まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

片づけられないのは、私のせいじゃない。ヌシのせいだったんです。

f:id:maruko-aoi:20170213123611j:plain

 

「そういう部屋には、たいていヌシがいるんですよ」

 

これを聞いたとき、私はまだどこか他人事だと思っていた。

 

私は小学生の頃から手芸が好きだった。フエルトや刺繍糸などの材料と、作り方の本を交互に見ながら、これから何を作ろうかと思案するのがとても楽しかったことを覚えている。自分の手で作品が出来上がってゆくことの面白さを覚えた私は、フエルトの小さな人形からスタートして、カバンまで手縫いで作っていた。

 

そんな私の得意科目は、もちろん「家庭科」

小学校高学年にもなると、ミシンが導入される。ここで、この科目の好き嫌いがキッパリと分かれてきたように思う。糸のからまり、縫いなおしの時のミシン糸を切る面倒さ、ミシンの取扱いの好き嫌い、ミシンの面倒臭さをあげればきりがない。

 

しかし、私はこの文明の利器に目をキラキラさせていた。

なにせ、それまではすべて手縫い。時間も労力もかかる。それなのに、この文明の利器は、いとも簡単にそれらを超越してしまう。あっという間に、簡単に作品を仕上げてしまう、魔法の機械だったのだ。

だから、家庭科の授業は楽しくて仕方がなく、あっという間に課題を仕上げて「他にやることはないですか?」と先生に尋ねるほどだった。

 

こんなに楽しいモノを知ってしまったら、自分用のモノが欲しくなるのは時間の問題だった。けれど、学生の私にとって、それは安い代物ではない。しかし、母に言ってみると、笑顔で「ああ、それならいいものがあるわよ」と言って実家に電話をし始めた。

 

かくして、そのミシンは私の元にやってきた。それは、時代遅れの、とてつもなく重くて古いミシンだった。

足踏みミシンでこそないものの、その後にようやくできた、その当時最新型のミシンといった風情で、縫い方は、直線縫いとジグザグ縫いのみ。きっとそれでもその当時は、ジグザグ縫いができるということで、一世を風靡していたのではないか? と思わせる堂々とした出で立ちだった。

 

私の、そのミシンに対する見立てはある意味正しかったようで、このミシンは、祖母が、娘である母が結婚する前に嫁入り道具としてローンを組んでまで購入した、その当時最新鋭のミシンだった。

しかし、家庭科の授業で使ったようなミシンを想像していた私には、残念な代物でしかなかった。

こんな、時代遅れのミシンなんて欲しくない!

だが、別なミシンを買ってもらえるわけもなく、私はそのミシンと少しずつ仲良くなっていった。

 

都会で一人暮らしをするようになってからも、私はミシンと楽しく暮らしていた。

一時期、本気で帽子作家になろうと思い、朝から晩まで帽子を作り続けていたこともあるくらいだ。

 

そして私は、いつしかこのミシンが好きになっていた。母は裁縫が嫌いだったから、祖母が母に託した思いは届かなかったかもしれない。が、孫の私が使っているから、隔世して届いたということになるのではないだろうか、なんて考えたりもしていた。

そして、この重くて古い重厚感も、昭和な感じも、今は「レトロ」という言葉に包めばおしゃれに変わる。それに、まだまだ使える現役感も十分にあった。

 

そして時代は「片づけ全盛時代」

 

ご多分にもれず、私も片づけが苦手な一人であった。

何より困っていたのは布類。気づけば、ウチには大量の布が段ボールに詰められて、いくつも保管してあった。しかし、布は「何かつくろう!」と思い立ったとき、家にあればすぐに作れるし、腐るものでもない。全部、素材や柄など吟味して買っているから思い入れもある。もちろん、お金もかけた。だから、そう簡単に捨てられるものでもない。けれど、場所も取る。という矛盾した存在になっていた。

 

あるとき、片づけの専門家に話を聞いてもらうことになり、その時に言われたのがあの言葉だった。

 

「片づけができないという人の部屋には、たいていヌシがいるんですよ」

 

片づけに抵抗する、抵抗勢力のドン。ゲームで言えば「ラスボス」のような存在がいると言う。

まぁ、そういう人もいるでしょうけどね。ウチには、思い当たりませんよ。と思っていた。そして私は、布が、いかに捨てにくいかという話をひとしきりした。するとその人は

 

「そのミシンがヌシかもしれませんよ」

 

と言った。

 

え? いやいや、そんなことはないです。大事にしてますし。ある意味、祖母の形見ですし。

だが、その人の言うことがジワジワと私に染み込んでくる。

 

「想いが詰まっているんですよね? おばあさんの、そしてお母さんの罪悪感も。そして、重い」

 

ああ、その通りだ。

祖母は裁縫が得意な人だった。けれど、自分の時代にはミシンなんてものはなかった。きっと自分が欲しかったものを、娘に託したのだ。しかし、大枚はたいたものの、ミシンが日の目を見るときは訪れず、ようやく孫がその想いを遂げてくれた。そして、母は、私がこれを使うことで、どんなにか罪悪感から身軽になったことだろう。

 

「そもそも、あなたが裁縫をやるようになったのは、お母さんへの抵抗なのではないですか?」

「……」

 

そんなこと、考えたこともなかった。しかし、言われてみれば思い当たるフシはある。私が何か作る度に「すごいわねぇ、そんなのお母さんは作れないわ」と言われ、その度に鼻高々だった。無意識に「お母さんに勝った!」と思っていたかもしれない。「お母さんにはできないでしょう? でも、私にはできるの! だから私をもっと認めて!」そんな風に思っていなかったと言えば嘘になる。あの幼い頃からの作品作りは、母へのアピールだったというのか? そんな……。体の力が抜けるのを感じる。

 

「もう、十分なのではないですか? そのミシンへの様々な思いはもう遂げられたのではないですか?」

 

つい数分前まで、ミシンがヌシな訳がない! 大事だもの! 私は捨てない! と強固に思っていたことが嘘のように、私の思いはグラグラと揺れ始めていた。

 

その日、まず家に帰って家にある布をすべてゴミに出した。そして、ミシンさえも、数日後、粗大ごみとしてさよならした。片づけできなかったモノに、文字通り、片をつけたのだ。

すると、部屋もそうだが、私の心は驚くほど晴れやかになり、私の片づけは、その日から俄然スピードアップしたのだった。

 

今思えば、あのヌシは「抵抗の産物」だったのかもしれない。

もしかすると母は祖母への抵抗で裁縫が嫌いだったのかもしれない。そして、私は母への抵抗で裁縫を始める……。三世代に渡る抵抗が産みだしたヌシ。

 

あの重さは、それぞれの「想い」から来ていたのかもしれない。

 

記事:渋沢 まるこ

それで、いいのだ! それが、いいのだ!

f:id:maruko-aoi:20170203101501j:plain

 

私にはギャップがある。

 

正直言って学生時代、そこそこモテた時期がある。だけど、なかなか相思相愛にはならなかった。なぜかというと、この「ギャップ」のせいだ。

 

私は表向き、おとなしくて従順な人に見えるらしい。だから、そういう人が好みであろう人がやってくるのだ。例えば体育会系の人。見た目もガッチリ、俺が守ってやるぞ! という空気感ムンムンでやってくる。

私は……と言えば、とても申し訳ない気持ちでお断りすることになるのだ。あなたには、もっと従順で素敵な女性が似合うと思います。私ときたら、我が強くて毒舌で、ひとつも言うことなんか聞きやしません。あなたの後ろからついてゆく、なんてことはできないんです。むしろ、あなたより先に歩いて「私についてきて!」と言いかねないんです。そんな風に思えないかもしれませんけれど。

 

こんなことを言ったら何様だ! と言われるかもしれないけれど、誤解を恐れずに言えば、この当時「もう、断るのも面倒くさいから誰も私に告白なんてしないでください」と思っていた時期があった。好きになってもらえるのは本当にありがたい。それはそう思うのだけれど、それをひとつひとつ断っていくときの申し訳なさや罪悪感の重さに耐えられないと感じていたのだ。それならばいっそのこと、見た目も中身も一致するようにすればいいんじゃないかと思って、自分なりに色々試してみたこともある。けれど、効果は芳しくなかった。

 

今思えば、そうは言いながらも自分に自信がなかったことが原因していたかもしれない。人見知りで、心を開いた人にしか「素」を見せられなかった。だから、結局のところ自信がなく、弱々しいイメージだったのだろう。ギャップがあるといいながら、そうしていたのは自分だったのだ。

 

あの頃は、周りにいる人ほとんどが「敵」に見えた。私が負けず嫌いなことも原因のひとつだと思うのだが、心から信用できる人なんてほとんどいないと思っていた。この頃の信用できる人というのは、自分と全く同じ思考をする人のことだったのだろうと思う。そりゃあそんな人、いるわけがないのだ。みんなすぐに裏切るとも思っていたが、裏切るというのは「自分の期待に沿ってくれない」ということなのだから、みんなすぐに裏切ったわけだ。自分はギャップがあるくせに、人にはギャップを許していなかった。

 

ところで、ギャップってなんなのだろう。

見た目と中身が違うことだと思っていたけれど、違うと思っているのはあくまでも自分の思い込みなのだ。見た目で「この人はこういう人に違いない」と勝手に判断しているだけ。もちろんそれは個人の自由なので、どう思ってもいいのだけれど、問題はその思い込みが違っていたときに「そんな人じゃないと思ってた、がっかり」と思ったり、言われることなのだ。

 

私が学生の時、お断りする重さに耐えられないと感じたのは、相手のその思い込みに対してまでも私が背負おうとしていたからなのではないだろうか? 従順だと思われているのならば、期待に応えて従順っぽくした方がいいと思うけれど、それはできないんです、と。そしてさらに、私も勝手にこの人は従順っぽい人が好きなはずだ! という思い込みを持っていた。本当のところはどうだったのか、今となってはわからない。

 

そもそも人間なんて、ギャップがあって当たり前なのではないか?

会社に行けばそこでの役割を演じ、恋人の前ではまた別の自分を演じる。もっと言えば、相手によって変幻自在に自分を変えているのかもしれない。これが本当の自分だ、なんて言える自分は果たしているのだろうか?

 

であれば、もっと積極的にギャップを楽しめばいいのではないだろうか。

Aさんと会っているときの自分はこんな感じ。Bさんと会っているときは何だか優しい私がいる、なんていう風に。どれが良くてどれが悪いだなんてことはないのだ。そこにそんな自分がいる……という、ただそれだけのことなのだ。

 

新しい出会いが楽しいのは、もしかしたら新しい自分に出会えるということも大きいのかもしれない。そう考えると、人見知りというのは、もしかすると新しい自分を見るのが怖いということなのかもしれない。自分が想定する自分以外の新しい自分が出てきたらどうしよう、どう対応してよいのかわからない。そんな自分、前例がないから傾向と対策が立てられない、と思っているのかもしれない。

少なくとも、私はそういう側面があったように思う。自分の知らない自分。そんなものが現れて、みんなに嫌われたらどうしよう。あの人、おかしな人だと思われたらどうしよう……という恐れがあった。

 

もうこれからは、どんどん新しい自分を発見していきたいと思う。どのみちどれも全部「私」なのだ。そして、この自分は何だか嫌だなぁと思ったのならやめてみればいいのだ。なんと言っても「変幻自在」なのだから! こうなったら、どんどん発見して、選択肢を増やしてみたい。毎日の洋服を選ぶように「今日の私」が選べるくらいに。

 

私にはギャップがある。

それで、いいのだ! それが、いいのだ!

 

記事:渋沢 まるこ

 

ある現代国語の先生から学んだ言葉より効果的な教え

f:id:maruko-aoi:20170209203604j:plain

谷まん(たにまん)。私たちは親しみを込めてそう呼んでいた。

彼の名前は谷川先生。高校3年生の担任、教科は現代国語担当。

アンパンマンが髭を生やしたような風貌からなのか、

はたまた肉まんのようにまんまるな体型だったからなのか

定かではないけれど、私たちの担任になった時にはすでにそう呼ばれていた。

 

いずれにしても、彼は人のいいおじさん、いや先生だった。

当時の私は、学校の先生なんて裏表アリアリ、何考えているかわからんし、

どいつもこいつも信用ならんわ、と思っていたけれど、

谷まんは違っていた。

とはいえ、いわゆる熱血というわけではなく、

かといって杓子定規なお堅い先生でもない。どこか緩くて適当で、

人情味あふれる先生。

6年間温室のような女子高で育ってきて、

何をするのも面倒でなかなか動こうとしない私たちに対して、

彼は叱るでもなく諦めるでもなく、「お前らの気持ちはわかるけどな…… 

でもまあそういわずに、やれ」といつもなだめるように促してくれる、

そんな先生だった。

 

ところがそんな好印象とは裏腹に、谷まんの現代国語の授業は

びっくりするぐらいつまらなかった。

そもそも現代国語の授業って、「文中の『それ』はなにをさしているか?」

とか「この時の作者の気持ちは?」とか、それほんまにそうなん? 

作者に確かめたん? と言いたくなるようなことが多くて、

当時の私は半ば疑いの眼差しで授業を聞いていたから

余計そう思ったのかもしれないけれど、それを差し引いたとしても

面白いとはいえなかった。全教科の中で、授業中の睡眠率1、2位を

争うぐらいつまらなかった。

それでも谷まんはその授業スタイルを変えることなく、6年間続けていた。

 

 

 

そして、高校3年生の2学期、その事件は起こった。

 

2学期といえば最終的な進路を決めなければいけない時期。

一応進学校だったので、ほとんどの生徒が大学進学を希望していたのだけれど、

成績が伸びている子もいれば思うように伸びない子もいたりと、

クラスには微妙に重苦しい空気が漂っていた。

かといって一応受験生の身、ぱーっと遊びに行くというわけにも行かず、

少しずつストレスが溜まってきた頃のことだった。

 

私たちの学校では毎週月曜日の朝、全体朝礼というのがあって、

中学1年生から高校3年生まで全生徒が校庭に集合し、校長先生の話や、

今週のスケジュールの確認、スポーツなどで表彰された人の表彰式などが

行われる集会があった。

 

毎週毎週行われるこの儀式を、生徒の誰もが苦痛に思っていたことは

たぶん間違いない。できるものならサボりたい、きっと皆

そう思っていただろう。とはいえ、毎日校門の前で何人もの先生が、

スカートの長さやカバンの厚みをチェックするために定規を持って

立っているぐらい厳しい学校だったし、月曜日の朝礼は入学した時からの

決まり事だったので、それはもうそういうものとして定着していた。

ところがあるとき、その朝礼をサボる不届き者が、

私たちのクラスに現れたのである。

 

受験のストレスを何かちょっと変わったことをして発散したいという思いが

あったのだろう。あるクラブの部室に、そこの部員2人が朝礼をサボって

隠れていたところ、運良くバレなかったのがことの始まりだった。

 

当時は生徒の数が多くて、一学年350人、それが6学年で2000人以上

いたし、いちいち人数をチェックするわけではなかったから、

2人ぐらい減ったところで全く気づかれなかったのだ。

 

そのことに味をしめた彼女たちは、そこから毎週入れ代わり立ち代わり

サボるようになった。彼女たちは完全にその状況を楽しんでいた。

そして始めは2人だったのが、3人、4人とだんだん人数が増えてきた。

にも関わらず、谷まんは全く気づいていない様子だった。

 

 

そんなことが何週間か続いた頃、ついに私にも声がかかった。

「今日の朝礼サボらへん?」

12月の寒い月曜日の朝のことだった。悪いことだとはわかっている。

でもサボっている彼女たちを見ながら、ちょっと羨ましく思っていたことも

事実。一回ぐらいやってみたい。なんたって好奇心旺盛の私だから。

一回やればたぶん気が済むだろう。そう思って友人の誘いに乗ることにした。

 

そして、誘ってくれた友人と私は、校庭に出ることなく目的地の部室に向かった。

 

部室に到着した私は、驚いてひっくり返りそうになった。

2,3人、まあ多くても私たち含めて4人ぐらいだと思っていたその場所には、

なんと10人以上のクラスメイトが集合していた。

 

ブルータスお前もか! と冗談を言っている場合ではない。

今日に限ってなんでまたこんなに多いんだ……

すぐにヤバイと思った。いくらおおらかな谷まんでも、10人も減ったら

気づくだろう。

どうする? 今から走って校庭にでる?

いや、そんなカッコ悪いことはできない。

今思えばそんなところでサボっている方がカッコ悪いのかもしれないけれど、

その時は自分だけそこから抜けるということはできなかった。

 

朝礼が始まる。みんな息を潜めて丸くなっている。

このままバレずに朝礼が終わることを祈るのみ。

1分、2分、いつもより時の流れが遅くなったように感じた。

 

ところが、現実はそう甘くはなかった。

廊下を歩く足音がする。こちらへ向かっている。

そこにいた全員の顔が引きつった。

 

バン! と部室のドアが空いた。谷まんだった。

谷まんは、私たちの姿を見るなり、「でてこい!」と大声で叫んだ。

うつむきながら出て行く私たち。

「廊下に一列に並べ!」

谷まんは、怒りで顔を真っ赤にしていた。

 

しばらく沈黙が続いた。

 

 

 

 

その後谷まんは何か言いかけたが、それをぐっと飲み込み、

決心したかのようにこう言った。

「全員、俺の方を向け。目を見ろ」

 

私たちは谷まんの目を見た。ちょっと潤んでいるように見えた。

その瞬間、谷まんのビンタが飛んだ。

右端から順番に、一人ずつ、思いっきり平手でビンタされた。

 

その後谷まんは、「さっさと教室に戻れ」とだけ言い残し、

その場から去っていった。

 

「ビビった……」と口々に言いながら、赤くなった頬を押さえて

トボトボと教室に戻った私たち。ココロの中は何とも言えない

複雑な気持ちだった。教室に戻ると、頬の痛みに加えて、

朝礼に参加していた他の生徒から視線がちょっと痛かった。

 

間の悪いことに、その日の2時間目は、現代国語の授業だった。

ところが谷まんは、朝礼の件について何も触れることはなく、

いつも通りのつまらない授業を続けていた。

 

そして、その日の全ての授業が終わり、帰りのホームルームの時にも、

朝の事件については一切触れず、いつも通りにホームルームを済ませ

帰宅することとなった。

 

それからしばらくの間、この一件についての後始末はどういう形で

なされるのか、私たちはびくびくしながら過ごしていたけれど、

次の日も、その次の日も、職員室に呼ばれることはなく、始末書を

書かされることもなく、それどころか親に報告されることもなく、

結局この件に関しては、あのビンタ一発で何のおとがめもなく

終わってしまったのであった。

 

それ以降、朝礼をサボる者は一人もいなくなった。

もちろん、「先生にビンタされた」なんてことを親にチクる友人もいなかった。

あの事件は、私たちと谷まんとの間だけで起こった出来事となったのである。

 

 

 

それから20年以上の歳月が流れ、今から10年ほど前の話。

長女が中学受験をすることになり、大手の塾が主催する私立中学の説明会に

行ったとき、なんとばったり谷まんに出会ってしまったのである。

卒業後一度だけ、同窓会に出席してくれた時に出会ったきりだったから、

約20年ぶりの再会。

谷まんは入試の担当になっていた。20年の年月がたっているのにも関わらず、

私のことを覚えていてくれた。

 

雑談をする中で、あの時の事件についてちょっと聞いてみた。

「先生、私たちが朝礼をさぼってビンタされたこと、覚えてますか?」

すると谷まんは、「もちろん、覚えてるさ。長いこと教師やってるけど、

後にも先にもあんなことしたヤツらは他にいなかったからな」と苦笑いしながら

答えた。

 

その後で谷まんはこう付け加えた。

「おまえらは一発ずつやったからええけど、ボクは10人も叩いたから、

一番痛かったのはボクやで」その言葉を残して、彼は微笑みながら去っていった。

 

 

そうですよね、先生。私たちはカラダの痛みも一人分、ココロの痛みも一人分。

でも先生は、カラダもココロも10人分の痛みを、一人で引き受けてくれて

いたんですね。

 

あの時はうまく言葉にならなかったけれど、今はこんなふうに思う。

谷まんは、私たちに対する信頼を、あのビンタ一発に込めた。

あの時に谷まんが言おうとして言わなかったこと、

「今日のことは誰にも言わない。その代わり二度とするな」

それをカラダで感じ取った私たちは、「もう二度と先生を裏切ってはいけない」

とココロから思った。そのことを言葉にして話したわけではないけれど、

そこにいたみんながわかっていた。

 

 

あのビンタ事件から30年以上の月日が流れ、私もかれこれ半世紀以上

生きているけれど、後にも先にも、私がビンタされたのは谷まんの一発、

あの時だけだ。

 

体罰がいいとは思わない。今のご時世なら有り得ない話かもしれないと思う。

下手すれば首がとんでもおかしくない。当時でさえも、あの一件を表沙汰にせず

丸く収めるために、もしかしたら先生は裏で何か動いていたのかもしれない。

 

そうまでしても先生が伝えたかったこと、

人を悲しませるな。人を裏切るな。

国語の先生でありながら、言葉で伝える何十倍もの効果が、

あの一発にあったことは間違いないと思う。

 

 

新幹線のグリーン車には目に見えない特典が付いていた。

f:id:maruko-aoi:20170209131014p:plain

 

7号車7番C。

これは、私が新幹線を利用するときの指定席の番号。

77の席と私は勝手に呼んでいる。

 

5年ほど前から、仕事の関係で新幹線を利用することが多くなった。

多い時には、週に2回ぐらい、往復で考えると4回ぐらい乗ることもある。

 

新幹線に乗り始めた当初は、みどりの窓口やディスカウントチケットの店まで

わざわざチケットを買いに行っていたのだけれど、

1年ぐらい経った頃に、ネットで予約ができると友人から聞いて、

すぐに資料を取り寄せ手続きを済ませた。

 

ネット予約のメリットは、

スマホがあれば夜中以外はいつでもどこでもチケットの予約ができるので、

わざわざ窓口に行かなくてもいいし、

ICカードで改札を通れるから、発券の必要もないし、

空いてさえいれば、出発時間の15分前まで好きな座席が指定できる

という、本当に便利なシロモノなのである。

 

で、冒頭の77の席。

ネット予約を始めた頃は、その日の気分で12号車14番Aという感じで

適当に座席を取っていた。

ところが、自分の予約した座席が14号車12番だったのか、

12号車14番だったのか、

はたまたそれは前回乗車したときのものだったのかわからなくなり、

乗車するまでの間に何度もチケットを確認するということが続いたのだ。

要するに記憶できないのである。そのことに気づいてから、

そうだ、いつも同じ席を予約すればいいのだと思い、

私の好きな数字である77の席をとることに決めた。

 

すると不思議なことに、

他の席は埋まっていても私のために空けておいてくれたかのように

77の席だけ空いていたりするのである。

 

そんな私が、77の席を取らないことがごくまれにある。

それはグリーン車に乗るとき。実はこれもネット予約の特典。

ネット予約するとそのたびにポイントがつく。そして1000ポイント貯まると、

なんと通常の料金でグリーン車に乗れるというおいしい特典がついてくるのである。

 

そんなわけで3ヶ月に一度ぐらいはグリーン車に乗っているのだけれど、

実は私が始めてグリーン車に乗ったのはポイントではない。

グリーン車料金を払って乗ったことがたった一度だけある。

 

あれは今から15年ぐらい前、

ある成功した実業家の講演を聞いたときのことだった。

その方がおっしゃるには、

「僕が今こうやって成功できたのは、人と人とのつながりを

一番大事にしてきたから」だと。

そのつながりのはじまりが新幹線のグリーン車で出会った人だったらしい。

グリーン車には、中小企業の社長や、大企業の重役、あるいは芸能人など、

いわゆる一流と言われる人が多く乗っている。一流の人と知り合いになって、

一流の人がどうやって一流になったのか知り、

それを真似すれば一流になれると思ったその方は、

当時決してお金があったわけではないけれど、

つまらないことにお金を使うぐらいなら、着る服を我慢してでも

そのお金でグリーン車に乗ることにしたそうだ。

 

「新幹線のグリーン車からはじまった人と人とのつながりが、今の自分を作っている」

と彼はいった。そして親切なことに、グリーン車で隣の人と知り合いになるための

具体的方法(コーヒーを買うときに小銭をばらまき、ひらってもらったお礼に

コーヒーをご馳走し、それをきっかけに話し始めるという技)まで伝授してくれた。

 

当時新幹線に乗る機会がなかった私は、

わざわざ実行してみようとは思わなかった。

ところが新幹線に乗るようになってから、その成功者の話を思い出し、

何でもとりあえずやってみる派の私としては、よしそれなら一度乗ってみよう

じゃないの、と思いたったのである。

とはいえ新神戸から東京は初回のチャレンジとしてはさすがにハードルが高かった

ので、新神戸から福山(広島県)に行く予定ができた時、勇気を出して買うこと

にした。

所要時間は約一時間。しかも、隣に人が座っていなければ知り合いになれない

ので、わざわざ窓側が埋まっている席の通路側を取ることにした。

 

 

乗車の当日、朝からワクワクしていた。

どんな人が隣になんだろう?社長さんかな?いやもしかして芸能人?

イケメンの2代目とかなら最高! と妄想は止まらない。

 

そしていよいよ乗車の時。いつになく緊張する。

グリーン車に始めて乗ります、みたいな空気が出ないように、いつも乗っています

的な感じで堂々と乗り込んだ。

 

自動ドアが開く。グリーン車のじゅうたんが見える。緊張しながら自分の座席を探す。

「あった!」と思ったと同時に、私が座るはずの座席には、お土産やらカバンやら

荷物が山のようにおかれているのが目に入った。

 

「すみません」とその荷物の持ち主であろう窓側の女性に、できるだけの笑顔で

声をかけた。

年齢は60歳ぐらいだろうか。新聞を広げ、パンプスを脱ぎフットレストに足をかけ

くつろいでいた上品な感じのそのおばさまは、私の顔を見て明らかに驚いている。

 

「ここ、私の席なんですが」というと、慌てて座席の上にあった荷物を自分の方に

引き寄せた。

「ありがとうございます」といって私は席に着いた。

 

なんとなく不穏な空気が流れる。

隣のおばさまは、新聞を読み続けているが、あっちをめくりこっちをめくり、

明らかに落ち着きがなく様子がおかしい。

 

イケメンでもなんでもない普通のおばさま。しかも全く話せそうな気配もない。

小銭をばらまくなんてこの状況では有り得ない。残念だけど知り合いになるのは

難しそうだ。こうなったらグリーン車を満喫するしかないと思った。

 

動き出すとすぐ、女性の乗務員がおしぼりを持ってきた。さすがグリーン車

このあとお茶でもでてくるのか? ちょっと期待したけど何も出てこなかった。

仕方がないので、座席の前のポケットに入っている雑誌でも読んでみるかと思い、

取り出して読んでいたときのことだった。

 

車掌さんが検札にやってきた。チケットを見せる。そして彼女の番。

すると彼女は、私が隣に座っているにも関わらず、そんなことはお構いなし

といった感じで車掌さんに向かってこういった。

「席を変えてもらえません? 隣の席が空いているところに。たくさん空いている

みたいだし」

 

確かにたくさん空いている。

そりゃそうだ。私があなたの隣に来たのは、席が空いてなかったからではなく、

わざわざ隣が埋まっているのを確認して座席をとったのだから。

 

「お客様、今は空いておりますが、このあと予約がはいっているお席もございます

ので、ちょっとお調べいたします。少しお時間いただけますか?」

車掌さんは優しい口調で答えた。

 

「こんなにたくさん空いてるのに? いいわ、わかったらすぐ変えてください」

少し苛立ったように彼女は答えた。

 

「はい、かしこまりました」

 

私の目の前で、私が座っているにも関わらずこのような会話が繰り広げられている。

 

感じわるっ。

 

私が隣に座っているのに、目の前でそれ言う??

私が来たのがそんなに嫌なわけ?

せめて、私のいないところでできへんか? その会話。

 

勇気を振り絞って乗った最初のグリーン車で、まさかこんな目に合うとは、

思ってもみなかった。

なんや、グリーン車で知り合いなんて無理やんか。

とはいえ、このまま感じ悪い状態で過ごすのも嫌だったし、私は彼女にこう告げた。

 

「あの、あと30分ぐらい、福山で降りますから」

 

すると彼女はこういった。

「ごめんなさいね、あなたが嫌とかそういうわけじゃないのよ。

そうじゃなくて、私今まで何度もグリーンを利用しているけれど、

隣に人が来たのは初めてなの!」

 

「ええっ、そうなんですか!」

常に普通車両を利用していた私にとって、隣に人が来たのが初めてだという

彼女の言葉に驚きを隠せなかった。しかしあの成功者は、グリーン車で隣になった

人と知り合いになって人脈を作ったって言ってたはず。どういうことなんだこれは? 

私は訳がわからなかった。

 

その後おばさまは、私の斜め後ろに無事座席を移動し、一人悠々と新聞を広げて

くつろいでおられる様子だった。

降りるときに、「お先に失礼します」と声をかけると、「今日はごめんなさいね、

よい一日を」

と言ってくれたのが何よりの救いだった。

 

最初のグリーン車体験で痛い目にあった私は、成功者の言うことを鵜呑みにするのは

やめようと思った。その一件以来私は、グリーン車で一流の人と知り合いになる

ということは諦め、ポイントが溜まってグリーン車に乗ることになっても、

決して隣が埋まっている席を取ることはなく、一人で乗ることに決めたのだった。

最初はなんとなく広すぎて落ち着かなかったけど、慣れるとやはり快適で、

自分ひとりの空間を満喫できることにちょっと優越感を感じながら

乗れるようになった。ポイント特典で乗車しているということも忘れて。

 

そうやって特典でグリーン車に乗れるようになって数回目の出来事だった。

今日も久々のグリーン車を満喫するぞ! と思いながら、グリーン車対応で

いつもよりも少し高い弁当を買い、いつものように東京から新神戸まで隣が

空いている座席を予約したつもりだった。

 

ところが、それから数分後、事件は起こった。

品川に到着したとき、なんと私の隣に人がやってきたのだ!

これから3時間弱、一人の時間を楽しもうと思っていた矢先に、おじさん登場。

しかも私が勝手にイメージしていたグリーン車向きのダンディなおじさま

とかではなく、典型的日本人のおじさん。

 

まじか……

 

仕方がない。隣の座席に置いていた荷物を、自分の方に寄せる。

 

グリーン車の二人がけは、思った以上の圧迫感だった。グリーン車特典の

フットレストは、一人の時には十分機能しているものの、キャリーケースを足元に

置くと、とんでもない狭さになってしまい、ただただじゃまなだけだった。

あらかじめ隣に人がくると覚悟して乗っている普通車両とは違って、

予期せぬ出来事だったということも大きく関係しているとは思うけれど、

私の凹みようはかなりのものだった。それは、隣の人をおじさんと呼べるほど

自分が若いわけでもなく、正規にお金を払ったわけでもなく、ポイントを使って

グリーン車に乗っている、そのことさえも忘れてしまうほどショックな出来事だった。

 

考えてみれば、グリーン車といえども、じゅうたんがひいてあるのと、

ちょっと座席がゴージャスなだけ。決して一足早く着くわけでもないのに、

この差額の価値はどこにあるのかと正直思っていたのだけれど、

その時はっきりとわかったことがあった。

 

グリーン車に乗ることの価値とは、隣に人が来ないこと、

つまり物理的に購入するのは一席だけれど、心理的には二席分買ったつもりに

なってしまうという、目に見えない特典がグリーン車にはついていたのだ!

 

そしてその特典は、必ずついてくるというわけではなく、運がよければ

という条件付きにも関わらず、いつのまにかその目に見えない特典を享受して

当たり前だという気分になってしまう。溜まったポイントで乗っている私でさえ

そうなのだから、もしあのおばさまがちゃんとグリーン車の差額を支払って

乗っていたとしたら、隣に人が来たらそりゃうろたえるよね、とそのとき初めて

おばさまの気持ちがわかったような気がした。

 

それ以降グリーン車に乗る機会が何度もあったが、隣に人が来ることはなく、

今のところ毎回目に見えない特典をありがたくいただいている。

とはいえ、この目に見えない特典は、あくまでも運がよければという条件付き。

いつなくなるかわからない条件付きなのだ。

 

そうだ、いつか私もちゃんとお金を支払ってグリーン車に乗ろう、そしてその時には、

隣の席の分もお金を払って物理的に自分の座席にし、なんならベンチシートみたいに

して横になり神戸まで爆睡して帰るという、条件付き特典では決して味わえない特典を

味わってやるぞ、と密かに目論んでいる。

とはいえ、まだ当分は7号車7番Cの座席で、いかにして首を寝違えることなく快適に

神戸まで爆睡できるか、そちらを考えたほうが良さそうだ。

 

まず確認なのですが、あなたと私は知り合いじゃないですよね?

f:id:maruko-aoi:20170207143512j:plain

 

「ちょ、ちょっと待って! あなたと、私は、知り合いじゃないですよね?」

きっとあの時、私の頭の上には「はてなマーク」が沢山出ていたに違いない。

 

私は、一歩外に出れば80%以上の確率で知り合いに会うような、そんな田舎町に住んでいた。近所の人は、家族構成、家族の職業や子どもの学年、ときには昨日の夫婦喧嘩の理由まで知っている……そんな町だった。地域のコミュニティが発達している、なんていう言葉で表せば素敵に聞こえるかもしれないが、私にとってその当時、それは「監視」以外のなにものでもなかった。

夜は9時にもなれば、もうどの店も開いていない。人もほとんど歩いていない。まるで真夜中のように静まり返っていた。うちの前にある大きな池にはカッパが住んでいるという伝説があったのだが、夜、カッパが歩いていても違和感はなかったと思う。

「こんな町、早く出ていきたい! 隣の人さえもわからない都会の方がずっとマシ!」そう、思っていた。思えば、私は小学生の時から家を出ると決めていた。大学に行って、家を出る。大学に行けるかどうかもわからなかったのに。けれども、初心貫徹! 私はめでたく大学に合格したのだ。大学に合格した嬉しさもあったが、何よりもこの町を離れられる! という開放感でいっぱいだった。

 

「いい天気やなぁ! でも明日は雨降るねんて。信じられへんよなぁ」

え? 身体が硬直した。これは、ひとりごとなのか? いや、でも私の方を向いて言っている。この人と前に会ったことがあっただろうか? いや、ない……はず……。知り合いじゃないですよね? 私たち。なのに、私にお話しされているのですよね? あなたは。え? え? ということは、きちんと会話をお返ししなくてはいけないから……えっと、えっと……

「そ、そうですね。し、信じられませんね。」

引きつった顔でなんとかそう答えていた。そして、これだけのことなのに、私はどっと疲れていた。え? 今の何? 大阪には不思議な人がいるものだなぁ、さすが都会だけのことはあるなぁ、と思っていた。

 

動物園に行ってみた日のこと。その時私は「キンシコウ」という猿の檻の前にいた。孫悟空のモデルとも言われる金色の毛が特徴の猿である。

「金色とか言うけど、金色ちゃうやんな。あんた、あれ金色に見えるか?」

え? また不意打ち。私の身体は硬直し、頭の中はフル回転でこのおじさんの対応について考え中。

ちょっと、待って! まず、確認なのですが、あなたと、私は、知り合いじゃないですよね? それなのに、その近しい間柄のような会話は何ですか? 問題は、金色に見えるとか見えないとか、そういうことじゃないんです。どうしてあなたは私にそんなことを話してくるのですか? 何かの勧誘ですか? ナンパですか? 会話ってちゃんとしなくちゃいけないじゃないですか。だから、こちらもきちんと考えないといけないじゃないですか。えっと、だから……

「そ、そう言われれば、た、確かに金色というよりも、ちゃ、茶色かもしれないですよね……」

はぁ。今日もどっと疲れてしまった。

 

動物園に行く頃には、大阪には不思議な人がいるというレベルの話ではなく、どうやら大阪、そして関西というところには「知らない人に気安く声をかける」という文化があるらしいということに気付き始めていた。しかし、そもそも人見知りで、知り合いばかりの町で育ってきた私にとって、この状況にはなかなか慣れるものではなかった。それに、子どもの時から言われ続けてきたではないか! 知らない人と話しちゃいけません、ついて行ってはいけません、て。知らない人が話しかけてくるというのは、何か黒い目的があるはず! ああ、こわいこわい。私は常に、話しかけないでオーラを出していたのだが、それでも話しかける人はいて、その度に緊張してしまい身体をこわばらせていた。

 

私が緊張していた理由は、今思えば会話というものについての真面目すぎる思いこみだった。

「会話というものは、相手の言うことをきちんと聞いて、自分の中で咀嚼をして理解した上で、それ相応の回答を返す」という作業であると思っていたのだ。もちろん、今でもこれが間違いであるということではないし、そういう側面もあると思う。しかし、だ。ただちょっと話しかけたことに対して、いちいちこんなに重いことを考えられて、重厚な回答を返されたら相手も困るではないか。まぁ、そうは言っても私は重厚な答えを返せたことなどなかったのだけれど。

 

ある時、友人に相談してみたところ、

「そんなん、向こうも適当に話してるだけやから、こっちも適当に返したらいいねん」

と言うではないか。私にとって、この言葉は衝撃だった! ええっ?! 適当に話していたの? 適当に返すってなに? 適当な会話がわからなかったのだ! 今思えば、なんて世間知らずだったのだろうか。真面目すぎる若かりし自分に苦笑してしまう。まぁでもとにかく、片田舎から出てきて、まじめの、素朴さのかたまりだった私には、適当イコールいいかげん、ちゃらんぽらん、不誠実以外のなにものでもなかった。そんなこと人として許されないのではないか? そんな風にさえ思っていた。

 

そんな私も、年を追うごとに関西に慣れてゆき、知らない人から話しかけられても「適当に」返せるようになった。適当は決してマイナスな言葉ではなく、ちょうどいいという意味だったのだ。軽い会話には軽い返事を、重い話には重い態度で重い言葉を。臨機応変に対応するということを教えてもらった。あんなに人見知りだった私が、今度は知らない人に話しかけることができるようになっていた。

「おっちゃん、それ、なに飲んでんの?」

「熱燗やで。ちょっとあげよか?」

そんな会話で、隣に座った知らないおじさんからお酒をもらう私を、同郷の友人は目を丸くして見ていた。

 

知らない土地に住むのはおもしろい。そして徐々になじんでゆく自分を感じることもとても楽しい。

あの頃のまじめで素朴だった私、そんな私にちょうどよい適当さを教え、おまけに笑いまでつけてくれた大阪。いろいろなモノを包み込んでしまうあの器の広さが、私の心を少しずつオープンマインドにしてくれたのかもしれないなと思う。

 

その後、東京に引っ越しをしてきて1週間くらいたった頃、ある違和感を感じた。なんだろうと考えてみたらその正体がわかった。

「私、最近知らない人と会話してない……」

 

記事:渋沢 まるこ

あなたは強すぎたのです! 早すぎたのです!

f:id:maruko-aoi:20170207142449j:plain

 

拝啓

暑さが日ごとに加わってまいります。お元気でお過ごしでしょうか。

 

あなたとお会いしなくなってもう5年ほど、いやもっとになるでしょうか。以前はあんなに頻繁に会っていたのに、今では会うことがなく、あの頃が懐かしく思えます。

あなたはよく私を頼ってくれました。あれはあなたが中学生くらいの時でしたでしょうか。私はお母様に紹介されてあなたに会った日のことを覚えています。あなたはまだ生意気な盛りでしたね。そんなあなたの力になれることが私の楽しみでもありました。

 

あれから高校、大学を経て社会人になってゆくあなたをそばで見続けられたこと、とても嬉しく思っています。

あなたはこの時もしばしば私を必要としてくれましたね。その度に、私は全力であなたをサポートしようとしてきました。けれども、いつしかあなたは私を少しずつ遠ざけるようになっていきました。あなたは私に気づかれないようにしていたのかもしれませんが、私は気づいていました。あんなに私のことを頼りにしてくれていたのに、時折、他の人を頼ったりしていましたよね。私はあなたの幸せを願っているとはいえ、複雑な気持ちでいました。それでも時折、私を必要としてくれていましたので、私はこれもあなたの成長なのだなと考えていました。

 

「あなたとはもう会わない」

 

とあなたが宣言された時のことは今でも忘れられません。私は青天の霹靂といった感じで驚きのあまり何も言えませんでした。何が起きたのかよくわかりませんでした。けれども、あなたはそう言っているだけで本当に困った時には私を必要としてくるだろうと高をくくっていたのです。しかし、このときばかりはあなたも本気だったようですね。まさか、あれから会うことがなくなるなんて思ってもみませんでした。

 

その後あなたは別の方と意気投合され、その方を頼りにされていると風の噂で聞きました。なんでもその方は私とは違い、穏やかな方とか。私はあなたの求めに応じて、とにかく早く、スマートに対応することがあなたのためなのだと信じてやってきていました。ですから、別の方にお願いしていることがわかったときには、きっと私よりもっと優秀な方がみつかったのだろうと思っていました。それがまさか正反対の方を選ばれるなんて! 私には理解ができませんでした。私ならあなたのことをすぐに助けられるのに、どうしてよりによってそんなゆるい対応をする方を選ぶのか? 今でも本当の意味で理解はできていません。その間にも私はどんどん進化しているというのに。

 

私はあなたのことを尊重しようと、あれから何も言わずあなたの前から姿を消しました。けれども、どうしてそうなったのか、やはりどうしても知りたくなり、今頃お手紙を差し上げました。

もしできるようでしたら、お返事を頂けると幸いです。末筆ながら、ご自愛のほどお祈り申し上げます。

敬具

 

 

拝啓

厚さ厳しい折、そちらもお元気でお過ごしでしょうか。

 

お手紙拝見させて頂きました。結論から言いますと、あなたは強すぎたのです。あなたに別れを告げる頃には、あなたの限界を感じていました。強すぎる、早すぎるがゆえの限界だったのです。

 

あなたは体面をとても気にされているように思いました。いかに早く表面を取り繕うのか。私も最初はそれが、それこそが素晴らしいことなのだと思っていました。けれども、そうしていくと表面ばかりで根本の問題が解決していないということに気づいてしまったのです。根本が解決しないので、私はあなたに依存するようになっていきました。何かあればあなたに頼ればすぐに解決してくれる! なんて素敵な方なのだろう! と。けれども、何事も依存関係はやはり不自然なことなのです。最後の方はあなたなしでは安心して暮らしていくこともできなくなっていました。

 

こんな関係はやはりおかしい! と思い、私なりに色々調べてみました。すると、あなた以外にも私の問題を解決してくれる方が沢山いるということがわかりました。私は自ら会いに行ったり、来ていただいたりして、私と相性の良い方を探しました。そこで出会ったのがあなたの言う穏やかな方でした。

 

その方によれば、私の不調はどうやら「冷え」からもたらされている部分が大きいようでした。あなたと別れてから、私は靴下を何枚も履き、半身浴をして、下半身を徹底的に温めはじめました。「冷えとり健康法」というものだそうです。これをはじめてからというもの、あなたのように即効性はありませんでしたが、身体も心も変化していくことを感じています。穏やかですが、自然に、そして何よりも根本から変わっていく自分を感じています。

 

消炎鎮痛剤さま、あなたには長きにわたり大変お世話になりました。あんなにつらかった頭痛、ときにはのたうちまわるほどの痛みをいつだって早急に解決して頂きました。どんなに助けて頂いたことか。本当にあなたには感謝しております。

ですが、途中からお互いの考え方が変わってきてしまったのです。決してあなたのことを否定しているのではありません。このことをご理解頂けると嬉しく思います。

 

あなたを必要としている方は私の他にも沢山いらっしゃると思います。今度はその方達のために、お力になって差し上げて下さい。あなたの一層のご活躍を祈念いたしております。

                                                                                                                              敬具

 

記事:渋沢 まるこ

あなたの意に沿わないかもしれないけれど

f:id:maruko-aoi:20170207142409j:plain

 

私は「ありがとう」が言えない。正確にいうと言えなかった。

 

私は落し物を拾ってくれた人がいれば「ありがとうございます」と言うし、友達と会って楽しい時間を過ごしたあとには「今日は会えて嬉しかった! ありがとう!」と言ったりもする。一日に何度も「ありがとう」という言葉を発し、つかっている。だから「ありがとう」の五文字が発音できないという訳ではないのだ。なのに、アノ人だけには言えなかった。

 

ある時、言った方がいいよと勧める人がいた。けれども、私はアノ人が嫌いで恨みの気持ちすら持っていたのでそれは無理だと言った。すると、勧めてきた人は「面と向かってではなくてもいいから」と言うではないか。それならば簡単だ! と思った私はその日の夜にお風呂に浸かりながら言ってみることにした。

「○○さん、あり……」

あれ? 言えない。カラダが言うことを拒否している。いやいや、ここにアノ人はいないから。妄想だから。言ってみるくらいできるから! と思ってみるのだが、口が開かない。言いたくない。こんなに私自身が拒否するなんて思ってもみなかった。

なぜ? どうして? 私はそこまで恨んでいるのか? わからないまま、結局その日は言うことを断念したのだった。

 

それからしばらくして、アノ人が入院したという連絡が来た。私は複雑な気持ちだったが、とりあえず病院に向かうことにした。

病室では中にいる人たちとたわいもない会話をしたが、さして盛り上がることもなく、そろそろネタも尽きてきていた。すると、アノ人が「あなた、もうすぐお誕生日じゃなかった?」と言った。

そのときだ。私はまるで神の啓示でも受けたかのように、ここだ! 今だ! いま! と思った。

そしておそるおそる口を開いて言った。

「そう、もうすぐ誕生日よ。なんだかんだとこの歳になるまで生きて来れたわ。ありがたいことよねぇ。産んでくれてありがとう」

ああ、とうとう私は言った! あんなにカラダが拒否していたこの言葉。サラっとこんなところで口から出てくるなんて! 

 

「産んでくれてありがとう」

この言葉は、言えば母が喜ぶのだろうと思っていた。親孝行のために言わねばならない言葉なのだと思っていた。しかし、現実は違っていた。言った途端、私は自分がとてもいとおしく思えてきた。こんな場所で、お風呂で練習してもできなかったのに、ベストなタイミングでサラっと言ってしまうなんて! 私は自分を抱きしめて「あなたはよく言った! 頑張った! 素晴らしい!」とほめてあげたくなった。そしてこのあと、私は人知れず号泣した。それは、自分が達成したことの重みを思ってのことだった。

 

肝心の母は……というと、特にその言葉に感動した風でもなかったし、未だにこのことについて触れてきたこともない。もしかしたら、聞き逃していたのかもしれない。けれども、そんなことはどうでもいいのだ。私にとって重要なことは母が生きているうちにこの言葉を言うことだったのだ。私自身の卒業のために。

それは言ってみて初めて分かったことだ。相手のために少々無理してでも言わなくてはならないと思っていた言葉なのに、言ってみたらそれはすべて自分のためだったということに気がついた。

私はそれまで、結局すべてを自分の思い通りにしたかっただけなのだ。私の言うことを聞いてほしい! 私のことをかまってほしい! 私を認めて! お母さん、私はここにいるの! まるで駄々をこねる子どものように。

 

母が「いい母親」だったのかどうかはわからない。正直、母と娘の関係は良いものではなかったし、今でも母が私にしてきたことについて疑問を感じることもある。けれども、それはもう過去のことだ。今は私も「大人」になり、もう母の庇護のもとで暮らしているわけではない。母のことを嫌いだ! と思っていたのは、私がまだまだ子どもだったということなのだ。だからこの歳になっても、何かと理由をつけてああいうところが嫌い! こういうところが嫌い! などと思っていたのだ。

 

私が本当に嫌っていたのは「大人になりきれていない自分自身」だった。

母のことを嫌っていればいつまでも子ども気分でいたい自分を正当化し、子どもの自分と向き合うことから逃げることができたのだ。

私は「産んでくれてありがとう」を言ったあの日に、ようやく子どもを卒業したのだと思う。

あれから母を恨むような気持ちは徐々に消失していき、今ではほとんどなくなった。今はお風呂の中で「お母さん、ありがとう」だって言える。

 

母も人間だ。自分の思い通りにしたいこともあるだろう。八つ当たりしたい日もあっただろう。見栄を張ったり、自慢話をしたいときもあっただろう。

なのに私は、母に、親に、完璧を求めていたのだ。子どもである私をちゃんと守って! 優しく話を聞いて! ちゃんと褒めて! 私をいい子だと言って! 私をまるごと受けとめて! 親なんだからできるでしょう? やるのはあたりまえでしょう? と。

私は今になってようやく母を一人の人間として見ることができるようになってきた。彼女は彼女がベストだと思った方法で、彼女なりの愛し方で子どもを育ててきたのだ。それは私の意に沿うような方法ではなかったかもしれないけれど。

 

お母さん、産んでくれてありがとう。

私はやっと大人になりました。だから自分の人生に責任を持ちます。

私は私がベストだと思う方法で、私なりの愛し方で私の人生を歩んで行きます。それはもしかするとあなたの意に沿わない方法かもしれないけれど。

 

記事:渋沢 まるこ