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まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

執着が嫌いだった私が母から教わったのは執着することだった

あおい

 

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「この度高齢のため、9月30日をもちまして廃業致すことになりました。

今までの御愛顧に感謝致します」

 

 

母が廃業した。御年89歳。

昭和34年4月に開業してから、平成28年9月まで、57年と5ヶ月間。

神戸の下町で歯科医を営み続けてきた母。

 

私が生まれる前から、母はすでに歯科医だった。

私は生まれた時からずっと、消毒液の匂いと、

歯を削る機械音の中で育ってきた。

 

友達が遊びに来ると、「歯医者の匂いがする」とよく言われたけれど、

私にとってはそれが日常だったし、

友達の言っているその匂いがわからなかった。

機械音も毎日のことだから、私にとってはBGMにすぎなかった。

 

大人になってから母に、どうして歯科医になったのか?

と聞いたことがある。

「お母さん(祖母)に歯医者になれと言われたから」と母は答えた。

なれと言われたからといってその通りにするというのが

私には考えられなかったけれど、当時は普通のことだったのかもしれない。

 

 

母はとにかく働いた。

昭和40年代、私が子供の頃は、

今とは違って歯科医が足りていない状態だったから、

新患はくるわ、再診の患者さんは来るわ、

その間にも急患が来るわで、毎日待合室は患者さんで溢れていた。

 

大人から子どもまで、

時にはちょっといかついお兄さんが来ることもあったけど、

そんなお兄さんも母の前では

黙って口を開けておとなしくしているのがなんとも滑稽だった。

 

ひっきりなしにくる患者さんをさばくため、

月曜日から土曜日、朝から晩まで、母は休むことなく働きに働いていた。

 

私が小学校から帰ると、診察室から歯を削る機会音が聞こえてくる。

私は診察室と自宅を隔てているドアを少しだけ開けて、母の顔を確認する。

母はマスクの奥から目だけ私の方を向ける。それがおかえりのあいさつだった。

それ以上の会話はできなかった。同じ家にいるのにも関わらず。

 

ときどき友達の家に遊びに行くと、そこには専業主婦のお母さんがいて、

友達と楽しそうに会話をしていたり、

オヤツを出してくれたりするのを見たとき、

そんなたわいのない日常の風景がとても羨ましかった。

私も普通のお母さんがいい、と小学生の頃はよく思ったものだった。

 

 

父は普通のサラリーマンだった。

厳密に言うと船乗りだったのだが、9つ上の兄が生まれてから、

母の強い希望で船を降りてサラリーマンになった。

 

いつ仕事が終わるかわからない母とは違って、

父はだいたい決まった時間に帰ってきた。

父は毎晩NHKを見ながら晩酌をしていた。

その横で、家政婦のおばさんが作った料理をだまって食べている私。

食べ終わった頃に、高校生の兄が帰ってくる。

その後母の仕事が終わる。それぞれに食事を始める。

終わったものから順にそれぞれの部屋に戻っていく。

それが我が家の夕食風景。

サザエさんのような一家団欒はうちにはなかった。

 

そんな忙しい母だから、授業参観はもちろんのこと、

音楽会や運動会など、ここだけは絶対外さないでほしいという行事にも、

ほとんど来てくれることはなかった。

母の代わりに、家政婦のおばさんや

いとこのお姉さんが来てくれることもあったが、

申し訳ないけれど代打では余計寂しくなるだけだった。

 

唯一の休みである日曜日の4回のうち2回は、診療報酬明細書といって、

保険組合に提出する書類を作成するために費やされる。

当時は患者さんも多かったし、今のようにパソコンもない時代。

全てが手作業だったから、父親と二人がかりで

朝から晩まで作業しても丸2日かかっていた。

 

そして、残りの日曜日。本当の休みは月にその2回だけ。

小学生の私は、その時ぐらい一緒に遊んで欲しいと思う。

ところが疲れ果ててその時ぐらいは休みたい母。

 

遊びに行く約束をしていても、

当日になって「しんどいから」とドタキャンされる。

私の顔を見ると毎日のように「ああしんどい」「疲れた」を連発する。

 

「そんなにしんどいなら、歯医者なんかやめてしまえばいいのに」

「歯医者なんかやめて、もっと一緒にいてくれればいいのに」

そんなふうに思っていた小学生時代。

 

 

中学生になっても、母の忙しさは変わらなかった。

かまってくれないくせに、勉強、勉強と口うるさかった。

休みの日に友達と遊びに行くと嫌味を言われた。

私の話は何も聞いてくれないくせに、勉強だけさせたがる。

そんな母が大嫌いになった。

 

高校2年生、進路を決めなければならないときになって、

私は大学に行きたくない、といった。

その頃は父も母も兄もみんな嫌いだった。

誰も私のことなんてわかってくれないと思っていた。

専門学校に行くというと、母は猛反対して歯医者になりなさいと言った。

9つ上の兄は母の言うことを聞いて、歯科医になっていた。

私は死んでも嫌だった。

 

毎日毎日、しんどい、疲れた、言うてたくせに。

そんなしんどくて辛い仕事を、なぜ子どもにさせようとするのか、

私には理解できなかった。

私は反抗して、文系の私立大学に進学した。

 

大学を卒業して、地元の企業に就職して5年ほどたったころ、

父が大腸ガンになった。

手術をしたけれどうまくいかず、余命半年と言われた。

 

今から25年前のこと、まだ告知することが

今のように一般的ではなかったので、

本人には本当のことは知らせてなかったけれど、

良性腫瘍といいながら一向に良くならない体と家族のよそよそしい態度から、

薄々はガンだと気づいていたのではないかと思う。

私は自分の人生なのに、

自分の病気について本当のことを教えてもらえないなんて、

人生を人に操られているような気がしてどうしても納得いかなかった。

 

残り半年しかないのなら、父に本当のことを告げてほしい、

そして、その間だけでも歯科医の仕事を休んで、

父と残りの人生を一緒に過ごしてほしい、

そう母に提案してみたのだけれど、

母は頑として、父に本当のことを告げようとしなかったし、

仕事も決して休もうとしなかった。

 

父の世話は家政婦に任せ、母は仕事の合間に顔を出す、

そこまで仕事に執着する母が、私には理解できなかった。

 

結局亡くなるその日まで、仕事を休むことはなかった。

 

 

父がなくなった翌年、私は結婚し、夫の転勤で広島に住むことになった。

 

母65歳、一人暮らしになった。

普通のサラリーマンなら、とっくに定年をすぎて

隠居生活に入ってもいい年齢。

私たち子どもそれぞれ独立しているし、

もう自分の好きなことして自由に暮らしたら、

と何度も伝えたけれど、それでも母はやめなかった。

辞めても他にすることがないといって、

ますます歯科医という仕事に執着するようになった。

 

 

平成7年1月17日。阪神大震災が起こった。

母が住んでいた地域は壊滅的な被害にあった。

タンスの間に寝ていた母は、

タンス同士がつっかえ棒になって助かったのだけれど、実家はほぼ全壊した。

 

当時母70歳。住む家がなくなり、かなりショックを受けていた。

落ち着くまで私たちが住んでいる広島で一緒に暮らすことになった。

これでさすがにもう辞めるだろうと思った。

実家の土地を売って、マンションでも買ってのんびりすごせばいい、

と思った。

 

ところがそこから一年後、母は家を新築して歯科医を再開した。

私は他にしたいことがない。

歯医者しかしたくない。

歯医者をしながら死にたい。

 

あくまでも歯科医に執着する母。

さすがにもうあっぱれとしか言いようがなかった。

もう好きにすればいいと思った。

 

 

平成26年。気がつけば20年の月日が流れていた。

当然昔のようには仕事ができなくなっていたし、

患者さんも少なくなっていた。

 

その頃から、やめようかな、という言葉が母の口から出はじめた。

来月やめる、来年やめる、そう言いながらもやめずに続けていた。

もうここまできたら、ギネスにのるまで続けたらいいやん、

と半ば本気で言っていた。

 

やめるやめる、って言いながらどうぜやめへんやろ、

死ぬまで続けるんやろ、今までどんなことがあってもやめなかったんやから。

死ぬまで歯科医に執着すればいい、そんなふうに思っていた。

 

ところが今年、平成28年9月。今回ばかりは本気だった。

廃業届を取り寄せ、機材を撤去し、あっという間に何もなくなってしまった。

びっくりするぐらい潔かった。

何もなくなった部屋をみて、私のほうが唖然としてしまった。

あんなに執着し続けていたのに、やめるときはあっけなかった。

 

一人の老人になった母はすっかり小さくなっていた。

昨日まで歯科医として仕事をしてきたことがまるで嘘のようだった。

 

 

そんな母を見て、私はやっと気づいたのだ。

いつまでも歯科医に執着する母を理解できないと言いながら、

実は歯科医に執着する母に執着していたのは私だったということを。

 

私が50歳を過ぎた今でも、

夢を持って前を向いて進んでいこうと思えるのは、

これまでどんなことがあっても諦めなかった母の、

いくつになっても自分の仕事にプライドをもって続けてきた母の、

執着し続ける姿がいつも目の前にあったからだった。

 

早くやめればいいのに、と口では言いながら、

いつの間にかもっともっと執着し続けて欲しいと思っていたのは、

実は私の方だったのだ。

 

執着する母が好きではなかった。

執着を手放して、自由になって欲しいと思っていたはずだった。

なのに私は、気づかないうちに

執着し続ける母を目標にして進んできていたのだった。

 

 

手放す、捨てる、何かにつけシンプルに削ぎ落としていくことが

今の時代の流行りだとしたら、

執着することはもしかしたら美しくないのかもしれない。

 

それでもいいのだ。私は時代の流れに逆らって、

これからも泥臭く執着し続けるのだ。母を見習って。