まるこ & あおい のホントのトコロ

さらっと読めて、うんうんあるある~なエッセイ書いてます。

私が講師になりたいと思った本当の理由

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講師になりたかった。

なぜ? と聞かれると理由はわからない。なんとなく漠然と、講師になりたいと

思っていた。

かといって、そのことを誰かに話したわけでもなく、自分のココロの中で密かに

思っていただけだった。

 

というのも、私には講師になれる要素が一つもなかった。

講師というのは、誰かに何かを教える仕事、かつ人前で話す仕事。

誰かに何かを教えたことといえば、大学生の時に2年間ほど、中学生の家庭教師

をしていたことぐらいだ。それだって、ただ単にお金が欲しくてやっていただけ

で、教えることに対する情熱とか意欲とか、そんなものはひとつもなかった。

だいたい、子供が好きではなかった。先生の言うことを聞かない、思春期の

ややこしい学生を教えるなんて本当はしたくない。だから学校の先生になる気など

毛頭なく、教職もとらなかった。

 

大学を卒業してからOLを7年、その後は結婚してほぼ専業主婦、子育てまっしぐら。

私は、誰かに何かを教えられるようなことなんて一つもなかったのだ。

 

そして、人前で話した経験もほぼ皆無。PTAの集まりなどで、自己紹介をする

場面が必ずある。それさえもドキドキで心臓が飛び出しそうになっていたぐらいだ。

自分の番が回ってくるまでは、人の自己紹介なんて聞いちゃいない。

そしていざ自分の番になると、もうしどろもどろで何を言っているのかわからない。

声は震えるし変な汗は出てくるし、考えていたことの一割も話せない。

なのに、講師になりたいって? 笑える。だから恥ずかしくて誰にも言えなかった。

自分だけの秘密だった。

でも、なりたい、と思っていたのだ。50歳までに。

42歳の夏のことだった。

 

 


ある日のこと、朝のうちに家事をすませ、いつものようにぼーっとパソコンの

メールチェックをしているときのことだった。不要な営業メールに混じって一通

のメルマガが届いていた。それは一年ぐらい前から購読していたあるカウンセラー

の書いたメルマガだった。

 

そのカウンセラーは、カラダの症状からココロを読み解く、というちょっと

変わったカウンセリングをかれこれ20年ぐらいしている人だった。大人になって

から発症したアトピーの原因が知りたくて、私は彼のカウンセリングを一度だけ

受けたことがあった。彼は、私のアトピーと青春時代の失恋が大きく関わっている

と言った。そのとき私は初めてココロとカラダは繋がっていて、ココロのストレス

がカラダに影響するのだということを知り、目からウロコがものすごい勢いで落ち

るという経験をした。一見誰もが知っていそうで知らないことを、普通とはちょっ

と違った角度から教えてくれるという不思議な世界観に惹かれ、それからずっと

メルマガを読んでいたのだった。

 

その日もいつものように、興味津々でメルマガを読みはじめた。といいながら、

そのときの内容については実は全く覚えていないのだけれど、最後まで読み進めて

いった時に、こんな文字が私の目に飛び込んできた。

「認定講師募集!」

ん? 認定講師? 講師? なにそれ?

よくよく読んでみると、どうやらこのカウンセラーが、講師を育成するカリキュラ

ムを始めるというのだ。彼が先生となり、講師としてデビューできるようになる

までレクチャーしてくれるという。

 

行く!行く!

即決で申し込みボタンを押している私がいた。

なんの認定講師なのかもよくわからないまま。

これで講師になれるかもしれない。そう思った。ところが現実は、そう甘くは

なかった。


翌年の1月から待ちに待った講座が始まった。そこからそのカウンセラーと私は、

先生と生徒という関係になった。

私と同じ時期に、認定講師クラスにはいった受講生は40人以上いた。


初回は自己紹介から始まる。名前、どこから来たか、普段どんなことをしている

のかをひとりずつ話していく。相変わらず心臓バクバクな私。みんなが落ち着いて

いるように見える。

私の番。やっぱり言いたいことの一割も言えなかった。もちろん、講師になりたく

てきましたということも。

いや、そんなことが言えるような雰囲気ではなかった。

というのも、私は完全な場違いだったから。

 

ここに入れば講師になれると思って、何をするのかもよくわからず入った私とは

違い、他の受講生のほとんどが、今すぐ講師になれるぐらいのネタを持っていた。

どうやら先生は、ココロとカラダのつながりについて、多角的に教えられる講師を

育成したいようだ、ということをその時初めて知った。

 

当時の私といえば、心臓の場所は知っていても、肝臓がどこにあるのかも知らない

し、ココロがあるのはわかるけれど、心理学も学んだことがない、なんの知識も

経験もなかった。受講生40名の中で一番講師からは遠い存在。これだけは自信を

持って言えると思った。

 

が、そんなことに自信を持っても仕方がない。もう通うと決めてお金も払って

いる。どうなるかわからないけれど、とりあえず行くしかない。

完全なる場違いな中で、私の講師への第一歩が始まった。


授業が進むにつれ、先生の知識量と経験値は限りなく深いということがわかって

きた。ちょっとやそっと勉強したぐらいでは、先生のようになれないということは

明らかだった。授業を受ければ受けるほど、講師というポジションが遠のいていく

ような気がしていた。

 

そうやって一年が過ぎた頃、一年で辞めてしまう人もいたし、また新しく入って

くる人もいた。場違い甚だしく、ここにいても講師になれないかもしれないと思い

ながらも、私はなぜか継続して残ることに決めた。

 

2年目の授業が始まる前のことだった。先生と一対一で面談する機会がやって

きた。これから具体的に何をしていきたいのか、どんな講師になりたいのか、

それをはっきりとさせておく必要があるというのだ。

とはいえ私は、何の講師になりたいという明確な目標もない。しかも現在講師

からは一番遠い存在であることはたぶん間違いない。正直に言うしかないよな。

何がしたいのかわかりません、って。

そう思って面談に臨んだのだけれど、先生と話しているうちに、ふと思いついた

ことを話してみた。

「先生、私マッピングがしたいです」

「ええ? マッピング?」

それは授業の中で使っていた思考を整理するためのツールだった。

もともとは、先生がカウンセリングの中で、クライエントの話を整理するために、

メモの代わりとして使っていたものだった。

相手が話した言葉を聞き取り、紙に書きとっていくのだけれど、その時にただ

書き取るのではなく、言葉を〇で囲んでお団子のようにつなげていくという、

ちょっとおもしろい書き方をする。できあがると地図のようになっていること

から、マッピングと呼ばれていた。

 

講座の中では、学んだことを整理するために、毎回マッピングを使っていた。

実は、講座で学ぶココロのこと、カラダのこと、どんなことよりも私はこの

マッピングの時間が一番好きだった。

人見知りで場違いで、講座に行くたびに自信を喪失して、自分の居場所がわから

なくなっていた私にとって、このマッピングの時間だけが、唯一人目を気にせず

楽しめていると感じていたからだった。

「先生、私ココロとカラダのことはよくわかりません。でもマッピングなら

できそうな気がします」

マッピングを教えるの?」先生は不思議そうだった。

だってマッピングは、講座の中で使う一つのツールに過ぎなかったから。それを

レクチャーするなんてことは、全く想定していなかったと思う。

 

先生は少し考えたあとで、「じゃあやってみたら?」と言った。無理だとか

やめろとかは一切言わなかった。

いや、ここでやめろと言っても、私には他にできそうなことが何もないという

ことは、先生もきっとお見通しだったのだろう。やりたいということをやらせて

おいたほうがいいだろう、と思ったのかもしれない。

 

そこから、マッピングと向き合う日々が始まった。

とにかく実践しかないと思った私は、相手を見つけてはマッピングを取らせて

もらった。

講座の中では、先生がマッピングをしている時のスキルを盗んだ。そうやって

無我夢中でやっているうちに、講師になれるかどうかということよりも、

マッピングのスキルを向上させたい、という気持ちの方が強くなっていることに

気づいた。そして、このツールがただの道具ではなく、とんでもなく可能性を

秘めたツールであることも確信しつつあった。このツールをみんなに知って

もらいたい、と思うようになった。

 

そうやって1年半がすぎたころ、先生の方からこのマッピングを講座にしようと

いう話が持ち上がった。講座なんて作ったこともなければやったこともない。

でもやるしかなかった。いや、どうしてもやりたかった。一人では心もとない

からと、強力な助っ人をつけてくれて、彼女と二人で、一年かけて講座を作り

上げたのだった。

 

そうして迎えた2012年2月。初めての講座の日。

内容はきっとボロボロだったと思う。でも私は満足だった。

50歳までに講師になりたい、と思っていた。講師からは一番遠い存在だった。

そんな私でも講師になることができたのだ。しかも予定より早い47歳で。

 

随分と経ってからある受講生さんから、「あのときは受講している私のほうが

ハラハラしました」と言われた。「私のほうが教えるのうまいと思った」とか

「講座を受けながらこの人大丈夫か? と思った」とか、後になってからカミング

アウトしてくれた受講生さんが他にもおられたぐらい、最初の方の講座は本当に

ひどかった。受講生さんには申し訳なかったと同時に、やっぱり向いてないのか?

と落ち込んだこともあった。

 

それでも一方で、「熱意がすごく伝わりました」「とにかく熱かった」「おもしろ

かった」と言ってもらえたことはとてもありがたかった。上手ではなくても、情熱

は伝わるんだ、こんな私でも続けていいんだと言われているような気がした。


あれから5年たち、もう人前に出ても足が震えることはなくなった。アドリブで

話せるようにもなった。

講師としての素質はゼロ、いやマイナスで、なんの知識も経験もなかった私が、

こうして今、人様の前でお話することを許されているのは、講師になりたいと

思ったその気持ちを忘れずに諦めなかったこと、それだけではないかと思う。

 

今改めて、あの時なぜ講師になりたいと思ったのか、その理由を考えてみた。

結婚して子供が生まれてからほぼ主婦と子育てにエネルギーを注いてきた。長い間

家庭に入って自由のきかない生活をしているうちに、いつの間にか社会との接点を

見失って、私なんてこの世に存在してもしなくても、どっちでもいいんだ、そんな

ふうに思うようになっていた。自分の存在意義を見失い、何のために生まれてきた

のかを見失っている時期だった。

だから講師になったとき、私の話を真剣に聞いてくれる人がいること、社会とつな

がっている感覚、それがとても嬉しかった。

たぶん、自分という存在がこの世の中に存在している、その証がほしかったのだと

思う。

私はここにいるよ、ってこと、気づいて欲しかったんだと思う。


そう、ただ私は、認められたかっただけなんだ。

できるだけたくさんの人に、認めてほしかっただけなんだ。

社会に貢献したいとか、誰かの役に立ちたいとか、どうしても伝えたいことがある

とか、そんなかっこいいもんじゃなかった。ただ、認めてほしかっただけ。

 


でも、それでもいい。それが私だから。

それが前に進むためのエネルギーになるのなら、そして結果的に何かの役に立って

いるのなら、それでいいじゃないか。

 

私はこれからもずっと、認めてほしい病を発病し続けながら、誰かに認めてもらう

ために何かをし続けていくのだろう。

最後の最後に、もうええよ、って他の誰でもなく自分に認めてもらえるその日まで。