まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

執着が嫌いだった私が母から教わったのは執着することだった

 

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「この度高齢のため、9月30日をもちまして廃業致すことになりました。

今までの御愛顧に感謝致します」

 

 

母が廃業した。御年89歳。

昭和34年4月に開業してから、平成28年9月まで、57年と5ヶ月間。

神戸の下町で歯科医を営み続けてきた母。

 

私が生まれる前から、母はすでに歯科医だった。

私は生まれた時からずっと、消毒液の匂いと、

歯を削る機械音の中で育ってきた。

 

友達が遊びに来ると、「歯医者の匂いがする」とよく言われたけれど、

私にとってはそれが日常だったし、

友達の言っているその匂いがわからなかった。

機械音も毎日のことだから、私にとってはBGMにすぎなかった。

 

大人になってから母に、どうして歯科医になったのか?

と聞いたことがある。

「お母さん(祖母)に歯医者になれと言われたから」と母は答えた。

なれと言われたからといってその通りにするというのが

私には考えられなかったけれど、当時は普通のことだったのかもしれない。

 

 

母はとにかく働いた。

昭和40年代、私が子供の頃は、

今とは違って歯科医が足りていない状態だったから、

新患はくるわ、再診の患者さんは来るわ、

その間にも急患が来るわで、毎日待合室は患者さんで溢れていた。

 

大人から子どもまで、

時にはちょっといかついお兄さんが来ることもあったけど、

そんなお兄さんも母の前では

黙って口を開けておとなしくしているのがなんとも滑稽だった。

 

ひっきりなしにくる患者さんをさばくため、

月曜日から土曜日、朝から晩まで、母は休むことなく働きに働いていた。

 

私が小学校から帰ると、診察室から歯を削る機会音が聞こえてくる。

私は診察室と自宅を隔てているドアを少しだけ開けて、母の顔を確認する。

母はマスクの奥から目だけ私の方を向ける。それがおかえりのあいさつだった。

それ以上の会話はできなかった。同じ家にいるのにも関わらず。

 

ときどき友達の家に遊びに行くと、そこには専業主婦のお母さんがいて、

友達と楽しそうに会話をしていたり、

オヤツを出してくれたりするのを見たとき、

そんなたわいのない日常の風景がとても羨ましかった。

私も普通のお母さんがいい、と小学生の頃はよく思ったものだった。

 

 

父は普通のサラリーマンだった。

厳密に言うと船乗りだったのだが、9つ上の兄が生まれてから、

母の強い希望で船を降りてサラリーマンになった。

 

いつ仕事が終わるかわからない母とは違って、

父はだいたい決まった時間に帰ってきた。

父は毎晩NHKを見ながら晩酌をしていた。

その横で、家政婦のおばさんが作った料理をだまって食べている私。

食べ終わった頃に、高校生の兄が帰ってくる。

その後母の仕事が終わる。それぞれに食事を始める。

終わったものから順にそれぞれの部屋に戻っていく。

それが我が家の夕食風景。

サザエさんのような一家団欒はうちにはなかった。

 

そんな忙しい母だから、授業参観はもちろんのこと、

音楽会や運動会など、ここだけは絶対外さないでほしいという行事にも、

ほとんど来てくれることはなかった。

母の代わりに、家政婦のおばさんや

いとこのお姉さんが来てくれることもあったが、

申し訳ないけれど代打では余計寂しくなるだけだった。

 

唯一の休みである日曜日の4回のうち2回は、診療報酬明細書といって、

保険組合に提出する書類を作成するために費やされる。

当時は患者さんも多かったし、今のようにパソコンもない時代。

全てが手作業だったから、父親と二人がかりで

朝から晩まで作業しても丸2日かかっていた。

 

そして、残りの日曜日。本当の休みは月にその2回だけ。

小学生の私は、その時ぐらい一緒に遊んで欲しいと思う。

ところが疲れ果ててその時ぐらいは休みたい母。

 

遊びに行く約束をしていても、

当日になって「しんどいから」とドタキャンされる。

私の顔を見ると毎日のように「ああしんどい」「疲れた」を連発する。

 

「そんなにしんどいなら、歯医者なんかやめてしまえばいいのに」

「歯医者なんかやめて、もっと一緒にいてくれればいいのに」

そんなふうに思っていた小学生時代。

 

 

中学生になっても、母の忙しさは変わらなかった。

かまってくれないくせに、勉強、勉強と口うるさかった。

休みの日に友達と遊びに行くと嫌味を言われた。

私の話は何も聞いてくれないくせに、勉強だけさせたがる。

そんな母が大嫌いになった。

 

高校2年生、進路を決めなければならないときになって、

私は大学に行きたくない、といった。

その頃は父も母も兄もみんな嫌いだった。

誰も私のことなんてわかってくれないと思っていた。

専門学校に行くというと、母は猛反対して歯医者になりなさいと言った。

9つ上の兄は母の言うことを聞いて、歯科医になっていた。

私は死んでも嫌だった。

 

毎日毎日、しんどい、疲れた、言うてたくせに。

そんなしんどくて辛い仕事を、なぜ子どもにさせようとするのか、

私には理解できなかった。

私は反抗して、文系の私立大学に進学した。

 

大学を卒業して、地元の企業に就職して5年ほどたったころ、

父が大腸ガンになった。

手術をしたけれどうまくいかず、余命半年と言われた。

 

今から25年前のこと、まだ告知することが

今のように一般的ではなかったので、

本人には本当のことは知らせてなかったけれど、

良性腫瘍といいながら一向に良くならない体と家族のよそよそしい態度から、

薄々はガンだと気づいていたのではないかと思う。

私は自分の人生なのに、

自分の病気について本当のことを教えてもらえないなんて、

人生を人に操られているような気がしてどうしても納得いかなかった。

 

残り半年しかないのなら、父に本当のことを告げてほしい、

そして、その間だけでも歯科医の仕事を休んで、

父と残りの人生を一緒に過ごしてほしい、

そう母に提案してみたのだけれど、

母は頑として、父に本当のことを告げようとしなかったし、

仕事も決して休もうとしなかった。

 

父の世話は家政婦に任せ、母は仕事の合間に顔を出す、

そこまで仕事に執着する母が、私には理解できなかった。

 

結局亡くなるその日まで、仕事を休むことはなかった。

 

 

父がなくなった翌年、私は結婚し、夫の転勤で広島に住むことになった。

 

母65歳、一人暮らしになった。

普通のサラリーマンなら、とっくに定年をすぎて

隠居生活に入ってもいい年齢。

私たち子どもそれぞれ独立しているし、

もう自分の好きなことして自由に暮らしたら、

と何度も伝えたけれど、それでも母はやめなかった。

辞めても他にすることがないといって、

ますます歯科医という仕事に執着するようになった。

 

 

平成7年1月17日。阪神大震災が起こった。

母が住んでいた地域は壊滅的な被害にあった。

タンスの間に寝ていた母は、

タンス同士がつっかえ棒になって助かったのだけれど、実家はほぼ全壊した。

 

当時母70歳。住む家がなくなり、かなりショックを受けていた。

落ち着くまで私たちが住んでいる広島で一緒に暮らすことになった。

これでさすがにもう辞めるだろうと思った。

実家の土地を売って、マンションでも買ってのんびりすごせばいい、

と思った。

 

ところがそこから一年後、母は家を新築して歯科医を再開した。

私は他にしたいことがない。

歯医者しかしたくない。

歯医者をしながら死にたい。

 

あくまでも歯科医に執着する母。

さすがにもうあっぱれとしか言いようがなかった。

もう好きにすればいいと思った。

 

 

平成26年。気がつけば20年の月日が流れていた。

当然昔のようには仕事ができなくなっていたし、

患者さんも少なくなっていた。

 

その頃から、やめようかな、という言葉が母の口から出はじめた。

来月やめる、来年やめる、そう言いながらもやめずに続けていた。

もうここまできたら、ギネスにのるまで続けたらいいやん、

と半ば本気で言っていた。

 

やめるやめる、って言いながらどうぜやめへんやろ、

死ぬまで続けるんやろ、今までどんなことがあってもやめなかったんやから。

死ぬまで歯科医に執着すればいい、そんなふうに思っていた。

 

ところが今年、平成28年9月。今回ばかりは本気だった。

廃業届を取り寄せ、機材を撤去し、あっという間に何もなくなってしまった。

びっくりするぐらい潔かった。

何もなくなった部屋をみて、私のほうが唖然としてしまった。

あんなに執着し続けていたのに、やめるときはあっけなかった。

 

一人の老人になった母はすっかり小さくなっていた。

昨日まで歯科医として仕事をしてきたことがまるで嘘のようだった。

 

 

そんな母を見て、私はやっと気づいたのだ。

いつまでも歯科医に執着する母を理解できないと言いながら、

実は歯科医に執着する母に執着していたのは私だったということを。

 

私が50歳を過ぎた今でも、

夢を持って前を向いて進んでいこうと思えるのは、

これまでどんなことがあっても諦めなかった母の、

いくつになっても自分の仕事にプライドをもって続けてきた母の、

執着し続ける姿がいつも目の前にあったからだった。

 

早くやめればいいのに、と口では言いながら、

いつの間にかもっともっと執着し続けて欲しいと思っていたのは、

実は私の方だったのだ。

 

執着する母が好きではなかった。

執着を手放して、自由になって欲しいと思っていたはずだった。

なのに私は、気づかないうちに

執着し続ける母を目標にして進んできていたのだった。

 

 

手放す、捨てる、何かにつけシンプルに削ぎ落としていくことが

今の時代の流行りだとしたら、

執着することはもしかしたら美しくないのかもしれない。

 

それでもいいのだ。私は時代の流れに逆らって、

これからも泥臭く執着し続けるのだ。母を見習って。

 

いけずババアの英語教師がくれた意外すぎるプレゼント

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「グッドモーニング、ミスアオキ」

「グッドモーニング。ハウアーユー?」

 

「アイムファインセンキュー、アンドユー?」

「ファインセンキュー」

 

お決まりのあいさつで始まるミスアオキの英語の授業。

ミスアオキとは、私が通っていた中高一貫女子校の英語教師である。

 

当時、年齢は40代後半だったのだろうか。

小太りで背は低め、端のとがった教育ママタイプのメガネをかけている。

ミスアオキ、というぐらいだからきっと独身だったのだろうけれど、

誰も怖くて聞いたことがないから、未だに真相はわからない。

 

 

さて、冒頭のあいさつ、あえてカタカナで書いたのにはワケがある。

ミスアオキは、英語教師であるにも関わらず、

英語の発音がまるでカタカナだったのだ。

 

 

私は中学生になったとき、

新しく始まる英語の授業をわりと楽しみにしていた。

英語話せたらかっこいい! 

そう、単純に未知なる英語というものに憧れていたのだ。

 

私の中では、英語の先生というのは見た目からしてできる系の女性で、

外人のように流暢に英語を操る、そんな姿をイメージしていた。

 

ところが、始めてミスアオキの授業を受けたとき、

私は愕然としてしまった。

 

えっつ、これが英語の先生? 外人とは程遠い……

 

いや、もしかしたら発音がまずいだけで、

授業がとんでもなく面白かったりするかも!!

 

というかすかな期待が裏切られるのにそう時間はかからなかった。

 

彼女の授業スタイルは、得意のカタカナの発音で教科書を読み、

その後、恐ろしいぐらい直訳の日本語で解説を加える、

それが延々と続くだけの面白くもなんともない授業。

 

これが6年間続くのか……

私の英語に対する期待は大きく裏切られた。

 

いや、裏切られたのはそれだけではない。もっと最悪なことがあった。

ミスアオキは、超ド級のいけず(関西弁でいじわるの意味)ババアだったのである。

 

そのいけずぶりは学校でも有名で、痛い目にあった生徒は数知れず。

 

出来が悪いくせに!

そんなこと言える立場?

親の顔が見たいわ!

彼女にちょっとでも反抗しようものなら、嫌味の嵐。

 

挙句の果てには、理解不能なカタカナ英語で

捨て台詞をはいて教室からでていくという、

本当に怒らせたらやっかいな先生だった。

 

 

そんなミスアオキが唯一笑顔になるときがあった。

それは、若いオトコの先生と話をしている時。

中でも社会の先生は一番のお気に入りだったようだ。

私たち生徒には決して見せない笑顔で、

楽しそうに廊下を歩いている姿を見たとき、

何か見てはいけないものを見てしまったような気持ちになったことを

今でも覚えている。

 

それ以外はいつもカリカリしてキーキー言っている、

そんなイメージしかなかった。

 

というわけで、ミスアオキとは

授業以外では極力関わらないようにしていたし、

授業中もなるべく目を合わせないように、

小さくなって存在を消すようにしていた。

 

 

 

そんな調子で1年、2年と過ぎ、中学3年生になった。

ミスアオキの授業は特に変わったこともなく、

英語がしゃべれるようになるなんていう夢はとうの昔に諦めていた。

 

中学3年といえば、普通は高校受験、

卒業式と慌ただしい一年なのだけれど、

中高一貫校だから受験もなく、のんびりとした一年を過ごしていた。

 

とはいえ、一応義務教育は終了ということで、

その記念に卒業アルバムと卒業文集を作ることになり、

文集に載せるための文章を全員必須で書くことになった。

 

ふつう卒業文集というものは、3年間の思い出とか、

将来こんなふうになりたいとか、その手のことを書くものだけれど、

当時の私は、あまり文章を書くのが好きではなかったし、

得意でもなかった。が、それよりも何よりも、

文集に残すような夢なんて何もなかった。

 

 

はっきり言うと文集なんてどうでもよかった。

中学三年、思春期真っ只中。親や先生や学校や、

全ての大人に対して、社会に対して、憤りを感じていた頃。

 

ココロの内側で思うことは多々あっても、

無感動、無関心、無気力を装っていた私は、

自分の思いを言葉にすることなど到底できなかった。

 

そんなひねくれた中学3年の私が心置きなく語れることは、

異性とファッションの話題だけ。とはいえ、まさか文集に

「彼氏がほしい。誰か紹介して」なんてこと

書くわけにもいかず途方にくれていた。

 

 

そんなときふと思いついたのが、

当時はまっていたSF小説だった。

暇に任せて筒井康隆星新一など、けっこう読みあさっていた。

その割には内容をあまり覚えていないのだけれど、

唯一記憶に残っているのは、

畳で寝ている間に顔から畳が生えてくるという、

なんとも奇妙極まりない話。超気持ち悪いけれど、当時はお気に入りだった。

 

なぜそんな現実離れした話に夢中になっていたのか? 

今思えば、矛盾だらけの現実に気づいてしまった思春期の中学生が、

その現実から逃避するために見つけた唯一の逃げ場所だったのかもしれない。

 

書きたくもないし、書くこともないけれど、書かなければならない。

もうどうでもいいや、という投げやりな気持ちで、

SF小説もどきの話を思いつきで書いて、とりあえず提出した。

 

 

それから数ヶ月たち、文集のことはすっかり忘れていたある日の休み時間、

こともあろうか階段の踊り場で、

私はミスアオキに呼び止められてしまったのである。

 

「ちょっと、あおいさん!!」

 

まずい! 私なんかやらかした?

反射的にそう思った。

 

だって、ミスアオキに呼び止められるなんて、

なんかミスったとしかありえない。

英語の宿題? 忘れてないよ。

なんだ? 心当たりがない。

 

頭の中をぐるぐるさせながら、恐る恐る彼女の方を向いた。

 

すると、なんということだろう!

ミスアオキが、例のお気に入りの男性教諭に見せていたあの笑顔で、

私の方を向いて立っているではないか!

 

え? 結婚の報告でもする? 私に? なわけないよな。

うろたえている私に向かって、彼女はこういった。

 

「あおいさん! 文集読んだわよ!!

あなたの短編小説、とっても面白かったわ!!

あなたにあんな才能あったのね!!」

 

思ってもみなかった褒め言葉に、階段の踊り場でよろめいた。

 

「あ、ああ…… あ・り・が・と・う・ございます」

驚きすぎてなかなか声が出なかった。

 

「また他にも書きなさいよ。楽しみにしてるわよ」

それだけ言うと、ミスアオキは去っていった。

 

腰が抜けそうなぐらいの衝撃だったが、

私はこのとき、自分の口元から笑みがこぼれていることに気づいていた。

 

 

 

 

あれから何年たったのだろう?

書くことが好きだったわけでも、得意だったわけでもない私が、

今こうやって文章を書いている。

 

ブログを書き、メルマガを書き、fbに投稿し、毎日毎日書いている。

思春期の頃に言葉にできなかった思いを、今こうしてひとつひとつ、

言葉にしようとしている。

 

 

英語の授業は最悪で、いけずババアで、とても好きとは言えない先生だったけど、

あの時のミスアオキの言葉を今でも時々思い出すことがある。

するとあの時の踊り場での光景が蘇ってくる。

 

ミスアオキが私を褒めてくれたのは、後にも先にも、あの一回限りだった。

だからこそ余計、忘れることなく私の脳裏に焼き付いているのだ。

 

あの時のミスアオキの言葉が、

書くことに対する自信とエネルギーを与えてくれているのだとしたら、

それは私にとって途方もなく意外で素敵なプレゼントだったことは間違いない。

 

 

料理を取り分けてくれる女はオトコに媚びているわけではなかった。

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「ほんま、いらんことするよな」

OLをしていた20代の頃、ずっと思っていたことがある。

 

社内の懇親会とか、友達同士の飲み会とかに行くと、

出てきた料理を、みんなに取り分けてくれる後輩がいた。

手際よく人数分に小皿に取り分け、

「はい、どうぞ」といって手渡してくれる。

 

 

「あ、ありがとう」

小皿を受け取りながら、最初はちょっと戸惑った。

というのも、初めから一人分になっている料理は別として、

大皿の料理は、自分の食べたいものを食べたいだけとって食べる、

というのが私の常識だったから。

 

そんなことしてたら、自分が食べる暇ないんちゃうの?

と思った私は、

「いいよいいよ、自分でやるから」と伝えたのだけれど、

 

彼女は最初から最後まで、

まるでそれが自分のお役目であるかのように、

ニコニコしながらその作業をやり続けるのだった。

 

 

 

最初は、親切な子なんだな、と好意の目で見ていた。

 ところが回を重ねるごとに、だんだんと腹が立ってきたのである。

 

というのも、

もともとそういう習慣がなかった私にしてみれば、

子どもじゃないんだし、

別に取り分けてもらわなくても自分で取れるし、

っていう思いがあった。

 

しかも困ったことに、

分けられたものは基本食べなければならない。

いいオトナが残すなんてことはできないだろう。

がしかし、中には嫌いなものもあるし、

反対にもう少し食べたかったのに、というものもある。

 

それでもせっかく分けてもらったのだから食べなきゃって思う。

これは日本人のサガなのか? それとも私だけなのか?

どちらにしても、自分で金払って来ているのに、

なんで気を使って無理に食べなあかんわけ?

自分の食べたいものを食べたいだけ食べたいわ!!

とだんだん腹立たしくなってくるのである。

 

で、遠まわしに「自分で取るから大丈夫」って伝えたりすると、

その場では了解してストップしてくれるのだけれど、

遠慮していると思われたのか、

また次の時には同じように取り分け行為が繰り返されるわけで。

 

そうなると今度は、

ここまで言うてるのに、それでもやる? 

 

ってことは、

もしかして、オトコに気に入られたいんちゃうん?

気がきくええ子やって思われたいんちゃうの?

そんなことに利用されたらかなわんわ。

 

こうなったらもう、取り分け行為は嫌悪感でしかない。

 

だったら彼女が取り分ける前に、自分の分、好きなだけとったら?

って思われるかもしれないけれど、そこは小心者の私のこと、

先輩や上司を差し置いて一番最初に取るなんて、

そんな厚かましいことはできない。

 

彼女は同じ部署の後輩ということもあって、

忘年会や新年会など一緒に参加する機会も多かった。

その度に、まるで与えられたエサを食べるペットのように、

小皿に盛られた料理を残さず食べるということを、

ちょっとイラっとしながら繰り返していたのであった。

 

 

そんな彼女との付き合いも、

私が結婚して会社をやめてから、ほとんど会うことがなくなり、

正直ホッとしていた。

 

それでも時々、別の飲み会で、別の取り分け係に遭遇したとき、

彼女のことを思い出すと同時に、

ここにもオトコに媚びたいヤツがいる、

と思うと嫌悪感でいっぱいになるのだった。

 

 

 

ところが、それから随分と時が経ち、

取り分け係の存在すら忘れていたとある飲み会の席で、

過去最強の取り分け係に出会ってしまった。

 

彼女は、でてきた料理を瞬時に全員分取り分けるのはもちろんのこと、

コップや皿、器に至るまで、

空になった、と思った瞬間に自分の方にかき集め、

同じ大きさのものをそろえて重ね、

残った料理はひとつの皿に集め、

お店のスタッフに渡す、という一連の作業を、

 誰よりも大声で喋りながら、

自分もしっかりと食べながらこなしているのを見たとき、

 

 

OL時代の取り分け係の彼女とは

比較にならないぐらいの迫力に驚きを隠せなかったのである。

 

彼女は当時50歳ぐらい。チャキチャキの江戸っ子。

見た目も中身も豪快で、男勝り。

申し訳ないけれど、可愛い女子からはかけ離れている。

男に媚びたいというわけでもなさそうである。

 

私はおそるおそる、彼女に聞いてみた。

 

「さっきからものすごい勢いで、

取り分けたり片付けたりなさってますけど、

それっていつもされているんですか?」

 

そうすると彼女は、少し困った顔をしてこういった。

「私さ、ダメなんだよ。

目の前にあると、どうしてもやってしまいたくなるんだよ」

 

「ええ? やりたいんですか?」と私が聞くと、

 

「そう、やりたいんだよ。変か?」彼女は男っぽい口調で答えた。

 

「いえ、別に」

 

とは言ったものの、私にしてみれば青天の霹靂だった。

 

取り分け係にとどまらず、人の使った食器まで、

残飯や残ったソースやタレがべっとりついている

人の使った食器まで、好んで片付けたい人がいるなんて!!

 

しかもその動機が、

オトコに気に入られたいとか、

優しい人に見られたい、とか

そんな面倒なもんじゃなかった。

 

やりたいからやっている。

ただそれだけ。

 

私の中の取り分け係の定義は、

取り分けることによって、

要は人のお世話を好んですることによって

「人からよく思われたい」という気持ちが満々なのだと思っていた。

でなければ、あんな面倒なことを自分からすすんでやるはずがないと。

 

それは裏を返せば、自分が人のお世話をするときには、

よく思われたい気持ちが満々だということでもある。

 

オトコに気に入られたかったのは私じゃないか!

人目を気にしていたのは私じゃないか!

 

 

過去最強の取り分け係は、

取り分けることをあまり好まない私のような人かいる、

なんてことはお構いなく、

自分のやりたいことをただ全うしているだけだった。

 

それはまるで私に、

「あなたは人の目を気にせずに、やりたいことができてるの?」

っていわれているかのようだった。

 

もしかしたら、OLの時に出会った取り分け係の彼女も、

オトコに気に入られたいとか、よく思われたい、

という思いはあったかもしれないけれど、

それよりもただやりたかっただけなのかもしれない。

そう思うと、彼女も自分の思いを全うしていただけなのかもしれない。

 

 

過去最強の取り分け係に出会ってから、

どんな取り分け係が登場しても、驚かなくなった。

 

彼女たちは、やりたいからやっている

私はやりたくないからやらない

やりたいことが違うだけなんだ、ってことがわかったから。

 

それどころか最近では、取り分けてもらえることが、

ありがたいなと思うようになった。

昔のように嫌いなものを我慢して食べることもなくなり、

嫌いなものは嫌いだからいらない、

と言えるようになったこともあるかもしれない。

 

あの頃に比べると、随分と私も、

人目を気にすることなくやりたいことができるようになったと思う。

 今でも取り分け係に興味ないことは変わらないけれど。

 

私は本当に泣けないオンナなのだろうか?

 

私は泣けない女である。

私がどうも泣けない体質らしいと気づいたのは、

中学2年生の時だった。

 

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当時流行っていた宇宙船艦ヤマトの映画を、友人たちと見に行くことになった。

私はアニメには全く興味がなかったのだけれど、

仲のよかった友人たちがみんなノリノリで嫌だと言えなかったのである。

そしてこの時が、私が始めて映画館で見た映画だったと記憶している。

記念すべき映画館デビューの日、

私はこのあと一生忘れられない苦い思い出を作ることになる。

  

 

見たこともない宇宙戦艦ヤマト。今みたいにインターネットがあれば、

あらすじぐらい調べて行ったのだろうけど、当時はそんなものもなく、

とりあえず行ってみるしかなかったのだった。

 

 

映画館おきまりのポップコーンとジュースを手に、いざ劇場へ。

興奮する友人たちをよそに、一人作り笑顔の自分がそこにいる。

一番前の席を私たち6人で陣取り、今か今かと開演を待つ。

 

映画が始まった。

始めて聞く登場人物の名前や関係性を理解しつつ、ストーリーを必死で追う。

視力1.5の私にとって、最前列で真剣に見るのは相当きつかったけれど、

これも映画が終わった後、みんなと話を合わせるためには仕方がない。

 

 

 

そして、映画のクライマックスシーン。

劇場のあちこちからすすり泣く声。

 

え? 何? みんな泣いてるの?

横を見ると、一緒に来た友人たちもみんな、鼻をズルズルさせて泣いている。

 

 

ここ、泣くとこなんや……

私と言ったら、涙の一ミリも出ていない。

しかも視力1.5かつ最前列で、目を見開いて真剣に見ていたせいで、

ドライアイ気味になっているぐらいだ。

 

 

映画が終わって明るくなったとき、友人たちは皆、目を真っ赤にしていた。

そこに一人、ドライアイ気味な私。

 

当時一番仲良しだった友人が、私を見てこういった。

「ええっ、泣いてないの?? あの場面みて泣いてないの?? マジで??

ありえない。 あんた薄情やな」

 

 

ガッビーーーン……

 

薄情……

情が薄い……

 

 

デスラーが、古代が、森雪が、

そんなことはどうでもいい。

 

映画の中のどんな悲しい場面よりも、私は友人の「薄情やな」の一言が

世界で一番辛いと思った。

 

そこから私は、泣けない女なのだと自覚することになった。

みんなが悲しい時に泣けない。薄情な女。

 

 

 

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それから4年後、高校の卒業式の日、私は気が重かった。

6年間通ったこの厳しい女子校から、やっと卒業できるのにも関わらず。

 

卒業式で、私だけ泣けなかったらどうしよう?

そんな思いが私の頭を駆け巡っていた。

 

また薄情な女だと言われたら、それこそ立ち直れない。

なんとしても泣かなければならない。 

 

先生の話なんて上の空。謝辞や祝辞が述べられる中、

これまでの人生で起こった悲しいこと、辛かったことを次々と思い浮かべ、

涙をだそうと必死だった。

 

 卒業式もクライマックスを過ぎ、終わりに近づいてきた頃だった。

 

でた。涙が。

出てきたぞーーやった!!

 

 

顔で笑って心で泣いて

にあらず

顔で泣いて心で笑って

 

なんとも妙な感じではあったけれど、

これで薄情だと言われることもないと思い安堵した。

 

 

 

 

それからも

泣けない女だという思いはずっと続いていた。

 

そんな私でも泣くことがあった。

彼氏と喧嘩したときだった。

気を許したオトコの前では泣くことができたのだ。

 

ところがあるとき彼氏にこんなことを言われた。

「女はいいよな、ここぞというときに泣けて」

 

言葉が出なかった。

そう言われてみると、もしかしたら私は、泣くことを利用していたのかもしれない。

かわいいオンナを演じようしていたのかもしれない。

 

涙がすーっとひいていくのがわかった。

そこからはもう、男の前でも絶対泣かない、と決めた。

 

 

だいたいさ、涙が似合う女って

華奢でかわいくて繊細な女子なんだよね。

 

でかくて、肩幅広くて、声も低い私。華奢とは程遠い。

私には涙なんて似合わない。

本当に、誰の前でも泣けなくなってしまった。

 

人前では泣かない。

心のどこかで、そう決めている自分がいた。

 

 

 

 

あれから30年。

今でもあまり泣けない方だと思う。

 

 テレビや映画なんかをみていて、ここみんな感動するとこよね、という場面では、

なんとなく胸が熱くなったり、喉の奥の方が痛いような感覚になったりする。

 

 涙が出そうになっても無意識のうちに止めようとする自分がいる。

やっぱり人前で泣くのは嫌なんだと思う。

 

 

そんな私が、止めたくても止められず、

我慢できずに泣いてしまう時がある。

 

それは子どものこと。

 

一生懸命頑張っている姿を見たとき 

 

試験に合格したとき

 

病気になったとき

 

遠くへ旅立っていったとき

  

これまでずっと毎日一緒に暮らしてきて

笑ったり怒ったりしながらすごしてきた年月が

走馬灯のように駆け巡り

 

涙が止まらなくなる。

これだけはどうにもならない。

 

 

 

そして私は、

この歳になってやっと気づいたことがある。

 

私たちの感情が動くとき

自分の過去の経験に照らし合わせて

その時の感情を呼び起こしている

という。

 

中学2年生の、宇宙戦艦ヤマトを見たこともない私には、

呼び起こす感情がなかっただけだ。

 

卒業式でなかなか泣けなかったのも、

無気力、無感動、無関心を装って高校生活を送っていたからだ。

 

 

ああ、私が泣けなかったのは薄情だっただからではない。

ただ、経験が少なかっただけなんだ。

感情を揺さぶるような経験が。

 

人それぞれ、「泣く」ポイントはみんな違う。

どれだけの思いがのっかているか、どれだけの感情が動いたのか、

それは人によって違うから。

 

そしてもっと言えば、

 涙の量で感動の深さを測ることは

できないのかもしれない。

 

 

  

私は50年たってやっと

薄情なオンナだという呪縛から解放された。

 

 涙は出すものではなく、出てくるもの。

今はそう思える。

 

 

もし今後、私が泣くような場面があったとしたら、

願わくば女優のようにつーっと一筋、

涙を流して泣いてみたいものだと思っている。

誰か教えてくれないだろうか。 

 

おしまい