まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

正しいクリスマスの過ごし方

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その日は、朝から吐く息が真っ白になるほど寒い日だった。夜は雪になると天気予報で言っていた。

私はかじかむ手をこすり、眠い目をこすりながら会社へ向かった。今日はクリスマス!

何だか社内も朝から浮かれた人が多いような気がする。昨日は下準備をするのが大変だった。けれども、今日のことを考えながらする準備は楽しかった。こうしたら、こうなるかも。こう言ったら、こう返ってくるのかも。お料理はこの順番で。だから冷蔵庫に入れておくのはこの順番で。狭い冷蔵庫だから、入れる順番や場所を確保するのに試行錯誤が必要だった。ケーキは場所をとるし、シャンパンも思いのほか高さがあってドアポケットには入らなかった。ローストビーフはできればあまり冷やしすぎたくない。ああ、冷蔵庫の中も生活を感じさせないクリスマス一色にできればいいのに。焼肉のタレだとかポン酢だとか、輪ゴムで止めてある塩こんぶだなんて生活感がありすぎる……。けれども、パズルをひとつひとつはめていくようなこの作業にもワクワクしていた。部屋は飾りつけすぎず、でも、クリスマスだとわかるように。小さくて上品な卓上クリスマスツリーひとつを置いてみた。あとは、あたたかな色の照明で。間接照明がいいのかも。色々なことを脳内で想定しながら、もう前日が当日かのように楽しかった。結局、ああでもないこうでもないと妄想を巡らせて部屋の中を歩き回っていたら、寝る時間が遅くなってしまったのだった。だから、朝からあくびを連発していたし、頭の中は今日の夜のことでいっぱい。仕事なんて全く手についてない状態だった。

 

そして、迎えた夜。

私は何度も何度も脳内でシミュレーションしたことを行動に移した。冷蔵庫からはシャンパンを取り出し、コルク栓が飛ばないように注意深く開けた。そして、この日のために用意した高いシャンパングラスに注ぐ。二人とも笑顔で乾杯。何もかも想定通り。そう、こういうの。この感じ。ああ、クリスマスって最高!

 

ああ、何だか安っぽいドラマのようだ。

けれども、きっと素敵な彼とこんなクリスマスを迎える日が来るに違いない、と若かりし日の私は思っていた。まぁ、そこそこの彼とこれに近いような安っぽいクリスマスを過ごしたことがないとは言わない。しかし、あんなに妄想していたというのに、そんなクリスマスのことはちっとも記憶に残っていないというのが正直なところだ。

ならば、記憶に残っているクリスマスとはどんなものなのだろうか?

 

クリスマス当日に、ここなら入れるだろうと思って行った学生街にある安いイタリアンに入ったら「予約はされていますか?」と聞かれて驚いた。クリスマスというのは、こんな安いイタリアン(失礼…)であっても予約が必要になるのだ。そうか、学生であまりお金がなくても、気分は味わいたいものね。とか言いながら、自分たちも同じ発想だということに苦笑いした。その頃はもはや学生でもなかったというのに。

 

また、ある時からは敢えて「平常運転」をするようになった。街が騒がしく、色々なものがクリスマス物価になるこのときに、わざわざ自分達まで合わせる必要を感じなくなってしまったからだ。クリスマスであっても、家に帰ればいつもと変わらない日常が待っている。いつもと変わり映えしないご飯を食べ、テレビを見て、お風呂に入り寝る。人によっては味気ないクリスマスだね、と言うかもしれない。けれども、私はこの「平常運転」のクリスマスの方が記憶に残っていたりする。クリスマスに何をするかということは、私とってさして重要ではなかったのだろう。大切なのは「誰と」過ごすかということだった。彼でも、友達でも、家族でも、もっと言えば自分と、つまり一人でもいい。とにかく、安心できる場で心許せる人(自分)と一緒にその日過ごせることを楽しみたい。これが私の望むクリスマスの過ごし方だ。

誰と過ごすかが大事だなんて、誰でもそうだよ! と言われるかもしれない。けれども、果たして本当にそうだろうか? 以前、私はクリスマスのための「彼」、クリスマスのための「場所」、クリスマスのための「プレゼント」が必要だとどこかで思っていた。それは結局のところ、自信のなさの表れだったように思う。私は一人だと自信がないんです。だから、自信をつけるために「誰か」や「場所」や「プレゼント」が必要なのです。誰かといてもらえる私、素敵な場所に行ける私、プレゼントをもらえる私。だれか、どこか、何かがなければ私なんて価値がない。そんなふうに思っていたのかもしれない。私は別にクリスマスを、プレゼントを否定しているわけではない。ただ、「誰か」や「場所」や「プレゼント」がなければいられなかった自分のクリスマスを振り返っているだけだ。私だってプレゼントが大好きだし、素敵な場所にも行きたい。でもそれは、クリスマスでなくてもいい。明日でもいいし、3日後でもいい。自分が思った日に、行きたい日に、あげたい日にできればいい。毎日クリスマスでもいいし、そうでなくてもいい。私のクリスマスは12月25日ではなく、自由設定なのだ。

つまり、私の正しいクリスマスの過ごし方は「毎日を思いのままに過ごすこと」なのだ。

なんだかわかるような、わからないような説明だけれど、私の中では今これがフィットしている。

 

 

記事:渋沢まるこ

私の中のアラームが鳴るとき

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私の中には、ウォンウォンとパトカーのように鳴り、点滅するアラームが内蔵されている。

 

若かりし日のほとんどの記憶は「若気の至り」のようなものが多く、自慢できるようなことはあまりないのだが、あの時だけは危険を顧みず、よくやったものだと思う。

 

私が通っていた中学は、その町の中でも一番荒れていると言われた中学校だった。授業中に「過去の」先輩たちがバイクでやってきて、勢いよくエンジンをふかしながら学校の周りを回ることもよくあったし、たまに学内に侵入してくることもあった。トイレに入れば、目の焦点があっていない、いわゆる「不良」の子たちがよくたむろしていた。入ってしまってから、しまった……と思うのだが、用も足さずにそそくさと出ると「私たちが邪魔なの?」と言われかねないから、こわごわ用を足していた。そういうときのトイレは臭いのも嫌だった。汚物の匂いではなく、シンナー臭かったから。

あの当時、親からは「あんたは本当に姿勢が悪いわね」と言われていたのだけれど、内心そりゃあ姿勢も悪くなるよ……と思っていた。学校にいるときは、なるべく下を向いて歩いていたから。不良の先輩と下手に目なんか合ってしまったら、大変なことになってしまうのだ。

今となっては、それも思い込みだったかもしれないとも思うけれど。

 

ある時期、私のクラスは同じ学年の不良の女の子たちのたまり場と化していた。休み時間になると、クラスの一角には近寄りがたい空気が流れていた。でも、彼女たちは意外と楽しそうだったような気がする。考えてみれば、彼女たちも一女子中学生だったのだ。休み時間に仲間と集まって話をするのは楽しかったのだろう。けれども、そんな平和な時間は長くは続かなかった。

 

「ちょっと、あんた生意気なんだよ」

それは、明らかに難くせをつけていた。生意気だと言われている方を、仮にA子だとしよう。A子はクラスの中ではおとなしい部類の子だったし、いつも一緒にいる子も地味でとてもおとなしい子たちばかりだった。生意気のかけらもなかった。不良の彼女たちは、つまり、難くせをつけやすい、いじめやすい子をターゲットにしたという訳なのだった。

それから昼休みになると、私のクラスでは難くせをつけるいじめが始まった。クラスのみんなは、私も含めて眉間にしわを寄せてはいたけれど、全員が傍観者だった。クラス委員の男子が少したしなめたことはあったけれど、ちっとも効果はなかった。

そのうちに、このいじめはエスカレートしていった。おとなしいA子がたまりかねたのか、多少口答えしたのが気に入らないようだった。とうとう手が出てしまったのだ。A子の頬には、赤いしっかりとした手のひらの跡が残っていた。

それを見た私は、私の中で何だかもう耐えられないという気持ちがムクムクと湧いてきて、居ても立っても居られなくなり、一傍観者から脱することを決めたのだった。と言っても、多勢に無勢で立ち向かう勇気などない。私はその日の夕方、信頼のおける先生に一部始終を話したのだった。

 

残念ながら、私は正義感に燃えていたわけではない。正直言えば、私もいわゆるいじめのようなものに加担したことが全くないわけではなかった。そもそも、この件もついさっきまで一傍観者として加担していたのだ。私だって、面倒はごめんだ。いじめにだってあいたくはない。だけど。あの瞬間、私の中でアラームが鳴ったのだ。これ以上傍観し続けたら、きっと大変なことになる。彼女たちは一線を越えてしまった。手を出してしまった。これがエスカレートしたらどうなるのか。そんなことを瞬時に考えていたような気がする。それが正しい判断なのかどうかなんてわからないけれど。

そして、彼女たちに土下座をしろ! などと強要されながらも、必死に口答えをして1人で抵抗しているA子に感動したところがあったのかもしれない。あの場面で、1対数人で口答えができるなんて、よほど心が強くなくてはできないことなのではないだろうか。そもそも、A子はほぼ毎日繰り返され、エスカレートしていくいじめに耐え、学校を休んではいなかったのだ。

 

翌日の放課後、下駄箱に向かって行くと「彼女たち」が鉄パイプを持ってたむろしていた。瞬間、私は「これはヤバイ!」と思った。彼女たちは犯人捜しをしているに違いない。もしかしたら、もう既に私が犯人だとわかっているのかもしれない。しかし、ここまで来て踵を返したら、それこそ私が犯人ですと名乗りを上げることになってしまうではないか。私はその数秒間に覚悟を決めた。ボコボコにするならしろ! 私は何も悪いことはしていない! いや、実際はこんなにかっこよくはなかった。覚悟はしたけれど、内心ものすごくビクビクしていた。けれども、彼女たちの関門を通らなければ家には帰れない。1歩、2歩……どんどん関門に近づいていく。

 

「あのさぁ、チクったやつ知らない?」

 

とうとう来てしまった。私の予想通り、彼女たちは犯人捜しをしていた。彼女たちは、私が犯人だと知って言っているのか? それとも何も知らないのか? はたまた、私はグレーな容疑者なのか? 私には読めなかった。ここはイチかバチかだと思った私は、涼しい顔をして「うん、わからない」と答えた。このときほど、自分を女優だと思ったことはなかった。

 

「もしわかったら教えて」

「うん、わかった」

 

この短い会話のあと、私は無事に関門を通過したのだった。顔からは血の気が引いていた。

 

のちに友人に、あれ先生に言ったの私なのよね、と言ったらものすごく怒られた。あんたバカじゃないの、もし見つかったら大変なことになってたよ。そうなったら、私助けられないよ! 何やってんのよ!

 

私は一見正義の味方のようだが、A子のため、というよりも、自分があの状況に耐えられなかったのだと思う。これ以上見ていられない、いたたまれない。だから、どうにかしてください。そんな気持ちで先生に訴えに行ったような気がする。

だが、結果としてA子へのいじめは影をひそめ、私のクラスがたまり場になることもなくなった。そして、彼女たちが探していた犯人が捕まることもなかったのだった。

 

そういうわけで、これ以降、私は自分のアラーム作動を結構信頼することにしている。

 

 

記事:渋沢 まるこ

私の壮大な実験

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今、私は壮大な実験の途中である。

なんて書くと、ノーベル賞ものなのか? どんなすごい実験を行っているのか? と思われるかもしれないが、やっていることは「靴をならべること」だけなのだ。

 

私も夫も、もちろんきれいな部屋が好きなのではあるけれど、片付けがそんなに好きではない。だから、部屋はいつも「そこそこ」きれいにしている。見る人が見たら「汚い」部屋に分類されるかもしれない。

きれい好きの友人は「家に帰ってきて汚い部屋だと耐えられない」と言い、リモコン類は出掛けに全部机の上に「きちんと」並べておくそうだ。ああ、その時点で彼女は私と暮らせない……と思う。我が家のリモコンは、かろうじて机の上には載っているが、向きが揃っていることはそうそうないからだ。こういうこだわりは、いったいいつ頃から身についてくるものなのだろうか?

 

思い起こせば、私は小さい頃から片付けが苦手だった。あの頃から比べれば、今の方がまだマシなくらいではないだろうか。

「片づけないなら、全部ゴミだと思って捨てます!」と母に言われ、本当にゴミ袋に入れて捨てられそうになり、泣きながら「捨てないで!」と懇願したこともある。こんなことを書くと、どんな部屋だったのかと、もの凄い部屋を想像されてしまうかもしれないが、実は、自分ではそこまでひどい部屋だとは思っていなかった。だから、母の言うことがピンとこなかったのかもしれない。その証拠に、大体必要なものはどこにあるのかがわかっていた。だから、部屋中をひっくり返して、あれがない、これがないと言っていた記憶があまりないのだ。人から見たら汚い部屋だったのかもしれないけれど、当の本人は困っていないのだから片付けようという気もあまり起きなかったのも納得できるというものだ。

 

そんな私だけれど、個人的に「ここはきちんと!」というこだわりポイントがある。例えば、財布の中のお金の向きは全部揃えておかないと気持ちが悪い。財布に入っているレシートはなるべく早く処理したい。リモコンは並べないくせに、靴は玄関先できちんと並べておきたい。トイレのスリッパも同様に。

しかし、残念なことに、うちの夫はこの私の個人的ポイントには無頓着なのだ。私は結構いい加減な人間だ。だから、そんな人間の少ないこだわりポイントくらいは歩み寄ってくれてもいいのではないか? と思っていた。

「靴は並べてよ!」とか「よその家に行って恥をかくんだよ!」とか「ほら、またトイレのスリッパがぐちゃぐちゃだよ」とか、とにかく見つけるたびに小姑のように小言を言い続けた。こんなに小言を言われれば、きっとそのうち観念するに違いない。うるさい小姑を黙らせるには靴やスリッパを並べさえすればいいのだから。

しかし期待に反し、ことは一向に改善しなかった。そのうちに、小言を言い続ける私の方が疲れてきた。これは、夫の根気勝ちだった。

 

そこで考えた次なる作戦は、題して「並べられていることに慣れさせる作戦」だった。

きっと、夫は子どもの頃から靴を並べることなどあまりなく育ってきたのであろう。その情景が当たり前のものとして既にインプットされているに違いない。だから、並べていない方が当たり前で落ち着くのかもしれない。そうであるならば、今度はいつも並べられている、という環境が当たり前になればいい。それがインプットされてしまえば、並んでいない状態が気持ち悪いということになるのではないだろうか、と考えたのだ。そう思った私は、早速翌日から小言は封印し、並んでいない靴やスリッパを見つけるたびにキレイに並べる、という作業を繰り返した。

しかし、これも今のところちっとも成功していない。靴やスリッパを脱ぐという行為は、おそらく無意識で行っているのだろう。そして履くときにはすでにきれいに揃えられているのだから、それが当たり前なだけで、脱ぐときに揃えようという気持ちは湧かないのかもしれない。

 

私は壮大な実験を行っているつもりだったのだけれど、それはただの私の趣味だったのだ。

考えてみれば同じことではないか。母が幼い頃の私を脅しても、怒っても、さして困っていない私はあまり片付けようという気が起きなかったのだから。夫も靴を並べないことで特に困ったことに遭遇したことはないのだろう。結局のところ、この問題は私が私の思うように夫を動かしたかったというだけのことなのだ。靴やスリッパを並べることに価値を見出し、それが好きなのはあくまでも「私」なのだから。お互いにこだわりポイントが違う二人が、衝突しながらも何だかんだと同じ屋根の下に住んでいられるのだから、片方が靴やスリッパを並べないくらいのいい加減さがあった方がいいのかもしれない。

 

それでも、と私はまだ少し思う。何か画期的な方法があるのではないだろうか?

今は毎日そっと靴を並べながら、次なる作戦を考え中だ。本人が自ら喜んで並べる方法。並べずにはいられなくなる方法。これが成功したら、ある意味ノーベル賞ものかもしれない。

こうして、私の壮大な実験はこれからも続くのだ。

 

記事:渋沢まるこ

 

世の中を動かしているのは、国会議員でも官僚でもなく専業主婦だった。

 

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専業主婦になりたかったんです。

 

 

最近立て続けに、専業主婦願望だったという人に出会った。願望だったということはそうではなかったということで、実際彼女たちは、勤続30年のキャリアウーマンだったり、自営業者の方であったりするのだけれど、専業主婦経験のある私としては、何をそんなに憧れるのか不思議で仕方がなかった。

 

というのも、私自身、決して専業主婦になりたくてなったわけではなく、行きがかり上仕方なくというのがホントのトコロだからである。

 

ちょうど私が就職した年、1987年は男女雇用機会均等法が始まった年だった。それまでの主流であった結婚して家庭に入って専業主婦になる、という時代から、女性でも男性と同じように働きたいと思う人が増えてきて、結婚して子供が生まれても会社をやめずにキャリアを持ち続けたいという願望を持つようになった頃。私も例に漏れずその一人であった。

 

そんな中、28歳で結婚して、29歳で第一子を出産。

幸いにも私が勤めていた会社は、当時まだ珍しかった育児休暇制度をいち早く導入していた。一年間の休職の後、会社に復帰する予定で手続きを進めていた頃、思いもよらない夫の転勤命令。私が復職して仕事を続けるためには、新婚早々の別居生活を余儀なくされる。

 

子どもは一人で育てなければならない。どうするべきか? 子供が病気になったら? 誰にみてもらう? そんな状態で仕事に専念できるのか? 散々迷った挙句、泣く泣く会社をやめて、夫の転勤についていくことに決めたのだった。これが私の専業主婦の始まりだった。

 

その選択は、ある意味正解だった。なぜならその後3年の間に、立て続けに第二子、第三子を出産することになったからだ。

 

ところがそのとき私はまだ気づいていなかった。専業主婦という看板が、のちのち私に重くのしかかってくるということを。

 

夫はそのころ転職したばかりだった。新しい職場で慣れないことばかり、成績も思うように上がらない、休みも取れない。そんな状況の夫に子育てを手伝ってもらうわけにはいかない。だって私は専業主婦なんだから。育児ぐらい完璧にやらなくてどうするの? 

 

私は「3人の子育てを一手に引き受けます。あなたは仕事に専念してください」と自ら夫に宣言した。

 

それから子育てに奔走する日々が始まった。

4歳、2歳、0歳の子供を今となってはどうやって育てたのか、そのへんの記憶がぽっかりと抜け落ちてしまっている。

 

たとえば買い物ひとつとっても、0歳児はだっこひも、2歳児はベビーカー、4歳児は手をつないで歩く、この状態でスーパーにたどり着いたとしても、どうやって買い物かごを持って買い物をしていたのか、全くの謎である。

 

子育てを「大変だった」という一言では済ましてしまいたくないのだけれど、具体的になにが大変だったかというとあまり思い出せないのが事実なのだ。

 

 

ただひとつ、これだけは忘れられないということがある。

夏のある日のことだった。子供たちを連れて車でスーパーに行ったとき、0歳児と2歳児が車の中で寝てしまった。

正直、3人の子供を連れて買い物に行くのは至難の業だった。その上、今たたき起こして連れて行っても、きっと機嫌が悪くて、いつも以上にややこしくなることは目に見えている。 

二人が寝ているスキに、4歳の長女だけ連れて、ぱぱっと買い物してくればたぶん10分もあれば戻って来れる。それくらいならきっと大丈夫だろう。そう思った私は、眠っている2人を車に置いたまま、長女だけを連れて買い物に行くことに決めた。

さすがに締め切ったままでは暑いので、運転席とその反対側の窓を5センチほど開けて行くことにした。

 

長女を連れて、走ってスーパーに行った。あらかじめ決めておいた必要なものだけをピックアップして、レジに並ぶ。買い物を受け取り、手早く袋に詰めてスーパーをでた。10分より少しオーバーしてしまったけれど、まあ大丈夫だろう。 

あわててエレベーターから降り、車の近くまできたとき、私は思いがけない光景に目が点になってしまった。見知らぬおばさんが、うちの0歳児を抱っこしているではないか。

え? 人さらい? なわけないよな。

事態が全くのみこめない。 

 

あわてて走っていくと、そのおばさんはこういった。

「こんな暑い日に、子供おいて何してるの!! この子らものすごい汗かいて、大泣きしてたんよ!私が通りかかったからよかったけど、もし誰も気づかなかったら、どうなってたかわからんよ!」

 

おばさんがたまたま通りかかったとき、子供たちが目を覚まして泣いていたのだ。親切なおばさんは、少しだけ開けてあった窓の隙間から手を突っ込んで鍵を開け、チャイルドシートに固定されていた0歳児をだっこし、2歳児の手を握って、二人の子供をあやしてくれていたのだった。 

私はそのおばさんに向かって「すみません、ほんとにすみません」と平謝りに謝り、「ほんとに、ほんとにありがとうございました」と何度もお礼を言って、2歳の次女と0歳の長男を受け取った。

 

 

  

 

 私だって初めから長い時間放っておくつもりなんかなかったわ。

 

 3人の小さい子供たちを連れて買い物することがどんなに大変か、あんたは知ってるのか。

  

 助けてくれたはずのおばさんに、なぜか怒りの感情が湧いてくる。

 

 

 

がそれと同時に涙が溢れてきた。

事の重大さにやっと気づいたからだ。

 

  

もし誰も気づいてくれなかったら、熱中症になっていたかもしれない。最悪は命を落としていたかもしれない。気づいてくれた人が親切な人だったからよかったけれど、手が入るぐらい窓を開けて行くなんて、もしかしたら誘拐されていたかもしれない。

 

  ちょっとだけ

ほんの10分だけ

その気の緩みが、命取りになる……

 

大きな大きな恐怖感と同時に

それを上回るぐらいの罪悪感が襲ってきた。

 

 

ごめんね、ごめん、

ほんまにごめん、ごめんなさい

もう二度としないから。

もう二度とどんなことがあっても置いていかないから。

わたしは子供たちを抱きしめて泣いた。

 

 

  

 

専業主婦なんだから、子育てぐらいは完璧にやらなきゃ。そう思っているのに、子育てすら完璧にできない自分が情けなかった。

 

 

 

 

そう私は 

一円の稼ぎもない専業主婦。 

社会でも役に立たず

家庭でも過ちを犯す。

 

 

 

自己肯定感のかけらもない

なんの取り柄もない

それが専業主婦の私なんだ。

 

 

 

 

このままでは自分がダメになる。

そう思った私は、仕事をすることにした。

 

 

 とはいっても、3人の子供を預けられるかどうかもわからない。預けられたとしても、雇ってくれるところがあるかどうかもわからない。

 

それでもなんでもいいから仕事がしたかった。

 

いや、仕事がしたかったわけではない。一円の稼ぎもない専業主婦という肩書きから脱出したかっただけだった。

 

 

 

 子供を保育園に預けて、営業の仕事をし始めた。

仕事は楽しかった。

その間は子供のためではなく私のために時間を使うことができたし、ほんの少しでも自分で稼いでいるという感覚があった。

 

何よりも専業主婦という肩書きから脱出できたという喜び、私にもできることがある、私も社会とつながっているんだ、という感覚はなにものにも変えがたいものだった。

 

 

 それから6年後、次男を出産し、少しの間専業主婦に戻った時期はあったものの、なんだかんだと今まで仕事を続けてきた。

 

当時0歳だった長男は、もうすぐ20歳になる。 

今ふりかえってみると、専業主婦だった期間は、思ったほど長くはなかった。なのになぜあんなに苦しかったのだろうか?

  

 

 

それは

専業主婦=主婦しかできない人

 

つまり

能力がない

仕事ができない

一円も稼げない

社会貢献できてない

という公式を頭の中で勝手に作っていたからだった。

 

 

 

 

誰が言ったか知らないけれど、3食昼寝付き、そんな専業主婦に私は出会ったことがない。専業主婦ってそんなに甘ったるいもんじゃない。

 

 社会的に役に立っていないのだから

せめて主婦業ぐらいは

せめて子育てぐらいは

せめて親の面倒ぐらいは

そうやってせめて、せめて、と自分をせめたてて、どんどん自分を追い詰めてしまう。

  

今の若い人はわからないけれど、私たちの世代の専業主婦にはそんな方が多いのではないだろうかと思う。

 

 果たして専業主婦に能力がないのだろうか?

実は今こんなふうに思っている。

 

私が今仕事ができているのは、もしかしたら専業主婦時代に養った能力が大きいのではないかと。

 

 

専業主婦の仕事量は半端ない。

たとえば子育てひとつとってみても、365日24時間、いつでも出動できる体制をとっておかなければならない。

その上、私の思いどおりになることは何一つない。子供はいつ腹が減るかわからない、いつ泣くかわからない、いつ寝るかわからない、いつ病気になるかわからない。

要は、いつ何が起こるかわからないし、いつ何を言い出すかわからないという不確定要素だらけの中で、こなさなければならない掃除、洗濯、買い物、料理、後片付け、等のルーチンワークは山のようにある。

 

無計画に一日過ごしていると、ルーチンワークが何もできていない、という状況に陥ってしまう。突発的な出来事を想定しながらも、ルーチンワークは確実にこなす、ということを日々こなしていくのだ。

 

家事も育児も、何一つ翌日回しにはできない。一日のスケジュールを頭の中にイメージし、どの順番でどうこなしていけば一番効率的かを考えつつ、そこに突発的要素が入っても対応できるような柔軟性も同時に持っておく。

 

子供の成長とともに、事態はどんどん変化していくから、常にプログラムを更新し続けなければならない。なおかつ、ミスも許されない。こんな重大かつ壮大なプロジェクトを、世の専業主婦たちは、パソコンの一台も使わずに自分の頭の中だけで処理し、黙々とこなしているにも関わらず、過去の私のように、私にはなんの取り柄もない、と思っているとしたら、それは大きな誤解だ。

 

なぜなら、

家事は社会貢献している夫を支える最も大切な仕事だから。

子育ては、これから社会に貢献する人材を育てる最も大切な仕事だから。

 

もしかしたら、世の中を動かしているのは、国会議員でも官僚でもなく、専業主婦なのではないかと思っているのだけれどどうだろう? 大げさだろうか?

 

記事:あおい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〇〇のできない、できる人

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「もう! またぁ?」

私は、ほぼ毎回失敗していた。その度にチームメイトからこんな声が漏れた。

私だってみんなの足を引っ張ることなんてしたくない。こんなルールを考えた人は誰なの!

 

私は昔から運動、特に球技が苦手だった。「ボールをよく見て!」なんてよく言われたけれど、見ることができない。だって怖いのだもの。考えてもみてほしい。大きな物体が自分の目の前にすごいスピードで迫ってくるのだ! そんなもの、直視するなんてできない。私にそんな強い心臓は内蔵されていないのだ。

 

私が学生の頃、毎年「運動能力測定」というものが実施されていた。全国の小中学生のデータをとる目的で行われていたのだと思うのだけれど、私は毎年とても憂鬱だった。基本的に運動音痴であるため、たいていの測定種目は平均以下であるし、何よりも「ボール投げ」という目をそむけたくなるような種目があるのだ。

このボール投げ、定位置からボールを投げて、その飛距離を測定するのだけれど、測定される最低ラインは10メートルから設定されている。私は必死に、全身の力を集中させてボールを投げるのだけれど、ほぼ毎回、その10メートルラインより手前に落下する羽目になる。そして判定員に「測定不能」と冷たく告げられる。そして、それを見ているクラスメイトに笑われる。私にとって「運動能力測定」は毎年巡ってくる、恐怖の測定でしかなかった。

 

私は根っからの文系なので、理数系も大の苦手だ。けれど、体育はもっと嫌いだった。走ったり、ボールを投げたり、ぶつけられたり、飛んだり跳ねたり。何が面白いのかちっともわからない。辛くて、痛くて、しんどいことばかりではないか。

中でも一番嫌いだったのがバレーボールだった。授業なので、やらなくてはいけないことは仕方がない。100歩譲ってそれはよしとしよう。しかし、あのサーブのルールは何なのだ! 得意な人が担当すればいいではないか! どうしてグルグルと担当が変わり、やりたくない人が、やらせたくない人がやらなくてはならないのか。それがイヤでイヤで仕方がなかった。私はボール投げも測定不能なくらいの人間だ。そんな人にサーブをまかせるなんて。

私のサーブはボール投げ同様、ネットの手前で落下してしまうことが多かった。その度に、チームメイトからは冒頭の言葉が漏れるのだ。

「もう! またぁ?」

気持ちは痛いほどわかる。体育の授業とはいえ、折角の試合なのだ。できれば負けたくはないだろうし、みんな一生懸命やっているのだ。気持ちはわかる。そして私だってボールがネットの向こう側へ落ちるように毎回必死でサーブしているのだ。けれど、結果がついてこない。今思い出してみても苦々しい思い出だ。

運動が下手だったり、できなかったりする芸人にわざとスポーツをやらせて面白がる、という番組がある。その番組を夫と二人で見ていると全く違う反応になる。夫はとびぬけてはいないかもしれないが、それなりに運動ができるし、好きな方だ。だからできない人の気持ちがよくわからないのだと思う。テレビを見ながらゲラゲラとお腹を抱えて笑っている。しかし私はどちらかといえば、その芸人さん達の側の人間であるため、苦々しい顔で見てしまう。

 

私は運動音痴だから、いつも被害者、できない人間だと思って生きてきた。

けれども、これは思い込みだな、と今は思う。たいてい誰にでも得意、不得意はあるものではないだろうか? 不得意なことをしなくてはならないとき、得意な人を羨ましくおもってしまうし、自分はどうしてできないのかと自分を責めたり、はたまたできる人のアラを見つけて批判したり、被害者意識を持ったりしてしまいがちだ。けれども、よく考えてみれば得意なことだってあるはずなのだ。私は家庭科が得意だった。料理をしたり、ミシンを使ったり。好きだったので何でもあっという間に終わってしまい、クラスメイトがミシンと格闘している中、どうしてそんなに遅いのか? と思っていたこともある。ああ、そうなのだ。バレーボールのとき「もう! またぁ?」と言われて傷ついていたけれど、ミシンになれば、逆に私が同じようなことを言っていたような気がする。お互い様なのだ。まれにオールマイティに何でもできる人もいたような気もするが、そういう人だって行くところに行けば、できない側に回ったりすることだってあるのだと思う。そうやって経験して、自分の得意なこと、不得意なことを知ることができるのだ。不得意なことをバネに得意なことを頑張ることだってあるだろう。

つまりは、自分のどこにフォーカスし、どのように感じて生きているのか、ということなのだと思う。私は今や、ボール投げの測定不能話は自虐ネタとして活かすことができている。できることもできないこともわかるからこそ、お互いに助け合うという考え方も生まれるのではないだろうか。できないことは、できる人に。できることは人の分まで。それでいいではないか、と思う。見方を変えれば、誰もができる人で、誰もができない人なのだから。

 

私はボール投げが不得意な、できる人だ。そう思えばなんだか嬉しくなってくる。

もうしたくない、できないボール投げはしない。それよりも、できることをやって、できる人として生きて行こうではないか。

 

 

記事:渋沢まるこ

かまってほしい病。

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生きるのがしんどい……

早く死にたい……

 

最近実家に行くと、2回に1回は、この言葉を発するようになった90歳母。

夫を早く亡くし、去年までしていた仕事もついに体力の限界とピリオドを打ち、

今は家で一人、庭の手入れをしたりテレビを見たりしながら過ごしているのだ

けれど、足腰が弱って、思うように体が動かなくなった今、出てくる言葉は

もうこの世から消えてなくなりたい、そのたぐいのことばかり。

 

 

この言葉を言われた時の最適な反応の仕方は何なんだろう?

といつも考えるけれど、答えは出てこない。

 

「何いうてんの、そんなこと言わんと、元気で長生きして」

そんな優しい言葉をかける気には到底ならない。

それは年に一度合うか合わないかの親戚か友人が言う言葉だ。

 

 

「だったら死ねば?」なんてことは口が裂けても言えないし、

「死にたい」という願望を叶えるために私が手伝えることなど何もない。

 

結局のところ、聞き流す、もしくは聞こえなかったふりをする、

最適とは言えないけれど、今のところこれしか方法がなく、

幸いにも聞き流したところでクレームが出るわけでもないのでそうしている。

 

 

本当は死にたいなんてウソだということもわかっている。

それどころか生きる気満々だ。

 

母は毎日大量の薬を飲み続けている。

血圧を上げたり下げたり、血をサラサラにしたり固まらせたり、

細菌を殺したり、胃や腸を動かしたり、それはもう忙しい。

 

 

生きているのがイヤだ、と何度も聞かされてイラッときて、

死にたいのなら、その薬全部やめたら?

喉まででかかったことがある。

絶対やめないことを私は知っている。だって「私はこの薬のおかげで

生きている」母はそう信じきっているのだ。

 

もしかしたら、薬を全部やめたとしても、何も変わらないんじゃないか、

とひそかに思っている。返って元気になるんじゃないか、なんてことも

思ったりしている。

 

早く死にたいと言いながら、薬は絶対にやめない、だって薬がないと死ぬから、

というこの矛盾に、随分と長い間つき合ってきてほとほと疲れてしまった。

 

 

とはいえ、私も中学生の時、死にたい、と思ったことがある。

思春期真っ只中、学校は全然面白くないし、親はうるさいし、面白いことなんて

何もない、何のために生きてるんやろ、何のために生まれたんやろ、

そんなことばかり考えるようになった。

 

考えても考えても、中学生のアタマでは答えが出るはずもなく、

何もかもめんどうくさくなって、もう死んでしまいたいと安易に考えていた。

 

かといって、それも口先だけで死ぬ気なんて毛頭なく、ただただ面白くない

現実世界から逃げたい、それだけのことだった。

 

 

なんだ、母親と一緒じゃないか。

死ぬ気なんて全くない、生きる気満々のくせに、そんな言葉を口にして、

結局のところどうしたかったんだろう、私は。

 

 

 

そう思ったとき、一つの言葉が頭に浮かんだ。

 

それは

かまって欲しい病。

 

 

私は母にかまって欲しかったんだ。

小さい頃は仕事が忙しくて、母には全くかまってもらえなかった。

いつも一人ぼっちだった。

かまってもらえない寂しさが募り募って、中学生になって、

かまってくれないくせに都合のいいようにコントロールしようとする

それがイヤでイヤでたまらなかった。

 

いっそのこといなくなってしまったら、私をかまわなかったことを

後悔するんじゃないか?

そしてちゃんと私の方を向いてくれるんじゃないか?

ちゃんと私のことを考えるんじゃないか?

 

自分では気づいてはいなかったけれど、今思えば心の奥底では

そんなふうに思っていたのかもしれない。

 

 

 

月日が経って気がつけば、母親のことなんてどうでもよくなっていた。

あんなにかまって欲しかったのに、もうどちらかというとほっといてほしい、

いつの間にかそんなふうに思うようになっていた。

 

 

その代わりに今度は、夫にかまって欲しい、と思うようになっていた。

ところが残念ながら、夫にもかまってもらえなかった。

一緒に住んでいるにも関わらず、心の中は一人ぼっちだった。

 

今度はさすがに死にたいとは思わなかったけれど、ずっとすねていた。

なんでみんな私をかまってくれないの?

 

 

 

今はわかる。なぜ私がかまってもらえなかったのか。

いや、かまってもらえなかったのではない。

母も夫も、私を大事にしてくれていたのだ。

 

ただ、私のかまって欲しい病は、私の都合のいい時に、

私の都合のいいようにかまってくださいという、とても身勝手なものだった。

そんなこと誰もできるわけがないのに。

それができるのは、自分しかいないのに。

 

 

 半世紀生きてきてやっと私は、かまって欲しい病から卒業しつつある。

他人にかまってもらわなくても、自分で自分をかまってあげることが

できるようになったからだ。

 

 

自分が食べたいと思うものを食べ、

自分がやりたいと思うことをして、

自分が行きたいと思ったところに行き、

会いたいと思う人に会う。

自分を最大限にかまってあげることができるようになったら、

人にかまってもらう必要が無くなったのだ。

 

 

その代わりに、今度は母がかまって欲しい病を発病してしまっている。

死にたい、というのは間違いなくかまって欲しいのサインだ。

それがかえって逆効果であるということ、母は気づいていない。

私にはわかる。だって自分も同じ病気だったから。

 

 

とはいえ、90歳の年老いた母に、

自分で自分をかまってあげなさい、といったところで、それがどういうこと

なのか理解できないだろうし、

身も心も弱っている彼女に自分でなんとかしろというのは酷な話かもしれない。

 

かまってほしい病の90歳の母に効く薬は、今のところ見つかっていない。

結局のところ、上手に聞き流すのが私にとっても母にとっても一番の特効薬

なのかもしれない。

 

記事:あおい

 

 

 

 

 

両想いになって年賀状を送ったら嫌われた理由

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私は重い女だ。

若かりし頃の恋愛が破綻したのは、ほぼこの私の重さのせいだったと言っても過言ではないと思う。

口では「サバサバしてるのがいいよね」だとか「私サバサバしてるから」なんて言っていたが、今考えるとちっともサバサバなんてしていなかったと思う。サバサバしているのが理想なのであれば理解できるけれど。まぁ、その頃のサバサバと今思うサバサバの意味合いが違うと言ってしまえばそれまでかもしれない。

 

小学生の頃、好きな男の子と両想いっぽくなり、有頂天になって年賀状を送ったら嫌われた。

私の好きな気持ちが止められなかったからだ。

最初は普通に年賀状を書いたのだけれど、そのうちに気持ちがあふれてしまい、文章の途中にところどころ小さく「好き」と書いてみた。けれど、さすがにそれでは文章が意味をなさないし、デザイン的にもおかしい、ということは小学生でもわかった。なので、私はその「好き」にシールを張ってみたのだ。うん、これならばなんとか普通の年賀状だ。ここでやめておけばよかったのだけれど、何と言っても好きが止められない小学生の私は、またおかしなことを追加し始めた。シールの下に気持ちが書かれていることがわからなければ意味がないではないか! と思った私はシールを少しだけ剝がれるように細工をした。ああ、もうその辺でやめておけ! と大人の私は思うが、もちろんここで止まるわけがない。細工をしてもシールの下に気づくかどうかわからないではないか、と思った私は結局ハガキの隅に「シールの下を見てね」なんて書いてしまったのだ。重い、重すぎる……。思い返してみても嫌な女だ。私が男だったとしてもこんな女は嫌だ。これが、私が覚えている最初の重い女ストーリーだ。

 

中学生のとき、手づくりにハマり、自分で使うことはもちろん、友達にもあげていたけれど、正直あまり上手でもないのに好きな男の子にあげたこともある。手づくりクッキーだの、マフラーだの。ああ、重い女の象徴である手づくりの品。あの頃、これを平然とやっていた自分が恥ずかしい。穴があったら入りたい。ただ、お金もなかったからこれくらいしかできなかったという面もあっただろうとは思うけれど。

 

好きが止められない、手づくりのものを渡す。いいではないか、相手もそれを嫌がってばかりではなかったかもしれないではないか、と思ったりもする。そうかもしれない。けれども、私が本当に嫌なのは「あまりにも自分本位である」ということなのだ。自分の好きが止められないのならそれも仕方がないのかもしれない。ただ、そんな年賀状をもらったら、相手はどう思うのか? という相手目線が完全に欠落していた。とにかく、自分自分! そしてもっと嫌なのは、この自分の気持ちに対して、同じだけ見返りを期待していたということだ。私はこれほどまでにあなたのことが好きなの! だからあなたもそれに対して同じくらい見返りを返してね! という暗黙の期待。もちろん、さすがに小学生の私はここまでのことは考えてもみなかったし、気づいてもいなかったけれど。

重さというのは、もしかしたらこういう背景にある「思い」のことを言うのかもしれない。

 

恋愛に限らず、実はこういう重い「思い」は随所に潜んでいる気がしてならない。

会社で「給料が安くて」とか「上司が評価してくれない」とか愚痴を言っていたときも、私の中にはこういう思いが渦巻いていた気がする。

私は一生懸命働いている! だから対価として給料をもっと欲しい。確かにお給料というのはそういう側面があると思う。しかし、そればかりでもないはずだ。やりがいであったり、楽しさだったり、チームワークであったり。お金以外で受け取ることも沢山あったのだ。しかし、私はそんなところには目もくれず、私が! 私が!。極端に言えば、私が一番頑張っています! こんな私を評価しないなんて! くらいに思っていた。とにかく、見返りを求めて必死だったのだ。こんな人が重くないわけがないのだ。

今冷静に考えてみると、確かにあの頃私は「必死」に働いていた。結構仕事もこなしていたし、頼まれることにNOを言うこともあまりなかった。しかし、その分期待は膨れ上がり、満たされない期待に落胆し、愚痴をこぼしていた。考えてみれば当たり前のことなのだ。自分の期待通りに人は動かないし、だからこそ期待通りの見返りなんて返ってこないのだから。

 

それから、私はなるべく人に期待しないことにした。

なんて書くと冷たい人のようにも思えるが、そういうわけではない。むしろ、いらぬ期待をかけない方が優しいのだ。どんなことをしても、どんなことを思っても、私も相手も自由ということなのだから。他人の評価ももちろん自由だし、期待もしない。私がサボろうが頑張ろうが、それをどのように評価されても私の範疇ではない。見方は人それぞれなのだ。

そんなふうに徐々に切り替えて過ごしていたら、ある日大きな見返りがやってきた。昇給と昇進が決まったのだった。あんなに私が必死に目指していたモノが、目指さなくなった途端にやってきたのだ。おかしなことだ。あんなに必死に働いていた頃に比べれば、期待しなくなってからの方が仕事量も減らしていたし、頼まれた仕事を断ることだってあったというのに。

 

とはいえ、私はいまでも重い女だと思う。もちろん、以前に比べれば多少軽くはなっていると思うけれど、それでもまだまだ理想には程遠い。けれども、本当に軽くなってしまったら、もうそれは死ぬときなのかもしれないとも思うから、まだ重い女として、試行錯誤の日々を続けようと思う。

 

 

記事:渋沢まるこ