まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

私の壮大な実験

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今、私は壮大な実験の途中である。

なんて書くと、ノーベル賞ものなのか? どんなすごい実験を行っているのか? と思われるかもしれないが、やっていることは「靴をならべること」だけなのだ。

 

私も夫も、もちろんきれいな部屋が好きなのではあるけれど、片付けがそんなに好きではない。だから、部屋はいつも「そこそこ」きれいにしている。見る人が見たら「汚い」部屋に分類されるかもしれない。

きれい好きの友人は「家に帰ってきて汚い部屋だと耐えられない」と言い、リモコン類は出掛けに全部机の上に「きちんと」並べておくそうだ。ああ、その時点で彼女は私と暮らせない……と思う。我が家のリモコンは、かろうじて机の上には載っているが、向きが揃っていることはそうそうないからだ。こういうこだわりは、いったいいつ頃から身についてくるものなのだろうか?

 

思い起こせば、私は小さい頃から片付けが苦手だった。あの頃から比べれば、今の方がまだマシなくらいではないだろうか。

「片づけないなら、全部ゴミだと思って捨てます!」と母に言われ、本当にゴミ袋に入れて捨てられそうになり、泣きながら「捨てないで!」と懇願したこともある。こんなことを書くと、どんな部屋だったのかと、もの凄い部屋を想像されてしまうかもしれないが、実は、自分ではそこまでひどい部屋だとは思っていなかった。だから、母の言うことがピンとこなかったのかもしれない。その証拠に、大体必要なものはどこにあるのかがわかっていた。だから、部屋中をひっくり返して、あれがない、これがないと言っていた記憶があまりないのだ。人から見たら汚い部屋だったのかもしれないけれど、当の本人は困っていないのだから片付けようという気もあまり起きなかったのも納得できるというものだ。

 

そんな私だけれど、個人的に「ここはきちんと!」というこだわりポイントがある。例えば、財布の中のお金の向きは全部揃えておかないと気持ちが悪い。財布に入っているレシートはなるべく早く処理したい。リモコンは並べないくせに、靴は玄関先できちんと並べておきたい。トイレのスリッパも同様に。

しかし、残念なことに、うちの夫はこの私の個人的ポイントには無頓着なのだ。私は結構いい加減な人間だ。だから、そんな人間の少ないこだわりポイントくらいは歩み寄ってくれてもいいのではないか? と思っていた。

「靴は並べてよ!」とか「よその家に行って恥をかくんだよ!」とか「ほら、またトイレのスリッパがぐちゃぐちゃだよ」とか、とにかく見つけるたびに小姑のように小言を言い続けた。こんなに小言を言われれば、きっとそのうち観念するに違いない。うるさい小姑を黙らせるには靴やスリッパを並べさえすればいいのだから。

しかし期待に反し、ことは一向に改善しなかった。そのうちに、小言を言い続ける私の方が疲れてきた。これは、夫の根気勝ちだった。

 

そこで考えた次なる作戦は、題して「並べられていることに慣れさせる作戦」だった。

きっと、夫は子どもの頃から靴を並べることなどあまりなく育ってきたのであろう。その情景が当たり前のものとして既にインプットされているに違いない。だから、並べていない方が当たり前で落ち着くのかもしれない。そうであるならば、今度はいつも並べられている、という環境が当たり前になればいい。それがインプットされてしまえば、並んでいない状態が気持ち悪いということになるのではないだろうか、と考えたのだ。そう思った私は、早速翌日から小言は封印し、並んでいない靴やスリッパを見つけるたびにキレイに並べる、という作業を繰り返した。

しかし、これも今のところちっとも成功していない。靴やスリッパを脱ぐという行為は、おそらく無意識で行っているのだろう。そして履くときにはすでにきれいに揃えられているのだから、それが当たり前なだけで、脱ぐときに揃えようという気持ちは湧かないのかもしれない。

 

私は壮大な実験を行っているつもりだったのだけれど、それはただの私の趣味だったのだ。

考えてみれば同じことではないか。母が幼い頃の私を脅しても、怒っても、さして困っていない私はあまり片付けようという気が起きなかったのだから。夫も靴を並べないことで特に困ったことに遭遇したことはないのだろう。結局のところ、この問題は私が私の思うように夫を動かしたかったというだけのことなのだ。靴やスリッパを並べることに価値を見出し、それが好きなのはあくまでも「私」なのだから。お互いにこだわりポイントが違う二人が、衝突しながらも何だかんだと同じ屋根の下に住んでいられるのだから、片方が靴やスリッパを並べないくらいのいい加減さがあった方がいいのかもしれない。

 

それでも、と私はまだ少し思う。何か画期的な方法があるのではないだろうか?

今は毎日そっと靴を並べながら、次なる作戦を考え中だ。本人が自ら喜んで並べる方法。並べずにはいられなくなる方法。これが成功したら、ある意味ノーベル賞ものかもしれない。

こうして、私の壮大な実験はこれからも続くのだ。

 

記事:渋沢まるこ