まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

〇〇のできない、できる人

f:id:maruko-aoi:20170914162108j:plain

 

「もう! またぁ?」

私は、ほぼ毎回失敗していた。その度にチームメイトからこんな声が漏れた。

私だってみんなの足を引っ張ることなんてしたくない。こんなルールを考えた人は誰なの!

 

私は昔から運動、特に球技が苦手だった。「ボールをよく見て!」なんてよく言われたけれど、見ることができない。だって怖いのだもの。考えてもみてほしい。大きな物体が自分の目の前にすごいスピードで迫ってくるのだ! そんなもの、直視するなんてできない。私にそんな強い心臓は内蔵されていないのだ。

 

私が学生の頃、毎年「運動能力測定」というものが実施されていた。全国の小中学生のデータをとる目的で行われていたのだと思うのだけれど、私は毎年とても憂鬱だった。基本的に運動音痴であるため、たいていの測定種目は平均以下であるし、何よりも「ボール投げ」という目をそむけたくなるような種目があるのだ。

このボール投げ、定位置からボールを投げて、その飛距離を測定するのだけれど、測定される最低ラインは10メートルから設定されている。私は必死に、全身の力を集中させてボールを投げるのだけれど、ほぼ毎回、その10メートルラインより手前に落下する羽目になる。そして判定員に「測定不能」と冷たく告げられる。そして、それを見ているクラスメイトに笑われる。私にとって「運動能力測定」は毎年巡ってくる、恐怖の測定でしかなかった。

 

私は根っからの文系なので、理数系も大の苦手だ。けれど、体育はもっと嫌いだった。走ったり、ボールを投げたり、ぶつけられたり、飛んだり跳ねたり。何が面白いのかちっともわからない。辛くて、痛くて、しんどいことばかりではないか。

中でも一番嫌いだったのがバレーボールだった。授業なので、やらなくてはいけないことは仕方がない。100歩譲ってそれはよしとしよう。しかし、あのサーブのルールは何なのだ! 得意な人が担当すればいいではないか! どうしてグルグルと担当が変わり、やりたくない人が、やらせたくない人がやらなくてはならないのか。それがイヤでイヤで仕方がなかった。私はボール投げも測定不能なくらいの人間だ。そんな人にサーブをまかせるなんて。

私のサーブはボール投げ同様、ネットの手前で落下してしまうことが多かった。その度に、チームメイトからは冒頭の言葉が漏れるのだ。

「もう! またぁ?」

気持ちは痛いほどわかる。体育の授業とはいえ、折角の試合なのだ。できれば負けたくはないだろうし、みんな一生懸命やっているのだ。気持ちはわかる。そして私だってボールがネットの向こう側へ落ちるように毎回必死でサーブしているのだ。けれど、結果がついてこない。今思い出してみても苦々しい思い出だ。

運動が下手だったり、できなかったりする芸人にわざとスポーツをやらせて面白がる、という番組がある。その番組を夫と二人で見ていると全く違う反応になる。夫はとびぬけてはいないかもしれないが、それなりに運動ができるし、好きな方だ。だからできない人の気持ちがよくわからないのだと思う。テレビを見ながらゲラゲラとお腹を抱えて笑っている。しかし私はどちらかといえば、その芸人さん達の側の人間であるため、苦々しい顔で見てしまう。

 

私は運動音痴だから、いつも被害者、できない人間だと思って生きてきた。

けれども、これは思い込みだな、と今は思う。たいてい誰にでも得意、不得意はあるものではないだろうか? 不得意なことをしなくてはならないとき、得意な人を羨ましくおもってしまうし、自分はどうしてできないのかと自分を責めたり、はたまたできる人のアラを見つけて批判したり、被害者意識を持ったりしてしまいがちだ。けれども、よく考えてみれば得意なことだってあるはずなのだ。私は家庭科が得意だった。料理をしたり、ミシンを使ったり。好きだったので何でもあっという間に終わってしまい、クラスメイトがミシンと格闘している中、どうしてそんなに遅いのか? と思っていたこともある。ああ、そうなのだ。バレーボールのとき「もう! またぁ?」と言われて傷ついていたけれど、ミシンになれば、逆に私が同じようなことを言っていたような気がする。お互い様なのだ。まれにオールマイティに何でもできる人もいたような気もするが、そういう人だって行くところに行けば、できない側に回ったりすることだってあるのだと思う。そうやって経験して、自分の得意なこと、不得意なことを知ることができるのだ。不得意なことをバネに得意なことを頑張ることだってあるだろう。

つまりは、自分のどこにフォーカスし、どのように感じて生きているのか、ということなのだと思う。私は今や、ボール投げの測定不能話は自虐ネタとして活かすことができている。できることもできないこともわかるからこそ、お互いに助け合うという考え方も生まれるのではないだろうか。できないことは、できる人に。できることは人の分まで。それでいいではないか、と思う。見方を変えれば、誰もができる人で、誰もができない人なのだから。

 

私はボール投げが不得意な、できる人だ。そう思えばなんだか嬉しくなってくる。

もうしたくない、できないボール投げはしない。それよりも、できることをやって、できる人として生きて行こうではないか。

 

 

記事:渋沢まるこ

かまってほしい病。

f:id:maruko-aoi:20170908213816j:plain

 

生きるのがしんどい……

早く死にたい……

 

最近実家に行くと、2回に1回は、この言葉を発するようになった90歳母。

夫を早く亡くし、去年までしていた仕事もついに体力の限界とピリオドを打ち、

今は家で一人、庭の手入れをしたりテレビを見たりしながら過ごしているのだ

けれど、足腰が弱って、思うように体が動かなくなった今、出てくる言葉は

もうこの世から消えてなくなりたい、そのたぐいのことばかり。

 

 

この言葉を言われた時の最適な反応の仕方は何なんだろう?

といつも考えるけれど、答えは出てこない。

 

「何いうてんの、そんなこと言わんと、元気で長生きして」

そんな優しい言葉をかける気には到底ならない。

それは年に一度合うか合わないかの親戚か友人が言う言葉だ。

 

 

「だったら死ねば?」なんてことは口が裂けても言えないし、

「死にたい」という願望を叶えるために私が手伝えることなど何もない。

 

結局のところ、聞き流す、もしくは聞こえなかったふりをする、

最適とは言えないけれど、今のところこれしか方法がなく、

幸いにも聞き流したところでクレームが出るわけでもないのでそうしている。

 

 

本当は死にたいなんてウソだということもわかっている。

それどころか生きる気満々だ。

 

母は毎日大量の薬を飲み続けている。

血圧を上げたり下げたり、血をサラサラにしたり固まらせたり、

細菌を殺したり、胃や腸を動かしたり、それはもう忙しい。

 

 

生きているのがイヤだ、と何度も聞かされてイラッときて、

死にたいのなら、その薬全部やめたら?

喉まででかかったことがある。

絶対やめないことを私は知っている。だって「私はこの薬のおかげで

生きている」母はそう信じきっているのだ。

 

もしかしたら、薬を全部やめたとしても、何も変わらないんじゃないか、

とひそかに思っている。返って元気になるんじゃないか、なんてことも

思ったりしている。

 

早く死にたいと言いながら、薬は絶対にやめない、だって薬がないと死ぬから、

というこの矛盾に、随分と長い間つき合ってきてほとほと疲れてしまった。

 

 

とはいえ、私も中学生の時、死にたい、と思ったことがある。

思春期真っ只中、学校は全然面白くないし、親はうるさいし、面白いことなんて

何もない、何のために生きてるんやろ、何のために生まれたんやろ、

そんなことばかり考えるようになった。

 

考えても考えても、中学生のアタマでは答えが出るはずもなく、

何もかもめんどうくさくなって、もう死んでしまいたいと安易に考えていた。

 

かといって、それも口先だけで死ぬ気なんて毛頭なく、ただただ面白くない

現実世界から逃げたい、それだけのことだった。

 

 

なんだ、母親と一緒じゃないか。

死ぬ気なんて全くない、生きる気満々のくせに、そんな言葉を口にして、

結局のところどうしたかったんだろう、私は。

 

 

 

そう思ったとき、一つの言葉が頭に浮かんだ。

 

それは

かまって欲しい病。

 

 

私は母にかまって欲しかったんだ。

小さい頃は仕事が忙しくて、母には全くかまってもらえなかった。

いつも一人ぼっちだった。

かまってもらえない寂しさが募り募って、中学生になって、

かまってくれないくせに都合のいいようにコントロールしようとする

それがイヤでイヤでたまらなかった。

 

いっそのこといなくなってしまったら、私をかまわなかったことを

後悔するんじゃないか?

そしてちゃんと私の方を向いてくれるんじゃないか?

ちゃんと私のことを考えるんじゃないか?

 

自分では気づいてはいなかったけれど、今思えば心の奥底では

そんなふうに思っていたのかもしれない。

 

 

 

月日が経って気がつけば、母親のことなんてどうでもよくなっていた。

あんなにかまって欲しかったのに、もうどちらかというとほっといてほしい、

いつの間にかそんなふうに思うようになっていた。

 

 

その代わりに今度は、夫にかまって欲しい、と思うようになっていた。

ところが残念ながら、夫にもかまってもらえなかった。

一緒に住んでいるにも関わらず、心の中は一人ぼっちだった。

 

今度はさすがに死にたいとは思わなかったけれど、ずっとすねていた。

なんでみんな私をかまってくれないの?

 

 

 

今はわかる。なぜ私がかまってもらえなかったのか。

いや、かまってもらえなかったのではない。

母も夫も、私を大事にしてくれていたのだ。

 

ただ、私のかまって欲しい病は、私の都合のいい時に、

私の都合のいいようにかまってくださいという、とても身勝手なものだった。

そんなこと誰もできるわけがないのに。

それができるのは、自分しかいないのに。

 

 

 半世紀生きてきてやっと私は、かまって欲しい病から卒業しつつある。

他人にかまってもらわなくても、自分で自分をかまってあげることが

できるようになったからだ。

 

 

自分が食べたいと思うものを食べ、

自分がやりたいと思うことをして、

自分が行きたいと思ったところに行き、

会いたいと思う人に会う。

自分を最大限にかまってあげることができるようになったら、

人にかまってもらう必要が無くなったのだ。

 

 

その代わりに、今度は母がかまって欲しい病を発病してしまっている。

死にたい、というのは間違いなくかまって欲しいのサインだ。

それがかえって逆効果であるということ、母は気づいていない。

私にはわかる。だって自分も同じ病気だったから。

 

 

とはいえ、90歳の年老いた母に、

自分で自分をかまってあげなさい、といったところで、それがどういうこと

なのか理解できないだろうし、

身も心も弱っている彼女に自分でなんとかしろというのは酷な話かもしれない。

 

かまってほしい病の90歳の母に効く薬は、今のところ見つかっていない。

結局のところ、上手に聞き流すのが私にとっても母にとっても一番の特効薬

なのかもしれない。

 

記事:あおい

 

 

 

 

 

両想いになって年賀状を送ったら嫌われた理由

f:id:maruko-aoi:20170831114325j:plain

 

私は重い女だ。

若かりし頃の恋愛が破綻したのは、ほぼこの私の重さのせいだったと言っても過言ではないと思う。

口では「サバサバしてるのがいいよね」だとか「私サバサバしてるから」なんて言っていたが、今考えるとちっともサバサバなんてしていなかったと思う。サバサバしているのが理想なのであれば理解できるけれど。まぁ、その頃のサバサバと今思うサバサバの意味合いが違うと言ってしまえばそれまでかもしれない。

 

小学生の頃、好きな男の子と両想いっぽくなり、有頂天になって年賀状を送ったら嫌われた。

私の好きな気持ちが止められなかったからだ。

最初は普通に年賀状を書いたのだけれど、そのうちに気持ちがあふれてしまい、文章の途中にところどころ小さく「好き」と書いてみた。けれど、さすがにそれでは文章が意味をなさないし、デザイン的にもおかしい、ということは小学生でもわかった。なので、私はその「好き」にシールを張ってみたのだ。うん、これならばなんとか普通の年賀状だ。ここでやめておけばよかったのだけれど、何と言っても好きが止められない小学生の私は、またおかしなことを追加し始めた。シールの下に気持ちが書かれていることがわからなければ意味がないではないか! と思った私はシールを少しだけ剝がれるように細工をした。ああ、もうその辺でやめておけ! と大人の私は思うが、もちろんここで止まるわけがない。細工をしてもシールの下に気づくかどうかわからないではないか、と思った私は結局ハガキの隅に「シールの下を見てね」なんて書いてしまったのだ。重い、重すぎる……。思い返してみても嫌な女だ。私が男だったとしてもこんな女は嫌だ。これが、私が覚えている最初の重い女ストーリーだ。

 

中学生のとき、手づくりにハマり、自分で使うことはもちろん、友達にもあげていたけれど、正直あまり上手でもないのに好きな男の子にあげたこともある。手づくりクッキーだの、マフラーだの。ああ、重い女の象徴である手づくりの品。あの頃、これを平然とやっていた自分が恥ずかしい。穴があったら入りたい。ただ、お金もなかったからこれくらいしかできなかったという面もあっただろうとは思うけれど。

 

好きが止められない、手づくりのものを渡す。いいではないか、相手もそれを嫌がってばかりではなかったかもしれないではないか、と思ったりもする。そうかもしれない。けれども、私が本当に嫌なのは「あまりにも自分本位である」ということなのだ。自分の好きが止められないのならそれも仕方がないのかもしれない。ただ、そんな年賀状をもらったら、相手はどう思うのか? という相手目線が完全に欠落していた。とにかく、自分自分! そしてもっと嫌なのは、この自分の気持ちに対して、同じだけ見返りを期待していたということだ。私はこれほどまでにあなたのことが好きなの! だからあなたもそれに対して同じくらい見返りを返してね! という暗黙の期待。もちろん、さすがに小学生の私はここまでのことは考えてもみなかったし、気づいてもいなかったけれど。

重さというのは、もしかしたらこういう背景にある「思い」のことを言うのかもしれない。

 

恋愛に限らず、実はこういう重い「思い」は随所に潜んでいる気がしてならない。

会社で「給料が安くて」とか「上司が評価してくれない」とか愚痴を言っていたときも、私の中にはこういう思いが渦巻いていた気がする。

私は一生懸命働いている! だから対価として給料をもっと欲しい。確かにお給料というのはそういう側面があると思う。しかし、そればかりでもないはずだ。やりがいであったり、楽しさだったり、チームワークであったり。お金以外で受け取ることも沢山あったのだ。しかし、私はそんなところには目もくれず、私が! 私が!。極端に言えば、私が一番頑張っています! こんな私を評価しないなんて! くらいに思っていた。とにかく、見返りを求めて必死だったのだ。こんな人が重くないわけがないのだ。

今冷静に考えてみると、確かにあの頃私は「必死」に働いていた。結構仕事もこなしていたし、頼まれることにNOを言うこともあまりなかった。しかし、その分期待は膨れ上がり、満たされない期待に落胆し、愚痴をこぼしていた。考えてみれば当たり前のことなのだ。自分の期待通りに人は動かないし、だからこそ期待通りの見返りなんて返ってこないのだから。

 

それから、私はなるべく人に期待しないことにした。

なんて書くと冷たい人のようにも思えるが、そういうわけではない。むしろ、いらぬ期待をかけない方が優しいのだ。どんなことをしても、どんなことを思っても、私も相手も自由ということなのだから。他人の評価ももちろん自由だし、期待もしない。私がサボろうが頑張ろうが、それをどのように評価されても私の範疇ではない。見方は人それぞれなのだ。

そんなふうに徐々に切り替えて過ごしていたら、ある日大きな見返りがやってきた。昇給と昇進が決まったのだった。あんなに私が必死に目指していたモノが、目指さなくなった途端にやってきたのだ。おかしなことだ。あんなに必死に働いていた頃に比べれば、期待しなくなってからの方が仕事量も減らしていたし、頼まれた仕事を断ることだってあったというのに。

 

とはいえ、私はいまでも重い女だと思う。もちろん、以前に比べれば多少軽くはなっていると思うけれど、それでもまだまだ理想には程遠い。けれども、本当に軽くなってしまったら、もうそれは死ぬときなのかもしれないとも思うから、まだ重い女として、試行錯誤の日々を続けようと思う。

 

 

記事:渋沢まるこ

オンナが褒めて欲しい時。

 

f:id:maruko-aoi:20170825162719j:plain

 

「変わった服やね」

 

あれは忘れもしない、結婚してまだ間がない頃だった。

ワンピースだったかなんだったか、はっきりは覚えていないけれど、

気に入って買った服を着て、出かけようとしているときのことだった。

夫が私の服を見て言ったのだ。「変わった服やね」と。

 

私は耳を疑った。

変わった服??

はあ?

芸人でもあるまいし、決してウケ狙いで買ったわけではない。

純粋に気に入って買った服を見て、だ。

 

「それって褒めてんの? けなしてんの?」

私は夫に詰め寄った。

 

夫は苦しまぎれに「褒めてるに決まってるやん」と言った。

いや、決して褒めてるとは思えなかった。

褒めてるなら素直に「いいね」「似合ってるね」と言えばいいじゃないか。

 だいたい普段から褒めてくれることなどないのに、今日に限って「変わった服」

とは何事だ。

 

当時は20代、まだまだ若くてかわいい時(自分で言うな)に

変わった服と言われて、「きゃあ、嬉しい♡」と喜ぶ女がいるとでも思ったの

だろうか?

 

 

結婚25年たった今、夫の性格から考えて、あの時きっとココロの中はこうだった

んだろうと推測している。

「その服は、決してボクの好みではない。けれど、人に自分の好みを押し付けるほど

ボクは強引な人間ではないから、あなたがそれでいいのならまあいいとしよう」

それが「変わった服」という表現になったのではないかと。

 

でもそのときは結婚したばかりで、そんなことはわからない。

私は結構ショックだった。もしかしたらそれ以来、

その服は着なかったかもしれない。

 

 

この変わった○○という表現を、夫は時々料理にも引用した。

 

彼は食に全く興味がない。

彼の食に対する考え方は、「満腹になればいい」だ。

だから、今日の夕食にどんな料理が出ていたか、

食材はなんだったか、そんなことには一切興味がないし覚えてもいない。

 

だいたいつい最近まで、

レタスかキャベツか白菜かの区別もついてなかったし(今も怪しいけど)

青菜に至っては多分今も理解できていないと思うし、

きくらげは海に泳いでいるくらげの親戚だとずっと思っていた。

 

料理が冷めていようが、どんな器に入っていようが、

そんなことはどうでもいい。

とにかく満腹になればいい。そしてあとは

彼の味覚による旨いか旨くないか、それだけ。

 

 

そんな夫だから、手の込んだ料理を作っても

それが手が込んでいるのかどうかもわからない。

 

ある関西の女性芸人が

今日の晩御飯何がいい? ってご主人に尋ねたら、

「今日は忙しかっただろうから簡単なものでいいよ。

トンカツとか」

って言うのを聞いて、彼女は「殴ったろかと思った」て言ってたけど、

うちの夫なら言いかねないと思った。

 

 

食のことは全くわからない、興味もない、そんな夫が、

なぜか私がたまに新しいものを作ったりすると、こういうのだ。

 

「これ、変わった味やね」

 

そこで私はまたはあ? となる。

普段美味しともまずいとも、何も言わないくせに

初めて食べるものに関しては、時折「変わった味」と表現するのだ。

 

そこで私はまた問い詰める。

「それって褒めてるん? けなしてるん?」

 

すると夫はまた苦し紛れにこういうのだ。

「褒めてるに決まってるやん」

 

褒めてるなら素直に「おいしい」と言え! 私はココロの中でいつも叫んでいた。

そもそも、変わった味というものが存在するのだろうか?

味といえば、甘味、辛味、酸味、苦味、塩味、旨味、

それ以外の味があったら教えて欲しいわ。

 

料理のこと何もわからんくせに、

そこだけなんで「変わった味」とか表現するわけ?

 

 

その時の夫のココロの声はきっとこうだったに違いない。

「この味はボクの好みではないけれど、食のことはよくわからんし、

せっかく作ってくれたからとりあえず今日は食べる。でも次はもういらんかな」

 

 

そういえば、髪型を変えた時にも

「変わった髪型やね」って言われた記憶がある。

 

 

 

 

そうだ、夫は自分の好みに合わないものを

変わった○○と表現しているのだ。

 

 

自分の好みではないけれど、だからといって

自分の好みを押し付けることがいいとは思わない。

 

だって、人それぞれ好みはあるし、

あなたが好んでその服を買ったのだろうし、

あなたは美味しいと思って作ったのでしょう。

  

だから、その服、ボクの好みじゃないから着るのやめて、とか

その料理、ボクの好みじゃないから作るのやめて、とは言いません。

 

でも、ボクは好きじゃないということも

少しわかってもらいたいと思う。

 

 

 

これはあくまで私の推測に過ぎない。

でもこれら思いが「変わった○○」というひとことに

集約されているとしたら

 

「変わった○○」という言葉は、

私をなるべく傷つけずに、自分の思いをさりげなく伝えるための

夫の最大の配慮なのかもしれない。もちろん無意識だけれど。

  

「変わった○○」は夫の優しさだったのだということにしておこう。

 

 

 

が、私は言いたい。世の中の男性たちに。

洋服、料理、髪型

オンナの3大褒めポイントを決して外してはいけない。

「変わった服」では決してオンナは喜ばない。

 「変わった味」と言われても嬉しくもなんともない。

「変わった髪型」なんてもってのほか。

 

 

たとえその服が、その料理が、その髪型が

自分の好みでなかったとしても

とりあえずは「いいね」と言って欲しい。

 

 

反対に言えば

そこさえ押さえておけば間違いないのだ。

 

一旦「いいね」と受け取ったら次はこう言って欲しい。

「その服もいいけど、ボクは、あの服の方が似合ってると思う」

「この料理もいいけど、ボクはあっちの料理の方が美味しいな」

「その髪型もいいけど、ボクはこっちの方が好きかな」

それが結果的に、あなた好みの女性を作ることになる。

 

 

 

あ、念のため言っておくと、我が家の場合は今更こんなこと言われても

もう手遅れである。「あ、そうなん?」で終わる。

 

なぜなら、私は夫に何を言われようと、

自分の着たい服を着て、自分の食べたいものを作って、

自分の好きな髪型にする幸せなオンナになってしまったから。

 

それは夫が、素直に褒めるのではなく

「変わった○○」という言葉を使い続けてくれたおかげだとしたら、

褒めてくれなかったことを感謝しなければならない。

 

 

褒めて褒めて褒めまくって自分好みのオンナにするか、

自分好みではないかもしれないけれど、

ご機嫌よく生きるオンナにするか、

それは男の腕次第。

 

 

これは実は反対もしかりで、

あるアメリカの作家が、男を成功させる3つの言葉として、

「素晴らしい! いい考え! あなたの言うとおりだわ!」

この3つを会話の途中にはさむだけでいい、と言っていたけれど、

実はほとんど言ったことがない。

 

それでもなんやかんやありながら、結婚して25年たったということは

結局は褒めても褒めなくても

どっちでも、どうにでもなる、ということなのだろうか。 

<終わり>

 

記事:あおい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、ある日突然に

f:id:maruko-aoi:20170815100549j:plain

 

携帯電話には、かなりの着信履歴が残っていた。それは、夫からのものだった。

 

平日の昼間、仕事をしているはずなのに、お昼休みの時間でもないのに、この履歴の量は尋常ではない。何かあったのだろうか? 私はすぐに折り返した。

「何かあったの?」

「死んだ。お母さんが……」

と夫は言った。私は

「ふざけたこと言わないで。本当は何なの?」

と言いかけたけれど、やめた。でも、ありえないから。にわかには信じられなかった。

 

自分も歳を重ねてくると、親の死がチラチラと頭の中をよぎることがある。

 

うちの両親は、というよりも、うちの家族は全員が弱い家だった。全員が何かしら病院にお世話になることが多かった。通院だけでなく、入院もたびたびあった。私も幼い頃からよく病院に連れて行かれものだ。今考えてみると、両親は、特に母は病院が好きだったのだろうと思う。好き、もしくは安心や落ち着きを覚えていたのではないかなと感じることがある。だからなのか、今も病院と施設を行ったり来たりしている。

それに対し、夫の家族は病院などほとんど行かない様子だった。むしろ、病院は嫌いといった感じがした。以前夫が入院することになり、彼が準備した荷物の中を覗いて驚いた。そこには、CDや本などがぎっしりと詰め込まれてあったからだ。彼の中では暇な入院生活をどうやり過ごすか? といったことしか頭になく、着替えが必要だなんていうことは考えられなかったようだった。私は入院するならこれと、あれと……といった感じで必要なものがすぐに思い浮かぶということがすでに体に染みついており、そんな自分に苦笑いしたものだ。

 

そんなわけで、親の死を考えるときはいつもウチが先だと思っていた。入退院を繰り返す親といつも元気な親。違いは明らかだったから。

なのに、夫の母が亡くなるなんて、夫がふざけているとしか思えなかった。しかし、電話口の声を聴いていると、これはおふざけではない、現実なのだとわかった。

どんな状態で、どんなふうに亡くなったのか? それで、私はどうしたらいいのか? 夫に聞いてみても釈然としない。夫も実家から電話があっただけで、全容を把握しているわけではなかったのだ。突然自宅で亡くなったので、これから警察も来るという。ざわざわとした心持ちのまま、私は携帯を握りしめてその場に佇むしかなかった。

 

お義母さんは文字通り、義理の母だ。夫の母、お姑さん。世間的には嫁姑問題といわれるくらい、仲が悪くて当たり前みたいに言われるが、私はお義母さんから何か嫌なことを言われたという記憶が全くない。もし同居でもしていたら、もっといろいろバトルなどがあったのかもしれないけれど、家も電車で2時間くらいかかるところにあったし、会うのはお盆とお正月くらいで、その他の接点はあまりなかった。だからお義母さんと腹を割って話したと感じたことはないけれど、私にとってはとてもいいお義母さんだった。

会えば「ウチのバカ息子は返品がききませんからね」とか「うちの子、ちゃんと家事してる?」とか私を気遣うようなことばかり言ってくれた。もしかしたら、いや、もしかしなくても、心の中では私のことで気に入らないことが沢山あったと思う。でも、そんなことは微塵も感じさせないお義母さんだった。それは、実の子どもである夫に対してもそうだったようだ。「あれはするな」「これはするな」と言われたことはあまりないらしい。息子のことが可愛かっただろうに、いや、可愛かったからなのか、私が知る限りでもほとんど干渉しないお義母さんだった。それでも、たまに息子の好物を送ってくれたり、近所の野良猫に息子の名前をつけたりしていて、本当は息子が大好きなのだろうなと感じていた。夫は親戚の人にも「あんたのお母さんは、息子がなかなか帰ってこないから、とうとう野良猫にあんたの名前をつけたのよ」と言われていた。

亡くなったあと、もっと実家に帰っていれば……、もっと話を聞いてあげればよかった……、などと夫は後悔していた。私は、だから何度も言ったじゃん! と思ったけれど、さすがに口に出しては言えなかった。きっとこれが、よく言われる親孝行したいときには親はなしということなのだろうと思ったから。

 

お義母さんは、その日の朝、洗濯を干していたそうだ。

そのあと、何だか調子が悪いから横になると言って布団に横になり、お昼にお義父さんが様子を見に行くと冷たくなっていたそうだ。

 

本当にあっけない亡くなり方だった。長らく病院に入院していた、というようなことがあれば、こちらも心の準備ができる。しかし、朝洗濯物を干していた人がお昼には亡くなっているなんて、ありうることだけれど、なかなか想像しがたい。

お義母さんの命日が近いからなのか、何だかこんな話を書いてしまった。

月並みな言葉だけれど、やっぱり会いたい人には会っておこう。照れとか恥ずかしさなんて取り払って、言いたいことも言っておこう。やりたいことは全部やっておこう。この話を書きながら、改めてしみじみとそう思った。

 

記事:渋沢まるこ

亀の死は、いつかどこかの私から今の私へのメッセージだった。

f:id:maruko-aoi:20170811132850j:plain

亀が死んだ。

 

次男が可愛がっていた小さなミドリガメ

4~5年前、彼が小学校4年生の時、用水路で見つけて我が家に連れて帰って

きた。

「名前、どうしよかなー」と悩んでいる次男に、「亀やから亀吉でいいやん」

と安易なネーミングを提案したのは私だ。

 

最初は嫌がっていた次男も、いつの間にか「亀吉」と呼ぶようになった。

水槽の中で、気持ちよさそうに泳ぐ亀吉。近寄って水槽をトントン叩くと、寄っ

てきて水面から顔を出す。餌を投げ入れると、首を伸ばして上手に口でキャッチ

する。

 

声をあげるわけでもなく、愛想をふりまくわけでもないが、こちらが近づいて

いくと、ちゃんとそれなりの対応をしてくれる。

そんな亀吉を、私は特別かわいいと思ったわけではないけれど、生き物を飼うと

いうことは、最後まで面倒を見るということ、キミが責任を持ってお世話するん

やで、とそれだけは次男に念を押した。

 

というのも過去に長男がカエルを二匹捕まえてきたとき、ちゃんと世話をすると

いいながら餌もやらずに放置したあげく、最後には共食いをして死ぬという悲惨

な光景を目の当たりにしたことがあったから。次男の性格上、そんなことには決

してならないとは思うけれど、それでもしつこく言わずにはいられなかった。

 

そのいいつけを守って、次男はちゃんとお世話をした。

毎日餌をやるのはもちろんのこと、亀吉の住環境をよくするためにホームセンター

の亀用品売り場に行っては、水を濾過するためのフィルターやら、亀の遊び道具

やら、様々調達してきた。定期的に水を入れ替えたり、水槽の大きさを大きくし

てみたり小さくしてみたり、亀一匹にそこまでしなくてもいいんちゃうん? と

思うこともしばしばあったけれど、まあ本人が楽しくやっているならそれでいいか

と思い、あえて口出しはしなかった。

 

亀吉が甲羅の病気になったときも、ネットで治療方法を調べて、日光浴させたり、

薬をつけたりして献身的にお世話をしていた。そんな様子をそばで見ながら、

私は一切手出しをしなかった。

私にとっての亀吉の存在は、次男が大切にしている生きもの、そういう位置づけ

にしか過ぎなかったのだ。

 

 

「亀吉が死んだ……」

仕事から帰った私に、小さな声で次男が言った。

彼の手の中には、動かなくなった亀吉がいた。

 

 

 

えっつ……

 

信じられなかった。

だって、「鶴は千年、亀は万年」っていうやん……

私は心の中でつぶやいた。

 

 

もともと亀という生き物は、そんなに俊敏に動くわけではない。

もしかして眠ってるだけちゃうの? と次男に問いかけてみたけれど、

これから夏に向かおうとしているこんな時期に冬眠する訳もなく、

甲羅をちょんとつつけば、反応して首を出したり入れたりするはずなのに、

首はひっこんだまま動く気配もない。

 

どうやら、死んでいることは間違いなさそうだった。

 

 

 

ほんまに、死んでる……

その瞬間、涙が溢れてきた。

 

 

 

 

え? 何泣いてるん、私。

だって、あんた、別に可愛がってなかったやん。

 

週に一回、様子を覗きに行くかどうか、その程度の存在やったのに、

何泣いてるんやろ、私。

 

自分が泣いている理由が謎だった。

確かに年齢とともに、涙もろくなっているのは否めない。

だけど、亀が死んだぐらいで、こんなに泣く?

 

自分の不思議な行動を客観的に眺めているもうひとりの自分。

 

そんな私をよそに次男は、しばらく呆然と立ち尽くしていたものの、

「お墓作るわ」といって庭に穴を掘り始めた。

 

動かなくなった亀吉を、丁寧に木の葉で包み、土をかぶせ、目印の棒を立てた。

手を合わせる彼の横で、私も一緒に手を合わせた。

 

次男はそのあとも涙ひとつこぼさず、亀吉が今日まで住んでい水槽を洗い、不要

になった亀吉の遊び道具を処分し、最後のお世話を完了させた。

彼が冷静であればあるほど、私の涙は奇怪なものに見えてきた。

 

 

可愛がってもないくせに、なぜあんなに泣けてきたのか?

泣くことに理由なんてないのかもしれないけれど、私はその理由を知りたくなった。

 

そして、私は考えた末、こんな結論を導きだした。

私は息子の悲しみを先取りしていただけだったんだ、と。

息子があれほど可愛がっていた亀が亡くなって、さぞかし彼は悲しんでいるだろ

う、落ち込んでいるだろう。

「子供が悲しむのを見て悲しむ親の構図」だ。

 

ところが、思ったより子供は冷静だった。

だからこそ余計、違和感を感じてしまったのだ。

 

勝手に思い込んで、先取りして、

まるで一人ツッコミ、一人ボケ、しかも誰も見てない一人芝居だ。

 

いずれにしても、次男がそれほど落ち込んでいないのなら、

これ以上深追いする必要もないか……

 

そう思って、この亀の一件に関しては、それ以上追求するのをやめた。

 

 

 

それから1週間後のこと。

知り合いの占い師に、今後の運気を見てもらっているときのことだった。

彼女いわく、これまでも概ね、運気の流れに従って行動できている、

だからこれからも、何も心配することはない、ただ、カラダだけには気をつけて、

と。

 

 

そう、自分でもそう思う。

夫はマジメに働いてくれている。子供たちも大きくなって、特に問題もない。

食べるものもある、住むところもある、着る服もある、

好きなことやらせてもらっている、

なのに、ここ数年の焦り。この焦りはなんだ。

 

年齢のせいもあると思う。

今のように動ける時間はあまりないと思っている。

だからこそ、何か早く結果を出したい。まだまだ、今のままではあかん。だから

焦る。

 

 そんなことを話していたとき、

「じゃあ、最後にカード引いてみましょうか?」と彼女が言った。

 

そこにあったのは79枚の禅タロットカードだった。

彼女は慣れた手つきで、そのカードを私の目の前に広げてくれた。

 

「どれでもいいので、左手で一枚引いてください」

 

私はそっと一枚のカードを手に取り、表を向けた。

 79枚の中から直感で選んだカード、それは「亀」のカードだった。

そこには、遠くにある虹色の美しい光を求めて必死で進もうとしている亀の姿

があった。絵の下には、英語で「SROWING  DOWN」と書いてあった。

 

彼女がカードの解説をしてくれた。

「この亀は、遠くにある虹色の美しい光を求めて必死で進もうとしています。

でも、よく見てください、この亀の甲羅を」

 

 

私は、あっつ、と声を上げた。

 

 

その亀の甲羅は、はるか遠くにある虹色の美しい光と同じ色をしていたの

だった。

 

「この亀は、すでに持っているんです。虹色に輝く光と同じものを。

だけど、そのことに気づかずに、先を見て必死に進もうとしている。

もう持っているんですよ。それに気づきなさいってことじゃないでしょうか」

 

彼女にそう言われたとき、私の目の前に、

次男の手の中で動かなくなってしまった亀吉の甲羅が、フラッシュバックした。

カラダの中から、言葉では表現しがたい痺れるような感覚が湧き出てきた。

 

亀吉が死んだ時に泣けてしまった理由を、「子供が悲しむのを見て悲しむ親の

構図」だといいながら、何か違和感を感じていた。

そうではなかったんだ、とその時思った。

 

 

パラレルワールド、という言葉をご存知だろうか?

私自身、その解釈について詳しく語れるほどの知識を持ち合わせていないのだ

けれど、

 

もし、もしも、

今私が住んでいるこの世界は、無数にある世界のうちのひとつにすぎなくて、

 その無数の世界のあちこちにいる「私」という存在が、どこかでつながってている

としたら、その存在からのメッセージを様々な形で受け取っている、ということも

あり得るのではないかと。

 

 

もしかしたら亀吉は、私がすでに「虹色の甲羅を持っている」ということを、

死をもって伝えようとしてくれていたのではないだろうか?

そして、そのメッセージを亀吉に託したのは、どこかの次元にいるいつかの私。

 

 

 こんなSFのような話、他人からしたらバカバカしくて聞いていられないかもし

れない。 映画の見すぎもしれない。亀のカードを引いたのは、単なる偶然、そう

かもしれない。 

でも、それでもいいのだ。なぜなら、あの時の涙の理由が腑に落ちたから。

そう信じてそれで私が幸せなら、それでいいではないか。

 

 

たぶん、亀のカードを引いただけでは、私は納得していなかったと思う。

それだけでは、焦る気持ちを抑えられなかったと思う。いろんな言い訳をして、

無理をし続けていたかもしれない。

 

 

大丈夫、焦らなくてもいい。

あなたは既に持っている。

だから もっと大事にしなさい。

自分の命を大事にしなさい。

 

どこかの次元のいつかの私からのメッセ-ジ。

 

しっかりと受け取って、今すでにある自分の甲羅を磨いていこうと思う。

 

記事:あおい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人見知りは、かなりの傲慢だった

f:id:maruko-aoi:20170726124001j:plain

 

人見知りは、実は傲慢なのではないかと思う。

 

今でこそ私の人見知りもだいぶ緩和されてきたけれど、昔は「超」がつくほど人見知りだった。幼い頃、公園で遊んでいる何人かの子どもを見て、仲間に入れて欲しいと思ったけれど、私にできることは遠くから羨ましい顔で眺めることだけだった。心の中では「早く気づいて! 私がここで見ているでしょう? 一緒に遊ぼうと誘って!!」と必死に訴えていた。

その目に見えないアピールが届くこともあるけれど、もちろん届かないことも多かった。「ひとことでいいから! 一緒にやる? と言ってくれるだけでいいから! そうしたら、すぐにそこに入るから!」頭の中ではこんなセリフが次から次へとあふれ出ていた。そんなに遊びたいなら自分から言えばいいのに、と今なら思う。けれども、あの頃はどんなに心の中で叫んでいても、行動に移すことはできなかった。

今でもたまに小さい子どもが、あの頃の私と同じように羨ましい顔で見ている姿を発見することがある。それはとても微笑ましく見える。

 

私は「人見知りというのは奥ゆかしさでもある」と考えていたところもある。出しゃばりたくても、出しゃばれない、出しゃばらない。周りの空気をしっかりと読み取って、みんなが気を悪くしない程度に少しずつ自分の要求も出してみる。そんな奥ゆかしさを持っている人が人見知りなのだ。そう考えていた。

 

私が行くことにした高校はとても田舎の高校だった。もちろん受験はあるのだけれど、ほとんどの生徒が幼稚園、小学生の時から一緒というような高校だった。その中に、誰も知り合いがいない私が入学したのだ。完全にアウェイな場所に入っていくことになる。私はまたここでも心のアピールをした。「誰か話しかけてよ! 私には誰も知り合いがいないのよ!」程なくして、そのアピールを感じ取ったのか、一人の子が話しかけて来てくれた。

「一緒にお昼食べない?」

それからようやく少しずつ高校生活に慣れて行ったのだった。

 

人見知り……と言っても、程度の差が結構あるのかもしれない。ということを知ったのはかなり大人になってからだ。どう見てもあなたは人見知りではないよね? と思う人が「私も人見知りだよ」と言うのだ。いやいやいや、そんなわけないから! と否定してみたけれど、それは私が思うことなのであって、その人自身は人見知りだと感じているのだ。誰が何と言おうと、本人がそう感じていれば、それはもうきっと人見知りなのだろう。

人見知り……と一口に言っても、軽度から重度まできっと様々な人見知りがいるのだと思う。だから、私だって他人から見れば到底人見知りだとは思えない! と言われることだってありうるのだ。

 

私は大人になるにつれ、沢山の人に会うにつれ、人見知りが少しずつ解消されていった。

知らない人にこちらから話しかけるなんてことは、昔は全く考えられなかったけれど、随分とできるようにもなった。そうなってくると、ある日私は冒頭のことを思ったのだった。

 

人見知りは、実は傲慢なのではないか?

 

奥ゆかしいなんて言って美化していたけれど、結局のところ完全な受け身だった。自分は声掛けなどしないまま待っているだけで、相手にどうにかして欲しいと思っていたのだ。

みんな最初はどんな形であれ、たいていは緊張するものだ。声掛けしてみて、素っ気なく返されたらどうしよう、断られたらいやだな、嫌われたらいやだしな……と思うのだ。けれども、第一声を掛けるということは、その壁を乗り越えるということなのだ。人によってその壁の高低はあるかもしれないけれど。私は、人見知りだから……という言い訳を使って、無言で相手に圧力をかけていたことになる。あなたが動きなさいよ! 私は人見知りなの、だから私はこのまま待ってるから。声掛けしてくれたら、ちゃんと答えるから。

無意識であったとはいえ、自分は全く動かず、相手に動いてほしいと思っているということは、やはり傲慢だったのではないだろうか? 私は、自分だけが人見知りで、相手はそうではないと「勝手に」思っていただけだ。壁を乗り越えてゆく勇気がなかった。壁を乗り越えて、万が一断れたら、私は傷ついてしまう。だから傷つきたくなかったのだ。傷つくリスクを自分は負わず、相手に負わそうとしていたのだ。これが私の人見知りの正体だった。

 

私は自分の人見知りの正体を知って、ようやく少し大人になれたのかもしれない。リスクを自分でとるということもようやくできるようになった。私は「人見知り」という自分に都合のよい言い訳をつかって、いままでどれだけの人に甘えてきたのだろうか。どれだけの人に無言の圧力をかけてきたのだろうか。それでも、リスクを冒して、壁を越えて来てくれた人たちには感謝しかない。本当にありがたい。いい歳してやっと気づいたなんて恥ずかしいけれど。その上で私はこう思うのだ。

 

待ってて! 今度は私がリスクを冒して、壁を越えてゆくから!

 

 

記事:渋沢まるこ