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まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

真面目 + 余白 = 不真面目?

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「もう! いっつも私ばっかり……」

私は長らくこう思ってばかりいた。学生時代の掃除もほとんどサボらず、周りがサボっている分まで掃除をすることもよくあった。会社員になってからも、やるべきことはもちろんのこと、どうしたら他の人達も使いやすくなるのか、なんてことを考えてファイリングを試行錯誤してみたこともある。とにかく、私の中の「真面目」がサボることを許さなかった。

以前働いていた会社で「あなたは黙々と仕事をしますよね」と言われたことがある。真面目ゆえ、ダラダラと仕事をすることができず、集中して仕事をしていたからではないかと思う。あの頃はほめ言葉だと思っていたけれど、近づき難い雰囲気を出していたからそう言われたのかもしれないな……と今は思う。

 

私の育った家には「ユーモア」や「笑い」が激しく欠けていた。冗談を言って笑った記憶がないし、下手な冗談を言うと「やめなさい」「くだらない」「嘘をつくのはよしなさい」などとたしなめられていた気がする。

高校生の時、同じクラスの子が「それは、うちの大蔵大臣に聞いてみないとわからないな」とその子のお母さんを大蔵大臣に例えて言った。今考えてみると、なんてことのない会話なのだけれど、当時この話を聞いたとき、私はなんて面白いことを言う人なんだろうと思って大爆笑したのだった。言った本人は、そんなに面白いかな? という顔をしてこちらを見ていた。その頃、私の中に「面白いことを言う」なんていうプログラムは組まれていなかった。

もちろん、面白いことなど言わなくても世の中は生きて行ける。むしろ、学生の時は面白いことの一つも言わず、黙々と勉強をする生徒の方が評価されたりする。だから私はこれでいいのだと思っていた。

 

大学生になり、私はお笑いの本場「関西」へやってきた。だけど、関西に行きさえすれば面白いことが言えるようになるわけではない。とにかくお笑い免疫がほとんどなかった私は、あの吉本新喜劇を見ても、何が面白いのかちっともわからなかった。テレビでお笑いの人を見て、何をふざけているのか! さっさと本題に入ればいいのに。時間の無駄だわ、と本気で思っていた。今思えば、お笑いの「ボケ」がわかっていなかったのだ。きっと頭がカチンコチンになっていたのだろう。

その後少しずつ関西に、お笑いには慣れたけれど、だからと言って面白いことが言える人になれた訳ではなかった。

 

関西の会社で働いていたとき、ある上司から「あなたは真面目だけれど、愛嬌がない」と言われたことがある。自分では精一杯愛嬌を振りまいているつもりだったから、その言葉はショックだった。それに、そう言われたからと言って、どうやって愛嬌を身につけたらよいのかわからない。結局そう言われたまま、私は何もできないままだった。

 

 

ところで「てへぺろ」という言葉をご存じだろうか? てへぺろとは照れ笑いやごまかし笑いの意味で用いられる若者言葉だそうだ。私もわりと最近知ったのだけれど、この言葉を知らない人も、テヘッと笑ってペロッと舌を出すしぐさと言えばわかるのではないだろうか。

このところ、私は精神的てへぺろを実践しているのではないか? と考えるようになった。この「てへぺろ」のしぐさそのものをする訳ではないのだけれど、精神的――つまり、心の中では気づけば「てへぺろ」を実践しているのだ。

何か失敗したら「いやぁすみません」と言って心の中では「てへぺろ」、「私、やっちゃいました!」と言いながら「てへぺろ」。

 

「真面目」一筋だった、あの頃の私にはありえなかった「てへぺろ」。失敗したら、完璧にできなかった自分の至らなさを責め、そんな私は結局使えない人なのだと思い込み、どんどん自分のことを否定していった、真面目な私。あの頃の私が見たら、てへぺろだなんて、そんな軽いノリで失敗をごまかそうだなんて、そうは問屋が卸さない! なんて責任感のない人なんだ! そう思って怒り心頭だったはずだ。確かにそうかもしれない。あの頃の私の方が真面目で仕事もきちんとやっていただろう。けれども、あの頃の私と決定的に違うことがある。私に愛嬌らしきものが出てきた! ということなのだ。そして、明らかにあの頃より今の方が生きやすい。周りの人達もとても優しく感じる。周りの人に恵まれているということもあるだろうけれど、これは「精神的てへぺろ」のおかげだ! と私は秘かに思っている。

 

どうして「てへぺろ」を実践できるようになったのかと言えば、私は完璧ではない、ということを受け入れられたからだろうと思う。もちろん、以前も自分が完璧だと思っていたわけではないけれど「完璧であらねばならない」と思っていた。でも、このねばならないから脱することができたのだ。そうすると何がいいって、まず自分がラクになるのだ。そして、他人にも完璧を要求しなくなる。だから自分にも他人にも優しくなり、結果、愛嬌らしきものも出てくるようになるというわけなのだ。

 

真面目一筋のあの頃、私は良くも悪くも孤高の人だった。自分にも他人にも厳しく、良かれと思ってしていたことも、ときには他人の領域を侵していた。学生時代の掃除もそうだった。人の分までやってしまい、疲れて、不満を持って、愚痴を言う。不満を持つくらいなら、愚痴を言うくらいなら、やらなければよかったのに。結局、孤高と言いながら、私は認めて欲しかったのだ。私って使える人間ですよね? ということを確認したかったのだ。

使える人間だったらどうだというのだろう? 使える人間というくらいだから、結局のところ「使われて」いるだけなのに。相手にとって、その会社にとって「使える」というだけで、本質的に素敵な人間なのかどうかなんてわからないのに。

 

私は以前に比べると「余白」を身につけられたのかもしれない。マス目にきっちり全部何かを埋めていたところを、あえて空けておく。何か他のものが急に入ってきても受け入れられる態勢。遊びを持たせておくのだ。

考えてみれば、お笑いには余白がいっぱいだ。例えば、漫才で言いたいことを箇条書きにして、まとめて言ってみてもきっと面白くない。ボケたり、同じことを何度も繰り返してみたり、無駄だと思うようなことが沢山あるから面白いのではないだろうか。そう、きっちり埋めておく、余白のない人はきっと面白くないのだ。ゆるく、身軽で余白を沢山持っている人の方がきっと面白い。

私はお笑い芸人にはなれないし、なる気もないけれど、少しばかり余白を持って、少しばかり面白い人になりたい。そのために、これからも私は「精神的てへぺろ」をやっていくだろう。だからと言って、私の真面目がなくなったという訳ではない。私は、真面目な「不真面目」をやっていくのだ。これが、真面目な私の余白の身につけ方だから。

 

記事:渋沢まるこ