まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

とあるレジ係のおばさんにいつも苛立っていた理由

 

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「すみません、もう一枚袋ください」

「大きさは?」

「大で」

「はい、どうぞ」

私はこの会話を彼女と何度繰り返したことだろう。

 

家から歩いて3分のところにある大型スーパー、もうかれこれ10年以上、一応主婦だからほぼ毎日通っている。

 

それだけ通っていると、どこに何があるのかだいたい覚えるし、今日はこれがいつもより高いとか安いとかもわかるようになる。その上覚えなくてもいいのに、レジの人の顔まで覚えてしまった。おまけにあの人はレジが早いとか、この人は商品をかごに詰めるのが超うまいとか、この人はやたらしゃべってくるとか、そんなレジ係の特徴までわかるようになった。

 

その中で、この人のレジには絶対に並ばない、と決めているおばさんがいる。彼女はたぶん開店当初からいる超ベテランで、レジも早いし、詰めるのもうまいし、特に愛想が悪いわけでもない、ごく普通のおばさんである。

 

が、たった一つの難点が、私を彼女から遠ざけている。その理由が冒頭の会話。

彼女は、レジ袋をケチるのである。

 

このスーパーでは、商品を買うとレジ袋をくれる。そのレジ袋には大、中、小と3種類あって買い物の量に応じて大一枚とか中二枚とか、レジ係の判断で袋をくれるのだけれど、彼女はなぜかそのレジ袋をいつもケチるのである。

 

たとえばカゴいっぱい買い物して、これは大一枚でも入りきらないという時でも、中一枚とか、他の店員さんなら明らかに大二枚くれるでしょ、という時でも大一枚とか、とにかくケチる。

 

最初はそんなことは全く気づかずに、たまたま袋の量をミスったのかなと思い、もう一枚ください、と軽く言いに行っていたのだけれど、さすがにそれが数回続くとなんで? と疑問がわいてくる。

 

実は後から追加で袋をもらうことって、客の側からすると意外と苦痛なのだ。レジ係の背後から、レジに並んでいる人に気を遣いながら、「すみません、もう一枚袋ください」と言う時、「この人、ほんまは入るのに余分に袋もらおうとしてるんちゃうの?」というような疑いの目が、レジ係からも並んでいるお客さんからも向けられているような気になる。

 

いやいや、私だってそんなにたくさん袋が欲しいわけじゃない、気持ちよく商品を詰めて、気持ちよく持って帰れる袋があればいい、ただそれだけなんだ。そもそも詰め放題じゃあるまいし、なんでこんなに必死になって無理矢理詰め込まなあかんわけ? とだんだん苛立ちさえ覚えるようになった。

 

そんなわけで、私はそのおばさんのところには並ばないようにしていたのだけれど、ある日すいていると思ってうっかり並んだら、そのおばさんだったことがある。ミスった、と思ったけれど後の祭り。それでも前回並んだときから何ヶ月も経っているから、もしかして改心した? と思ったら大きな間違い、彼女は相変わらずケチなままだった。

 

どうやらそのことに気づいているのは私だけではなさそうで、夕方など混んでいる時にも、彼女のレジだけは人があまり並んでいなかったりするし、近所に住む友人にそのおばさんのことを伝えたら、私も知ってるよ、その人には並ばない、と言っていたから、やっぱりケチだと感じているのは私だけではなさそうだ。

 

レジ係の人が何人もいる中で、袋を渋るのは彼女だけだから、自分の渡す袋の量にはちょっと無理があるんだ、ということにいい加減気づいても良さそうなものだけれど、そんな気配は全くない。客の私が知っているぐらいだから、レジ仲間はきっとわかっているはず。

 

それでも断固として彼女がレジ袋をケチるのはなぜなんだろう?

その理由をちょっと考察してみた。

 

 

例えばこんな見方はどうだろう? 

そのおばさんが平均一日4時間レジに入っているとする。

一人あたりのレジの時間を3分とすると、1時間で20人、4時間で80人。

これを一週間続けると、560人。

一人につき、袋を1枚ケチっている、いや節約しているとすると、なんと一週間で560枚の節約になる。

これがもし一年だと80×365=29、200枚!!なんと、約3万枚!

私に対してはたった一枚の節約だけれど、塵も積もれば山となる。

 

このおばさんは、このスーパーにとってはものすごい経費削減に貢献している優秀なパートさんなのかもしれない。もしかしたら袋の消費量が少ないチャンピョンで表彰されているかもしれない。

 

いやそれとも、こんな見方もできる。レジ袋をケチったら、お客さんに嫌がられる、すると、自分のレジにはあまり人が来ないから忙しくならない。要は同じ時間内でいかに楽できるかを考えているという、スーパーにとっては人件費の無駄とも言える不良パートである、という可能性。

 

いや、ただ単に鈍感なだけでレジ袋のことなんか気にしていない、特に意図はないでしょう、という見方もある。

が、あのおばさんのきっちりかっちりしていそうな外見からしてそれはありえないと思う。

 

 

ああ、いったい何が目的なんだ?

袋をケチって客をイライラさせて、いったい何がしたいんだ?

 

 

と、ここまで考察してみて、わかったことがある。

おばさんがレジ袋をケチる理由、それはいくら考えてもわからない。なぜならこれは私の妄想でしかなく、あのおばさんの本当の気持ちなんて、本人に聞かないかぎりいくら考えてわかるはずがない。

 

そんなこと初めからわかっちゃいるのに、なぜ考えても仕方のないことを考えてしまうのか? それはそのおばさんのことが気になっているからで、その気になっている理由はというと、実は自分もあのおばさんに負けないぐらいケチだから。大雑把に見せているけれど、実は結構細かいのだ、私って。

 

人は自分がひた隠しに隠しているところをあからさまに見せられると腹が立つものである。私は彼女がレジ袋をケチるたびに、自分のケチな部分を見せられているような気になっていただけなのだ。

 

そう、彼女がケチる理由なんて実はどうでもよかったのだ。私は自分のケチな部分を見るのが嫌だっただけ。ああ痛い。

 

ただひとつだけ言えることは、今まで彼女はそのスタンスを変えなかった、そしてこれからも変えるつもりはなさそうだ、ということである。

 

ならば私も、彼女には絶対に並ばない、と決めるだけである。自分のケチを毎日目の当たりにするほどの勇気は、今の私にはまだないから。

というわけで、わざわざ混んでいるレジに今日もまた並ぶ。

いつの日か、彼女の前に行き、心の中で「仲間だね」とつぶやけるようになる日まで。

 

記事:あおい

 

 

私、ここまでなら脱げます

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歳をとってきたせいなのか、かなり脱いでも平気になってきた。

お金を稼げるような、そんな人様にお見せできるような価値のあるものを持っているわけでもないし、有名人でもない。だから等身大の自分というものがわかってきたのかもしれない。

 

だいたい若い頃は完全に勘違いしていた。

どんどん脱いで、たいしたことがないことがバレたら、もう誰も私になんて目もくれないだろう。であれば、じらして、ちらっとだけ見せて人の気を引いておかなくては……と思っていたが、そんな面倒くさい人にずっと付き合ってくれる人なんてそうそういないのだ。今となっては、どうして脱ぐことがあんなにも恥ずかしいと思っていたのか、謎に思うほどだ。あの頃、さっさと脱いでしまえばよかったのに。

 

脱ぎ始めた頃はもう本当に清水の舞台から飛び降りるような気持ちだった。

こんなに脱いじゃって本当に大丈夫なのか? そんなあからさまな姿なんて誰も見たくないんじゃないか? そんなもの、公衆にさらすな! などと言われるのではないか? と恐れていた。だが、やってみると意外にも好意的に受け止められた。それどころか

 

「私も脱いでみたい」

 

という人まで現れた。

 

なんだ、実はみんな脱いでみたいんじゃないか!

 

脱ぎたいなら脱いでみてしまえばいいのだ。

やっぱり違う……と思うのなら、また着ればいいだけの話なのだから。

躊躇しているのは自意識があるからだと思う。他人からどう思われるだろうか? とか嫌われたくないとか思ってしまうから。けれど、その一線は思っているほど高くはないのだ。高いのは「心の壁」の方なのだ。

 

私は脱いでいく過程で、何度も号泣した。

しまった! こんな公衆の面前で脱いでしまった……と後悔したわけではもちろんない。むしろ、そうやって脱いで行けている自分がとても愛おしくなってきてしまったからだった。

 

私はきっと、本当はもっと前から脱いでしまいたいと思っていたんだ。

脱げば脱ぐほどそのことを確信した。

脱いで、泣いて、脱いで、泣いて……を繰り返していく中で、どんどん身体が軽くなってゆくのを感じた。脱いだら必ず泣くわけではないのだが、しかし、脱いで、泣いてという行為は確実に私の中の何かを浄化してゆく。

 

私がこうして文章を書くとき、なぜかもう一人の自分が私の首を絞めてくる。

 

「脱げ! 脱いでしまえ!」

 

と言いながら。私は

 

「く、苦しい……」

 

と言いながら、脱いで行かざるを得ない。

正直言えば、脱いだふりでもいいかなと思う時もあるのだけれど、それはすぐにバレてしまうのだ。だって、もう一人も自分だから。

 

お題に対して、いや、自分に対して嫌というほど向き合わなくては文章が書けない。これはもう私のスタイルだとしか言えないけれど、そういう風にしか今のところ書けていない。恥ずかしいけれど、もう心を決めて脱ぎます! 脱いでみたら私はこんな感じなんです。あとはお好きにどうぞ。といった具合なのだ。

 

けれど、本当に恥ずかしいのは中途半端な脱ぎ方をしたときなのかもしれない。全部、もう何も隠すことがないくらいに脱いでしまうと、あとはもう爽快感しか残らないのだ。達成感と言ってもいいかもしれない。隠しようのない「私」をさらけ出してしまったら、恥ずかしさなどない。だって、これが「私」だから。格好をつけることもできない。虚勢を張ってみることも、着飾ることもできないのだ。ここまで来ると開き直るしかなくなる。これが私なんです。ご期待に添えないかもしれません。でも、今の私にはもうこれ以上どうしようもできないのです。

 

しかし、こんなに脱ぐものがあって、これからもあるであろうことを考えると、そもそも私は「着過ぎ」なのだろう。言い訳という便利なものを着てみたり、怒りという武器を身に着けてみたり。ああ、だから向き合って少しずつ減らしていったから身体が軽くなっていったのだ。今までは必要だったこれらのモノ。今まで役立ってくれてありがとう。でも、これからはもう必要ないかも。

 

今まではどうやって着飾るのか、どうやって沢山のモノを手に入れるのか、そればかりを考えてきた。けれども、ここからはどんどん脱いでシンプルにしたいと思う。

 

これからもっと脱いで行くとどんな「私」が現れてくるのだろうか。

時にはヘドロのような自分を見るかもしれない。悪臭を放っていて、すぐに蓋をしたくなるかもしれない。けれど、それも自分なのだ。いつの間にか放置して腐らせてしまったのは私。まるで冷蔵庫に入れっぱなしにして放置されたままの野菜のように。だれも代わりに掃除などしてくれないのだ。いつか自分で見つけて後始末をするまでは。

 

私は今現在脱げるであろうところまで限りなく脱いでいる……つもりだ。

まぁ、本当はまだまだ着ぶくれしているのだろうけれど。

 

記事:渋沢 まるこ

彼女は困った話がしたいのだけど

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チカちゃんは、電柱につながっていない家に住んでいる。

 

だから2年前に家を新築した後、メーター検針の人がやって来た時には、家の周りをぐるぐる回って一生懸命メーターを探していたそうだ。しかし、探せども探せどもメーターは見つからない。そこで、検針の人はインターフォンを押して尋ねたそうだ。「お宅のメータ―はどこにありますか?」と。検針の人にしてみれば、そもそもメーターがついていない家なんてあるわけがないと思っていたのであろう。チカちゃんはチカちゃんで、この時、ウチの周りを不審者がウロウロしていると思っていたそうだ。

しかし、電柱につながっていないということは、メーターだってあるわけがない。チカちゃんは事情を説明して、検針の人に帰ってもらった。だが後日、今度は電力会社の人が黒塗りの車で現れて、またその人に「事情を説明してもらえますか?」と言われたそうだ。山奥ならばまだしも、普通の住宅地にそんな家があるということが理解できなかったのだろう。

 

確かに、私を含めてほとんどの人は、家は電柱につながれているもの。そして、そこから電気を買って使う。ということが当たり前になっていて、そこに疑問を感じることは少ないのではないかと思う。言っておくが、チカちゃんも何年か前まではそういう人だった。けれども、震災をきっかけに「電気」というものについて考えるようになった。もちろん、私だって考えなかったわけではない。けれども、便利な都会生活を享受してしまっている私にとって、今更、川で洗濯したりローソクの明かりで夜を過ごすなんて、そんな時代を遡ることは、なかなか決意できなかったのだ。私ができたことは、せいぜい夏にエアコンを使わないことくらいだった。

 

とはいえ、彼女も最初から新しい家は電柱につながないと決めていたわけではなかった。屋根に太陽光パネルを設置することは決めていたが、雨や曇りなどで電力が足りなくなったら、パチンと電力供給の切り替えボタンを押して、その時だけ電力会社から電力を買おうと考えていた。だが、いざ家を建て始めると、敷地内に電柱を立てなければいけないことがわかった。彼女はそこで悩む。自分の敷地内に電柱を立てることは納得できない。電柱を立てるくらいならば、好きな樹を植えたい! と思った。そこで、悩んだ末に電柱とはさよならして電気を自給自足してゆく生活を選択した。もし、電力が足りなくなったらローソクが必要だろうと、彼女は大量にローソクを買い込んでその日に備えたのだった。

 

そして、彼女のその家は、先日2周年を迎えた。ローソクは最初に買い込んだ数のまま、今でも一度も使ったことがないそうだ。

こういう家に住んでいるので、彼女のもとには時折、取材や講演依頼が来る。それで彼女は取材を受けたり、講演したりしているのだが、ひとつ困ったことがあるという。それは、こういう家に住んでいるからには、ローソク生活のような、とても困った話を期待されることが多く、質問もそちらの話がよく出るということなのだ。けれども、困ったことがないので、どうにも答えられない。もちろん、彼女の家では何も考えずに電力を消費しているわけではなく、普段はできるだけ無駄な電力は使わないようにしている。しかし、彼女の家には、洗濯機や乾燥機、冷蔵庫、掃除機にエアコンだってある。そして、スマホやパソコンだって使っている。私が想像していたような、川で洗濯……なんて時代を遡るような生活はしていないのだ。

晴れた日には、屋根の太陽光パネルがどんどん電気を作ってくれる。余るくらいだし、そんなに溜めてもおけないので、そういう日は電気を大量に消費する電気器具を存分に使って料理をしたり、洗濯をしたりしている。彼女はそういう日を「電気富豪の日」と呼んでいる。だって空からじゃんじゃん電気が降ってくるから、という理由だ。

 

私が最初に彼女に会ったとき、彼女の印象は「とても真面目な人」だった。あまりに真面目だったから、もしかしたらこの人はその真面目さゆえに生きるのがつらいことがあるかもしれない、と思ったほどだ。しかし、真面目だからこそ、電柱より樹を植えたいと思い、思い切って電柱とさよならできたのではないかなとも思う。この家に住んでからの彼女は、会う度にキラキラしている。そのキラキラした眼差しで「電気富豪」の話をしてくれたりする。今や、生きるのがつらいどころか、楽しくて仕方がないという印象を受ける。私も電柱とさよならしてみたい、とさえ思うほどに。

 

先日は、冷蔵庫ももういらないかもしれない、というようなことを言っていた。私だったら明日、急に「あなたはもう冷蔵庫が使えません」と言われたら、受け入れられないと思うけれど、彼女のように少しずつ自然にかえってゆくような生活をしていたら、それも受け入れられるようになるのかもしれないと思わせられる。あって当然、なくなったら怖い。と思っていた電気だけれど、彼女を見ていると、それはただの思い込みだなと痛感する。

 

困った話がない彼女だけれど、先日は雨続きでちょっと困ったという。掃除機をやめてホウキとちりとりで掃除をしたという話だった。ようやく話のネタができたのね! と思っていたのだけれど、そのホウキとちりとりにはこだわりがあり、職人さんがひとつひとつ手作りしたような品で、むしろ使い勝手がよく、掃除機より使いたくなるというではないか! それは、どこまでも期待を裏切っているよ、チカちゃん! 

こんな風に、彼女はこの先困ったことがあっても、きっと楽しいことに変えてしまう。

だから彼女は、この先もずっと、困った話はできないままだ。

 

記事:渋沢 まるこ

私は夫を無視することにした

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私はしばしば夫を無視する。

これは夫、いや私たち夫婦のためなのだ。

 

自分で言うのもなんだけれど、私は「察する能力」がある方だと思う。あの人は次にこういう行動をするだろう、あの人は次にコレを欲しがるに違いない、と察する能力。この能力は仕事ではとても重宝されるし、評価だってもらえる。こんな能力をもった私ってすごいでしょ? と、どこかで優越感を持っていた。だから、この能力を色々な場面で使ってきたし、喜ばれると素直にうれしかった。

 

けれども、この能力をあまり使ってはいけない場所がある。それは家庭だ。

 

調子に乗りやすい私は、夫に対しても「察し力」を存分に使っていた。水が飲みたそうだな、と感じたら「はい、お水」と先回りして夫に差し出した。と言っても、私には透視能力がある訳ではないから、水を差し出しても「今いらない」と言われることも多々あった。その度に私は、読み間違えた! もっと的中率を上げなければ! と自分に鞭をうち、次のリベンジに向けて燃えていた。

 

ある日、夫が不機嫌な様子で帰ってきた。さっそく様子を察知した私は頭の中で分析を始め、せっかくこれから楽しくご飯を食べるのだから、明るい雰囲気にしなければいけない、という結論を出した。ちょうどテレビではおどけたCMが流れていた。これだ! と思った私は、同じようにそのCMのまねをして夫を笑わせようとした。すると彼は、私がつかんでいた夫の腕を大きく振り払い「さわるな!」と大声で怒鳴った。

 

ああ、やってしまった……また察し方を間違えてしまった。

冷静に考えてみれば、イライラしている人に向かっておどけて見せるのは、ある意味火に油を注ぐようなものなのかもしれない。しかし、察し方を間違えて打ちひしがれる私は、この後どうするべきなのか、また必死に「察しよう」としていた。

 

そのとき、ふと浮かんだのは

 

「そもそも私は察する必要があるのだろうか?」

 

という問いだった。必要があるという回答に持って行きたい自分と、本当にそうなのか? と訊ねてくる自分に挟まれてしまう。必要はない! と言ってしまうと、今までの察し力で優越感を得ていた自分が崩壊してしまう。私のやってきたことはとても良いことだったはず。私は間違ってなんていないはず……だと思いたい。けれども、何だか感じるこの違和感はなんなのだろうか。この関係がそんなにいいものだとも思えない。

 

私はなるべく冷静に、今起こっていることを考えてみようとした。

 

今起こっていることは、負のスパイラルだ。

私が「察し」て先回りすることで、夫は自分のことを自分の言葉で表現する機会を失ってしまっていたのだ。私がその機会を奪っていたとも言える。この状態に慣れてゆくと、夫は何も言わなくても察してもらえることが当然となり、どんどんモノを言わなくなる。私の的中率も多少は上がってゆくから、ますます夫は「察し」てもらえることが当たり前になっていってしまう。

そんな環境が当たり前になってゆくと、私の察しが外れて夫の思う通りにならなくなると、イライラし始めるのは当然だろう。そうじゃない! もっと察しろ! と思うのも無理はない。私は私で、察しが外れると自分の能力もまだまだなのだと自分を責め、もっと的中率をあげることに全力を注ぐ。

しかし、私はそのことにほとほと疲れ果ててしまったのだ。

 

こうなってくると「私、察し力はいいのよね」などと得意気になっていた自分が恥ずかしい。それだけではなく「あなたが自分を表現する機会を奪ってしまってごめんなさい」と夫に対して申し訳なく思うようになった。

結局のところ、私たちはお互いに依存しあっていたのだ。「察する方」と「察される方」として。

 

察する……なんて言っているが、要は「人の顔色をうかがう」ということだ。そこには自分の意思がない。あなたが思うように私は動きます。いち早くあなたの望みを叶えます。ということなのだ。大げさに言えば、私は自ら夫の使用人に立候補していたことになる。

けれども、私はそんなことがしたかったわけじゃない。夫だってそうしたかったわけではないだろう。私たちは関係性を見直さなければならないのだと思った。私たちはお互いにもっと自立しなければならないのだ。そこで、私は夫を無視することにした。

 

「私はあなたのことを察するのをやめます」

 

と、夫に告げたとき、夫は戸惑った様子だったけれど、そのうち状況を理解したようだった。

無視といっても一切会話をしないなどという訳ではなく、文字通り夫の「察して欲しい」を無視することにしたのだ。本当は私が気づかなくなれれば一番いいのだけれど、察し能力はそうは簡単になくならない。だから無視。無視という言葉が悪ければ「待つ」でもいいかもしれない。そうなのだ、実のところ私はせっかちだから待つことが苦手なのだ。

たとえ夫が水を飲みたそうにしていても、本人がきちんと言葉に出さない限り、私は気づかないふりをする。夫は自分の事を自分で語る必要があるのだから。

 

そういうわけで、現在我が家では、私は「待つ」という練習を、夫は「自分の言葉で語る」という練習を、目下のところ継続中なのである。

 

記事:渋沢 まるこ

人生に彩りが少ないのなら、クローゼットの中を見て欲しい

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電車の中で私の目の前に座るステキな女子。ものすごく美人というわけでもないのに、なぜかキラキラして見える。私は吊革につかまる手に力を入れ、彼女を観察してみた。

うん、やっぱり顔って訳じゃない。彼女は確かにかわいい、けれどそこじゃない。髪型? お化粧? ヘアースタイル? 洋服? あっ! わかった。色だ、色。着ている洋服の色が明るくて、彼女にとても似合っているからだ。そうか! こういうことなんだな。

私は最近コスプレを始めた。
と言っても、アニメの……とかそういうものではなく、見た目は普通だから誰にもわからないだろう。

パーソナルカラー診断というものをご存じだろうか? 人それぞれに似合う色は違うので、何色が似合うのか、沢山の色を胸元に次々に置いて診断してゆくのだ。髪の色や瞳の色、肌の色も人によって違うので、似合う色も変わってくるのだ。その結果、私はピンクや赤、薄い紫、紺色などが似合うということだった。
紺色や薄い紫はまだしも、ピンク? そんな選択肢は私の中になかった。ええっ? ピンクですか? 無理っ! 私のピンクのイメージは「ザ・女子」なのだ。私も一応戸籍上「女」ではあるが、中身は限りなく「男」だし。
昔から女子の群れが苦手だった。みんなでトイレに一緒に行く意味もわからなかったし、みんなで何か……というあの感じ。どうにもなじめなかった。そんな私がピンク?! いまや死語かもしれないが、ピンクと言えば「ぶりっ子」だ。そう、ぶりっ子のイメージ。いつからピンクにこんなイメージを持ったのかわからないが、とにかく私は全力でピンクを遠ざけていたのだ。けれども、そのピンクが似合うという。にわかには信じられないが、そう言うならば、一度やってみようではないか! ピンクよ、かかってこんかい!

そう言うわけで、私は似合うと言われたピンクの服を増やした。増やしたからには着なくてはいけない。袖を通してみると、ムズムズしてくる。体が若干の拒否反応を示しているようだ。借り物の衣装を着ている気分。落ち着かないし、まるで他人になったみたいだ。そう、だからコスプレ。自分ではない誰か、そして、その衣装。ピンクは誰にも気づかれることのないコスプレ衣装だった。

「その洋服似合うね」
「え? あ、ありがとう」

「その色似合うよねぇ」
「本当に?」

陰謀だ、陰謀。私にピンクが似合うはずなんてないのに。誰? 誰が私を陥れようとしているの?
私は受け入れることができずに、そんな風に抵抗していた。しかし、本当に会う人がみんな、服が、その色が、似合うと言ってくれるのだ。途中までは必死に抗っていたが、徐々に洗脳されてゆく私。どうやら、本当に私にはピンクが似合うらしい。と言うことは、私は「ぶりっ子」なのか? いや、違う! そもそも、その前提が間違っているのだ。そろそろ、私の中のピンクのイメージを書き換える時が来たようだ。

改めて自分のクローゼットを見てみた。白、紺、黒。ほぼモノトーンの世界だ。ほとんど色のない世界。
ああ、私は長らくこんな世界に住んでいたのだ。そりゃあ、人生に彩りも少なかろう。妙に納得してしまう。守りの人生。自分のテリトリーから出るのが怖かったのだ。必死で自分の狭い世界を守ってきたのだ。何から? 誰が、何が、攻めてくると言うのだろう。私は何をそんなに守りたかったのだろうか?
思えば、物心ついたときからピンクを着た記憶なんてない。制服はモノトーンの世界の服だし、私服にもピンクなんてなかった。もしかしたらあったのかもしれないが、記憶にない。けれど、気づけばモノトーンの世界の住人だった。

それは、きっと自分を隠しておきたかったのだ。自分を出して、少しでも否定されようものなら、もう立ち直れない。傷つきたくないから、事前に予防線を張っておく。目立たずに、ひっそりと。それが、私のモノトーンの服の正体だったのではないかと思う。

そこにやってきた、ピンク! 初めこそ慣れなかったが、慣れてくると何だか気持ちも明るくなるような、体温まであがるような、そんな気になる。
私はここにいる! と少し言えるような、そんな気持ち。ああ、もう自分を隠しておく必要なんてないのだ。誰も、何も、攻めてなど来ない。
ピンクを着るようになって、私は少し自分に自信がついたようだ。

目の前の素敵な女子がキラキラしているのは、明るい色の洋服のせいだった。いや、彼女が醸し出す雰囲気のせいかもしれない。どちらが先なのかわからないが、ともかく、彼女はモノトーン時代の私のように自分を隠そうとはしていない。だから美しいのだ。

人生に彩りが少ないと思うなら、クローゼットを見て欲しい。
もし、クローゼットがモノトーンの世界だったら、自分に似合う明るい色を足してみることをおすすめしたい。

 

記事:渋沢 まるこ

輪廻転生の案内人

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「ここが死のゾーン」

「それで、あっちが生のゾーン、そして向こうが老いてゆくゾーンね」

 

今、私は輪廻転生の現場に来ている。こんなに間近で現場をみることができるなんて知らなかった。

まず私が案内されたのは、死のゾーン。ええ?! そんなゾーン案内しなくてもいいのに。「死」なんてできれば避けたい。だって、なんかおどろおどろしいイメージがあるし。おばけが出ちゃったら嫌だし。なんて思ってついて行ったのだが、その現場はイメージとは違いなんだかいい雰囲気だった。明るく、土のいい香りがしてくる。土ってこんなに香ばしくていい匂いだったっけ?

 

「この土、何だかいい香りがするね。心なしか温かいような気もするし」

「そうなんだよ!! いい香りだろ? こっちは土の中の微生物が活発に活動しているんだ! ちょうど今、土の中で分解中だから。だから温かい。こんなの無理だろって思うようなやつもきれいになくなるんだよ!」

 

え?! この人、ニコニコしながら語っているが……分解ということは……おそらく亡骸を分解ってことだ。

そう思ったらやっぱり土から手を離してしまう。よく土に還ると言うけど、いま私はその現場に居合わせているということ。頭では理解できても、目の前で起こっていると思うとなんだか複雑な気持ちだ。

 

「じゃあ、今度は生のゾーンね、こっち」

 

よかった。死のゾーンはもう終わり。生のゾーンからはその名の通り、瑞々しいエネルギーが溢れてくるのがわかる。お肌もプリプリ。ハリもあってぴーんと伸びてシワもない。つい、「若いってこういうことよね。羨ましい!」と口から出てしまう。辛いことがあっても、負けないように一生懸命頑張るその姿には感動を覚える。

だけど、何だかそういう若い勢いが感じられない一画があった。

 

「あそこは何?」

「ああ、あそこは途中までは元気だったんだけど……。急に元気がなくなって亡くなってしまったんだ。成長を楽しみにしていたのに。何がいけなかったんだろう」

 

と言った顔が曇っている。そして、急に元気もなくしている。そ、そんなにショックを受けていたのか? どんなところにもこういうことはあるのだな。けれども、その横で今日もまた命は生まれる。なるほど、これが輪廻転生というものなのか。

 

「じゃあ、あっちは?」

「ああ、あっちは老いてゆくゾーンね」

 

ん? 老いてゆくゾーン? ああ、干からびてゆくってことね。どんどんシワシワに。でも、凝縮されてゆくこのゾーン。

 

それで、私は今どこにいるかと言うと、うちのベランダにいる。そして、案内人は夫。

 

もっと若かりし頃、ベランダで土いじりをしていたのは私だった。チューリップの球根を植えてみたり、観葉植物を育ててみたり。そうそう、トマトを育てて、あと一日おいてから収穫だ! と思っていたら、鳥にやられて落ち込んでみたりしていたなぁ。でもあの頃、夫は全く興味を持っていなかった。またなんかやってる。ふ~ん、と遠くからベランダを眺めていただけだ。それなのに、いつからだろうか、この関係はいまや完全にひっくり返ってしまっている。今、私は育った植物を「ふ~ん」と眺めているだけだ。

 

まず、夫は土づくりから始める。

これが始まってから、ウチから生ごみが消えた。すべて土に埋めてしまうから。いまやウチでは生ごみではなく「宝」と呼ばれている。

外食に行くと、私たち夫婦は帰り際にそわそわし始める。店員や周りの人たちに気づかれないように、そっと「宝」をビニール袋に入れて持ち帰るためだ。

 

「あ、ちょっと待って! 今はだめ」

「あ、いまいま、はやく!!」

 

と言いながら、二人のチームワークで「お宝」をゲットするのだ。だが、きっとお店では怪しい夫婦だと見られているに違いない。だって、食べ終えたお皿は毎回どれも綺麗すぎるから。どんな皮も骨も残さず美しく。

 

お宝をゲットしたら、夫の言う「死のゾーン」に埋められてゆく。言葉通り、土に還してゆくのだ。すると、本当にしばらくするといい香りの土ができあがるのである。その後、その土に種をまき、新しい命が生まれてくることになる。これが「生のゾーン」

けれど、どうしても相性の悪い植物もあるようで、途中まで勢いよく育っていたと思ったら、急に元気がなくなって枯れてゆくものもある。そんなとき、信じられないくらい夫は落ち込んでいたりする。私は仕方ないじゃん、と思うのだが、夫は愛情をかけている分、悲しい気分になるのだろう。こんなとき、夫の愛情の深さを垣間見た気がして、いつも玄関で靴を並べないことは愛に免じて許そうという気になったりもする。

 

では、老いのゾーンとは何かと言うと、野菜を乾燥させているのだ。

 

それまで、私は買いすぎたり、使わなかったりして、ちょくちょく野菜を冷蔵庫で腐らせていた。

すると、そういうものを発見した時の夫は烈火のごとく怒り出すのだ。

 

「これはいのちなんだよ! わかってるのか!」

 

それはもう凄い剣幕で、ド正論で迫ってくるものだから、私はぐうの音も出ない。お、おっしゃる通りです。ええ、ええ、それはもう、何も言えませんから。その後しばらくは、夫が恐ろしすぎて買い物するのに躊躇したほどだ。

けれども、私にしてみれば、じゃあ、もうあなたが買い物をして、あなたがご飯を作って下さいよ。そしたら、「いのち」は全く無駄にならないのでしょうから、とも思っていた。

 

そうしたら、夫はそれを察したかのように一夜干しネットを買ってきた。私の「野菜腐らせ癖」は言っても治らないと思ったようだった。それからは、危なそうな野菜を発見すると「あれ、干すから」と言って、その野菜は干し網行きとなるのである。干された野菜は、夫がランチのスープとして持ってゆく。何でも味が凝縮されていて美味しいのだそうだ。スープは、トムヤムクン味、しょうゆ味、鶏ガラスープ味などバリエーションがあるらしく、その日の気分によって味を変えているもよう。そう、野菜を干すようになってから、夫は自分で自分のスープをつくるようになったのだ。

 

夫はコツコツ型の農耕民族、それに対して私は短時間集中型の狩猟民族。ようやくこの頃、お互いの違いを認め、お互いの得意部分を伸ばす方向で互いに合意ができてきたようだ。私にコツコツ型は向かない。できない。これを認めようではないか。目下の目標は夫に「糠漬け」をやってもらうことだ。こんなコツコツ、私には到底無理だから。

 

そんな我が家の毎日。

今日も、朝から愛する植物たちに水やりをする夫の背中を見ながら「ふ~ん」とそれを眺める私なのであった。

 

記事:渋沢 まるこ

自由研究でわかったことは「大人は信用ならない」だった

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「こんなの、雑草ばかりじゃないか」

おじさんはがっかりした様子でそう言った。

 

私は夏休みの自由研究をやりたくなかった。けれど、宿題はやらないと怒られる。仕方がないので自由研究は「植物採集」にすることにした。

といっても、そもそもやりたくないのだから、採集するものはその辺に生えている雑草だけ。山に分け入って珍しい植物を採ったり……なんてことは、もちろんしない。そういえば、去年学校で表彰されていた人は、春夏秋冬それぞれで山に分け入り、その時々に生えている植物を採集したと言っていた。そんなこと、やりたくない。興味もないし。雑草だって立派な植物。もしかしたら、この辺にだって実は珍しい植物があるかもしれないし。などと、自分に都合のいいように考えながら植物採集を終えた。

 

採集したのはいいけれど、今度は名前がわからない。図鑑を眺めてみても、わからないものもある。

そんなとき、県立の自然なんとか館というようなところで植物採集した植物の名前を教えてくれるという会があった。夏休みなので、同じように採集したけれど、名前がわからないという子どものために開催されていたのだろう。

 

私は採集し、台紙に張り付けた植物たちをおじさんの前に出した。なんとか館の職員なのかどうかわからないが、そのおじさんは尊大な態度で次々に名前を書いていった。そして冒頭の言葉だ。

 

「こんなの、雑草ばかりじゃないか。もっと他になかったのか」

 

こんな雑草ばかり採集して! やる気ないんだろ? 俺が見るまでもないものばかりじゃないか、というおじさんの心の声が、小学生の私にも聞こえる。

だって、やる気ないんだもん。いいじゃん、なんだって。おじさんは名前を教えてくれればそれでいいんだよ。そんなにバカにしなくてもいいじゃん。植物採集なんだから、植物を採集してきたの! これでも、珍しそうなものをチョイスしてきたんだからね。ああ、早く帰りたい……。と思っていた時だった。

 

「おお! これは珍しい!」

 

と、おじさんはご満悦の表情でじっくりと植物を眺め、名前を記入してゆく。

おお! 私の自分に都合のいい予測通り、うちの近所にも実は珍しい植物が生えていたか! だとしたら、ほら、雑草だって捨てたものじゃないでしょう? 私は少し勝ち誇ったような気持ちになり、どの植物なのかを見た。

 

なんとそれは、うちの庭の家庭菜園にあった「アスパラの茎」だった。

繊細で美しいグリーンの茎。私はこの造形が好きだった。だから植物採集の一つに加えたのだ。なのに、そんなに珍しいの? え? おじさん、それ、アスパラだよ。私ちょっと前にアスパラガス食べたもん。別にそんなに珍しくないはずだけどな。思った通り、おじさんの書いた名前は、やはりアスパラではないものだった。

 

大人も間違えるんだ! しかも、こんな偉い人でも!

 

私は、もはや植物採集のことはどうでもよくなり、そのことに衝撃を受けたのだった。その頃私はまだ小学生。大人の言うことは正しい、ということがインプットされていた。しかも、尊大な態度で来られると、それだけでこちらは委縮してしまい、ああ、この大人の人は偉いのだと素直に思ってしまう、そんな純粋な子どもだったのだ。

 

だが、この事実! 「偉い大人も間違う」この発見は私にとって衝撃的だった。

偉そうなことを言っていても、大人だって間違うんじゃないか。こちらにばかり上からモノを言わないで欲しい。さも自分は正しいという態度で来ないで欲しい。大人って信用ならないんだな。

 

「大人は信用ならない」というのは、このとき強烈に私にインプットされたような気がする。今考えてみれば、もちろん大人だって間違えることがあるし、植物も似たようなものが沢山あるから、そういうことだってあるはずだ。間違って毒きのこを採って、死んでしまうようなことだってあるのだから。けれども、子どもの私にはそれが信じられなかったし、許せなかった。子どもだったから……といえばそれまでなのだが、あんなに衝撃を受けて、今も鮮明に覚えているというのは、きっとおじさんの態度がとても高圧的だったから、ということも関係していると思う。

 

もし、仲良しのおじさんが間違ったことを言っていたとしても、それ間違っているよ、とすぐに言ってしまうだろう。だから、大人は間違うということにもそんなに衝撃を受けなかったと思う。あのなんとか館のおじさんは、明らかに私を下に見て、上からモノを言っていた。だから子どもとはいえ、私は衝撃を受けたのだろう。衝撃というよりも「勝った感」のようなものだと言ってもいいかもしれない。おじさんは高圧的な態度で優位性を保っていたが、間違えたことによって優位性を失ったのだ。それがアスパラだと言うことは、私の方が知っている。正しいことは私の方が知っている。という優位性を、私はあの時ふいに獲得したような気持ちになっていたのかもしれない。

 

しかし、おじさんも、まさか目の前の雑草を採集してきた小学生に、こんな風に思われているだなんて思ってもいなかっただろう。おじさんは、ただ植物の名前を教えただけなのだ。しかも、やりがいのなかったであろう雑草の。そして、少し間違っただけなのだ。そう思うと、おじさんが少し気の毒にも思えてくる。

 

とはいえ、私の、その夏の自由研究での発見は「偉い大人も間違う」であったことは間違いない。

 

記事:渋沢 まるこ