門に着きますが、当時はフェリーでしたから、片道だけでも半日かかりましたよね。

 

私はてっきり、あなたはサプライズが好きな人なんだと思っていましたが、実は違っていたんですね。私が小さい頃、とても楽しみにしていた家族旅行を当日になってドタキャンされて、ものすごい落ち込んでいるのをみたあなたは、あいまいな約束すると行けなかったときに可愛そうだから、遊びの予定は当日まで言わずに、行けると決まってから言おう、と母に提案してくれたそうですね。そのことを後で聞いて、ちゃんとあなたは私のこと見てくれていたんだなと思いました。

 

トランプや花札の相手をしてくれたのもあなたでした。私は負けるのが悔しくて、勝つまで泣きながらやっていましたね。私は気づいていましたよ、最後はわざと負けてくれていたことを。

 

私はあなたの運転する車の助手席に乗るのが好きでした。
バターピーナツをつまみながらビールを飲んでテレビを見ていたとき、そのピーナツを横取りして食べるのが好きでした。

 

そんな大好きだったあなたを、いつの頃からか私は、スケベ親父だと思うようになりました。

 

思春期に入り、話をしなくなりました。優しい言葉をかけられても、愛想のない返事しかしなかった。それでもあなたは私に怒ったりしませんでしたね。寂しそうな顔をしているのはわかっていました。けれどどうしてもスケベ親父という私の思い込みが、あなたと会話することを遠ざけてしまっていたのです。

 

会社に行く車の中でも、ほとんど無言でしたね。今思えばもっと話せばよかった。二人きりで話す最後のチャンスだったのに。

 

実はあの時、私はもう気づいていました。

 

あなたはスケベ親父なんかじゃない、ということに。あなたは特別だったわけでもなんでもなく、普通のオトコだっただけ。そう、男はみんなスケベだということに私は気づいていたのです。

 

あなたはただテレビを見ていただけだった。なのに私が勝手に反応して、あなたにスケベ親父のレッテルを貼ってしまったのです。それを15年間も引きずって、私は最後まであなたと会話をしなかった。

 

私は今、娘と夫のアホな会話を聞きながら、あなたともっと会話をすればよかったと後悔しています。スケベ親父と思い込んだばっかりに、あなたがどんな人だったのか、あなたが何を考え、何を思っていたのか、本当のあなたを私はほとんど知らないのです。私の半分は、あなたからできているというのに。

 

あなたが亡くなってから26年、やっとそのことに気づきました。あまりに遅すぎですよね。

 

だからこそ今私はこう思います。今、目の前にいる人との関係を大切にしようと。ご縁あって、今私のそばにいてくださる人を理解するために会話し続けようと。

 

もしかしたらそのことを伝えるために、あなたはあえてスケベ親父の役を引き受けてくれたのかもしれませんね。だとすれば、やっぱりあなたは私にとって自慢の父ですね。

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先日のお彼岸の日、父親の墓の前でこんなことをつぶやいてみた。父からの返事はまだないけれど。

 

今もし、父と話ができるとしたら、どうしてもひとつだけ聞きたいことがある。
「あの時私の胸をわしずかみにしたのはなんで?」
スケベ親父から復活した今も、これだけはどうしてもわからない。生きている間に問い詰めておけばよかったと後悔している。