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まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

私は 「かわいそうな子」 でした

まるこ

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「かわいそうに」

 

私はこの言葉を何度聞いたことだろう。母はことあるごとにこの言葉を発していた。近所の子が転んで膝を擦りむいた話をしたときも、いじめられている子の話をしたときも、大人が落ち込んでいるときも。あの当時は、確かにかわいそうだよね、と私も思っていた。けれども、今考えると一体かわいそうってなんなのだろうかと思うときがある。

母はときに「かわいそう」と言って、やりすぎではないかと思う行動に出るときがあった。

 

私が高校生のとき、あるクラスがクラスごと全員謹慎になる、という出来事がおきた。そのクラスの中の一人の子の家が民宿を営んでおり、夏休みにその民宿でクラスの「宴会」が行われたらしい。どこからバレたのかはわからないが、宴会ゆえ酒やタバコが飲まれており、学校側も分かった以上処分をせざるを得なくなったのだ。

私はそのクラスではなかったのだけれど、仲良くしていた先生がそのクラスの担任だった。謹慎が決まってから、その先生は明らかに落ち込んでいた。クラス内の一人や二人が謹慎ならばまだしも、クラス全員だったのだから教員内でも風当たりが強かったであろうことは容易に想像できる。確かに「かわいそう」な状況だった。

 

この件を家に帰ってから何気なく話したところ、母は「まぁ、かわいそうに。高校生ならお酒を飲むとかちょっとやってみたい年頃よねぇ。先生は直接関係ないのにねぇ」と言った。ここまでならば、普通の親子の会話としてよくある話ではないかと思うのだけれど、うちの母がやりすぎだと思うのはここからだった。

 

「先生を励ましてあげたいから、電話番号を教えて」

 

先生が私の担任だったのであればまだわかる。しかし、担任でもなければ面識もない、ただ子どもが多少仲良くしているだけの先生なのだ。私は止めた。

 

「いや、そこまでしなくてもいいと思うけど……」

 

しかし、母の決意は固かった。早速先生の自宅に電話を掛けて「お力を落とされないように……」とかなんとか言っていた。

 

あの当時もそれは行き過ぎではないのか? と思っていたが、やはり今改めて考えてみても行き過ぎだと思う。もし私がこの先生だったとしたら、仲良くしている生徒の親とはいえ、担任でもないクラスの父兄から突然励ましの電話をもらっても、そんなにうれしいとは思えない。まして、気分的にも落ち込んでいるときに知らない人からの電話だなんて逆に気を遣わなくてはならず、面倒なだけだ。

 

親に対して辛辣なことを言うようだが、母は「かわいそう」だと思われる人の役に立つ(であろうと自分が思う)ことで、自分の存在を肯定していたのではないかと思われる節がある。子どもに対してもそうだった。

 

私はある部活を辞めようとしていた。運動部だったので朝練がもちろんあるし、夜も帰りが遅くなる。うちは学区ギリギリのところにあったため、通学に片道一時間以上かかっていた。しかも、通学は徒歩のみと決められていたため、自転車にも乗れなかった。そんなこともあって、元々体力があまりない私は続けることが厳しくなってしまったのだ。

顧問はその当時「鬼」と恐れられた厳しい先生。だから、辞めることを告げに行くのは、結構勇気が必要だった。それでも限界を感じていた私は恐る恐る退部することを告げた。「鬼」先生は私の限界をわかっていたのか、意外とすんなり認めてくれたのだった。

ここまでは、よくある学生の話だと思う。しかし、母は電話こそしなかったものの、絶対渡すようにとその「鬼」先生宛の手紙を私に託していた。中に何が書いてあったのかはわからないのだけれど、あのとき、手紙を渡さなければよかったと今でも後悔している。

 

母は娘が体力の限界で「かわいそう」なことを助けようと思って手紙を書いたのだろうと思う。母からすれば愛情だったこともよくわかる。だけど。これは「過保護」ではなかっただろうかと思う。自分が始めたことの後始末は、やはり自分でしなくてはいけないと思うから。自分で入部したのなら、退部も自分でするのが筋だと私は思うのだ。もし、このとき顧問の先生が本当に「鬼」で、絶対に辞めさせない! と言ったのならば、そのときが初めて母が登場するときだったのではないだろうか?

 

私は無意識に「かわいそう」な子どもをやってきてはいなかっただろうか? 

 

と大人になってから思うようになった。子どもの頃はとても体の弱い子どもだった。昔から私がどんなに体が弱くて、看病が大変だったか……という話を、母から何度も何度も聞かされてきた。だから私は、かなり大人になるまでずっと「病弱」だった。私ってそういう人なんだと信じて疑わなかった。

けれども、色々なことを知るうちに、少しずつ疑問が湧いてきた。

「私は本当に病弱なのだろうか?」「私は本当にかわいそうなのだろうか?」

そう思って一つ一つ検証していくうちに、どうやらそれは思い込みの部分が大きいのかもしれないということが見えてきた。事実、私は若い頃より中年の今の方がどう考えても元気なのだ。

 

子どもは、特に小さいうちは家庭の「空気感」のようなものを敏感に察知するという話を聞いたことがある。であるならば、もしかしたら私は母の「かわいそう」探しを察知して、そのように振舞っていたということは考えられないだろうか。

そして私もその状況に慣れており、大人になっても無意識に「私ってかわいそうでしょ?」と人から同情されたい思いが消せないでいたのではないかと思うことがある。そういう風に同情してくれる人を、私は長らく「優しい人」だと思っていた。私はどこかで「私は弱いから、誰かに寄りかからないとだめなの」とも思っていた。やはり私は、かわいそうな人を無意識に演じていたのではないだろうか。これではいつまでたっても依存心の強い、自立できない子どものままだ。

 

そう気づいてから、私は「かわいそうな子ども」をやめた。親も老人であるし、子どものままの私でいた方が、もしかしたら親は嬉しかったかもしれない。事実、私は親に冷たくなった。けれど仕方がない。私の自立のためには、私が誰かの為でなく、自分のために生きるためには、少なくとも一旦こうしてみるしかなかったのだ。私は私のために生きる。親も子どものためではなく、自分のために生きる。お互いに卒業しなければいけないのだ。

 

親には感謝を! 親孝行しなくてはいけない!

こういう世の中で言われていることもわかる。私だってできればそうありたいと思う。だけど、その前にやることがあるのではないか? とも思うのだ。親も子どももお互いに自分のために生きてこそではないだろうか? それとも、依存したままの方がお互い幸せなのだろうか? 選択は人それぞれだ。

 

たとえ間違っていると言われても、私は自分のために生きる方を選ぶ。かわいそうな子から脱却するために。

水色のクレヨンが私に教えてくれたのは、素直になるということだった。

あおい

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「はーい、みんな、今からお絵描きの時間ですよ。クレヨンを出してくださーい」

 

先生の声掛けに、園児たちはそれぞれのお道具箱からクレヨンを取りだした。

画用紙がくばられ、園児たちは思い思いの場所で絵を書き始める。

雲一つない晴れ渡った秋の空。気持ちの良い風が吹いている。

 

4月から幼稚園に通い始めた私には、お気に入りの場所があった。教室をでたところの下駄箱のあたり、すのこがひいてあるところだ。そこは上履きに履き替えるための場所だったのだけれど、私はそのすのこの上に座るのが大好きだった。そこに座ると園庭がよく見える。ぞうさんの形をした滑り台や、地球儀のようなジャングルジム、カラフルな色に塗られたブランコ、そして見上げると青い空が広がっている。私はそこで絵を書くのが好きだった。

 

その日もいつものように、すのこの上に座って絵を書いていた。

今日はぞうさんの滑り台と砂場を書こう。

最初は滑り台。輪郭を書く。ちょっと鼻の形が変になったけどまあいいや。

滑り台の色は黄色。丁寧に塗っていく。

次は砂場。砂場はねずみ色。砂場で使うスコップやバケツも書いておこう。

そして最後に空。今日の空は水色。そう思いながら、水色のクレヨンを手にとったとき

のことだった。

 

コロコロコロ……

あっ……

 

つかむ間もなく、水色のクレヨンはすのこの上をころがり、あっという間にすのこの隙間から下に落ちてしまった。

手を伸ばして取ろうとしてみたけれど、すのこの隙間には手が入りそうで入らない。

 

どうしよう……

ショックだった。まさか落としてしまうなんて。

 

先生に言おうか?

でも恥ずかしい。いや、怒られるかもしれない。

どうしよう……私は泣きそうになっていた。

 

そんなことを考えている間に、

「はーい、お絵かきの時間は終わりです。お片付けをしてお弁当の時間だよ」

先生の声が聞こえた。私は後ろ髪を引かれながら、クレヨンをお道具箱の中にしまった。

 

 

何日かして、またお絵描きの時間になった。

私は水色のクレヨンを無くしてしまったことをすっかり忘れていた。いつものようにクレヨンを開けたとき、水色がないことを思い出した。落とした時の悲しい気持ちが蘇ってきて、また泣きそうになっていた。

今日はすのこの上で書くのは辞めよう。また落とすと悲しいから。

その日は教室の中で、小さくなって絵を書いていた。

 

すると、隣にいた男の子が、私のクレヨンを見て言った。

「なんで水色だけないん?」

私は黙っていた。

「なくしたんやろー?」彼は私を嘲笑うかのように言った。

「なくしてない」私は反論した。「今日は忘れてきただけ」

私が必死になればなるほど、彼は私をからかった。

「水色がないと、空も海も書かれへんで」彼は笑いながら言った。

「今日は水色使わへんからいいねん!」私は半泣きになりながら訴えた。

 

 

次のお絵描きの時も、また彼が私の隣にやってきた。

「今日は絶対空書くで。だから水色がないと書かれへんで」

「ほっといて!」そういうのが精一杯だった。私は内心不安でいっぱいだった。

 

みんなでお空を書きましょう、って先生に言われたらどうしよう?

私は水色がないから書かれへん……

どうしよう、どうしよう……

大好きだったお絵描きの時間がだんだん辛くなっていた。

 

「今日は水色、絶対使うと思うわ」彼はしつこいぐらいに繰り返した。

私は水色のところだけぽっかりと空いたクレヨンの箱を目の前にして、とうとう泣いてしまった。

 

 

「どうしたの?」先生が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。

私の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。もう黙ってはいられない。言うしかないと思った。

「あのね……、ヒーッ、みずいろの……ヒーッ、ヒーッ、クレヨン……ヒーッ、

落としたの……あの下に……えーーんうえーーん」

私は泣きながらすのこを指さした。

 

 

今から思えば、落とした時すぐに先生に言っていれば、すのこを持ち上げて探すことができたはずだ。けれども幼稚園児の私にはそんな発想はなかった。まさかあんな大きなすのこを持ち上げることができるなんて思っていなかったから。私の中では落としたら最後、二度と取り出すことはできないと思っていた。それくらい私にとっては重大な失敗だったのだ。だから言えばきっと先生に叱られると思った。「取り返しのつかないことをして!」と。

 

ところが、先生は何も怒らなかった。「よしよし、今までひとりで我慢してたんだね。困ったときはすぐ先生に言ってね。大丈夫、大丈夫」そう言って先生は、幼稚園にある予備のクレヨンの中から、水色のクレヨンを私に手渡してくれた。

 

 

それ以来、彼は私に近づいてこなくなった。どうやら先生にたんまりと叱られたようだ。

そしてなぜか、私の手元にはもう一つ、新品の12色入りクレヨンがあった。

私をからかった彼は、先生に叱られたあと、そのことを親に報告され、申し訳ないと思った彼の母親が、お詫びにと新品のクレヨンを持ってきてくれたのだった。

 

なんだか複雑な気持ちだった。私は何も悪いことはしていない。だけど……

結局私はその新品のクレヨンを使うことができなかった。

 

 

人に迷惑をかけたくないと思い、自分ひとりでなんとかしようとしたことが、結局自分の力ではどうすることもできなくなって、大きな迷惑をかけてしまうことがある。

「もっと早く言ってくれればよかったのに」と。

 

あのころの私は大人に気を使っていたんだと思う。大人に迷惑をかけないように、大人の手を煩わせないようにと、小さいながらも精一杯頑張っていたような気がする。5歳の私には、まだまだできないこと、わからないことのほうが多かったはずなのに。

 

いや、すっかり大人になった今も、できないこと、わからないことだらけだ。結局はいくつになっても、できないことをできないと素直に言えるか、わからないことをわからないと素直に聞けるか、本当はそれが人に迷惑をかけないことなのかも知れない。水色のクレヨンが私に教えてくれたのは、「素直になる」ということだったようだ。

S婦人の奇怪な行動から見えてきたものは、認めたくない真実だった

あおい

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「あっ、しまった……」

ある日の朝、娘を駅まで送り届けたあと、駐車場に車を入れようとしたとき、家の前を通り過ぎようとしていたS婦人と目が合ってしまった。


車の中から軽く会釈しながら、このまま通り過ぎてくれることを祈ったけれど、彼女は私の家の前で足を止め、私が車から降りてくるのを待っていた。
嫌な予感がした。なぜなら彼女は近所でも噂のややこしいおばさまだったから。

 

私は今から20年前にこの町に引っ越してきたが、それより随分前からS婦人はこの町に住んでいた。S婦人の家は私の家からすぐの道路を隔ててちょうど真向いにある。若い頃インテリア関係の仕事をしていたというだけのことはあって、家の外観はおしゃれなアメリカ郊外のお家を思わせる造りになっており、庭には大きなパラソルと、その昔エマニエル婦人が座っていたような籐でできた大きな椅子が鎮座しているのが木々の間から垣間見える。この付近には似つかわしくない家に住む彼女は、そういう意味でも有名だった。

 

ちょうど私たちが引っ越してきた頃、まだ若かったS婦人はエネルギーが有り余っていたのだろう。最初の騒動は、隣に住む老夫婦のおうちに、S婦人宛の郵便物が間違って届けられたことがきっかけだった。親切心からS婦人のおうちにその郵便物を届けに行った老夫婦の奥さんは、そこでS婦人からあらぬ疑いをかけられることになる。

 

S婦人は、その郵便物は間違って届けられたのではなく、老夫婦の奥さんがS婦人のポストから盗んでいったのだと言い始めた。普通に考えてなぜそんなことをする必要があるのか全くわからないし、疑いをかけられた奥さんはたまったもんじゃない。最初は優しく否定していた老夫婦も、何を言っても聞き入れないS婦人の態度に堪忍袋の緒が切れて、ご近所バトルが勃発した。早朝からS婦人の「泥棒!」と叫ぶ声、それに対して反撃する老夫婦。言葉の攻撃ではとどまらず、S婦人は本来なら庭の樹木に水をやるためのものであるところのシャワー式ホースで、隣の老夫婦の家めがけて思い切り放水すると、老夫婦も負けじとホースで応戦する。それだけではなく、老夫婦が泥棒だと言わんばかりの悪口を近所に触れて回り、しまいには、「隣人は泥棒です」と書いた看板を、老夫婦の家との境界である壁にでかでかと張り出すという始末。

 

もちろん引っ越したばかりの私たちの家にもやってきて、「あの老夫婦は泥棒だから気をつけなさい」と玄関先であることないこと長々と話をする。人の良さそうな老夫婦は本当にお気の毒だと思うのだけれど、下手に手出しをすると今度はこっちが何を言われるかわからないから、黙って嵐が去るのを待つしかない。

 

そんな険悪な状態が1年ぐらい続いていたのだけれど、老夫婦のご主人が病気になって入院されたことをきっかけにトラブルはおさまり、やれやれと思っていた矢先、次にS婦人のターゲットとなったのは、我が家の長男だった。

 

長男が小学校低学年のころだったと思う。家の前で友人たちとボール遊びをしていたところ、運悪くそのボールがS婦人宅の庭に入ってしまった。長男は友人たちと一緒にS婦人宅に行き、ボールが入ってしまったことを詫び、ボールを取りに庭に入ってもいいかどうかを確認した。まあ少しぐらい嫌な顔をされても、ボールを返してもらえると思っていた彼らは、それがとても甘かったことに気づいた。どうして道路でボール遊びをしているのか? なぜ公園にいかないのか? 道路がどういう場所なのか知っているのか? 等々S婦人の説教は一時間以上に及んだ。それだけでは留まらず、今度は私の家までやってきて、子どもたちに道路でボール遊びさせるとは何事だ! と私に向かって説教を始めた。

 

確かにおっしゃるとおり、道路でボール遊びはいけない。それを放置していた私にも責任はある。それは間違いない。けど、だけどね、そんなに恐ろしい顔して、ものすごい剣幕でまくし立てて言うほどのこと? 相手は子供だよ、もう少し優しく言えないか? と思いながらも、やはりどう考えても悪いのはこちらの方、平謝りに謝るしかない。「申し訳ございません、今後このようなことがないよう十分に気をつけます。子供たちも反省しておりますので、どうぞお許し下さい」と丁重に丁重に誤り、子供たちにも再度あやまりに行くように伝えた。

 

その時の対応がよかったのか、その事件以降、S婦人は手のひらを返したように私たち家族に親切になった。ある春先の日曜日、お昼ごろのことだった。突然ピンポーンとやってきて、「うちの庭でバーベキューするから、子どもさんたちと一緒にいらっしゃいな」と声をかけてきた。一瞬おっ、と怯んだけれど、ここで断るとまたややこしいことになりそうだし、ちょうど昼ご飯も今から作るところだったし、まあいいか、行ってみようと思って子どもたちとお邪魔することにした。

 

はじめて入るS婦人のお家は、想像したとおりにおしゃれなおうちだった。家具や調度品は全てヨーロッパから取り寄せたらしく、立派なソファの横にはブランデーの並んだサイドボード、一枚板の大きなテーブル、モニュメントのようなライトたちはいつどんなときに使うのか庶民の私には全く謎だったけれど、とにかく高級そうな家具が並んでいた。庭にはエマニエル婦人が座っていた椅子の他にも、見るからに高そうな置物が置かれていた。S婦人がボールの事件であれだけ激しく説教した意味がその時初めてわかった。息子がボールを投げ入れたとき、この置物に当たらなかったことが本当に救いだと思った。

 

その置物のそばに、一生懸命肉を焼いているS婦人のご主人の姿があった。帽子をかぶり、めがねをかけ、短パンとよれよれのTシャツを着た細身で初老の男性は、S婦人とは違って落ち着いた紳士に見えた。笑顔で私たちを迎え入れてくれた。どんどん食べなさいといって高級な肉を次々と焼いてくれた。

 

私たちは、ここぞとばかりにたんまりお肉をご馳走になり、ワインをいただき、デザートまで頂戴し、いい気分で帰ろうとしたとき、「これも持って帰りなさい」といって差し出されたのは、四角い箱に入った板チョコ、1ダース分だった。
「私、なんでも気に入ったら箱買いするの。洋服なんかもね、気に入ったら同じものを全色買うのよ。ただ食べ物は賞味期限があるでしょ。だから食べきれないのよ。オタクは子供さん多いから持って帰ってちょうだい」
思いもよらないプレゼントに大喜びの子供たちは、あのおばさん怖いと思っていたけど本当はいい人だよね、と言い始めた。もしかしたら本当はいい人なのかもしれない。あの隣人トラブルも、私たちが勝手に誤解をしていただけなのかもしれない、そんなふうに思ったりしていた。

 

そのバーベキュー以降、S婦人はことあるたびに私の家にやってきて、箱買いして賞味期限が切れそうになったポテトチップスやらチョコレートやらを持ってくるようになった。それだけなら嬉しい話だ。ところがおいしい話にはやはり裏があった。彼女はそのプレゼントと引き換えに、ご近所の苦情聞き係を私に要求してきたのだ。彼女の話をずっと聞いていてわかったのは、彼女は誰かを悪者にしないと気がすまないということだった。次のターゲットは引越ししてきたばかりの隣人だった。ゴミの捨て方に問題ありだとS婦人は指摘した。私に意見を求めてくる。そんなこと知らんわ、直接本人に話してくれよ、と思うのだけれど、それは言えないから、そうですね、と合わせておくしかない。せっかく彼女に気に入られていい状態を保っているのに、ここでまた嫌われてターゲットになっても困る。なんたってうちには前科があるのだから。黙って聞いておくしかない。そんなことが1年ぐらい続いてもういい加減うんざりしていたのだけれど、あるときからぱったり来なくなった。病気になったのか? 引越ししたのか? そんなことはどうでもいい、来なくなったことで私は平和な生活が取り戻せたことが嬉しかった。できることならこのまま一生会いたくないと思っていた。

 

そんな矢先に出会ってしまったのだ。家の真ん前で。
嫌な予感がした。

 

私が駐車場に車を停めると、S婦人は私のほうに向かって歩いてきた。
お久しぶり、お元気?」
「はい、元気です」
たわいのない挨拶から始まる。

 

「最近あまりみないけど、あなたどうされてるの?」
私は、ここ数年仕事が忙しいことや、子どもたちも大きくなったことなどを簡単に告げ、当たり障りのない会話をして家に入ろうと思った。ところがS婦人は私を離さなかった。

 

「ところでお母様はお元気?」
母のこと? 私の母のことなんて、家の前で数回であって立ち話したぐらいで詳しくは知らないはずなのに、今さら何を聞くねんと思ったけれど、「母は元気にしてますよ」と無難に返事をした。

 

するとS婦人は続けてこういった。「お兄様はお元気?」
はあ? 兄ですか? 確かに兄はいる。いるけれど、私の家に来たことなんて、それこそ20年のうちで10回あるかないか、しかも墓参りの途中で立ち寄ったぐらいのことで、長時間滞在したこともなければ、S婦人に出会ったこともないはず、なのに彼女は何を言っているんだろう? と思いながら、「はあ、元気にしてますよ」と答えると、彼女は唐突にこんなことを言い始めた。

 

「いやね、あなたのお母様とお兄様、もう随分と前のことだけれど、家の前で大声でけんかしてたじゃない。だからどうされてるのかなと思って。」

 

「けんか? 兄と母がけんかですか? そんなことしてませんよ。だいたい兄はこの家にほとんど来たことがないですし」
近所迷惑も顧みず、大声で喧嘩してたのはお前だろう、と言いたい気持ちをぐっとこらえて冷静に答えた。

 

「あら、あなた知らないのね、あなたのお母様とお兄様、あなたのおうちの前で大喧嘩していたの、近所でも噂だったのよ」

 

そんなことがあるはずがない。兄はこの家に住んだこともないし、めったに来ないといっているじゃないか。それに、お元気? ってその意味深な聞き方、まるで親子ゲンカがこうじてどうにかなっているのを期待しているかのような言い方じゃないか。何が言いたいんだ、こいつは? そんな気持ちを堪えながら、「それうちじゃなくて、お隣じゃないですか?」と私が答えると、「いえいえ、オタク、オタクのお母様とお兄様」「いや、そんなことはないと思うんですけど」「いえいえ、私この目でみましたもの」
私が違うといっても全く聞き入れる様子もない。

 

だんだんと腹がたってきた。そんな押し問答をしばらく繰り返しているうちに、とうとう私は堪忍袋の緒が切れた。

 

「おい、おばはん!! 黙って聞いてたら調子に乗り上がって、あることないことペラペラペラペラ言い上がって。喧嘩なんかしてないって言うてるやろ! だいたいな、喧嘩するようなタマじゃないねん、兄は。お前、人のことばっかり観察して指摘して、自分はどうやねん! 隣のばあさんとずっとバトルして、朝から大声で叫んでどんだけ近所迷惑やったか知ってるんか! このボケ、賞味期限が切れかかったお菓子持ってきて、ベラベラとしょうもない悪口聞かせあがって、気分悪いねん! だいたいな、自分のことばっかり喋って人の話を全然聞かへんやつが私は大嫌いやねん!!!」

 

ところが、実際に私の口から出た言葉はこれだけだった。
「そんなことはないと思うんですけどね……」

 

「あら、そうなの、あなた知らないのね。随分昔のことだからね。気になさらないで。お元気ならいいわ。ではまた」それだけ言って彼女は去っていった。

 

S婦人の後ろ姿を見送りながら、私は呆然と立ち尽くしていた。
な、な、なんなんだ、あいつは。何が言いたいんだ! ムカムカしていた。イライラしていた。突如として私の前に現れ、わけのわからないことを言い残し、去っていった彼女。私を苛立たせ、モヤモヤさせるだけさせておきながら、涼しい顔をして行ってしまった彼女。

 

彼女の目的は一体なんだったのか? 老夫婦とのトラブルの時にもわからなかったけれど、今回も彼女の目的がさっぱりわからない。もし仮に、私の母と兄が大喧嘩をしていたことが事実だったとしても、それを今私に告げたところでいったいどうなるというのか? ただ私を不快にさせたかっただけなのか? 相手を不快にさせてなにか楽しいことがあるのか?

 

いや、私のモヤモヤの原因はそれだけではなかった。苛立っている一番の理由は、そんなに腹立たしい思いをしながら、S婦人に対して何も言えなかった自分に対してだった。こんな理不尽な思いをしながらも、争いたくない自分、いい人でいたい自分。この期に及んでそんな思いに支配されている自分が、嫌で情けなくてたまらなかったのだ。

 

私はいつの間にか、物わかりのいい大人になりすぎていた。怒りの感情を抑え、いつも平静を装い、大人であり続けることが良いことだと思ってきた。ところがS婦人はそうではなかった。言いたいと思ったこと、聞きたいと思ったことを、良いも悪いもなくストレートに口に出す、まるで無邪気な子供のようだ。

 

これを認めるのはものすごく悔しいし腹立たしい。けれど認めざるを得ない。自分の正義を振りかざし、思ったことを口に出し、周りを振り回しても自分は幸せでいられる、そんなS婦人のことを、本当は羨ましく思っていたのだということを。私は心のどこかで、あんなふうになりたいと密かに思っていたのだということを。

 

そんなことを考えながら、S婦人の後ろ姿を見送っていたとき、
「もっと言いたいこと言いなさいよ、あなた」
彼女の後ろ姿がそう語っているように見えたのはきっと私だけだと思う。

真面目 + 余白 = 不真面目?

まるこ

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「もう! いっつも私ばっかり……」

私は長らくこう思ってばかりいた。学生時代の掃除もほとんどサボらず、周りがサボっている分まで掃除をすることもよくあった。会社員になってからも、やるべきことはもちろんのこと、どうしたら他の人達も使いやすくなるのか、なんてことを考えてファイリングを試行錯誤してみたこともある。とにかく、私の中の「真面目」がサボることを許さなかった。

以前働いていた会社で「あなたは黙々と仕事をしますよね」と言われたことがある。真面目ゆえ、ダラダラと仕事をすることができず、集中して仕事をしていたからではないかと思う。あの頃はほめ言葉だと思っていたけれど、近づき難い雰囲気を出していたからそう言われたのかもしれないな……と今は思う。

 

私の育った家には「ユーモア」や「笑い」が激しく欠けていた。冗談を言って笑った記憶がないし、下手な冗談を言うと「やめなさい」「くだらない」「嘘をつくのはよしなさい」などとたしなめられていた気がする。

高校生の時、同じクラスの子が「それは、うちの大蔵大臣に聞いてみないとわからないな」とその子のお母さんを大蔵大臣に例えて言った。今考えてみると、なんてことのない会話なのだけれど、当時この話を聞いたとき、私はなんて面白いことを言う人なんだろうと思って大爆笑したのだった。言った本人は、そんなに面白いかな? という顔をしてこちらを見ていた。その頃、私の中に「面白いことを言う」なんていうプログラムは組まれていなかった。

もちろん、面白いことなど言わなくても世の中は生きて行ける。むしろ、学生の時は面白いことの一つも言わず、黙々と勉強をする生徒の方が評価されたりする。だから私はこれでいいのだと思っていた。

 

大学生になり、私はお笑いの本場「関西」へやってきた。だけど、関西に行きさえすれば面白いことが言えるようになるわけではない。とにかくお笑い免疫がほとんどなかった私は、あの吉本新喜劇を見ても、何が面白いのかちっともわからなかった。テレビでお笑いの人を見て、何をふざけているのか! さっさと本題に入ればいいのに。時間の無駄だわ、と本気で思っていた。今思えば、お笑いの「ボケ」がわかっていなかったのだ。きっと頭がカチンコチンになっていたのだろう。

その後少しずつ関西に、お笑いには慣れたけれど、だからと言って面白いことが言える人になれた訳ではなかった。

 

関西の会社で働いていたとき、ある上司から「あなたは真面目だけれど、愛嬌がない」と言われたことがある。自分では精一杯愛嬌を振りまいているつもりだったから、その言葉はショックだった。それに、そう言われたからと言って、どうやって愛嬌を身につけたらよいのかわからない。結局そう言われたまま、私は何もできないままだった。

 

 

ところで「てへぺろ」という言葉をご存じだろうか? てへぺろとは照れ笑いやごまかし笑いの意味で用いられる若者言葉だそうだ。私もわりと最近知ったのだけれど、この言葉を知らない人も、テヘッと笑ってペロッと舌を出すしぐさと言えばわかるのではないだろうか。

このところ、私は精神的てへぺろを実践しているのではないか? と考えるようになった。この「てへぺろ」のしぐさそのものをする訳ではないのだけれど、精神的――つまり、心の中では気づけば「てへぺろ」を実践しているのだ。

何か失敗したら「いやぁすみません」と言って心の中では「てへぺろ」、「私、やっちゃいました!」と言いながら「てへぺろ」。

 

「真面目」一筋だった、あの頃の私にはありえなかった「てへぺろ」。失敗したら、完璧にできなかった自分の至らなさを責め、そんな私は結局使えない人なのだと思い込み、どんどん自分のことを否定していった、真面目な私。あの頃の私が見たら、てへぺろだなんて、そんな軽いノリで失敗をごまかそうだなんて、そうは問屋が卸さない! なんて責任感のない人なんだ! そう思って怒り心頭だったはずだ。確かにそうかもしれない。あの頃の私の方が真面目で仕事もきちんとやっていただろう。けれども、あの頃の私と決定的に違うことがある。私に愛嬌らしきものが出てきた! ということなのだ。そして、明らかにあの頃より今の方が生きやすい。周りの人達もとても優しく感じる。周りの人に恵まれているということもあるだろうけれど、これは「精神的てへぺろ」のおかげだ! と私は秘かに思っている。

 

どうして「てへぺろ」を実践できるようになったのかと言えば、私は完璧ではない、ということを受け入れられたからだろうと思う。もちろん、以前も自分が完璧だと思っていたわけではないけれど「完璧であらねばならない」と思っていた。でも、このねばならないから脱することができたのだ。そうすると何がいいって、まず自分がラクになるのだ。そして、他人にも完璧を要求しなくなる。だから自分にも他人にも優しくなり、結果、愛嬌らしきものも出てくるようになるというわけなのだ。

 

真面目一筋のあの頃、私は良くも悪くも孤高の人だった。自分にも他人にも厳しく、良かれと思ってしていたことも、ときには他人の領域を侵していた。学生時代の掃除もそうだった。人の分までやってしまい、疲れて、不満を持って、愚痴を言う。不満を持つくらいなら、愚痴を言うくらいなら、やらなければよかったのに。結局、孤高と言いながら、私は認めて欲しかったのだ。私って使える人間ですよね? ということを確認したかったのだ。

使える人間だったらどうだというのだろう? 使える人間というくらいだから、結局のところ「使われて」いるだけなのに。相手にとって、その会社にとって「使える」というだけで、本質的に素敵な人間なのかどうかなんてわからないのに。

 

私は以前に比べると「余白」を身につけられたのかもしれない。マス目にきっちり全部何かを埋めていたところを、あえて空けておく。何か他のものが急に入ってきても受け入れられる態勢。遊びを持たせておくのだ。

考えてみれば、お笑いには余白がいっぱいだ。例えば、漫才で言いたいことを箇条書きにして、まとめて言ってみてもきっと面白くない。ボケたり、同じことを何度も繰り返してみたり、無駄だと思うようなことが沢山あるから面白いのではないだろうか。そう、きっちり埋めておく、余白のない人はきっと面白くないのだ。ゆるく、身軽で余白を沢山持っている人の方がきっと面白い。

私はお笑い芸人にはなれないし、なる気もないけれど、少しばかり余白を持って、少しばかり面白い人になりたい。そのために、これからも私は「精神的てへぺろ」をやっていくだろう。だからと言って、私の真面目がなくなったという訳ではない。私は、真面目な「不真面目」をやっていくのだ。これが、真面目な私の余白の身につけ方だから。

 

記事:渋沢まるこ

 

自慢の父からスケベ親父への転落、からの復活

あおい

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「さあ、ウイットのきいた会話、しようぜ」
「あほちゃう? このおっさん。ウイットってなんやねん? そんな昭和な言葉知らんわ」娘はすかざず夫に突っ込む。

 

アホと言われようが、おっさんと言われようが、にこにこして娘と会話している夫。どんだけ娘好きやねんと思いながら、そんなアホな会話を楽しめる父と娘の関係を私はとても羨ましく思っている。というのも私自身、父親とそんなふうに会話を楽しんだという記憶がないからだ。

 

私は父が大好きだった。大正15年生まれの父は、私が生まれる前は航海士だった。大きな船で世界中を飛び回っていたそうだ。長身ですらっとしていて、英語も堪能だった。私が子どもだった昭和40年代の頃、当時まだ珍しかったパイナップルやマンゴを自らカットして、こうやって食べるんだよと教えてくれたり、8ミリビデオで私や兄を写しては映写機で上映会をしてくれたりと、時代の先端をいく自慢の父親だった。

 

父は基本優しかった。怒られたことは、私の記憶では2回だけしかない。
一度は小学生の時だった。ある日曜日のこと、雑誌の付録を作るのに夢中になりすぎて、お昼ご飯だと呼ばれたことに気づかなかった。普段はそんなことでは怒らないのに、その日に限って父は声を荒らげて「もう二度と食べるな!」といった。私は自分がしたことがそれほど悪いことだとは思わなかったから、父の怒りが理解できなかった。泣きながら付録を作り続けていたことを今でも覚えている。

 

もう一度は、大人になってから、OL時代に門限を破ったときのことだった。玄関で仁王立ちして立っていた。「何時やと思っとるねん!」父は大声で叫んだ。小学生の時、付録を作って怒られた時と同じ顔だった。でもその時、私は全く動じなかった。怖いとも思わなかった。仁王立ちしている父に「ごめん」とだけ言って自分の部屋に入っていった。

 

なぜなら彼はもう私の中では、小さかった頃の自慢の父親ではなかった。かっこいい父親の姿はすっかりなくなっていた。それはあるひとつの私の思い込みがきっかけだった。

 


話はふたたび小学生の時に遡る。航海士からサラリーマンになっていた父は、仕事から帰るとパジャマに着替えて食事をすませ、リビングでテレビを見ながらビールを飲むのが日課だった。あるとき父は、いつものようにビールを飲みながらテレビを見ていた。それは昔の映画だった。カラーじゃなかったと思う。外人が出ていたからたぶんアメリカ映画だったのだろう。私も同じ部屋でなんとなく一緒にテレビを見ていた。

 

すると突然、画面に裸の女性が登場したのだ! しかもひとりではなく次々と。その裸の女性たちは王様のような男性の周りで踊っていた。私は見てはいけないものを見てしまったと思った。しかも父親と一緒に! 気まずすぎる。小学生だった私は、黙ってその場を離れた。

 

離れたものの、気になって隣の部屋から観察していると、父は何のためらいもなく、その場面を見続けていた。私はそんな場面を見続けている父に対して、ある種の違和感を覚えた。が、そのときは違和感の正体がなんなのかわからなかった。今のようにチェックがきびしくなかったのだろうか、昭和40年代のテレビでは、女性の裸やきわどいラブシーンなどが唐突に登場することが時々あった。そんな時父は、その場面を嫌がることなく、むしろ好んで見ているように私には思えた。

 

何度か父のそんな場面に遭遇しているうちに、私は違和感の正体がなんなのかに気づいてしまった。

 

父はスケベだ! 女の人の裸をあんなに嬉しそうに見ているなんて、スケベ親父だ!!
小学校高学年のころには、完全にそう思うようになっていた。

 

そのことに気づいたものの、父親に向かってあなたはスケベ親父ですね、と言えるはずもなく、なぜあんなエッチな場面を躊躇なく見ているのかと問うこともできなかった。そのころから父に触られることが嫌になった。頭をなでたり、肩を組んだりされることも嫌になった。

 

極めつけの出来事は、高校生の時、母と3人で食事に行った時のことだった。食事を終えて駐車場まで歩いているとき、突然父が「胸大きくなったな」といって、私の胸をわしずかみにした。

 

私は驚いて声も出なかった。母が「もう、やめなさい」と父に怒って言った。父はその時なぜか嬉しそうな顔をしていた。恥ずかしさと怒りとやるせなさと、ありとあらゆる感情が渦巻いていた。私は大きく傷ついた。言葉では表せないほど傷ついていた。

 

大好きだった父。いつも優しかった父。年を取ってから生まれて一人娘だった私を、本当に可愛がってくれていた父。だからこそ余計ショックは大きかった。許せない、と思った。父がどんな気持ちで私の胸をつかんだのかはわからないけれど、許せなかった。

 

その一件以来、私は父と話すことはほとんどなくなった。父と二人きりになることを極力避けた。大好きだった父親が、ただのスケベ親父になった。それ以降父親との記憶はほとんどない。

 

唯一覚えているのが、私が会社員になってから、車で父を会社まで送っていくハメになったことだった。というのも、私の会社の途中に父の会社があったからだ。その提案を父はものすごく嬉しそうに言い始めた。娘との接点ができると思ったのだろう。私は自分が車で行きたかったし、そもそも車は父のものだったから、嫌とは言えなかった。毎日月曜から金曜まで、父を会社まで送り届けてから自分も出勤するという生活が始まった。たった10分ほどの距離だったけど、苦痛で仕方がなかった。同じ空間にいることもいやだった。

 

そんな生活が3年ほど続いたけれど、父が病気になって送っていくこともなくなりほっとしていた。

 

父は大腸がんだった。入退院を繰り返す日々が始まった。母親に見舞いに行きなさい、と何度も言われた。けれど自分から進んで見舞いに行くのも嫌だった。行ったところで何もしゃべることないわ。気まずいだけやし。とりあえず母に言われた時に顔だけ出して、頼まれた買い物をし、洗濯物を持ち帰り、自分の任務を全うした。

 

ある日、いつものように嫌々ながら見舞いに行くと、父がこんなことをいった。
「昭和史の本、買ってきて欲しい」
大正15年生まれだった父は、自分が生きてきた昭和の時代に何が起こったのか、今一度確認してみたい、といった。

 

父はすでに手術のできない状態だった。当時はまだ告知が一般的ではなかったから、父には隠し通していた。私は自分の体のことなのに教えてもらえないなんて、命を他人にコントロールされているようでいやだったけれど、母親が絶対に言わないと決めていた。

 

もしかして父は、自分の死期に気づいているのかもしれない。
その時そう思った。

 

次の日、私は昭和史の文庫本をいくつかかって持っていった。父はとても喜んで、ベットの中から「ありがとう」と言った。「これを読んで自分の人生を振り返ってみる」その声にはもうあまり力がなかった。目の前にいる父親は、昔の父親とは違っていた。ただの小さな老人になっていた。

 

今ここで話をしなければ、もう二度とできないかもしれない。頭ではわかっているのだけれど、どうしても話ができなかった。スケベ親父だと思い込んでから15年、あまりに月日が経ちすぎていた。

その日も無言のまま、病院から帰った。

 

それから一度だけ退院を許されて家に帰ってきた。父は自分の病気がよくなったのだと思い嬉しそうだった。ところが一ヶ月もしないうちに、容態が急変して病院に戻ることになった。家を離れるとき、父はぼそっとこういった。「もう帰ってこられへんかもしれんな」その言葉に対して、何も答えられない自分がいた。

 

父はみるみるうちに弱っていった。痛みを抑えるためにモルヒネを使っていたので、だんだん意識も朦朧としてきていた。話すときは本当にもう今しかない、頭ではわかっているのに、何一つ口から言葉が出てこなかった。

 


それから2週間後、父は65歳の生涯を閉じた。

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「今から遊園地に行くぞ!」土曜日のお昼、学校から帰った私にあなたは言いましたね。思ってもみなかったサプライズに、私はとても驚きました。
「なんで? なんで? 今日はなにか特別な日なん?」と私が聞くと、「いや、何もないで。行きたいって言うてたやろ、だから行こう!」とあなたは言いました。

 

他にも、突然「今から田舎に帰るぞ」と言って、神戸から徳島県の鳴門まで車で日帰りしたこともありました。今でこそ橋があるから時間もあれば鳴門に着きますが、当時はフェリーでしたから、片道だけでも半日かかりましたよね。

 

私はてっきり、あなたはサプライズが好きな人なんだと思っていましたが、実は違っていたんですね。私が小さい頃、とても楽しみにしていた家族旅行を当日になってドタキャンされて、ものすごい落ち込んでいるのをみたあなたは、あいまいな約束すると行けなかったときに可愛そうだから、遊びの予定は当日まで言わずに、行けると決まってから言おう、と母に提案してくれたそうですね。そのことを後で聞いて、ちゃんとあなたは私のこと見てくれていたんだなと思いました。

 

トランプや花札の相手をしてくれたのもあなたでした。私は負けるのが悔しくて、勝つまで泣きながらやっていましたね。私は気づいていましたよ、最後はわざと負けてくれていたことを。

 

私はあなたの運転する車の助手席に乗るのが好きでした。
バターピーナツをつまみながらビールを飲んでテレビを見ていたとき、そのピーナツを横取りして食べるのが好きでした。

 

そんな大好きだったあなたを、いつの頃からか私は、スケベ親父だと思うようになりました。

 

思春期に入り、話をしなくなりました。優しい言葉をかけられても、愛想のない返事しかしなかった。それでもあなたは私に怒ったりしませんでしたね。寂しそうな顔をしているのはわかっていました。けれどどうしてもスケベ親父という私の思い込みが、あなたと会話することを遠ざけてしまっていたのです。

 

会社に行く車の中でも、ほとんど無言でしたね。今思えばもっと話せばよかった。二人きりで話す最後のチャンスだったのに。

 

実はあの時、私はもう気づいていました。

 

あなたはスケベ親父なんかじゃない、ということに。あなたは特別だったわけでもなんでもなく、普通のオトコだっただけ。そう、男はみんなスケベだということに私は気づいていたのです。

 

あなたはただテレビを見ていただけだった。なのに私が勝手に反応して、あなたにスケベ親父のレッテルを貼ってしまったのです。それを15年間も引きずって、私は最後まであなたと会話をしなかった。

 

私は今、娘と夫のアホな会話を聞きながら、あなたともっと会話をすればよかったと後悔しています。スケベ親父と思い込んだばっかりに、あなたがどんな人だったのか、あなたが何を考え、何を思っていたのか、本当のあなたを私はほとんど知らないのです。私の半分は、あなたからできているというのに。

 

あなたが亡くなってから26年、やっとそのことに気づきました。あまりに遅すぎですよね。

 

だからこそ今私はこう思います。今、目の前にいる人との関係を大切にしようと。ご縁あって、今私のそばにいてくださる人を理解するために会話し続けようと。

 

もしかしたらそのことを伝えるために、あなたはあえてスケベ親父の役を引き受けてくれたのかもしれませんね。だとすれば、やっぱりあなたは私にとって自慢の父ですね。

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先日のお彼岸の日、父親の墓の前でこんなことをつぶやいてみた。父からの返事はまだないけれど。

 

今もし、父と話ができるとしたら、どうしてもひとつだけ聞きたいことがある。
「あの時私の胸をわしずかみにしたのはなんで?」
スケベ親父から復活した今も、これだけはどうしてもわからない。生きている間に問い詰めておけばよかったと後悔している。

私は始末の悪い女

あおい

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「私、始末の悪い女なんです」

あるセミナーで知り合った女性とランチをしている時、彼女はこういって話し始めた。

「私ってすぐ誰とでも友達になれるの。でも、しばらく付き合っているとなんか合わないなと思う人も出てくるわけ。そうするともうあまり会いたくないなって思うようになって、相手からお誘いがきても、またねとか、そのうちとか適当にお返事してたら、だんだんと相手も誘ってこなくなるでしょ。

ところが、中には鈍感な人もいて、それでも誘ってくる人がいるの。もうめんどくさいわって思うんだけど、かと言って『私はもうあなたとは会いません』ってはっきり縁を切れるタイプじゃないから、結局相手が諦めるまで、曖昧な態度を繰り返すことになって。

それならすぐに友達にならなきゃいいのにって思うんだけど、お調子者だからすぐ仲良くなっちゃう。最近そういう始末の悪い自分がつくづく嫌だなあと思うの」

 

私は「始末の悪い」という表現をそんな風に使うことが面白いなと思った。そういう意味では私自身も始末の悪い女だ。自分から関係性を切るということができない人間。嫌になったらだんだんと連絡を取らないように、会わないようにして、徐々に距離を取っていく。いわゆる自然消滅というやつだ。相手から縁を切られることはあっても、こちらから縁を切るとか、金輪際会いません、ということはこれまでの人生で一度もなかったと思う。唯一あの事件を除けば。

 

その事件は、今から10年以上も前に起こった出来事だ。勤めていた小さな会社で出会ったある一人の女性がいた。彼女は私よりもひとまわり以上年下だったと思う。とても頭が切れて、しっかりもので仕事のできる女性だった。

 

当時私たちは、新しいプロジェクトを始めようとしていた。私が最年長だったことと、今の仕事に関わっている年数が一番長かったという理由で、私はそのプロジェクトのリーダーに指名された。とはいえ、それまで何かのリーダー役を引き受けたことはほとんどなく、どちらかというとサポート役に徹してきた私は、今回のリーダー役に全く自信がなかった。

そんな私を彼女は全力でサポートするからと言ってくれたおかげで、私は自信がないながらもやり遂げようと決心したのだった。

 

彼女は言葉どおり、本当に一生懸命サポートしてくれた。ところが一緒に仕事をしてわかったのは、彼女は私とは全く正反対の性格であるということだった。

私は、とにかく人と争うことが嫌いで、なんでも丸く収めようとする。自分の意見を押し通すことはしない。メンバーの意見を聞いて、無難にまとめようとする。とにかく穏便に、それが私のモットーだった。

ところが彼女はいつも戦闘モードだった。自分の意見をとことん主張した。争うことを恐れなかった。争っても勝てる自信があったのだと思う。そんな彼女を私は持て余していた。もっと空気を読んでくれたらいいのに、と思っていた。

 

しかし彼女からすると、私の言動や行動は優柔不断にしか見えなかったのだろう。もっとしっかりと引っ張ってくださいよ、彼女の顔には、いつもそう書いてあるように見えた。リーダーとしての適正からいうと、彼女のほうが明らかに上だったと思う。でも私は彼女にそのポジションを明け渡すことはしたくなかった。ひとまわり以上も年下で仕事のキャリアも私より短い。明らかに仕事ができるのは彼女の方だと気づいてはいたけれど、それを認めるのは私のプライドが許さなかった。

 

 

プロジェクトが立ち上がってから3ヶ月後、今後の方向性を決める大事な会議の日がやってきた。この日に向けて、私なりに一生懸命知恵をしぼり企画書を作ったつもりだった。でも実際のところ、本当にこれでいいのかどうか全くわからなかった。

 

会議のメンバーは7人。

社長と役員が1名。そしてプロジェクトのメンバーが私を入れて5人。もちろん彼女も同席していた。私は全員に資料を手渡し、企画書の説明を始めた。緊張で声が上ずっているのが自分でもわかる。

 

気がつくと、企画書を棒読みしている自分がいた。あんなに熱意をもって取り組んでいたはずのこのプロジェクトに対して、私のプレゼンには全く熱がこもっていなかった。自分の経験不足と知識のなさ、そして慣れないリーダー役のプレッシャーで失敗の連続だったこの数ヶ月の間に、すっかり自信を喪失している自分がいた。

 

棒読みのまま説明が終わった。

社長はしばらく黙っていたが、重い口を開いてこういった。

「これ、ほんとにできると思う?」

私は黙ってしまった。

 

自分さえ「やります! できます!」って言えば、結果は後でついてくるはず。

とりあえず、できるって言え!

頭ではそう思っているのに、「できます」という言葉がどうしてもでてこなかった。

 

社長は、しばらくしてからこういった。

「ぼくは正直、この企画は無理だと思う。というより、君はリーダーを続けていくことができるのか? 本当にリーダーとしてこのプロジェクトを成功させたいのか、もう一度ここにいるメンバーと一緒に考えてみたほうがいい。もし他の人にリーダーを譲るというのなら、それもアリだと思う。とにかく今のままの君では、この企画は無理だ」

そう言って、社長と役員はその場を去っていった。

 

 

残された私たち5人、しばらく何も言葉がでてこなかった。私はやはり、リーダーとしての素質がないのだろうか。このプロジェクトのためにも、私は降りたほうがいいのだろうか?

 

そんなことを自問自答していたとき、彼女が口を開いた。

「山田さん、あなたやる気あるんですか? 私、今まであなたをサポートしようといろいろやってきましたけれど、あなたにやる気がないのなら、私はどうすることもできません。

あなたリーダーでしょ。リーダーならリーダーらしく、もっとしっかりしてください!」

 

何も言葉が出なかった。彼女の言うとおりだ。こんなことぐらいで凹んでいるようでは、リーダーなんて無理だ。

「申し訳ない……」

私の口からでたこの言葉が、さらに火に油を注ぐことになってしまった。

 

「申し訳ないじゃないですよ! そういう問題じゃないでしょ。」

そこから彼女は、この3ヶ月あまりの間にたまったウップンをはらすかのように、あの時はこうだった、ああだったと、私のリーダーとしての資質のなさを暴露するような出来事を次々と話し始めた。そのうちそれは今のこの案件とは関係ないじゃないかというような話まで飛び出した。

 

私はそれを放心状態で聞いていた。もちろん、うすうすは感じていた。彼女は自分の方がリーダーとしての適正があると思っているだろうということを。そこを今回はあえてサポートする役に徹してくれているのだと。だからとてもありがたいと思っていた。ところがそうではなかった。彼女の中の闘争心がメラメラと燃えていた。感情をむき出しにして彼女はこういった。

「リーダー、続けるんですか! はっきりしてください!」

それは「私のほうが適任なんだからさっさと降りろよ!」と言わんばかりの気迫だった。

 

私は返事ができなかった。

ここまで誰よりもこのプロジェクトに尽力してきた。だからこそ、自分がリーダーとしてこのプロジェクトを成功させたかった。でもそれが自分のエゴであることに気づいていた。

結果として私がかけてきたものは時間だけだった。成果は何も残せていなかったのだ。

 

が、自分で決めるまでもなく、私はほどなくリーダーの座から下ろされることになった。社長自らがリーダー役を引き受けることになったのだ。そして彼女がこのプロジェクトの実務上のリーダーになった。私は一人のメンバーとしてこのプロジェクトに関わることになった。落胆したのと同時に、ホッとしている自分もいた。そうだ、私には資質がなかったのだ。彼女のほうが適任だったのだ、最初から。

 

その会議以降、彼女との関係性がギクシャクするようになった。私は直接出会ったり話したりすることを極力避け、連絡事項はなるべくメールで済ませることにした。

 

しばらくして、私は彼女に聞きたいことがあってメールをした。特に重大な要件ではなかったので、返事さえもらえたらそれでいいと思っていたのだけれど、その質問に対する返信よりもはるかに多い分量で、私に対するクレームを訴えてきた。実は私がリーダーとして一緒にやっていた時にも、攻撃的だと感じるメールは時々あった。でも私は争うことが嫌いだから、彼女をそれ以上怒らせないように、気を遣いながらご機嫌を伺うような返信をいつも返していたのだった。

 

ところがそのとき、私はこう思った。

戦ってやろう。とことん、戦ってやろうと。

いつもいつも言わせておけば調子に乗り上がって。あの会議の後、これでもかと私の資質のなさを暴露した、そのお返しをするのは今だ。これまで感じたことのなかった闘争心がメラメラと湧き上がってきた。

 

そして、彼女の攻撃的なメールに対して、私はそれを上回るような攻撃的な返信をした。今思えば、彼女の言っている事の方が理にかなっていたかもしれない。でも言い方が気に食わなかった。それを伝えたかったとしても、もっと他に言い方あるやろ? しかも私のほうが先輩やで? わかってるん? そんなことを心の中でつぶやきながら、ものすごい勢いで攻撃的なメールを送り返した。

 

これまで私からそんな激しいメールを受け取ったことがなかった彼女は、たぶん驚いたことだろう。リーダーから下ろされたのはお前のせいだと言わんばかりの勢いだった。筋違いだと言われればそうだったかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。今日は彼女を打ち負かしてやる、心の中はそんな思いでいっぱいだった。私は、彼女からの攻撃的な返信に対して、さらにそれを上回る返信をし続けた。

 

10回ぐらいやり取りしたあとだろうか。

 

「こんな理不尽なメールのやりとりにこれ以上は耐えられません。もうこれで勘弁してください。」と彼女からの返信。

 

「はい、私も今後あなたに連絡することはありません」と私から最後の返信。

 

勝った! 彼女に勝った! 私は彼女に絶縁状を突きつけたのだ!

私はその時初めて、はっきり人と縁を切るという体験をしたのだった。

 

 

それからほどなくして、彼女は職場を去っていった。理由は私と絶縁したことではなく、たぶん社長の方針についていけなかったからではないかと思うのだけれど、真相はわからない。

 

あれから10年、今はもう彼女がどこで何をしているのか私は知らない。風の噂で、元気にしているようだということは時々耳に入ってくる。あの時なぜあんなやり取りをしたのか、彼女に文句を言いたいのなら、もっと正当な方法で、真正面からぶつかっていけばよかったのに、とも思う。

 

たぶん私は、縁を切るという体験をしてみたかっただけなのかもしれない。そしてもっというと、彼女だったから縁が切れたのだと思う。彼女が攻撃的だったからこそ、私も攻撃的になれた。いつもは言わない毒を吐くということができたのだ。誰にも嫌われたくない私が、おまえに嫌われても別にいいと思えたのは、彼女が悪役を引き受けてくれたからだ。

 

調和することだけを優先して、言いたいことも言わずに生きてきた私にとって、彼女の存在はとても衝撃的だった。正しかろうが間違っていようが、自分の意見を主張するということは、本当はとてもエネルギーがいることだ。穏便に、自分の意見なんてなかったことにすることのほうが、実はよっぽど楽なのだ。やり込めてやったというのは大きなまちがいで、縁を切る、という体験をするために彼女は私の相手役を引き受けてくれただけだったのだ。

 

おかげで気づいたことがある。最後の絶縁メールを送ったあとの、勝った! という思いとはうらはらな後味の悪さ、そのことがココロのどこかでずっと引っかかり続け、後悔の念に苛まれる小心者の自分がいるということを。

縁を切るというのは、私にとってはとても困難なことだということを。

 

嫌になってもそのことをあえて言わず、ちょっとずつ距離を取る、そしてまたいつか、自分が会いたいなと思ったときにちょっとずつ距離を縮めていく、そんな関係性が私には合っていると思う。それを証拠に、今私はまた彼女に会いたいと思っている。

やっぱり私は始末の悪い女の方が向いているようだ。

 

記事:あおい

 

悔しかったら、ずうずうしくなってみろ!

まるこ

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私はずうずうしい人が嫌いだった。

繊細さを理解しない、人との距離感をはからない、そんなずうずうしさ。

 

ずうずうしい人の代名詞と言えば「オバちゃん」だろう。

私も明らかに「オバちゃん」に属する年齢となり、あろうことか、ずうずうしさに磨きがかかってきている。あんなに嫌っていたずうずうしさ。私も年齢とともにどんどん侵食されて、もはやこれまでか……と思っていたのだが、むしろ、ずうずうしさを身につけると、生きることが楽しくなってくるような気がする。

 

若い頃、謙虚のかたまりだった私は、ずうずうしい人を見ると吐き気がした。私は絶対ああはなるまい。あんなふうになったら人間はおしまいだ、くらいに結構本気で思っていた。どうしてずうずうしい人が得をして、謙虚な私のような人が損をしなくてはいけないのか? それは間違っている。誰か、あのずうずうしさに天罰を!

 

電車で空いた席に座ろうとしても、横からやって来てどかっと席を占領されてしまう。

「おねえさん、若いからいいわよね? 私たちの方が歳いってるから」

こういうときだけ……。いつもは若いつもりなんでしょ? 年寄り扱いされたら気分悪くなるくせに。私だって今日は疲れているの。おばさんたち、デパートの買い物袋を沢山持って、趣味の買い物なんでしょう? 買い物して、みんなでお茶でもして愚痴を言い合って、スッキリしてきたんでしょう? 私は仕事をしてきた帰りなの!

 

ずうずうしい人は考えてみれば、若い頃から周りにいたような気がする。おばちゃんではなくて、小中高の同級生であっても。私には絶対にできないようなことを、あの人たちはやすやすとやってのける。そんなこと、私の美意識が許さない。だなんて、自分を勘違いして自意識過剰な位置づけで考えていたのだけれど、本当はただうらやましかっただけなのではないだろうか。

 

あの人たちは、いつも偉そうにして、くだらない話題ばかりしているわね。ふん、バカみたい。私はあの人たちとは違うのよ。なんて思っていた。けれど、本当は私もその仲間に入ってみたかったのではないのか? くだらない話題をしてみたかったのではないのか? そもそも、そんなに私は高尚な話題ができていたのだろうか? 私は何様のつもりだったのだろう。

つまり、私の中の「ずうずうしい」はイコール「うらやましい」であったことになる。

言葉は多面的だ、と思う。くだらない話題、は裏を返すと面白可笑しい話題にもなる。偉そうという言葉も、憧れだったりする。私は必死で自分を正当化するために、うらやましいことをずうずうしいということに変換していたのだ。自分のことを謙虚だと思っていたけれど、謙虚なわけではなく、ただ臆病だっただけなのだ。

もちろん、私にとってすべての「ずうずうしい」が「うらやましい」というわけではないのだけれど、上手にカモフラージュさせていた。

 

むろん、気遣いができない、人を踏みにじるようなずうずうしさは今でも嫌いだ。

しかし、うらやましいこととは区別しなくては……と思う。私は認めたくなかったのだ。本当はうらやましいと思っていることを。そのことを他人に悟られることを。無意識だったけれど、自分の中で矢印の向きが正反対の感情が同居していた。「ずうずうしい」と忌み嫌う感情と「うらやましい」と憧れる感情。だから辛かったのだ。矢印の向きが正反対ということは、感情が引き裂かれてしまうことになるのだから。私が「オバちゃん」になって、ずうずうしくなって来ているということは、その感情が融合しつつあるということなのかもしれない。

うらやましいと思うくらいなら、自分もやってみればいいのだ。ずうずうしくなってみればいい。電車の席に座りたいのなら、どんなことがあっても座る。譲るなら譲る。そこにあるのは「自分の選択」だけだ。偉そうにしたいなら、すればいい。くだらない話をしたいのなら、思いきりすればいい。ただそれだけのことなのだ。なのに、そこにおかしなカモフラージュをして、自分を正当化してみたり、相手を責めてみたり……。つくづく私は面倒臭い人間だなと思わずにはいられない。自分で散らかしておいて、誰も掃除をしてくれないとわめく子どもみたいだ。

 

自分の選択ができなかったのは、自分に自信がなかったからだ。自分で決めなければ、決めてくれた誰かが責任を取ってくれるはず。私じゃないから。私の責任じゃないから。本当はそんなはずがないのに。だって、自分で決めないことを「自分で決めて」いるのだから。だから結局誰のせいでもないのだ。すべて、自分のせい。

気付くのがかなり遅かったけれど、もう、いい加減大人になろう。自分で自分に責任を持つのだ。自分で決めるのだ。ちゃんと「オバちゃん」になろうではないか。ずうずうしく、それでいて憧れられ、うらやましがられるオバちゃんに。

 

ずうずうしい人が嫌いだなんて誇らしげに言っていたあの頃の私。自分の責任すらとれない弱くて青臭いあの頃の自分に言ってやりたい。

 

「あんた、悔しかったらずうずうしくなってみな!」

 

 

記事:渋沢まるこ