まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

両想いになって年賀状を送ったら嫌われた理由

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私は重い女だ。

若かりし頃の恋愛が破綻したのは、ほぼこの私の重さのせいだったと言っても過言ではないと思う。

口では「サバサバしてるのがいいよね」だとか「私サバサバしてるから」なんて言っていたが、今考えるとちっともサバサバなんてしていなかったと思う。サバサバしているのが理想なのであれば理解できるけれど。まぁ、その頃のサバサバと今思うサバサバの意味合いが違うと言ってしまえばそれまでかもしれない。

 

小学生の頃、好きな男の子と両想いっぽくなり、有頂天になって年賀状を送ったら嫌われた。

私の好きな気持ちが止められなかったからだ。

最初は普通に年賀状を書いたのだけれど、そのうちに気持ちがあふれてしまい、文章の途中にところどころ小さく「好き」と書いてみた。けれど、さすがにそれでは文章が意味をなさないし、デザイン的にもおかしい、ということは小学生でもわかった。なので、私はその「好き」にシールを張ってみたのだ。うん、これならばなんとか普通の年賀状だ。ここでやめておけばよかったのだけれど、何と言っても好きが止められない小学生の私は、またおかしなことを追加し始めた。シールの下に気持ちが書かれていることがわからなければ意味がないではないか! と思った私はシールを少しだけ剝がれるように細工をした。ああ、もうその辺でやめておけ! と大人の私は思うが、もちろんここで止まるわけがない。細工をしてもシールの下に気づくかどうかわからないではないか、と思った私は結局ハガキの隅に「シールの下を見てね」なんて書いてしまったのだ。重い、重すぎる……。思い返してみても嫌な女だ。私が男だったとしてもこんな女は嫌だ。これが、私が覚えている最初の重い女ストーリーだ。

 

中学生のとき、手づくりにハマり、自分で使うことはもちろん、友達にもあげていたけれど、正直あまり上手でもないのに好きな男の子にあげたこともある。手づくりクッキーだの、マフラーだの。ああ、重い女の象徴である手づくりの品。あの頃、これを平然とやっていた自分が恥ずかしい。穴があったら入りたい。ただ、お金もなかったからこれくらいしかできなかったという面もあっただろうとは思うけれど。

 

好きが止められない、手づくりのものを渡す。いいではないか、相手もそれを嫌がってばかりではなかったかもしれないではないか、と思ったりもする。そうかもしれない。けれども、私が本当に嫌なのは「あまりにも自分本位である」ということなのだ。自分の好きが止められないのならそれも仕方がないのかもしれない。ただ、そんな年賀状をもらったら、相手はどう思うのか? という相手目線が完全に欠落していた。とにかく、自分自分! そしてもっと嫌なのは、この自分の気持ちに対して、同じだけ見返りを期待していたということだ。私はこれほどまでにあなたのことが好きなの! だからあなたもそれに対して同じくらい見返りを返してね! という暗黙の期待。もちろん、さすがに小学生の私はここまでのことは考えてもみなかったし、気づいてもいなかったけれど。

重さというのは、もしかしたらこういう背景にある「思い」のことを言うのかもしれない。

 

恋愛に限らず、実はこういう重い「思い」は随所に潜んでいる気がしてならない。

会社で「給料が安くて」とか「上司が評価してくれない」とか愚痴を言っていたときも、私の中にはこういう思いが渦巻いていた気がする。

私は一生懸命働いている! だから対価として給料をもっと欲しい。確かにお給料というのはそういう側面があると思う。しかし、そればかりでもないはずだ。やりがいであったり、楽しさだったり、チームワークであったり。お金以外で受け取ることも沢山あったのだ。しかし、私はそんなところには目もくれず、私が! 私が!。極端に言えば、私が一番頑張っています! こんな私を評価しないなんて! くらいに思っていた。とにかく、見返りを求めて必死だったのだ。こんな人が重くないわけがないのだ。

今冷静に考えてみると、確かにあの頃私は「必死」に働いていた。結構仕事もこなしていたし、頼まれることにNOを言うこともあまりなかった。しかし、その分期待は膨れ上がり、満たされない期待に落胆し、愚痴をこぼしていた。考えてみれば当たり前のことなのだ。自分の期待通りに人は動かないし、だからこそ期待通りの見返りなんて返ってこないのだから。

 

それから、私はなるべく人に期待しないことにした。

なんて書くと冷たい人のようにも思えるが、そういうわけではない。むしろ、いらぬ期待をかけない方が優しいのだ。どんなことをしても、どんなことを思っても、私も相手も自由ということなのだから。他人の評価ももちろん自由だし、期待もしない。私がサボろうが頑張ろうが、それをどのように評価されても私の範疇ではない。見方は人それぞれなのだ。

そんなふうに徐々に切り替えて過ごしていたら、ある日大きな見返りがやってきた。昇給と昇進が決まったのだった。あんなに私が必死に目指していたモノが、目指さなくなった途端にやってきたのだ。おかしなことだ。あんなに必死に働いていた頃に比べれば、期待しなくなってからの方が仕事量も減らしていたし、頼まれた仕事を断ることだってあったというのに。

 

とはいえ、私はいまでも重い女だと思う。もちろん、以前に比べれば多少軽くはなっていると思うけれど、それでもまだまだ理想には程遠い。けれども、本当に軽くなってしまったら、もうそれは死ぬときなのかもしれないとも思うから、まだ重い女として、試行錯誤の日々を続けようと思う。

 

 

記事:渋沢まるこ