まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

私の真似しないでよ!

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あれ、私が見つけてきたのに……真似された。

あの人、私が見つけてきたのに……。

 

こんなことがよくある。その度に私は、どうして真似するのよ! 自分で見つけなさいよ! なんて思っていた。だって、私はいつもアンテナを張り巡らせて、苦労して見つけてきているというのに、それをいとも簡単にコピーして、楽々と使っているからだ。許せない! あなたももっと苦労しなさいよ! そんなふうに思って、イライラしていた。こんなことは一度だけではない、何度もある。どうしてこんなこと……。

 

だが、結局のところ、私は認めて欲しかっただけなのだ。あなたってすごいわね。こんなことを見つけられるのね。そう言って欲しかったのだ。そして、あなたが見つけたこれ、使わせてもらってもいいかしら? なんて、お伺いを立てて欲しかったのだ。なんたるエゴ。我ながら、王様気取りのこのエゴに冷ややかな視線を送らずにはいられない。どれだけ持ち上げて欲しいのか。どれだけ承認欲求に底がないのか。底なし沼のエゴに吐き気がする。

 

大体、私が見つけてきた、なんて思っているものも、誰かの真似なのだ。自分だけのものだなんて思いこんで、抱え込んでいる自分のうつわの狭さを思い知った方がいい。自分だって真似やコピーだらけではないのか? 私は本当に一から、いや、ゼロから作り上げたと言えるものなんて持っているのだろうか?

考えてみれば、世界中コピーだらけだ。ブランド品のコピー。有名なものの、有名な人の、有名なフレーズのコピー。そんなコピーまみれの世界に住んで、コピーだらけの自分のくせに、コピーのコピーにイライラしているなんて、もはやこれはコントだ。そう思うと、何だかあまりに小さい自分に泣けてくる。どれだけ小さくて、心狭い人間なのか。小さすぎて泣ける。けれども、そんな小さい私のコピーをさらにコピーしたいと思う人がいた、ということなのだから、むしろありがたいことなのかもしれない。私には、沢山のコピーの中から、ある程度使えそうなものを見分ける目があったということかもしれないのだから。

 

そもそも、私は何のためにコピーしようと思ったのだろうか?

それは、より良くしたいと思うからだ。使いやすく、面白く、見やすく。改善したいと思うから。いいものがあれば取り入れたい。そして、その先を見たいから。そうなのだ、私は、コピーして、その先を見たいと思っているのだ。まだ見たことのない、新しい風景を。

 

圧倒的な大自然。そんな風景を見てみたい。そう思ってはいても、実際に見に行くということは少ない。プチ自然でお茶を濁すこともある。しかし、あまりにも圧倒的で見たことがない風景というのは、実際にその場に行っていなくても、写真だけでも衝撃を受けることがある。すごい! こんなところがあるのか! こんな景色があるのか! 同じ地球上に住んでいるというのに。

ある意味、私がその先を見たいと言っているのも、これに近いような気がする。できれば自分の足で行ってみたい。その風景を見てみたい。こういう気持ちはあるけれど、なかなか行けない。そんなときに、実際に行ってその映像なり、写真なりを見せてもらえると、少しだけ気分が味わえる。その風景を見せてもらえる。もちろん、実際に行って見るのとは大違いだろうけれど。

 

その風景を見たいということが一番の目的であるならば、大自然のように誰かに行ってもらうというのも一つの方法だ。誰かと一緒に行く、みんなで一緒に行くといった方法もある。行き方は、見方は、多種多様なのだ。それなのに、いつの間にか私は行き方は一つだけだと思い込んでいた。私が行かなくては見れない。一人で行くしかない。それしか方法はない、と勝手に思っていた。しかし、その先を見たいということが目的なのであれば、行き方はどんな方法でもいいのだ。これも結局のところ、私の真似しないでよ! と同じ思考だったのだ。

私の開いた道を通らないでよ! 私の後からついてこないでよ! 自分で道を切り開きなさいよ! 道はこの道しかないのよ。

しかし、実は私だって誰かが切り開いてくれた道を歩いている。しかも、あたかも自分が見つけたような顔をして。

 

そんなに真似をされることが嫌ならば、そんなに後からついて来られるのが嫌ならば、全部やめてしまえばいいのだ。確信犯で誰かの真似をし続け、誰かの後を追えばいい。と考えてみたけれど、実際は今自分がやっていることそのものだった。誰かの真似をし続け、誰かの後を追っている。違うのは、自分が第一発見者のような顔をしていることだけだ。そう考えてみると、どれだけ自分がずうずうしくて恥知らずなのかがよくわかる。

 

例えば、みんなが知っているバナナを、あたかも私が初めて見つけてきたような顔をして

「これ知ってる? 知らないよね。これはね、バナナって言うの。南国でできるんだけどね、これが驚くことに食べられるのよ! びっくりでしょ? 緑色のときはまだ早いから食べない方がいいわよ。黄色になってからが食べ頃よ。そのおいしさに、あなたもきっと驚くと思うわ! 私がこれを見つけたのよ! すごいでしょ?」

なんて自慢気に語るようなものだ。ああ、なんて恥ずかしいことをしているのだろうか。

 

私ができることは、再編集するということだけなのだ。沢山ある選択肢の中からよさそうなものを見つけ出し、組み合わせて編集することだけ。しかし、再編集が思わぬ価値を生むことだってあるかもしれない、ということだ。であるならば、再編集能力を上げればいいのではないだろうか? コピーは誰にだってできるが、再編集能力はコピーしにくいはずだから。

 

私はこれからもコピーし続ける。そしてまた、私もコピーされるのだろう。

コピーだらけの中、私はできる限り「私の」「私だけの」編集をして、まだ見たことのない新しい風景を見るために進むのだ。

 

 

記事:渋沢まるこ