すでに相当の自由を与えられていながら、それに気づいていなかった私
「きゃーーっつ!!」
私は大きくバランスを崩し、たった1メートル程の斜面から転げ落ちてしまった。普通の大人なら転げ落ちる方が難しいのではないかと思うぐらい小さな斜面から。
私はその時、1歳6ヶ月になる次男と一緒だった。歩くことを覚えた次男は、とにかく歩きたくて仕方がない。毎日のように近くの公園に行っては、心もとない足取りで滑り台に上り、ジャングルジムに登り、私は片時も目を離さぬように後ろからついてまわる。40歳を過ぎて、友人たちはとっくに子育てを卒業しているのに、私はいったいいつまでこんなことをしているのか? 4人目の子供として授かった次男を追い掛け回しながら、そんなことを思っていた時だった。
次男はブランコの横にあった小さな斜面をトコトコと降りていった。そこは植え込みになっていて、降りた先は行き止まりだった。仕方なく彼は、またその斜面を上がろうとするのだけれど、1歳児の足ではなかなか上がれない。私は次男のおしりの部分に両手を添えて、後ろから押し上げながら、自分もその斜面から上がろうとしていた。
ところが私が右足を一歩踏み出したとき、地面がぬかるんでいたのか、ずるっと滑ってしまったのだ。そんな状況など知る由もない次男は、どんどんと先に進もうとする。彼をなんとか斜面の上まで持ち上げたまではよかったのだけれど、私は大きくバランスを崩し、斜面からころげ落ちてしまったのだった。
「痛いーーー!!」強烈な痛みで動けなくなった。
その場に倒れたまま、顔だけ起こして足を見ると、右膝がおかしなことになっている。膝の皿の位置がずれて足が動かせない。全く動けないのだ。運の悪いことに、その時公園には誰もいなかった。次男は私が動けないことに気づいておらず、一人でどんどん進んでいこうとしている。
「待って! 待って! 行ったらあかん、そこにじっとしてて!!」自分の足のことよりも、次男が一人でどこかに行ってしまうことの恐怖感が強烈に襲ってきて、必死で叫んだ。言葉の意味はわからなくても、私の真剣さが伝わったのだろう。彼は立ち止まってこちらを見ている。
「こっちに来て! ママのそばに来て!」私は一生懸命手招きをした。次男がそばにやってきた。すぐに抱き抱えた。けれど1歳児の彼に助けてもらうことはできない。倒れたのが植え込みの中だから、全く人目につかない。恥ずかしいとかカッコ悪いとか言っていられない。私は大声で叫んだ。
「誰か、助けてください。誰か、誰か、助けて。助けて」後から考えると、携帯電話があるのだから、近くの友達に電話してきてもらえばよかったのに、そんなことは全く思いつかなかった。とにかく必死で叫んだ。
するとたまたま近くを通りかかった郵便局の配達員さんが、私の声に気づいてくれた。
「どこですか? どこにいるんですか?」彼からは私が見えていない。「ブランコの下の植え込みの中です!!!」
私を発見した彼は、次男をだっこし、すぐさま救急車を呼んでくれた。
安堵のあまり、そのあとのことははっきり覚えていない。友達に電話をして、次男を預かって欲しいと頼み、救急車の中から夫に電話して、仕事中だった夫を呼びつけたような記憶がある。
救急車から処置台の上に降ろされたとき、まだ足はおかしな方向を向いていたのだけれど、ふとした拍子に皿が元の位置に戻り、足はなんとかまっすぐになった。やれやれ、これで歩けると思ったのも束の間、炎症を起こしているのと、元に戻ったとはいえ、しばらく固定しておいたほうがいいということで、私はそこから2週間のギブス生活を余儀なくされるのであった。
ギブス。見たことはあるけれど初めての体験。ほんのちょっとだけワクワクした。けれど私はその後すぐに後悔した。
ギブス生活は、思った以上に過酷だった。だって、当たり前だけれど本当に固まっているのだ。右膝から上下に約10センチずつ、計20センチが固まっている。一ミリも曲がらない。他の部分は人間なのに、そこだけはまるでロボットなのだ。
まず驚いたのは、パンツがまともに履けないこと。想像してみてほしい。右足を曲げずにパンツを履くのだ。まず立って履く場合。動く方の左足に左のパンツの穴を通し、膝下あたりまで持っていく。次に右のパンツの穴に右足を入れようとするのだけれど、足が曲がらないから距離が遠すぎて、パンツをぐわーーっと伸ばしてみるもののどうしても届かない。じゃあ曲がらない右足から入れてみる。すると今度は左足が通せない。試行錯誤の上、椅子に座って履くという方法をあみだした。右足をぴーんと地面と平行に伸ばしたまま、上半身を思い切りかがめて、右足にパンツの穴をかける。かかったらそれをギブスの中心ぐらいまで持ってくる。左足を曲げてもうひとつの穴に入れる。足の付け根まできたら、お尻を浮かせてぐっと持ち上げ、完了。やれやれ、パンツを履くだけでもこんな調子。
服を着る、歯を磨く、顔を洗う、トイレに行く、立つ、座る、寝る、普段何も考えずにやっているひとつひとつの動作が、膝が曲がらないだけでこんなにも不便なのだということにすぐに気づいた。病院が貸してくれた松葉杖も思った以上に難しく、脇に挟んでみるものの痛くて少しも進めない。かといってずっと片足ケンケンで歩くわけにも行かず、じっと椅子に座っているしかなかった。右足を地面と平行に伸ばしたまま。
そんな状況で、家事や子育てなどできるはずもなかった。掃除や洗濯は友人にお願いし、夕食は夫にスーパーで買ってきてもらい、次男の面倒もヘルパーさんに来てもらい、全てを人様にお願いすることになった。
右膝が曲がらないというだけ、たったそれだけのことがどれだけ日常生活に支障があるか、ギブスをはめる前は知る由もなかった。
私は、今ここに確かに存在はしているけれど、何の役にもたたない不甲斐なさを感じていた。これが2週間も続くのかと思うと、絶望の淵に叩き落とされたような気分だった。
どうして私ばっかり、こんな目に遭うんだろう……
カラダは不自由でも、頭はしっかりしている。暇に任せて私はずっと考えていた。去年から良くないことばっかりだ。
昨年の秋、腫瘍が見つかって手術することになり、始めて自分の体にメスを入れたこと。
夫が転職をして、仕事ばっかりで全然構ってくれないこと。
子供たちは片付けないし、手伝わないし、少しも言うことを聞かないこと。
母親は毎日ごちゃごちゃと口うるさいこと。
いいことなど一つもなかった。
私が何か悪いことをしたというのか? そりゃ若い頃、少しは悪さもしたけれど、結婚してからというもの、主婦をして子供を育てて、それはもう真面目に過ごしてきた。
私は呪われているのだろうか?
神は私を見放したのか?
家族のために、家事も子育ても一生懸命頑張ってきたのに……
考えても考えても、答えは出なかった。周りの人たちが、みんな幸せに見えた。世界中の不幸を全て一人でしょっている、そんな気分だった。
それでも一週間ぐらいたつと、だんだんと足が曲がらない生活に慣れてきた。パンツも割と早く履けるようになったし、左足だけで生活する方法が身についてきた。私が動けないことを知っているから、子供たちも、食器洗いや買い物など、できることは手伝ってくれるようになった。部屋の片付けもある程度はするようになったし、夫も随分と優しい。
私は家族のそんな様子を見ながら、ぼーっとテレビを見たり、本を読んだり、次男と昼寝をしたりしていた。
だって動けないから、何もできないんだもん。仕方ないじゃない。そう自分に言い聞かせながらも、少しばかりの後ろめたさを感じていた。
2週間が過ぎ、とうとうギブスを外す日がやってきた。
ガチガチに固まってしまったギブスは、電動ノコギリのような道具で切り落とすのだった。足まで切り落とされたらどうしようと、私が少しビビっていることに気づいたのか、先生が大丈夫だよ、と声をかけてくれた。
あっと言う間に切り落とされたギブスの中から、懐かしい右膝が現れた。2週間ぶりに見た自分の膝はとても白く、ギブスの後がシワになって残っていて、とても弱々しく見えた。
恐る恐る右足を地面につける。
久しぶりに両足で立ってみる。
ぐらっとした。
けれど、立てた。自分の足で、自分の足だけで立っている。
歩いてみた。
足を交互に曲げなければ歩けないということに、今さらながら気づく。いとも簡単に、何も考えずに行っていた「歩く」という行為は、人間だけが習得した奇跡の行為なんだということを改めて思い知らされた。
その日は何をするのも感動だった。
立てること、歩けること、曲げたり伸ばしたり、登ったり降りたり、動きたいように動けることがどんなにありがたいことなのか、洗濯をする、買い物に行く、料理をする、子供と遊ぶ、日常普通にしていることができないことがどんなに辛いことなのか、この2週間で痛いほど味わった。
もしかしたら私は、それを味わうために怪我をしたのかもしれない。
いいことなんて何もない、と思っていた。子供たちの世話と家事に明け暮れ、自分の時間なんてほとんどなく、夫には構ってもらえない、挙句の果てに病気になるし怪我はするし、もし神様がいるとしたら、私は見放されたんだと思っていた。
ところがそれは間違いだった。私はすでに自由だったのだ。
自由に動けるカラダをすでに授かり、どこにでも行けるし、何でもできる自由を手に入れておきながら、それを当たり前のことだと思い込み、ないものにばかり目を向けていた。
確かに怪我をすることによって、私がないと思っていたもの、言うことを聞く子供や構ってくれる夫を手に入れることができたかもしれない。
が、それらは自由に動く大切な自分のカラダを犠牲にしてまで、手に入れるものではなかった。もっと大事なことは、今すでにあるものに気づくということだったのだ。それらが決して当たり前ではないのだということに。
ギブス事件から12年。今でも時々思い出す。調子に乗って当たり前のありがたさを忘れそうになったとき、あのギブスが水戸黄門の印籠のように登場して、当たり前に動けることのありがたさを思い出させてくれる。一生忘れないようにしようと思う。なぜなら印籠は一つで十分、二度とギブス生活はごめんだから。
記事:あおい