まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

〇〇のできない、できる人

f:id:maruko-aoi:20170914162108j:plain

 

「もう! またぁ?」

私は、ほぼ毎回失敗していた。その度にチームメイトからこんな声が漏れた。

私だってみんなの足を引っ張ることなんてしたくない。こんなルールを考えた人は誰なの!

 

私は昔から運動、特に球技が苦手だった。「ボールをよく見て!」なんてよく言われたけれど、見ることができない。だって怖いのだもの。考えてもみてほしい。大きな物体が自分の目の前にすごいスピードで迫ってくるのだ! そんなもの、直視するなんてできない。私にそんな強い心臓は内蔵されていないのだ。

 

私が学生の頃、毎年「運動能力測定」というものが実施されていた。全国の小中学生のデータをとる目的で行われていたのだと思うのだけれど、私は毎年とても憂鬱だった。基本的に運動音痴であるため、たいていの測定種目は平均以下であるし、何よりも「ボール投げ」という目をそむけたくなるような種目があるのだ。

このボール投げ、定位置からボールを投げて、その飛距離を測定するのだけれど、測定される最低ラインは10メートルから設定されている。私は必死に、全身の力を集中させてボールを投げるのだけれど、ほぼ毎回、その10メートルラインより手前に落下する羽目になる。そして判定員に「測定不能」と冷たく告げられる。そして、それを見ているクラスメイトに笑われる。私にとって「運動能力測定」は毎年巡ってくる、恐怖の測定でしかなかった。

 

私は根っからの文系なので、理数系も大の苦手だ。けれど、体育はもっと嫌いだった。走ったり、ボールを投げたり、ぶつけられたり、飛んだり跳ねたり。何が面白いのかちっともわからない。辛くて、痛くて、しんどいことばかりではないか。

中でも一番嫌いだったのがバレーボールだった。授業なので、やらなくてはいけないことは仕方がない。100歩譲ってそれはよしとしよう。しかし、あのサーブのルールは何なのだ! 得意な人が担当すればいいではないか! どうしてグルグルと担当が変わり、やりたくない人が、やらせたくない人がやらなくてはならないのか。それがイヤでイヤで仕方がなかった。私はボール投げも測定不能なくらいの人間だ。そんな人にサーブをまかせるなんて。

私のサーブはボール投げ同様、ネットの手前で落下してしまうことが多かった。その度に、チームメイトからは冒頭の言葉が漏れるのだ。

「もう! またぁ?」

気持ちは痛いほどわかる。体育の授業とはいえ、折角の試合なのだ。できれば負けたくはないだろうし、みんな一生懸命やっているのだ。気持ちはわかる。そして私だってボールがネットの向こう側へ落ちるように毎回必死でサーブしているのだ。けれど、結果がついてこない。今思い出してみても苦々しい思い出だ。

運動が下手だったり、できなかったりする芸人にわざとスポーツをやらせて面白がる、という番組がある。その番組を夫と二人で見ていると全く違う反応になる。夫はとびぬけてはいないかもしれないが、それなりに運動ができるし、好きな方だ。だからできない人の気持ちがよくわからないのだと思う。テレビを見ながらゲラゲラとお腹を抱えて笑っている。しかし私はどちらかといえば、その芸人さん達の側の人間であるため、苦々しい顔で見てしまう。

 

私は運動音痴だから、いつも被害者、できない人間だと思って生きてきた。

けれども、これは思い込みだな、と今は思う。たいてい誰にでも得意、不得意はあるものではないだろうか? 不得意なことをしなくてはならないとき、得意な人を羨ましくおもってしまうし、自分はどうしてできないのかと自分を責めたり、はたまたできる人のアラを見つけて批判したり、被害者意識を持ったりしてしまいがちだ。けれども、よく考えてみれば得意なことだってあるはずなのだ。私は家庭科が得意だった。料理をしたり、ミシンを使ったり。好きだったので何でもあっという間に終わってしまい、クラスメイトがミシンと格闘している中、どうしてそんなに遅いのか? と思っていたこともある。ああ、そうなのだ。バレーボールのとき「もう! またぁ?」と言われて傷ついていたけれど、ミシンになれば、逆に私が同じようなことを言っていたような気がする。お互い様なのだ。まれにオールマイティに何でもできる人もいたような気もするが、そういう人だって行くところに行けば、できない側に回ったりすることだってあるのだと思う。そうやって経験して、自分の得意なこと、不得意なことを知ることができるのだ。不得意なことをバネに得意なことを頑張ることだってあるだろう。

つまりは、自分のどこにフォーカスし、どのように感じて生きているのか、ということなのだと思う。私は今や、ボール投げの測定不能話は自虐ネタとして活かすことができている。できることもできないこともわかるからこそ、お互いに助け合うという考え方も生まれるのではないだろうか。できないことは、できる人に。できることは人の分まで。それでいいではないか、と思う。見方を変えれば、誰もができる人で、誰もができない人なのだから。

 

私はボール投げが不得意な、できる人だ。そう思えばなんだか嬉しくなってくる。

もうしたくない、できないボール投げはしない。それよりも、できることをやって、できる人として生きて行こうではないか。

 

 

記事:渋沢まるこ