まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

自慢の父からスケベ親父への転落、からの復活

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「さあ、ウイットのきいた会話、しようぜ」
「あほちゃう? このおっさん。ウイットってなんやねん? そんな昭和な言葉知らんわ」娘はすかざず夫に突っ込む。

 

アホと言われようが、おっさんと言われようが、にこにこして娘と会話している夫。どんだけ娘好きやねんと思いながら、そんなアホな会話を楽しめる父と娘の関係を私はとても羨ましく思っている。というのも私自身、父親とそんなふうに会話を楽しんだという記憶がないからだ。

 

私は父が大好きだった。大正15年生まれの父は、私が生まれる前は航海士だった。大きな船で世界中を飛び回っていたそうだ。長身ですらっとしていて、英語も堪能だった。私が子どもだった昭和40年代の頃、当時まだ珍しかったパイナップルやマンゴを自らカットして、こうやって食べるんだよと教えてくれたり、8ミリビデオで私や兄を写しては映写機で上映会をしてくれたりと、時代の先端をいく自慢の父親だった。

 

父は基本優しかった。怒られたことは、私の記憶では2回だけしかない。
一度は小学生の時だった。ある日曜日のこと、雑誌の付録を作るのに夢中になりすぎて、お昼ご飯だと呼ばれたことに気づかなかった。普段はそんなことでは怒らないのに、その日に限って父は声を荒らげて「もう二度と食べるな!」といった。私は自分がしたことがそれほど悪いことだとは思わなかったから、父の怒りが理解できなかった。泣きながら付録を作り続けていたことを今でも覚えている。

 

もう一度は、大人になってから、OL時代に門限を破ったときのことだった。玄関で仁王立ちして立っていた。「何時やと思っとるねん!」父は大声で叫んだ。小学生の時、付録を作って怒られた時と同じ顔だった。でもその時、私は全く動じなかった。怖いとも思わなかった。仁王立ちしている父に「ごめん」とだけ言って自分の部屋に入っていった。

 

なぜなら彼はもう私の中では、小さかった頃の自慢の父親ではなかった。かっこいい父親の姿はすっかりなくなっていた。それはあるひとつの私の思い込みがきっかけだった。

 


話はふたたび小学生の時に遡る。航海士からサラリーマンになっていた父は、仕事から帰るとパジャマに着替えて食事をすませ、リビングでテレビを見ながらビールを飲むのが日課だった。あるとき父は、いつものようにビールを飲みながらテレビを見ていた。それは昔の映画だった。カラーじゃなかったと思う。外人が出ていたからたぶんアメリカ映画だったのだろう。私も同じ部屋でなんとなく一緒にテレビを見ていた。

 

すると突然、画面に裸の女性が登場したのだ! しかもひとりではなく次々と。その裸の女性たちは王様のような男性の周りで踊っていた。私は見てはいけないものを見てしまったと思った。しかも父親と一緒に! 気まずすぎる。小学生だった私は、黙ってその場を離れた。

 

離れたものの、気になって隣の部屋から観察していると、父は何のためらいもなく、その場面を見続けていた。私はそんな場面を見続けている父に対して、ある種の違和感を覚えた。が、そのときは違和感の正体がなんなのかわからなかった。今のようにチェックがきびしくなかったのだろうか、昭和40年代のテレビでは、女性の裸やきわどいラブシーンなどが唐突に登場することが時々あった。そんな時父は、その場面を嫌がることなく、むしろ好んで見ているように私には思えた。

 

何度か父のそんな場面に遭遇しているうちに、私は違和感の正体がなんなのかに気づいてしまった。

 

父はスケベだ! 女の人の裸をあんなに嬉しそうに見ているなんて、スケベ親父だ!!
小学校高学年のころには、完全にそう思うようになっていた。

 

そのことに気づいたものの、父親に向かってあなたはスケベ親父ですね、と言えるはずもなく、なぜあんなエッチな場面を躊躇なく見ているのかと問うこともできなかった。そのころから父に触られることが嫌になった。頭をなでたり、肩を組んだりされることも嫌になった。

 

極めつけの出来事は、高校生の時、母と3人で食事に行った時のことだった。食事を終えて駐車場まで歩いているとき、突然父が「胸大きくなったな」といって、私の胸をわしずかみにした。

 

私は驚いて声も出なかった。母が「もう、やめなさい」と父に怒って言った。父はその時なぜか嬉しそうな顔をしていた。恥ずかしさと怒りとやるせなさと、ありとあらゆる感情が渦巻いていた。私は大きく傷ついた。言葉では表せないほど傷ついていた。

 

大好きだった父。いつも優しかった父。年を取ってから生まれて一人娘だった私を、本当に可愛がってくれていた父。だからこそ余計ショックは大きかった。許せない、と思った。父がどんな気持ちで私の胸をつかんだのかはわからないけれど、許せなかった。

 

その一件以来、私は父と話すことはほとんどなくなった。父と二人きりになることを極力避けた。大好きだった父親が、ただのスケベ親父になった。それ以降父親との記憶はほとんどない。

 

唯一覚えているのが、私が会社員になってから、車で父を会社まで送っていくハメになったことだった。というのも、私の会社の途中に父の会社があったからだ。その提案を父はものすごく嬉しそうに言い始めた。娘との接点ができると思ったのだろう。私は自分が車で行きたかったし、そもそも車は父のものだったから、嫌とは言えなかった。毎日月曜から金曜まで、父を会社まで送り届けてから自分も出勤するという生活が始まった。たった10分ほどの距離だったけど、苦痛で仕方がなかった。同じ空間にいることもいやだった。

 

そんな生活が3年ほど続いたけれど、父が病気になって送っていくこともなくなりほっとしていた。

 

父は大腸がんだった。入退院を繰り返す日々が始まった。母親に見舞いに行きなさい、と何度も言われた。けれど自分から進んで見舞いに行くのも嫌だった。行ったところで何もしゃべることないわ。気まずいだけやし。とりあえず母に言われた時に顔だけ出して、頼まれた買い物をし、洗濯物を持ち帰り、自分の任務を全うした。

 

ある日、いつものように嫌々ながら見舞いに行くと、父がこんなことをいった。
「昭和史の本、買ってきて欲しい」
大正15年生まれだった父は、自分が生きてきた昭和の時代に何が起こったのか、今一度確認してみたい、といった。

 

父はすでに手術のできない状態だった。当時はまだ告知が一般的ではなかったから、父には隠し通していた。私は自分の体のことなのに教えてもらえないなんて、命を他人にコントロールされているようでいやだったけれど、母親が絶対に言わないと決めていた。

 

もしかして父は、自分の死期に気づいているのかもしれない。
その時そう思った。

 

次の日、私は昭和史の文庫本をいくつかかって持っていった。父はとても喜んで、ベットの中から「ありがとう」と言った。「これを読んで自分の人生を振り返ってみる」その声にはもうあまり力がなかった。目の前にいる父親は、昔の父親とは違っていた。ただの小さな老人になっていた。

 

今ここで話をしなければ、もう二度とできないかもしれない。頭ではわかっているのだけれど、どうしても話ができなかった。スケベ親父だと思い込んでから15年、あまりに月日が経ちすぎていた。

その日も無言のまま、病院から帰った。

 

それから一度だけ退院を許されて家に帰ってきた。父は自分の病気がよくなったのだと思い嬉しそうだった。ところが一ヶ月もしないうちに、容態が急変して病院に戻ることになった。家を離れるとき、父はぼそっとこういった。「もう帰ってこられへんかもしれんな」その言葉に対して、何も答えられない自分がいた。

 

父はみるみるうちに弱っていった。痛みを抑えるためにモルヒネを使っていたので、だんだん意識も朦朧としてきていた。話すときは本当にもう今しかない、頭ではわかっているのに、何一つ口から言葉が出てこなかった。

 


それから2週間後、父は65歳の生涯を閉じた。

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「今から遊園地に行くぞ!」土曜日のお昼、学校から帰った私にあなたは言いましたね。思ってもみなかったサプライズに、私はとても驚きました。
「なんで? なんで? 今日はなにか特別な日なん?」と私が聞くと、「いや、何もないで。行きたいって言うてたやろ、だから行こう!」とあなたは言いました。

 

他にも、突然「今から田舎に帰るぞ」と言って、神戸から徳島県の鳴門まで車で日帰りしたこともありました。今でこそ橋があるから時間もあれば鳴門に着きますが、当時はフェリーでしたから、片道だけでも半日かかりましたよね。

 

私はてっきり、あなたはサプライズが好きな人なんだと思っていましたが、実は違っていたんですね。私が小さい頃、とても楽しみにしていた家族旅行を当日になってドタキャンされて、ものすごい落ち込んでいるのをみたあなたは、あいまいな約束すると行けなかったときに可愛そうだから、遊びの予定は当日まで言わずに、行けると決まってから言おう、と母に提案してくれたそうですね。そのことを後で聞いて、ちゃんとあなたは私のこと見てくれていたんだなと思いました。

 

トランプや花札の相手をしてくれたのもあなたでした。私は負けるのが悔しくて、勝つまで泣きながらやっていましたね。私は気づいていましたよ、最後はわざと負けてくれていたことを。

 

私はあなたの運転する車の助手席に乗るのが好きでした。
バターピーナツをつまみながらビールを飲んでテレビを見ていたとき、そのピーナツを横取りして食べるのが好きでした。

 

そんな大好きだったあなたを、いつの頃からか私は、スケベ親父だと思うようになりました。

 

思春期に入り、話をしなくなりました。優しい言葉をかけられても、愛想のない返事しかしなかった。それでもあなたは私に怒ったりしませんでしたね。寂しそうな顔をしているのはわかっていました。けれどどうしてもスケベ親父という私の思い込みが、あなたと会話することを遠ざけてしまっていたのです。

 

会社に行く車の中でも、ほとんど無言でしたね。今思えばもっと話せばよかった。二人きりで話す最後のチャンスだったのに。

 

実はあの時、私はもう気づいていました。

 

あなたはスケベ親父なんかじゃない、ということに。あなたは特別だったわけでもなんでもなく、普通のオトコだっただけ。そう、男はみんなスケベだということに私は気づいていたのです。

 

あなたはただテレビを見ていただけだった。なのに私が勝手に反応して、あなたにスケベ親父のレッテルを貼ってしまったのです。それを15年間も引きずって、私は最後まであなたと会話をしなかった。

 

私は今、娘と夫のアホな会話を聞きながら、あなたともっと会話をすればよかったと後悔しています。スケベ親父と思い込んだばっかりに、あなたがどんな人だったのか、あなたが何を考え、何を思っていたのか、本当のあなたを私はほとんど知らないのです。私の半分は、あなたからできているというのに。

 

あなたが亡くなってから26年、やっとそのことに気づきました。あまりに遅すぎですよね。

 

だからこそ今私はこう思います。今、目の前にいる人との関係を大切にしようと。ご縁あって、今私のそばにいてくださる人を理解するために会話し続けようと。

 

もしかしたらそのことを伝えるために、あなたはあえてスケベ親父の役を引き受けてくれたのかもしれませんね。だとすれば、やっぱりあなたは私にとって自慢の父ですね。

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先日のお彼岸の日、父親の墓の前でこんなことをつぶやいてみた。父からの返事はまだないけれど。

 

今もし、父と話ができるとしたら、どうしてもひとつだけ聞きたいことがある。
「あの時私の胸をわしずかみにしたのはなんで?」
スケベ親父から復活した今も、これだけはどうしてもわからない。生きている間に問い詰めておけばよかったと後悔している。

私は始末の悪い女

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「私、始末の悪い女なんです」

あるセミナーで知り合った女性とランチをしている時、彼女はこういって話し始めた。

「私ってすぐ誰とでも友達になれるの。でも、しばらく付き合っているとなんか合わないなと思う人も出てくるわけ。そうするともうあまり会いたくないなって思うようになって、相手からお誘いがきても、またねとか、そのうちとか適当にお返事してたら、だんだんと相手も誘ってこなくなるでしょ。

ところが、中には鈍感な人もいて、それでも誘ってくる人がいるの。もうめんどくさいわって思うんだけど、かと言って『私はもうあなたとは会いません』ってはっきり縁を切れるタイプじゃないから、結局相手が諦めるまで、曖昧な態度を繰り返すことになって。

それならすぐに友達にならなきゃいいのにって思うんだけど、お調子者だからすぐ仲良くなっちゃう。最近そういう始末の悪い自分がつくづく嫌だなあと思うの」

 

私は「始末の悪い」という表現をそんな風に使うことが面白いなと思った。そういう意味では私自身も始末の悪い女だ。自分から関係性を切るということができない人間。嫌になったらだんだんと連絡を取らないように、会わないようにして、徐々に距離を取っていく。いわゆる自然消滅というやつだ。相手から縁を切られることはあっても、こちらから縁を切るとか、金輪際会いません、ということはこれまでの人生で一度もなかったと思う。唯一あの事件を除けば。

 

その事件は、今から10年以上も前に起こった出来事だ。勤めていた小さな会社で出会ったある一人の女性がいた。彼女は私よりもひとまわり以上年下だったと思う。とても頭が切れて、しっかりもので仕事のできる女性だった。

 

当時私たちは、新しいプロジェクトを始めようとしていた。私が最年長だったことと、今の仕事に関わっている年数が一番長かったという理由で、私はそのプロジェクトのリーダーに指名された。とはいえ、それまで何かのリーダー役を引き受けたことはほとんどなく、どちらかというとサポート役に徹してきた私は、今回のリーダー役に全く自信がなかった。

そんな私を彼女は全力でサポートするからと言ってくれたおかげで、私は自信がないながらもやり遂げようと決心したのだった。

 

彼女は言葉どおり、本当に一生懸命サポートしてくれた。ところが一緒に仕事をしてわかったのは、彼女は私とは全く正反対の性格であるということだった。

私は、とにかく人と争うことが嫌いで、なんでも丸く収めようとする。自分の意見を押し通すことはしない。メンバーの意見を聞いて、無難にまとめようとする。とにかく穏便に、それが私のモットーだった。

ところが彼女はいつも戦闘モードだった。自分の意見をとことん主張した。争うことを恐れなかった。争っても勝てる自信があったのだと思う。そんな彼女を私は持て余していた。もっと空気を読んでくれたらいいのに、と思っていた。

 

しかし彼女からすると、私の言動や行動は優柔不断にしか見えなかったのだろう。もっとしっかりと引っ張ってくださいよ、彼女の顔には、いつもそう書いてあるように見えた。リーダーとしての適正からいうと、彼女のほうが明らかに上だったと思う。でも私は彼女にそのポジションを明け渡すことはしたくなかった。ひとまわり以上も年下で仕事のキャリアも私より短い。明らかに仕事ができるのは彼女の方だと気づいてはいたけれど、それを認めるのは私のプライドが許さなかった。

 

 

プロジェクトが立ち上がってから3ヶ月後、今後の方向性を決める大事な会議の日がやってきた。この日に向けて、私なりに一生懸命知恵をしぼり企画書を作ったつもりだった。でも実際のところ、本当にこれでいいのかどうか全くわからなかった。

 

会議のメンバーは7人。

社長と役員が1名。そしてプロジェクトのメンバーが私を入れて5人。もちろん彼女も同席していた。私は全員に資料を手渡し、企画書の説明を始めた。緊張で声が上ずっているのが自分でもわかる。

 

気がつくと、企画書を棒読みしている自分がいた。あんなに熱意をもって取り組んでいたはずのこのプロジェクトに対して、私のプレゼンには全く熱がこもっていなかった。自分の経験不足と知識のなさ、そして慣れないリーダー役のプレッシャーで失敗の連続だったこの数ヶ月の間に、すっかり自信を喪失している自分がいた。

 

棒読みのまま説明が終わった。

社長はしばらく黙っていたが、重い口を開いてこういった。

「これ、ほんとにできると思う?」

私は黙ってしまった。

 

自分さえ「やります! できます!」って言えば、結果は後でついてくるはず。

とりあえず、できるって言え!

頭ではそう思っているのに、「できます」という言葉がどうしてもでてこなかった。

 

社長は、しばらくしてからこういった。

「ぼくは正直、この企画は無理だと思う。というより、君はリーダーを続けていくことができるのか? 本当にリーダーとしてこのプロジェクトを成功させたいのか、もう一度ここにいるメンバーと一緒に考えてみたほうがいい。もし他の人にリーダーを譲るというのなら、それもアリだと思う。とにかく今のままの君では、この企画は無理だ」

そう言って、社長と役員はその場を去っていった。

 

 

残された私たち5人、しばらく何も言葉がでてこなかった。私はやはり、リーダーとしての素質がないのだろうか。このプロジェクトのためにも、私は降りたほうがいいのだろうか?

 

そんなことを自問自答していたとき、彼女が口を開いた。

「山田さん、あなたやる気あるんですか? 私、今まであなたをサポートしようといろいろやってきましたけれど、あなたにやる気がないのなら、私はどうすることもできません。

あなたリーダーでしょ。リーダーならリーダーらしく、もっとしっかりしてください!」

 

何も言葉が出なかった。彼女の言うとおりだ。こんなことぐらいで凹んでいるようでは、リーダーなんて無理だ。

「申し訳ない……」

私の口からでたこの言葉が、さらに火に油を注ぐことになってしまった。

 

「申し訳ないじゃないですよ! そういう問題じゃないでしょ。」

そこから彼女は、この3ヶ月あまりの間にたまったウップンをはらすかのように、あの時はこうだった、ああだったと、私のリーダーとしての資質のなさを暴露するような出来事を次々と話し始めた。そのうちそれは今のこの案件とは関係ないじゃないかというような話まで飛び出した。

 

私はそれを放心状態で聞いていた。もちろん、うすうすは感じていた。彼女は自分の方がリーダーとしての適正があると思っているだろうということを。そこを今回はあえてサポートする役に徹してくれているのだと。だからとてもありがたいと思っていた。ところがそうではなかった。彼女の中の闘争心がメラメラと燃えていた。感情をむき出しにして彼女はこういった。

「リーダー、続けるんですか! はっきりしてください!」

それは「私のほうが適任なんだからさっさと降りろよ!」と言わんばかりの気迫だった。

 

私は返事ができなかった。

ここまで誰よりもこのプロジェクトに尽力してきた。だからこそ、自分がリーダーとしてこのプロジェクトを成功させたかった。でもそれが自分のエゴであることに気づいていた。

結果として私がかけてきたものは時間だけだった。成果は何も残せていなかったのだ。

 

が、自分で決めるまでもなく、私はほどなくリーダーの座から下ろされることになった。社長自らがリーダー役を引き受けることになったのだ。そして彼女がこのプロジェクトの実務上のリーダーになった。私は一人のメンバーとしてこのプロジェクトに関わることになった。落胆したのと同時に、ホッとしている自分もいた。そうだ、私には資質がなかったのだ。彼女のほうが適任だったのだ、最初から。

 

その会議以降、彼女との関係性がギクシャクするようになった。私は直接出会ったり話したりすることを極力避け、連絡事項はなるべくメールで済ませることにした。

 

しばらくして、私は彼女に聞きたいことがあってメールをした。特に重大な要件ではなかったので、返事さえもらえたらそれでいいと思っていたのだけれど、その質問に対する返信よりもはるかに多い分量で、私に対するクレームを訴えてきた。実は私がリーダーとして一緒にやっていた時にも、攻撃的だと感じるメールは時々あった。でも私は争うことが嫌いだから、彼女をそれ以上怒らせないように、気を遣いながらご機嫌を伺うような返信をいつも返していたのだった。

 

ところがそのとき、私はこう思った。

戦ってやろう。とことん、戦ってやろうと。

いつもいつも言わせておけば調子に乗り上がって。あの会議の後、これでもかと私の資質のなさを暴露した、そのお返しをするのは今だ。これまで感じたことのなかった闘争心がメラメラと湧き上がってきた。

 

そして、彼女の攻撃的なメールに対して、私はそれを上回るような攻撃的な返信をした。今思えば、彼女の言っている事の方が理にかなっていたかもしれない。でも言い方が気に食わなかった。それを伝えたかったとしても、もっと他に言い方あるやろ? しかも私のほうが先輩やで? わかってるん? そんなことを心の中でつぶやきながら、ものすごい勢いで攻撃的なメールを送り返した。

 

これまで私からそんな激しいメールを受け取ったことがなかった彼女は、たぶん驚いたことだろう。リーダーから下ろされたのはお前のせいだと言わんばかりの勢いだった。筋違いだと言われればそうだったかもしれない。でもそんなことはどうでもよかった。今日は彼女を打ち負かしてやる、心の中はそんな思いでいっぱいだった。私は、彼女からの攻撃的な返信に対して、さらにそれを上回る返信をし続けた。

 

10回ぐらいやり取りしたあとだろうか。

 

「こんな理不尽なメールのやりとりにこれ以上は耐えられません。もうこれで勘弁してください。」と彼女からの返信。

 

「はい、私も今後あなたに連絡することはありません」と私から最後の返信。

 

勝った! 彼女に勝った! 私は彼女に絶縁状を突きつけたのだ!

私はその時初めて、はっきり人と縁を切るという体験をしたのだった。

 

 

それからほどなくして、彼女は職場を去っていった。理由は私と絶縁したことではなく、たぶん社長の方針についていけなかったからではないかと思うのだけれど、真相はわからない。

 

あれから10年、今はもう彼女がどこで何をしているのか私は知らない。風の噂で、元気にしているようだということは時々耳に入ってくる。あの時なぜあんなやり取りをしたのか、彼女に文句を言いたいのなら、もっと正当な方法で、真正面からぶつかっていけばよかったのに、とも思う。

 

たぶん私は、縁を切るという体験をしてみたかっただけなのかもしれない。そしてもっというと、彼女だったから縁が切れたのだと思う。彼女が攻撃的だったからこそ、私も攻撃的になれた。いつもは言わない毒を吐くということができたのだ。誰にも嫌われたくない私が、おまえに嫌われても別にいいと思えたのは、彼女が悪役を引き受けてくれたからだ。

 

調和することだけを優先して、言いたいことも言わずに生きてきた私にとって、彼女の存在はとても衝撃的だった。正しかろうが間違っていようが、自分の意見を主張するということは、本当はとてもエネルギーがいることだ。穏便に、自分の意見なんてなかったことにすることのほうが、実はよっぽど楽なのだ。やり込めてやったというのは大きなまちがいで、縁を切る、という体験をするために彼女は私の相手役を引き受けてくれただけだったのだ。

 

おかげで気づいたことがある。最後の絶縁メールを送ったあとの、勝った! という思いとはうらはらな後味の悪さ、そのことがココロのどこかでずっと引っかかり続け、後悔の念に苛まれる小心者の自分がいるということを。

縁を切るというのは、私にとってはとても困難なことだということを。

 

嫌になってもそのことをあえて言わず、ちょっとずつ距離を取る、そしてまたいつか、自分が会いたいなと思ったときにちょっとずつ距離を縮めていく、そんな関係性が私には合っていると思う。それを証拠に、今私はまた彼女に会いたいと思っている。

やっぱり私は始末の悪い女の方が向いているようだ。

 

記事:あおい

 

悔しかったら、ずうずうしくなってみろ!

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私はずうずうしい人が嫌いだった。

繊細さを理解しない、人との距離感をはからない、そんなずうずうしさ。

 

ずうずうしい人の代名詞と言えば「オバちゃん」だろう。

私も明らかに「オバちゃん」に属する年齢となり、あろうことか、ずうずうしさに磨きがかかってきている。あんなに嫌っていたずうずうしさ。私も年齢とともにどんどん侵食されて、もはやこれまでか……と思っていたのだが、むしろ、ずうずうしさを身につけると、生きることが楽しくなってくるような気がする。

 

若い頃、謙虚のかたまりだった私は、ずうずうしい人を見ると吐き気がした。私は絶対ああはなるまい。あんなふうになったら人間はおしまいだ、くらいに結構本気で思っていた。どうしてずうずうしい人が得をして、謙虚な私のような人が損をしなくてはいけないのか? それは間違っている。誰か、あのずうずうしさに天罰を!

 

電車で空いた席に座ろうとしても、横からやって来てどかっと席を占領されてしまう。

「おねえさん、若いからいいわよね? 私たちの方が歳いってるから」

こういうときだけ……。いつもは若いつもりなんでしょ? 年寄り扱いされたら気分悪くなるくせに。私だって今日は疲れているの。おばさんたち、デパートの買い物袋を沢山持って、趣味の買い物なんでしょう? 買い物して、みんなでお茶でもして愚痴を言い合って、スッキリしてきたんでしょう? 私は仕事をしてきた帰りなの!

 

ずうずうしい人は考えてみれば、若い頃から周りにいたような気がする。おばちゃんではなくて、小中高の同級生であっても。私には絶対にできないようなことを、あの人たちはやすやすとやってのける。そんなこと、私の美意識が許さない。だなんて、自分を勘違いして自意識過剰な位置づけで考えていたのだけれど、本当はただうらやましかっただけなのではないだろうか。

 

あの人たちは、いつも偉そうにして、くだらない話題ばかりしているわね。ふん、バカみたい。私はあの人たちとは違うのよ。なんて思っていた。けれど、本当は私もその仲間に入ってみたかったのではないのか? くだらない話題をしてみたかったのではないのか? そもそも、そんなに私は高尚な話題ができていたのだろうか? 私は何様のつもりだったのだろう。

つまり、私の中の「ずうずうしい」はイコール「うらやましい」であったことになる。

言葉は多面的だ、と思う。くだらない話題、は裏を返すと面白可笑しい話題にもなる。偉そうという言葉も、憧れだったりする。私は必死で自分を正当化するために、うらやましいことをずうずうしいということに変換していたのだ。自分のことを謙虚だと思っていたけれど、謙虚なわけではなく、ただ臆病だっただけなのだ。

もちろん、私にとってすべての「ずうずうしい」が「うらやましい」というわけではないのだけれど、上手にカモフラージュさせていた。

 

むろん、気遣いができない、人を踏みにじるようなずうずうしさは今でも嫌いだ。

しかし、うらやましいこととは区別しなくては……と思う。私は認めたくなかったのだ。本当はうらやましいと思っていることを。そのことを他人に悟られることを。無意識だったけれど、自分の中で矢印の向きが正反対の感情が同居していた。「ずうずうしい」と忌み嫌う感情と「うらやましい」と憧れる感情。だから辛かったのだ。矢印の向きが正反対ということは、感情が引き裂かれてしまうことになるのだから。私が「オバちゃん」になって、ずうずうしくなって来ているということは、その感情が融合しつつあるということなのかもしれない。

うらやましいと思うくらいなら、自分もやってみればいいのだ。ずうずうしくなってみればいい。電車の席に座りたいのなら、どんなことがあっても座る。譲るなら譲る。そこにあるのは「自分の選択」だけだ。偉そうにしたいなら、すればいい。くだらない話をしたいのなら、思いきりすればいい。ただそれだけのことなのだ。なのに、そこにおかしなカモフラージュをして、自分を正当化してみたり、相手を責めてみたり……。つくづく私は面倒臭い人間だなと思わずにはいられない。自分で散らかしておいて、誰も掃除をしてくれないとわめく子どもみたいだ。

 

自分の選択ができなかったのは、自分に自信がなかったからだ。自分で決めなければ、決めてくれた誰かが責任を取ってくれるはず。私じゃないから。私の責任じゃないから。本当はそんなはずがないのに。だって、自分で決めないことを「自分で決めて」いるのだから。だから結局誰のせいでもないのだ。すべて、自分のせい。

気付くのがかなり遅かったけれど、もう、いい加減大人になろう。自分で自分に責任を持つのだ。自分で決めるのだ。ちゃんと「オバちゃん」になろうではないか。ずうずうしく、それでいて憧れられ、うらやましがられるオバちゃんに。

 

ずうずうしい人が嫌いだなんて誇らしげに言っていたあの頃の私。自分の責任すらとれない弱くて青臭いあの頃の自分に言ってやりたい。

 

「あんた、悔しかったらずうずうしくなってみな!」

 

 

記事:渋沢まるこ

私が講師になりたいと思った本当の理由

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講師になりたかった。

なぜ? と聞かれると理由はわからない。なんとなく漠然と、講師になりたいと

思っていた。

かといって、そのことを誰かに話したわけでもなく、自分のココロの中で密かに

思っていただけだった。

 

というのも、私には講師になれる要素が一つもなかった。

講師というのは、誰かに何かを教える仕事、かつ人前で話す仕事。

誰かに何かを教えたことといえば、大学生の時に2年間ほど、中学生の家庭教師

をしていたことぐらいだ。それだって、ただ単にお金が欲しくてやっていただけ

で、教えることに対する情熱とか意欲とか、そんなものはひとつもなかった。

だいたい、子供が好きではなかった。先生の言うことを聞かない、思春期の

ややこしい学生を教えるなんて本当はしたくない。だから学校の先生になる気など

毛頭なく、教職もとらなかった。

 

大学を卒業してからOLを7年、その後は結婚してほぼ専業主婦、子育てまっしぐら。

私は、誰かに何かを教えられるようなことなんて一つもなかったのだ。

 

そして、人前で話した経験もほぼ皆無。PTAの集まりなどで、自己紹介をする

場面が必ずある。それさえもドキドキで心臓が飛び出しそうになっていたぐらいだ。

自分の番が回ってくるまでは、人の自己紹介なんて聞いちゃいない。

そしていざ自分の番になると、もうしどろもどろで何を言っているのかわからない。

声は震えるし変な汗は出てくるし、考えていたことの一割も話せない。

なのに、講師になりたいって? 笑える。だから恥ずかしくて誰にも言えなかった。

自分だけの秘密だった。

でも、なりたい、と思っていたのだ。50歳までに。

42歳の夏のことだった。

 

 


ある日のこと、朝のうちに家事をすませ、いつものようにぼーっとパソコンの

メールチェックをしているときのことだった。不要な営業メールに混じって一通

のメルマガが届いていた。それは一年ぐらい前から購読していたあるカウンセラー

の書いたメルマガだった。

 

そのカウンセラーは、カラダの症状からココロを読み解く、というちょっと

変わったカウンセリングをかれこれ20年ぐらいしている人だった。大人になって

から発症したアトピーの原因が知りたくて、私は彼のカウンセリングを一度だけ

受けたことがあった。彼は、私のアトピーと青春時代の失恋が大きく関わっている

と言った。そのとき私は初めてココロとカラダは繋がっていて、ココロのストレス

がカラダに影響するのだということを知り、目からウロコがものすごい勢いで落ち

るという経験をした。一見誰もが知っていそうで知らないことを、普通とはちょっ

と違った角度から教えてくれるという不思議な世界観に惹かれ、それからずっと

メルマガを読んでいたのだった。

 

その日もいつものように、興味津々でメルマガを読みはじめた。といいながら、

そのときの内容については実は全く覚えていないのだけれど、最後まで読み進めて

いった時に、こんな文字が私の目に飛び込んできた。

「認定講師募集!」

ん? 認定講師? 講師? なにそれ?

よくよく読んでみると、どうやらこのカウンセラーが、講師を育成するカリキュラ

ムを始めるというのだ。彼が先生となり、講師としてデビューできるようになる

までレクチャーしてくれるという。

 

行く!行く!

即決で申し込みボタンを押している私がいた。

なんの認定講師なのかもよくわからないまま。

これで講師になれるかもしれない。そう思った。ところが現実は、そう甘くは

なかった。


翌年の1月から待ちに待った講座が始まった。そこからそのカウンセラーと私は、

先生と生徒という関係になった。

私と同じ時期に、認定講師クラスにはいった受講生は40人以上いた。


初回は自己紹介から始まる。名前、どこから来たか、普段どんなことをしている

のかをひとりずつ話していく。相変わらず心臓バクバクな私。みんなが落ち着いて

いるように見える。

私の番。やっぱり言いたいことの一割も言えなかった。もちろん、講師になりたく

てきましたということも。

いや、そんなことが言えるような雰囲気ではなかった。

というのも、私は完全な場違いだったから。

 

ここに入れば講師になれると思って、何をするのかもよくわからず入った私とは

違い、他の受講生のほとんどが、今すぐ講師になれるぐらいのネタを持っていた。

どうやら先生は、ココロとカラダのつながりについて、多角的に教えられる講師を

育成したいようだ、ということをその時初めて知った。

 

当時の私といえば、心臓の場所は知っていても、肝臓がどこにあるのかも知らない

し、ココロがあるのはわかるけれど、心理学も学んだことがない、なんの知識も

経験もなかった。受講生40名の中で一番講師からは遠い存在。これだけは自信を

持って言えると思った。

 

が、そんなことに自信を持っても仕方がない。もう通うと決めてお金も払って

いる。どうなるかわからないけれど、とりあえず行くしかない。

完全なる場違いな中で、私の講師への第一歩が始まった。


授業が進むにつれ、先生の知識量と経験値は限りなく深いということがわかって

きた。ちょっとやそっと勉強したぐらいでは、先生のようになれないということは

明らかだった。授業を受ければ受けるほど、講師というポジションが遠のいていく

ような気がしていた。

 

そうやって一年が過ぎた頃、一年で辞めてしまう人もいたし、また新しく入って

くる人もいた。場違い甚だしく、ここにいても講師になれないかもしれないと思い

ながらも、私はなぜか継続して残ることに決めた。

 

2年目の授業が始まる前のことだった。先生と一対一で面談する機会がやって

きた。これから具体的に何をしていきたいのか、どんな講師になりたいのか、

それをはっきりとさせておく必要があるというのだ。

とはいえ私は、何の講師になりたいという明確な目標もない。しかも現在講師

からは一番遠い存在であることはたぶん間違いない。正直に言うしかないよな。

何がしたいのかわかりません、って。

そう思って面談に臨んだのだけれど、先生と話しているうちに、ふと思いついた

ことを話してみた。

「先生、私マッピングがしたいです」

「ええ? マッピング?」

それは授業の中で使っていた思考を整理するためのツールだった。

もともとは、先生がカウンセリングの中で、クライエントの話を整理するために、

メモの代わりとして使っていたものだった。

相手が話した言葉を聞き取り、紙に書きとっていくのだけれど、その時にただ

書き取るのではなく、言葉を〇で囲んでお団子のようにつなげていくという、

ちょっとおもしろい書き方をする。できあがると地図のようになっていること

から、マッピングと呼ばれていた。

 

講座の中では、学んだことを整理するために、毎回マッピングを使っていた。

実は、講座で学ぶココロのこと、カラダのこと、どんなことよりも私はこの

マッピングの時間が一番好きだった。

人見知りで場違いで、講座に行くたびに自信を喪失して、自分の居場所がわから

なくなっていた私にとって、このマッピングの時間だけが、唯一人目を気にせず

楽しめていると感じていたからだった。

「先生、私ココロとカラダのことはよくわかりません。でもマッピングなら

できそうな気がします」

マッピングを教えるの?」先生は不思議そうだった。

だってマッピングは、講座の中で使う一つのツールに過ぎなかったから。それを

レクチャーするなんてことは、全く想定していなかったと思う。

 

先生は少し考えたあとで、「じゃあやってみたら?」と言った。無理だとか

やめろとかは一切言わなかった。

いや、ここでやめろと言っても、私には他にできそうなことが何もないという

ことは、先生もきっとお見通しだったのだろう。やりたいということをやらせて

おいたほうがいいだろう、と思ったのかもしれない。

 

そこから、マッピングと向き合う日々が始まった。

とにかく実践しかないと思った私は、相手を見つけてはマッピングを取らせて

もらった。

講座の中では、先生がマッピングをしている時のスキルを盗んだ。そうやって

無我夢中でやっているうちに、講師になれるかどうかということよりも、

マッピングのスキルを向上させたい、という気持ちの方が強くなっていることに

気づいた。そして、このツールがただの道具ではなく、とんでもなく可能性を

秘めたツールであることも確信しつつあった。このツールをみんなに知って

もらいたい、と思うようになった。

 

そうやって1年半がすぎたころ、先生の方からこのマッピングを講座にしようと

いう話が持ち上がった。講座なんて作ったこともなければやったこともない。

でもやるしかなかった。いや、どうしてもやりたかった。一人では心もとない

からと、強力な助っ人をつけてくれて、彼女と二人で、一年かけて講座を作り

上げたのだった。

 

そうして迎えた2012年2月。初めての講座の日。

内容はきっとボロボロだったと思う。でも私は満足だった。

50歳までに講師になりたい、と思っていた。講師からは一番遠い存在だった。

そんな私でも講師になることができたのだ。しかも予定より早い47歳で。

 

随分と経ってからある受講生さんから、「あのときは受講している私のほうが

ハラハラしました」と言われた。「私のほうが教えるのうまいと思った」とか

「講座を受けながらこの人大丈夫か? と思った」とか、後になってからカミング

アウトしてくれた受講生さんが他にもおられたぐらい、最初の方の講座は本当に

ひどかった。受講生さんには申し訳なかったと同時に、やっぱり向いてないのか?

と落ち込んだこともあった。

 

それでも一方で、「熱意がすごく伝わりました」「とにかく熱かった」「おもしろ

かった」と言ってもらえたことはとてもありがたかった。上手ではなくても、情熱

は伝わるんだ、こんな私でも続けていいんだと言われているような気がした。


あれから5年たち、もう人前に出ても足が震えることはなくなった。アドリブで

話せるようにもなった。

講師としての素質はゼロ、いやマイナスで、なんの知識も経験もなかった私が、

こうして今、人様の前でお話することを許されているのは、講師になりたいと

思ったその気持ちを忘れずに諦めなかったこと、それだけではないかと思う。

 

今改めて、あの時なぜ講師になりたいと思ったのか、その理由を考えてみた。

結婚して子供が生まれてからほぼ主婦と子育てにエネルギーを注いてきた。長い間

家庭に入って自由のきかない生活をしているうちに、いつの間にか社会との接点を

見失って、私なんてこの世に存在してもしなくても、どっちでもいいんだ、そんな

ふうに思うようになっていた。自分の存在意義を見失い、何のために生まれてきた

のかを見失っている時期だった。

だから講師になったとき、私の話を真剣に聞いてくれる人がいること、社会とつな

がっている感覚、それがとても嬉しかった。

たぶん、自分という存在がこの世の中に存在している、その証がほしかったのだと

思う。

私はここにいるよ、ってこと、気づいて欲しかったんだと思う。


そう、ただ私は、認められたかっただけなんだ。

できるだけたくさんの人に、認めてほしかっただけなんだ。

社会に貢献したいとか、誰かの役に立ちたいとか、どうしても伝えたいことがある

とか、そんなかっこいいもんじゃなかった。ただ、認めてほしかっただけ。

 


でも、それでもいい。それが私だから。

それが前に進むためのエネルギーになるのなら、そして結果的に何かの役に立って

いるのなら、それでいいじゃないか。

 

私はこれからもずっと、認めてほしい病を発病し続けながら、誰かに認めてもらう

ために何かをし続けていくのだろう。

最後の最後に、もうええよ、って他の誰でもなく自分に認めてもらえるその日まで。

私を捨てないで。覚えていて。

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私は最近、傘をなくした。

 

傘をどこかに置き忘れることはあっても、なくす、つまりどこに置いてきたのか、どこでなくしたのかわからなくなる、ということは今までなかったのに。ここ数年、年齢を重ねてきたせいか、人の名前や物の名前が覚えにくくなっている。「あれ、ほらあれだよ、ええと、なんだっけ」と言うことも増えた。そのせいでこんなことも起き始めたか、と思っていたのだけれど、考えてみると、別の見方もできるのではないかと思い始めた。

 

もしかしたら私は、物への執着が減ってきたのではないだろうか?

 

私は昔から片付けが苦手だった。物が多すぎたせいもあるのだと思うのだけど、そもそも物が捨てられない人だった。私が持つ物に関しては、ほとんど全部「どこで買ったのか」「誰からもらったのか」「これを買うとき、他の色とどちらを買うか悩んだのよね」などその物にまつわる物語を記憶している。自分がそうだから、世の中の人もみんなそうなのだと思っていた。

 

学生のとき、友人にCDを貸した。その当時自分で自作したきんちゃく袋に入れて。けれども、友人から返却されてきたとき、そのきんちゃく袋には入っておらず、CDだけになっていた。

「これ、きんちゃく袋に入れて渡したはずなんだけど……」

と私が言うと

「そうだっけ? そんなのなかったけどなぁ」

と軽く流された。なくしちゃったのかな、なら仕方がないか、と私もそれ以上は追及しなかった。

 

しかし、何か月後かに私は自分の目を疑うことになる。

その友人が、なんとそのきんちゃく袋を使っていたのだ。私は本当に信じられなかった。だが、その友人は悪びれる様子もなく、堂々と私の前でそのきんちゃく袋を使っている。市販品ならばまだわかる。同じものがどこにでも売っているのだから。だが、それは私が作った物なのだ。間違いようがない。これは何かの嫌がらせなのか? いじめなのか? などと考えてみたけれど、その後も友人が態度一つ変えずそのきんちゃく袋を使っているところをみると、本当にそのきんちゃく袋の出所を覚えていないようだった。

 

私もいじわるだなと思うのだけど、その袋は自分の物であると告げることはせず、友人にこう聞いてみた。

「今持ってるものってどこで買ったか覚えてる? 例えば、そのカバンとか、筆箱とか」

「そんなの、いちいち覚えているわけないでしょ。まさか、あんた全部覚えてるの?」

そのときの衝撃といったらなかった。そうなのか! みんなが覚えているわけではないんだ! と同時に、友人がきんちゃく袋を堂々と使っているわけも理解できたのだった。

 

 

ところで、うちの夫は今でこそ少なくなったが、物をなくす常習犯だ。ほんの15分程度しか乗らないのに、電車の切符をなくす。目的地の駅の改札前で、ポケットというポケットに手を入れて慌てて探すのはいつものことだ。傘も、もちろんすぐどこかに置いてくる。だからうちにはビニール傘がどんどん増えていった。

 

あるとき彼はお財布をなくした。あろうことか、そのお財布は私がプレゼントしたものだった。物をなくすことをいつも私に怒られていた彼は、さすがにこれは言えないと思ったらしく、同じお財布を自分で買って使っていた。だが数日後、私がうちに届いたはがきを見て、すべてが白日の下に晒されてしまう。そのはがきには「拾得物のお知らせ」とあり、警察から届いたものだった。拾得物の欄には「財布」と書いてある。あれ? おかしいな、と私は思う。昨日お財布を使っているのを見た覚えがある。どういうこと? という訳で、彼の偽装工作はあっけなく見破られてしまったのだった。

 

こんな夫と暮らしてみて、本当にだらしがない人だ! と怒ってばかりいたのだけれど、このところ見方が変わってきた。彼は、物に対して私ほど執着がないのかもしれない、と思うようになったのだ。彼はどうも物を所有するということに対して、私ほど興味がないようなのだ。物の捨て方をみても私とは全然違う。自分に今必要がなければどんどん捨ててしまう。まあこれは、私と違って物への記憶があまりないからなのかもしれないけれど。私は、その物を買ったときの気持ち、選んだ時の気持ちをありありと思い出してしまうから、なかなか物が捨てられなかったのだ。その時の自分の気持ちまで捨ててしまうような気になってしまっていたのかもしれない。

 

いや、もしかすると、私は物へ自分を重ねていたのかもしれない。私は「自分が」捨てられたくなかったのではないだろうか? 「自分が」忘れられたくなかったのではないだろうか? 思えば私は、親から、友人から、夫から……見捨てられはしないだろうかと、いつもどこかで怯えて生きてきたような気がする。表向きは強がって見せていても、どこかで「こんなことをして(言って)私は嫌われないだろうか? 見放されてしまわないだろうか?」と相手の顔色を窺っていたのだ。自分の自信のなさがこんなところにも表れていたのかもしれない。私の一部と化した「物」だから、捨てるには相当な心の痛みを伴う。自分で自分を捨てることになるのだから。それゆえ捨てるには相当なエネルギーが必要だったのだ。片づけをするのが苦痛だったのは、きっとこういう理由もあったのだ。そして、だいぶ片が付いてきた今、私は人の顔色を窺ってばかりの臆病な自分を、忘れられたくない自分を、だいぶ捨てられたのかもしれない。私の物への執着というのは、自分への執着だったのだろう。なくした「傘」は、そのことを教えてくれたのだ。

 

物を大事に使うことは重要だと思う。物をなくしてしまうことがとてもいいことだとも思わない。けれども、人間関係と同じように人それぞれ物との関係があって、それぞれが自分にちょうどいい距離感で暮らしているのかもしれない。ご無沙汰している物、いつも活躍している物、あんなに仲良くしていたのに、忘れ去られてしまった物。関係性は常に変化してゆく。やはり、人間関係と同じように。

 

私は今日、新たな気持ちで新しい傘を買いに行く。次はどんな関係になるのか楽しみだ。

 

 

記事:渋沢 まるこ

「思い込み」は加速する一方だけれど、それでも大丈夫なワケ。

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「えっつ、そんなんないですよ」

 

「えっつ、ないの?」

 

「ないですよ、それ、漫画の見すぎちゃいますか?」

 

な・い・ん・だ。軽くショック。

 

 

 

 

私は中学、高校と6年間女子校に通っていた。

女子校だから男子はいない。当たり前だ。

 

本当は、公立に行きたかった。

いや違う。共学の高校に行きたかったのだ。

 

 

共学の高校に行ってやりたかったことがある。

まずは、男子と一緒に授業を受けること。

 

なんでそんなこと? って思われるかもしれないけれど、

青春時代の6年間を女子ばかりという特異な環境の中で過ごした私としては、

私の知らない世界がそこに繰り広げられているような気がして、

それを体験できなかったことが、非常に悔しい。

一度でいいから、男子と一緒に授業を受けたかった。

 

やりたかったことはそれだけではない。

一番やりたかったことは、同じクラスの男子と付き合うこと。

そして、その彼氏と、チャリンコ二人乗りして帰ること!

 

私は自転車の後ろに横向きに乗り、彼氏の腰につかまって、

土手沿いを走りぬける。

 そんな光景をずっと妄想しながら、共学はいいよな、と思いながら

女子高に通っていた私。

 

その話を、共学の高校に行っていた友人たちに話すと、

そこにいた数名が口を揃えてこういった。

 

「そんなん、ないから」

 

 

がーーん

 

 

ないのですか

何十年も妄想していたのに

ないのですか……

 

 

そんな

同じクラスで付き合うとか

ほぼないですよ

 

先輩とかかっこいいな、と思うことは

たまにあったけど

 

だいたい自転車で行く人

ほとんどいないし

 

土手もないし

 

漫画かテレビの世界ですよ、あれは

 

アハハハ

 

 

 

何十年にもわたる「思い込み」が

砕け散った瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

そういえば先週、こんなこともあった。

 

友人たちとランチをしたとき

和食のお膳だったのだけれど大きなレモンが入っていた。

 

ところが、おかずを見渡しても、からあげとか塩の利いた魚とか、

レモンをかけて食べるようなものがなく

いったいこいつはなんのために存在しているのだろう? と思いながらも、

まあいいか、とスルーして手をつけなかった。

 

私は食べ終わって、そそくさとお膳を下げてもらい、コーヒーを飲んでいた。

すると、隣にいた友人が美味しそうにそのレモンを食べているではないか!

 

うわ、あんな大きいレモン、すっぱいのに美味しそうに食べてるよなー、

と、その光景をじっと眺めていたとき、あっつ、と気づいてしまった。

それがレモンではなく、グレープフルーツだったということに。

 

 

うわ、グレープフルーツだったのか! と思っても後の祭り、

お膳はもう下げられてしまっている。

 

「いやあ、それレモンやと思ってた」と私がいうと、

私の目の前にいた友人がすかさず、

「前に食べた時も同じこと言ってましたよ」

「え?ほんまに?」

「前もレモンやと思ってた、って言ってましたよ」

 

ガーーン

 

前にここでこのメンバーで食べたのって、たぶん1年ぐらい前の話。

それを覚えている彼女もすごいけど、そのことが全く記憶になくて

また同じ「思い込み」を発動してしまった私もなかなかすごい。

 

 

 

 

さらにもう一つ。

今年のアカデミー賞で主演女優賞をとった「ラ・ラ・ランド」のエマ・ストーン

彼女の受賞スピーチをテレビで見ていたとき、

 「この人ハリーポッターにでてたハーマイオニーやんな」と大きな顔して

言ったら、ええっ、と娘に驚かれた。その後彼女はこういった。

 

「それはエマ・ワトソン

 

ガーーン

 

エマはエマでもエマ違い……

 

 

 

 なんだろう、最近立て続けに、自分の浅はかな「思い込み」に気づかされる

ことが多い。 

 

思い込んでいた、ということは、誰に聞いたわけでもないのに、自分で勝手に

そうだと判断している、ということである。

 

そして、思い込んでいる時点では、それが「思い込み」だと気づいていない。

人から指摘されて初めて、それが「思い込み」だったと気づくのだ。

 

「思い込み」に気づいた時って、なかなかはずかしかったりする。

失望するときもあるし、なさけなかったりもする。

 まさしくガビーンだ。

 

これは老化現象なのか? だとしたら、この「思い込み」はどんどん

加速していくのだろうか?

 

 

 

 

 

いや、ちょっと待てよ。考えようによっては、もしかしたら私は、ものすごい

ラッキーなのかもしれない。

 

 

なぜなら、

この無意識の「思い込み」の「解除」ボタンを押してくれる友人がまわりに

たくさんいるということだから!!

 

  

自転車を二人乗りして土手を走る高校生カップルなんてそうそういない、と

教えてもらったおかげで、そういう体験ができなかったのは、女子校のせい

ではないということがわかった。

女子校であろうと共学であろうと、関係ない。彼氏がいる人はいるし、

いない人はいないのだ。

 

ランチのグレープフルーツについても、もし友人が指摘してくれなかったら、

次回もレモンだと思っていたに違いない。そしてなぜここにレモンがあるのか? 

とまた同じように疑問を持って、食べないままお膳を下げられるということに

なっていただろう。

 

エマワトソンとエマストーンに関しては

知ったかぶりをしてどこかで大恥かいていたかもしれない。

 

そうだ、大恥をかく前に、「思い込み」解除ボタンをそっと押してくれる人が

周りにいる。そして私は一つ賢くなるのだ。なんてありがたいことなのだろう。

  

 

自分の歯についている青のりは、自分の目では発見できない。

目の前の友人が「青のりついてるよ」って 言ってくれないかぎり。

 

ところがどうだろう、青のりがついていることを、

誰も教えてくれなかったとしたら?

 

心の中ではあの人青のりついてるって思いながら、

誰も教えてくれなかったとしたら? 

これほど情けない、悲しいことがあるだろうか?

 

「思いこみ」は歯についている青のりのようなもの。

ついてますよ、って優しく教えてくれる人がいることで、そのときは一瞬

はずかしいかもしれないけれど、

青のりがついた顔のまま、周りはみんな知っているのに、自分だけがそれを

知らないという、考えただけでも恐ろしい状況、それよりはよっぽどいいの

ではないだろうか。

 

私はこの場を借りて、「思い込み」解除ボタンを押してくれた友人に、

深く感謝したいと思う。

 

これからも私の「思い込み」はきっと続くのだろう。もしかしたら、加速していく

のかも知れない。

でも何も恐れることはない。

なぜなら「解除」ボタンを押してくれる人がまわりにたくさんいるのだから。

 

 

 

 

負けず嫌いは 「敗北感」 しか得られない

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私は負けず嫌いだ。

 

あの人にも、あの事にも勝利したい。敗北感なんて感じたくなどない。

けれども、負けはやってくる。あの人にも勝てない。気づけば敗北感だらけだ。

 

ある時私は思った。

 

私はいったい何に、何のために勝とうとしているのだろうか?

 

勝ちたいのは、私がいい気分になりたいからだ。

自分はあの人やあの事よりも上である、優れていると思いたいからだ。

いい人だと思われたい。仕事ができると思われたい。

 

私がそのために身に着けたものは「察する」という能力だった。

あの人は以前こう言っていた、今回はこう言っている、ということはきっとこう来る可能性が高い。だから準備しておくものはこの辺りだ、という能力だ。

これは仕事ではとても重宝された。私が欲しかった評価ももらえた。

 

だが、的中率は100%ではない。だから今度はいかに的中率をあげるのか? ということが私の課題になった。

 

しかし、私は神様ではないのだ。

 

100%の的中率だなんて設定自体に無理がある。だから、頑張っても頑張っても100%にはできなかった。そして、また、敗北感。

 

しかし、何なのだろう? この0100か的なこの発想は。

 

勝利したいから、敗北感を感じたくないから身に着けた「察する」能力。

なのに、100%にはならないのだから、結局のところ敗北感を味わいたいから頑張っていることになってしまっているではないか!!

ああ、私がしてきたことはなんだったのだろう。膝から崩れ落ちてしまう。

 

察する能力にも弱点がある。それは「相手」がいないとなかなか使えないということだ。自分のことを察しようとしても、それはなかなか難しい。察しているつもりで、見たくない(察したくない)ところは上手に逃げてしまう。しかも、逃げていることに気づいていないことさえあるから厄介なのだ。そうして、私はいつしか自分を見ることから逃げていた。人の事を見て、察していれば日常生活に支障はなかった。――はずだった。

 

けれども結局、私のやっていたことは、自分のことは置き去りにして、人の顔色を窺うという臆病なことだった。それなのに、人より優れていると思いたいだなんてちゃんちゃらおかしい。

 

気づけば私の足元は自分で作れておらず、他人の評価でできていた。そんな脆弱な足元を直視せずに、次から次へと崩れていく足元を必死に守ろうとしていたのだった。

 

まさに砂上の楼閣。

 

だから、いつまでたっても敗北感しか得られなかったのだ。

負けたくないから、敗北したくないから必死に勝とうとしてきたと言うのに。

 

私はついに「負け」を認めた。

 

私はどう頑張っても100%は出せません。

あなたの方が素晴らしいです。

あなたの方が優れています。

あなたの方が仕事ができます。

もう、あなたにはかないません。

 

こう書いてしまうと、自分を卑下しているだけのようにも思えるが、そうではない。

いや、最初はそうだったのかもしれない。けれども、こうして負けを認めているうちに気づいたのだ。

 

勝ち負けの発想自体がくだらない。

 

そもそも、何をもって「勝ち」なのか「負け」なのか、その辺があいまいだ。ある人にとっての「勝ち」は別の誰かにとっては「負け」かもしれない。自分が勝手に「勝った!」だの「負けた!」だのと、起きたことにラベルを貼って一喜一憂していただけではないのか。

 

まことにお恥ずかしい話ではあるが、私はせっかちゆえ、自分の前をゆっくり歩く人がいると許せず、どんどんと追い越してゆく人だった。

つまり、どんどん追い越して急いで目的地に到着することが、私にとっての「勝ち」だったという訳だ。だから、人が多いところでダラダラとのんびり歩いている人がいると、私はとてもイライラしていた。どうやって追い越すのか、とにかく私が先に進める方法を最優先に考えた。

 

だけど。

 

「負け」を意識するようになってから、無理に追い越すことがバカバカしくなってきた。

本当に急いでいるときは、追い越してでも向かわなければならない。

けれども、時間に余裕があるのなら、ゆっくり進んでもいいのではないか。大事なことは「自分のペースで」ということなのではないか。

 

私が勝った(と感じていた)ときには、誰かが負けていた。

もちろん、相手は「負けた」と思っていなかったかもしれないが、私が存在するためには「負けてくれる人」が必要だった。

そんなのフェアじゃない。改めて考えてみると、私ってどこまで自己中人間なのか、ぞっとする。

 

私はいつだって勝ちたいの。だからあなたは負けてね。

 

そんな風に言われてうれしい人なんてほとんどいないだろう。なのに、それを私は平然とやっていたのだ。

 

「負け」られるようになってから、私は自分の器が少し広がったように感じる。勝ちたかった頃は、負けたら器自体が消滅してしまう! くらいのことを思っていた。しかし、結果は逆だった。負けたら、素直に人のことを認められるし、自分のことさえも認められるようになった。

 

「負け」という言葉を使うのも、もうやめよう。

だって、決して「負け」なんかではないのだから。「負け」こそが「勝ち」なのだから。

そして、だからこそ勝ち負けなんてあまり意味のないことなのだから。

 

記事:渋沢 まるこ