私が成田離婚しなかった理由
着いた!!
成田から約15時間、やっと到着したレオナルド・ダ・ビンチ空港。
これから始まるおそらく一生に一度しかないであろうこの旅行に、私はワクワクと期待で胸がいっぱいだった。
新婚旅行にイタリア、フランスに行きたいと言いだしたのは夫だった。私は特別興味もないヨーロッパに行くのはあまり気が進まなかった。けれど、学生時代に友だちとバックパッカーでヨーロッパを一周したことのある夫は、その時の感動を暑苦しいぐらいに語ってくれて、どうしても行きたいというのだ。そんなにまで言うのなら行きましょう、その代わり、一生の思い出に残る旅行を企画してね、と彼に全てを託したのだった。
だから私は、イタリアのローマ、ミラノ、ベニス、そしてフランスのパリ、この4箇所を1週間で回るということ以外、旅行に関する詳しい情報は何も知らなかった。それがまた私のワクワク感をさらに増幅させていた。いったいどんな素敵なところに連れて行ってくれるんだろう!
レオナルド・ダ・ビンチ空港についたのはもう夜だった。ホテルまではタクシー? 送迎バス? もしかしてリムジンが迎えに来てくれたりする? なんて妄想しながらついていくと、そこは駅だった。
「え? 電車乗るの?」
「うん、乗るよ、すぐやで」
いや、そりゃスグか知らんけど、新婚旅行やからさあ、もうちょっと気の利いたなんかないの? と思ったけれど、さすがにそれは言えず、仕方なく彼についていった。
電車に乗って約30分、ホテルに到着した。スペイン広場からほど近いところにあったそのホテルは、こじんまりとしたホテルだった。回転扉を開けると、小さなロビーがあり、その奥のフロントにはいかにもイタリア人という顔つきのイケメン男子と、済まし顔でちょっと怖そうなお姉さんがいて、「ボンジョルノ~」と笑顔で挨拶してくれた。もっとイマドキのホテルの泊まるのだと思っていた私は、ちょっと意外だったけれど、まあこれはこれで面白いなとそのときは納得した。
前々日の結婚式からバタバタとそのまま新婚旅行にやってきたこともあり、若いとはいえやはり疲れが出ていた。ほっと一息ついて水が飲みたいと思い冷蔵庫を開けると、炭酸水しか入っていない。ホテルの冷蔵庫には普通、水はもちろんのこと、ビールやジュースなどバリエーションに富んだ飲み物が入っていると思っていた私は、ちょっと驚いた。今でこそ日本でも炭酸水は当たり前だけれど、当時は飲む習慣がなかったから、どうしても飲めなかった。けれど水道水は飲まない方が良さそうだし、かといってもう夜も遅いし、明日の朝まで我慢するしかないなあと思っていたとき、夫が「買ってきてあげるわ」と言ってくれた。彼も疲れているだろうに、申し訳ないなあと思ったのだけれど、そこはお言葉に甘えてありがたくお願いすることにした。
一人になった部屋で特にすることもなく、しばらくベットにごろんと横たわっていた。すると外から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。ローマの夏は夜が長い。夜9時ごろになってやっと日が沈む。だからみんな昼寝をして、また夕方からごそごそと活動し始める。
時計を見ると、ちょうど夜9時を回ったところだった。あたりは暗くなってきたけれど、彼らの夜はまだこれからなんだなと思いながら、夫の帰りを待っていた。
10分。20分。
帰ってこない。
水、買いに行っただけだよね?
窓を開けて通りを見てみる。
相変わらず大きな話し声と笑い声が聞こえてくる。が、ホテルの構造が複雑なのか、軒のようなものが邪魔をして通りの様子は全く見えない。
どこまでいったんだろう??
ちょっと不安になってきた。
当時は携帯はもちろんWi-Fiもない。連絡のつけようがない。
待つしかないのだ。
30分。40分。
まさか、連れ去られたとか? 強盗とか?
いやいや、そんなバカな。
それにしても遅すぎる。だって水ぐらいどこでも売ってるはず。
どうしよ? ホテルの人に相談してみようか?
といってもイタリア語なんて全くわからないし。なんて説明すればいいの?
50分。
ああ、どうしよ!! もし連れ去られてたら私はどうなるの?
ああ、どうしたらいいの???
不安マックスで泣きそうになっていたとき彼が嬉しそうな顔をして帰ってきた。
「ただいま~」
「どこまで行ってたんよ!!」私は声を上げた。
「え? どこまで、って、水買いに行ってたんやけど……
いやあ、通りに出たらさ、みんな楽しそうで、なんか嬉しくなってきてさ~
ひとりでうろうろしててん!! ああ、楽しかった~」
はあ???
こっちがどんだけ心配して待ってたかわかってんのか?
新婚旅行やで? 普通嫁おいてひとりで行く???
楽しそうなんやったら、とりあえず帰ってきて、一緒に行ことか思わんのか!!
腸煮えくり返りそうになりながらも、とりあえず帰ってきてくれたことで安心したの
と、新婚旅行でいきなり本性を出すわけにも行かず、可愛い嫁のフリをしてその場は収めた。
翌日ローマ市内を観光。そして翌々日、次の目的地ミラノへ。私はてっきりツアーバスかなにかで次の目的地まで連れて行ってくれるものだと思っていた。ところが残念なことに、移動は自力だった。大きなスーツケースをゴロゴロいわせながら電車を乗り継ぎ、やっとのことでミラノにたどり着いた。
ミラノ滞在は一日だけで、次の日はベニスに移動だった。
今度こそお迎えが? と思ったけれどやはり迎えはなく、ゴロゴロとスーツケースをひきずってまた駅まで移動。電車を乗り継いて、やっとのことでベニスに到着。
移動って結構疲れる。当時の私はとにかく電車というものが嫌いだった。若いくせにどこに行くのも車、歩いて3分のコンビニでさえも車でいくほど怠慢な人間だった。そんな私がこんなに電車で移動することは考えられなかった。この先もこんな過酷な電車移動が続くのだろうか?
私は夫に恐る恐る聞いてみた。
「ねえ、移動って全部、こんな感じ?」
すると夫は、それが当たり前と言わんばかりの顔で答えた。
「そうやけど」
「ここから先のパリにも自力で行くの? お迎えとか、なし?」
「当たり前やん、そんなんないで。それが楽しいんやんか!」
そのとき私は始めて知った。彼は飛行機とホテルの予約以外、何も取っていなかったということを。
私の中の新婚旅行のイメージは、ちゃんと添乗員がいて、目的地まで送り届けてくれて、ホテルについたら花束とかワインとか置いてあったりして、おいしい食事とか、サービスとか、なんか普通の旅行とは違う、ちょっと特別な感じが味わえるものだと思っていた。ところが予約したのは飛行機とホテルのみ。
バックパッカーと一緒やんか! と内心思っていたとき、彼はこういった。
「今回は、新婚旅行やからホテルもちゃんととったよ。前行った時は飛行機しか取らんかったから。流石にそれはアカンやろと思って」
当たり前やろ! 心の中で突っ込んだ。
そうか、全部自力なんだ。
移動も食事も、全部自力。何も決まってなかったんだ。
私が思い描いていた新婚旅行のイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていった。
新婚旅行1週間の間にいろんなところに連れて行ってもらった。けれどそれよりも記憶に残っているのは、ホテルで置いてきぼりにされたこと、重いスーツケースをありえないと思いながらひきずって駅まで歩いたこと、私にとっては一年分に匹敵するぐらい電車に乗ったこと。そして付け加えると、毎晩夕食がピザだったこと。
私が思い描いていた新婚旅行と、彼が思っていた新婚旅行のイメージは、明らかに違っていたのだった。
成田離婚という言葉があるのをご存知だろうか?
結婚したての男女が、新婚旅行をきっかけに離婚してしまうことを指して使われた言葉である。私たちが結婚した1990年代に流行っていた言葉だ。
新婚旅行に行って初めてお互いの価値観の違いに気づき、こんな人だとは思っていなかった、このまま一緒には暮らせないと思う。するなら傷が浅いうちに、と帰りの成田空港で離婚に踏み切ってしまうというパターンだ。
25年たった今、私はこの新婚旅行を冷静に振り返ってみて思う。成田離婚する理由は十分にあったと。だって二人の価値観はあまりにかけ離れていたのだから。
だけど離婚はしなかった。それはなぜなんだろうと考えてみると、なんだかんだ文句を言いながらも、私は結構そんな状況を楽しんでいたのかもしれないと思う。もし私が旅行を手配していたとしたら、○○旅行社のハネムーンパックで決められたルートを行くという、安心安全である代わりに面白みのない旅行になっていたかもしれない。彼が決めてくれたからこそ、私は普段味わえないようなスリルを味わうことができたのだ。そういう意味では十分一生の思い出に残る旅行というミッションをクリアしてくれていたのかもしれない。
もちろん25年間の間には、そんな楽しめる状況ばかりではなく、ありえない、許せない、というような価値観の違いにも直面してきた。自分にはない価値観に直面したとき、やはり私は大きくうろたえる。が、うろたえながらもそれを一つ一つなんとかかんとか乗り越えてきたことで、気がついたら自分の価値観が大きく広がっていた。ありえないと思っていたことが、まあそれもありかもね、と思えるようになっていた。許せないと思っていたことが許せるようになっていた。昔に比べたら、随分と心の広い人間になったものだと思う。
私が成田離婚しなかったのは、もしかしたらこの自分とはかけ離れた価値観の人間と一緒にいることで、最終的には自分が得をするということを知っていたのかもしれない。おかげさまで今は、少々のことでは驚かなくなった。違う価値観にであっても「それ、新しい! 斬新!」と言えるようになった。
今ならホテルで置き去りにされたとしても、きっと私は喜んで一人で遊びに行くだろう。心も広くなった分、随分と図太くなったものだと思う。
記事:あおい