まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

かまってほしい病。

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生きるのがしんどい……

早く死にたい……

 

最近実家に行くと、2回に1回は、この言葉を発するようになった90歳母。

夫を早く亡くし、去年までしていた仕事もついに体力の限界とピリオドを打ち、

今は家で一人、庭の手入れをしたりテレビを見たりしながら過ごしているのだ

けれど、足腰が弱って、思うように体が動かなくなった今、出てくる言葉は

もうこの世から消えてなくなりたい、そのたぐいのことばかり。

 

 

この言葉を言われた時の最適な反応の仕方は何なんだろう?

といつも考えるけれど、答えは出てこない。

 

「何いうてんの、そんなこと言わんと、元気で長生きして」

そんな優しい言葉をかける気には到底ならない。

それは年に一度合うか合わないかの親戚か友人が言う言葉だ。

 

 

「だったら死ねば?」なんてことは口が裂けても言えないし、

「死にたい」という願望を叶えるために私が手伝えることなど何もない。

 

結局のところ、聞き流す、もしくは聞こえなかったふりをする、

最適とは言えないけれど、今のところこれしか方法がなく、

幸いにも聞き流したところでクレームが出るわけでもないのでそうしている。

 

 

本当は死にたいなんてウソだということもわかっている。

それどころか生きる気満々だ。

 

母は毎日大量の薬を飲み続けている。

血圧を上げたり下げたり、血をサラサラにしたり固まらせたり、

細菌を殺したり、胃や腸を動かしたり、それはもう忙しい。

 

 

生きているのがイヤだ、と何度も聞かされてイラッときて、

死にたいのなら、その薬全部やめたら?

喉まででかかったことがある。

絶対やめないことを私は知っている。だって「私はこの薬のおかげで

生きている」母はそう信じきっているのだ。

 

もしかしたら、薬を全部やめたとしても、何も変わらないんじゃないか、

とひそかに思っている。返って元気になるんじゃないか、なんてことも

思ったりしている。

 

早く死にたいと言いながら、薬は絶対にやめない、だって薬がないと死ぬから、

というこの矛盾に、随分と長い間つき合ってきてほとほと疲れてしまった。

 

 

とはいえ、私も中学生の時、死にたい、と思ったことがある。

思春期真っ只中、学校は全然面白くないし、親はうるさいし、面白いことなんて

何もない、何のために生きてるんやろ、何のために生まれたんやろ、

そんなことばかり考えるようになった。

 

考えても考えても、中学生のアタマでは答えが出るはずもなく、

何もかもめんどうくさくなって、もう死んでしまいたいと安易に考えていた。

 

かといって、それも口先だけで死ぬ気なんて毛頭なく、ただただ面白くない

現実世界から逃げたい、それだけのことだった。

 

 

なんだ、母親と一緒じゃないか。

死ぬ気なんて全くない、生きる気満々のくせに、そんな言葉を口にして、

結局のところどうしたかったんだろう、私は。

 

 

 

そう思ったとき、一つの言葉が頭に浮かんだ。

 

それは

かまって欲しい病。

 

 

私は母にかまって欲しかったんだ。

小さい頃は仕事が忙しくて、母には全くかまってもらえなかった。

いつも一人ぼっちだった。

かまってもらえない寂しさが募り募って、中学生になって、

かまってくれないくせに都合のいいようにコントロールしようとする

それがイヤでイヤでたまらなかった。

 

いっそのこといなくなってしまったら、私をかまわなかったことを

後悔するんじゃないか?

そしてちゃんと私の方を向いてくれるんじゃないか?

ちゃんと私のことを考えるんじゃないか?

 

自分では気づいてはいなかったけれど、今思えば心の奥底では

そんなふうに思っていたのかもしれない。

 

 

 

月日が経って気がつけば、母親のことなんてどうでもよくなっていた。

あんなにかまって欲しかったのに、もうどちらかというとほっといてほしい、

いつの間にかそんなふうに思うようになっていた。

 

 

その代わりに今度は、夫にかまって欲しい、と思うようになっていた。

ところが残念ながら、夫にもかまってもらえなかった。

一緒に住んでいるにも関わらず、心の中は一人ぼっちだった。

 

今度はさすがに死にたいとは思わなかったけれど、ずっとすねていた。

なんでみんな私をかまってくれないの?

 

 

 

今はわかる。なぜ私がかまってもらえなかったのか。

いや、かまってもらえなかったのではない。

母も夫も、私を大事にしてくれていたのだ。

 

ただ、私のかまって欲しい病は、私の都合のいい時に、

私の都合のいいようにかまってくださいという、とても身勝手なものだった。

そんなこと誰もできるわけがないのに。

それができるのは、自分しかいないのに。

 

 

 半世紀生きてきてやっと私は、かまって欲しい病から卒業しつつある。

他人にかまってもらわなくても、自分で自分をかまってあげることが

できるようになったからだ。

 

 

自分が食べたいと思うものを食べ、

自分がやりたいと思うことをして、

自分が行きたいと思ったところに行き、

会いたいと思う人に会う。

自分を最大限にかまってあげることができるようになったら、

人にかまってもらう必要が無くなったのだ。

 

 

その代わりに、今度は母がかまって欲しい病を発病してしまっている。

死にたい、というのは間違いなくかまって欲しいのサインだ。

それがかえって逆効果であるということ、母は気づいていない。

私にはわかる。だって自分も同じ病気だったから。

 

 

とはいえ、90歳の年老いた母に、

自分で自分をかまってあげなさい、といったところで、それがどういうこと

なのか理解できないだろうし、

身も心も弱っている彼女に自分でなんとかしろというのは酷な話かもしれない。

 

かまってほしい病の90歳の母に効く薬は、今のところ見つかっていない。

結局のところ、上手に聞き流すのが私にとっても母にとっても一番の特効薬

なのかもしれない。

 

記事:あおい